鈴木正三(しょうさん)と聞いて、知っている人がどれくらいいるでしょうか。うかつなことに、かくいう私も友人から教えてもらうまで知りませんでした。友人に感謝。以下、手元にある「大辞林」の記述をそのまま写しましょう。
《鈴木正三:江戸時代前期の禅僧。号、石平道人など。三河松平家の家臣として武勲があったが、仏道に入り勇猛で武士的な仁王禅を説いた。仏教布教を目的とした著作が多く、一部は仮名草子として評価される。著『驢鞍橋(ろあんきょう)』『盲安杖』『二人比丘尼』『破切支丹』など。》
正三は関ヶ原の戦いに徳川方として参じ、大阪冬の陣、夏の陣にも参戦した後、五年たってようやく出家しています。なんと四十二歳という遅咲き(?)ぶりです。
もっとも四歳の時に同生児の死に接し、死とは何ぞやという疑いに深くとらえられ、十七歳の時には、羅刹が示した偈の後半を聞くために身を捨てた雪山童子(修行時代の釈迦)の故事に触れていたく感動し、仏道への帰依を志したといいますから、若い時から生死を離れることを理想とする仏の教えに強く惹きつけられていたことがわかります。
しかし忠君が当たり前の戦乱時代の武士として、その職務をおろそかにはできなかったのでしょう。平和な時代の訪れとともに、仏道に邁進する気持ちが急速に高まったものと思われます。
徳川の世は人も知るとおり、中世以前と異なり、統治のための規範として現世倫理を説く色彩の濃い儒教(朱子学)を採用し、仏教にはあまり手厚い処遇をしませんでした。
正三にはこれに対する不満が相当あったことが著作からうかがわれますが、彼自身は二代将軍秀忠のおぼえめでたく、その庇護もあって出家を許され住持の地位を得ています。
島原の乱の折、弟の重成が鉄砲奉行として鎮圧にあたりましたが、その後もキリシタンの教えは残りましたから、天草の初代代官に任ぜられた重成を思想面で支援すべく天草に滞在し、「邪教」とされたキリスト教に代わって「正法」としての仏教の布教に務めました。『破切支丹』はこの時書かれたものと思われます。
正三の名が現代の人々の人口に膾炙していないのには、いくつか理由がありそうです。
まず、すでにこの時代、仏教は支配層にとっての権威思想としては衰退局面にありました(一般庶民にはむしろ広く拡散していましたが)。彼は不幸にして、この大きな流れのなかに置かれたということが考えられます。
また乱世が収まった徳川時代になってから、旗本として正式に伺候している武士がわざわざ出家するということにあまり必然性が感じられないということもあります。
さらに彼は学問的著作を多くなして後世に名を遺すことにはほとんど関心を示さず、むしろ当時の四民一般を対象としてじかにその信ずるところを説くことに大きなエネルギーを注いだので、時代が過ぎるとその名が忘れられがちだったという事情もあるでしょう。
ちなみに彼の主著とされる『驢鞍橋』は、著作ではなく弟子の恵中がまとめた語録です。
しかしこれらにもまして重要なのは、同じ禅宗の系統の中でも彼の思想がかなり特異な側面を持つために、栄西や道元以来の正統的な流れの中に位置づけられにくかったという点でしょう。
つまり彼は禅宗導師としては一種の異端者だったのです。ここでは、その異端者的側面に焦点を当てることによって、彼の思想家としての個性を取り出してみましょう。合わせてその異端的性格が歴史的に見て何を意味するかについても考えてみたいと思います。
禅と聞くと私たちは、じっと静かに座り瞑想することで煩悩や迷いを断ち切る(止修行)とか、この世の実在を空なるものとみなす一方で、空もまた実在と対立するものではないと観ずることで自在の境地に達するとか、難解な公案に解を与えることを積み上げてしだいにそのステージを上げ、ついに生死を離れて悟りに達する(看話禅)とかいったイメージを思い浮かべます。
正三の禅思想がこれらとまったく無縁というわけではありませんが、その関心のありどころと悟達のための構えがずいぶんと違っています。
先にも少し触れたように、彼の生涯の関心は、どのように死と付き合うか、いかに死ぬかというところに集中していました。くどいほど繰り返し出てくる独特な言葉遣いもほとんどこの関心の周りをめぐっているといっても過言ではありません。
その言おうとしたところを、現代語ふうに整理してしまうと、次のような命題になるでしょう。
①生身の身体は汚いものばかりが詰まった「糞袋」であるという事実をよくよく肝に銘じるべきである。これを離れない限り成仏は決してできない。
②心は善にも悪にもなりうるので、四六時中油断なく自分の心と闘っていなければならない。夢の中でも同じ。それが自己を守るということである。
③瞑想にふけるような禅の方法(止修行)は、かえって要らぬ妄想を起こさせる元である。むしろ「念」から離れよ。
④いくら学問・知識を積んでも肝心の「死に習い」の志が具わっていなければ何にもならない。修行とは文言を学ぶことではなく、この志を保ち続けることである。今すぐにも死がやってくるという切迫感を絶えず身につけることである。
⑤そのためには、あの仁王像のようにキッと睨みつけ、歯を食いしばり、いつでも「自分の中の敵」に立ち向かう構えが必要である。敵陣の中に身を擲って飛び込むだけの緊張感を具えていなくてはならない。これを勇猛精進と呼ぶ。
⑥現代の坊主でこれらのことをわきまえている者はほとんどいない。昔の高僧たちもそれほどわかっていなかったのではないか。仏(釈迦)だけがこれを理解していた。
⑦現代では、たやすく悟りを得たと言ったり、ちょっと修行を積んだ弟子に印可を与える僧がいるが、とんでもない。
以上のようなことが、異様な強度と頻度で繰り返されるわけです。この特色には当代の仏教の堕落を嘆くというモチーフが込められていることはもちろんですが、それだけではありません。ある已むに已まれぬ思想的要請がそこにはあったと思われるのですが、それについては後述しましょう。
このほか正三の特徴として挙げられる重要な点を三つ。
一つは、禅宗ならぬ浄土宗のキーワードである「南無阿弥陀仏」を唱えることをさかんに勧めていることです。
これはいろいろなことを想像させます。
まず、この時代になると、少なくとも在家レベルでは、宗派間の対立とか正統争いとかはすでに消滅していて、禅宗の寺でも民衆の称名念仏を抵抗なく受け入れていたこと(これは間違っているかもしれません。有識の方のご指摘を俟ちたいと思います)。
この宗派間の寛容さの傾向はすでに鎌倉時代後期には見られたようですが、南北朝、室町の混乱期を経ていっそう進み、江戸時代初期にはその区別が無意味化していたのではないか。
つまり「南無阿弥陀仏」は民衆の間では仏教の代名詞と呼べるほどに浸透していたので、他宗がこれを排斥することはもはや不可能になっていたのではないかということです。時代劇、時代小説などに登場する仏語もほとんどが南無阿弥陀仏ですね。法然や蓮如、一向宗徒たちの影響力のすごさが偲ばれます。
しかしもしそうでないとすれば、これは正三の独自性ということになります。いずれにしても正三は、一応禅宗の住職でありながらとても熱心に念仏を進めているので、そこには彼自身の宗派へのこだわりのなさが幾分かは反映しているでしょう。要するに、彼にとって宗派の違いなどどうでもよかったので、肝心なのは、死に対する構えを固めておけと呼びかけることでした。
二つ目に、正三は往生というのは後世を願うことではなく今日ただ今の成就を目指すことであると考えていました。
《仏法と云は、只今の我心をよう用ひて、今用に立る事なり。》(『驢鞍橋』上巻七七)
《総而、後世を願ふと云は、死して後のことに非ず。現に今苦を離て、大安楽に至ること也》(同下巻七一)
ここには、仏教の彼岸主義が現世主義に転倒されているさまが見て取れます。こういうところに、精神の一種の近代化の兆候を読み取ることができるでしょう。
三つ目に、武士や農民、職人や商人にとっての仏法修行とは、出家を目指したり経文を学んだりすることではなく、それぞれの職分にひたすら打ち込むことであると説いていることです。武士は主君に奉公を尽くし、農民は世の中に糧を提供する大事な役割を自覚し、鍬の一振り一振りに心を込めて南無阿弥陀仏と唱えること、職人や商人も同じように、それぞれの役割に邁進することがすなわち仏法を行うことだ、つまらぬ説教などに惑わされるなと。
また彼は能楽に親しんでいたので(『驢鞍橋』中巻には、自作の謡曲が載っています)、舞いながら歌いながらの活発な修行も推奨しています。ただ一心に身体の活動に集中すれば、余計な「念」にとらわれずに生きた真実を実感できるということでしょう。
これはなかなか痛快な実践的思想というべきです。超越的な形而上学などに信を置かず、それぞれの分際に即した日常性の中に倫理道徳の発生場所を見極める。日本の思想の優れたところで、後の町人思想家・石田梅岩にも通じるものが感じられます。
しかし同時にここには、本来国家鎮護を目的として取りいれられた仏教が、数百年を経るうち、「衆生」一人一人の心を安んじさせるためのものへと、著しくその機能の比重を移してきた過程が読み取れます。
正三自身は、それでも猪突猛進的にお上に仏教によって国を治めるべきことを願い出ようとしたのですが、お上からの御沙汰があるまで待ったほうがよいと弟子に止められる始末でした。彼は弟子を叱りつけました。しかし正三自身がいくらそれを望んでも、彼の思想それ自体が、すべてを一人一人の「心」の問題に還元するものでしたから、これはむしろ弟子のほうが時代のセンスをとらえていたと言えるでしょう。
ちなみにほぼ同じ時期に西洋では、聖書の精神に帰り、予定された運命を受け入れ、禁欲と勤勉を守り、個人の「心」の信仰を尊重するプロテスタンティズムが盛んに起こりつつありました。不思議な符合と言えましょう。
このことは、裏を返せば、近代が到来する少し前には、宗教を社会秩序の柱に据える試みに対する深いあきらめが進行しつつあった事実を意味しているともいえます。しかしまた、だからこそこのメンタリティが近代の個人主義、そして政教分離を準備したのだとも考えられます。
最後に重要な指摘をしたいと思います。
正三の「糞袋としての身体を厭う心」の異様な執念深さ、「死に習い」への執着の激しさを感じ取るとき、そこにたださまざまな禅思想のなかの特異な一形式を読み取るというのでは片手落ちです。正三は単に変わった禅思想家だったのではありません。
正三の生涯は、武士として命を賭して闘うことが当たり前だった時代から、徳川の安定した秩序の時代にまたがっています。彼は意識していなかったかもしれませんが、その深層にはおそらく、死に遅れた者の恥の念が強くわだかまっていたに違いありません。
身を捨てて主君のために尽くすはずの武士が、「平和」を生き抜かなくてはならなくなった。その境涯をどう自分に納得させればよいのか。死の観念に対する彼の異様な執念深さは、この境涯の急激な転換からやってきた一種の痼疾のようなものだと言えましょう。死を忘れることは武士にとって恥さらしではないか。彼の内部にはこういう声が響いて已まなかったものと思われます。
しかし禅による修行という器の中に彼は一つの活路を見いだしました。それには止修行や看話禅のように必ずしも彼の意に添うものではないスタイルも含まれていましたが、ともかくもそこに、いつも死の近くに住まうことができるという魂のありかを見出したのでしょう。それは不本意な「平和」を生き抜くための切実な「技法」でした。
正三が関ヶ原の戦いに参じたのは満で二十一歳という青春真っ盛りの頃です。多感な時期に不意に戦乱の世が終わって価値観がひっくり返った――これは何かに似ていないでしょうか。
私はどうしても、戦中期に青春を過ごして自分の死を極限まで突き詰めて考え、突然敗戦を経験してすかされた思いを味わった作家、思想家、詩人たち、三島由紀夫、吉本隆明、村上一郎、谷川雁といった人たちの戦後の生き方を重ね合わせてみずにはおれません。
彼らもまた、突然やってきた「平和」を生きることをもて余し、それぞれに激しい表現を発出しました。その深層意識のうちに正三と同じような、「生きることそのものを恥とする心」が根を下ろしていたと考えるのも、あながち牽強付会とは言えないでしょう。
戦後七十年以上経ち、こうした感性を共有する世代は、ほぼこの世を去りました。代わって現われたのは、「命の大切さ」という、絶対的と言ってもよい戦後イデオロギーです。
もちろん命は大切ですが、昨今の国際情勢の緊迫に直面しながら厳しい制約の中で命を張っている少数の人たちがいる傍らで太平楽を決め込んでいるほとんどの日本人たちを見ていると、ふと、鈴木正三のような人の心構えを呼び起こすこともまた大切ではないかという思いにかられます。