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神戸再訪(1)---商船大学と三羽のカモメ

2012-10-25 | 地球の姿と思い出
英語と他の言語(4)から続く。

ここで計画を変更、今回から「神戸再訪(1)&(2)」「京都再訪(1)&(2)」と題して、最近の旅の写真を紹介する。「京都再訪(2)」の次に本筋の「英語と他の言語(5)」に続く。

1.神戸再訪
1962年9月に神戸商船大学を卒業して早や50年が過ぎ去った。その間に、阪神淡路大震災(1995年)で大学前の高速道路が倒壊した。サンフランシスコのテレビが伝えるその映像に茫然とした。直ちに日本に電話をかけたが、4、5日は繋がらなかった。「七転び八起き」の絵入り色紙を筆者にプレゼントして慰めてくれたアメリカ人、会うたびに声をかけてくれた人々を今も思い出す。

今月(2012年10月)の11日、われわれは卒業50周年記念同窓会を六甲山で開催した。翌12日には、神戸市東灘区深江の母校、神戸商船大学を訪問した。その母校は、2003年に神戸大学に統合され、下の写真のように海事科学部になった。

今回は、50年振りに再訪した母校を散策する。

          旧神戸商船大学の正門
          

卒業以来はじめての訪問、運動場に接する岸壁には3代目の練習船深江丸が停泊していた。3代目は1代目深江丸に比べて船体が大きく、様々な先端技術の実験や実証、さらに震災などの非常時には電気を陸に提供できるなかなかのすぐれものである。

          練習船深江丸(3代目)
          

深江丸のフライイング・ブリッジ(最上階のデッキ)を見上げると、船乗りの心が躍る。

          深江丸のフライイング ブリッジ(Flying Bridge)
          

深江丸のブリッジ(船橋)を見学するわれわれ卒業生。1500HP(馬力)のエンジンはブリッジから操作できる。説明者は深江丸キャプテン、博士でもある。

          深江丸のブリッジ(船橋)
          

大学から徒歩10分の白鴎寮(ハクオウリョウ)、昔は全寮制だった。現在は、女子学生や留学生も受け入れている。

下の写真は白鴎寮の入口。正門の右手は事務所、中央奥は中寮、左手は国際交流会館である。筆者の時代でも毎年1人か2人、どうしても入学したいと食い下がる女性がいると聞かされたが時代は変わった・・・ようやく欧米並みになった。当時の入試には身長、体力、視力の基準があり、制帽と夏冬制服は理解できるが、なぜか皮靴までも仕立て品(自費)だった。筆者は裸眼視力を1.0以上にするためにずいぶん苦労したが合格、道が開けた・・・現状は知らないが、もしかしたら今はコンタクトでもOK?

          白鴎寮
          

約55年前に建てられた鉄筋コンクリート4階の白い建物は、当時の国立大学の学生寮としては最新型、他大学からの見学もあった。25m屋外プールもあった。毎年、4人のルームメイト(1年2年3年4年生)を再編成、北寮、中寮、南寮を移り住んだ。一学年120名(航海科と機関科各60名1クラス30名、航海・機関共沖縄留学生各1名含む)、全員が兄弟のような寮生活だった。寮の食堂は芦屋の料理学校が担当、学生課は朝昼夕の残飯で料理の質をチェックしていた(昼食は、全学生が寮に食べに帰った)。

当初、白い北寮、中寮、南寮は三羽のカモメを象徴していた。しかし、2001~2年に下の写真のような色に塗装された。写真の手前が中寮、その奥が北寮である。プールは国際交流会館に変身した。2003年の神戸大学統合と同時に、三羽の白いカモメは神戸商船大学とともに青空の彼方に飛び去った。しかし、そのネームプレートだけは今も白鴎寮となっている。寮の裏門に続く小さな商店街、特に食堂は学生たちの溜り場だった。

          白鴎寮の中寮と北寮
          

今回の同窓会を一つの節目として、卒業50周年記念文集を発行した。その文集に投稿した筆者の原稿の一部を、次に紹介する。

原稿のタイトル:神戸商船大学                        2012年2月記
思い出:
 少年のころ海賊船をまねて、帆船を作り近くの池で遊んでいた。材料はすし折の側面、マストや帆桁は割り箸、船側の曲線出しはローソクの炎、船底の防水は溶かしたロー、帆は白い端切れ、すべて身近な素材を利用した。あの頃は、電気機関車やラジオも自作する時代だった。
 カリブ海の珊瑚礁やインド洋を独り空想しながら、風に流される帆船を追っていた。やがて空想はエメラルドグリーンの海への憧れとなり、神戸商船大学に入学した。その後も、エメラルドグリーンの海と紺碧の水平線の彼方への憧れは変わりなく、「船乗りの航跡」(ブログ)の形で今も続いている。
 ・・・中略・・・
 久しぶりに、卒業アルバムを開いて50年昔にタイムスリップした。懐かしい思い出が次から次へと頭の中を通り過ぎてゆく。海に憧れて二浪までして入学した神戸商船大学、アルバムに出てくる人々は皆 懐かしく、いやな思い出を探しても見当たらない。当然、柴田さんも50年昔の姿で懐かしい。
 フランス語会話のベロー先生の「ミナサンノ コフク(幸福)ノタメニ シケンヲシマス」には悩まされたが、後のヨーロッパ生活に役立った。今も少ではあるがフランス語【注1】を理解し、辞書も引けるのはありがたい。基礎知識がなく、ただ耳から入ったタイ語は10年にもなるがいまだに、文字が読めない、書けない、当然ながら辞書も引けない。これは、正真正銘の文盲である。
 語学に限らず、倫理や法律、寮生活や乗船実習、卒業間際の横浜プリンスホテルの食事マナーなどの基礎知識を教わった神戸商船大学、先生や職員の方々に今もこころから感謝している。

その後: 
 ・・・中略・・・

【注1】フランス語:
 ニューヨークの北東にハートフォードという静かな美しい町がある。ある時、私は友人に誘われて、住宅街の小さな教会、慈善団体の午後のミーティングに参加した。
 歓談が進むにつれ、気品のある気さくな婦人から、「ところで、あなたはラテン語を理解しますか?」と問われ、残念ながら「ノー」と答えた。そこで話はラテン語とヨーロッパ文化に及んだ。
 ご婦人の解説によれば、ラテン語はローマ帝国の公用語で、ギリシャ語を語源とする「書き言葉」である。その書き言葉は、古典ラテン語と呼ばれ科学、医学、哲学などの用語として今も生きている。たとえば、ローマ時代の医学用語は、ラテン語だけだったが、現代ではラテン語・英語・現地語を併記する三言語主義(Trilingualism)が主流になっている。このような背景で、「書き言葉」のラテン語は欧米の知識層の素養の一つになっているとのことだった。
 一方、ラテン語の「話し言葉」は、ロマンス諸語(Romanic)としてフランス語、スペイン語、イタリア語、ルーマニア語など、地域に分かれて発達した。
 フランス語はラテン語の一つの方言である。また、ドイツ語、オランダ語、英語などのゲルマン系の言語にも、ラテン語が語源になっている言葉が多い。英語のAbacus(ソロバン)やAppendix(付録、盲腸)などはラテン語である。
 「書き言葉」のラテン語は知らないが、神戸商船大学ではフランス語(文学)と会話をそれぞれ3年間も学んだといったら、そのご婦人に「Great!:素晴らしい!」と褒められた。そのご婦人の気品と教養の深さに接して、淑女とはまさにこの人のことだと思った。
 それから数年後、サンフランシスコ郊外の小さな書店で、ラテン語辞典の半額セールを見つけた。レジで店主のおばさんに、「あなたは何をする人ですか」と問われ、「システム技術者」と答えたら、「アメリカ人でもなかなか買わないのに、日本人のあなたが買うのは驚き」と云われた。こちらは、半額が嬉しかった。
 日本は海に囲まれた海運国、海運国の商船大学、Officer(士官)教育(e.g., Captain Last)、世界に恥じない素養、ラテン語の話し言葉であるフランス語、これらのキーワードは商船大学の系譜である。この系譜にもとづいて、理系でありながら英語とフランス語(文学&会話)が必須単位である神戸商船大学は、リベラル系の大学でもあると思った。

次回、神戸再訪(2)に続く。

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