小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源4

2013年11月10日 13時33分55秒 | 哲学

倫理の起源4


 すでに述べたように、もともと良心は、ある特定の意志や行為が良心自身に悖るものでないかどうかという疑いや不安のかたちでしか個人の心理のなかに姿をあらわさない。「何か相手に悪いことをしている(した)のではないか」「自分の胸によく聞いてみよ」「自分のあの振る舞いはよい行いだったか」というのが、良心がおのれの姿をあらわす一般の形式であって、主体が何か特定の意志や行為をはたらかせる以前から私たちの積極的な人格の一要素として「良心」というものがあらかじめ存在しているわけではないのである。
 どうしてなのだろうか。
 それは、良心というものが、世代から世代へと受け継がれてきた世間知や生活慣習を体得することによって後天的に培われた「理性」にほかならないからである。道徳的理性(良心)は、自分の機能を発揮するために、おのれに先行する判断材料を必要とする。道徳的理性は、私たちの欲望や衝動や生の必要が意志のかたちをとったとき、それと世間知や生活慣習とをつきあわせて、その意志が妥当なものであるかどうかを勘案する。理性は、いつも欲望や衝動のあとからやってきてそれらを監視する見張り役にすぎない。
 良心は、何かその人の善意志の如何が問われる局面で、「逃げるな」とか「思いとどまれ」とささやきはするが、フロイトの「超自我」がそうでないのと同じように、欲望や衝動のないところでみずから「ああしろ」「こうすべし」という積極的な行為を指示しようとはしない。また人が何かの信念にもとづいて、いわゆる積極的な「善行」に踏み出すとき、良心の関所は、それをただ黙って通過させる。
 そういうことになるのは、私たちが、通常、人と相交わりながら滞りなくやり取りしているかぎりで、すでに「善」のシステムに支えられ、かつそれを支えているからであり、この日常的なやりとりの基盤としての共同性に軋みが入らないかぎり、「悪」は出現しないからである。「悪」の可能性が出現しないかぎり、「良心」もまた心理の内に登場しない。
 その「善」のシステムがいかなる原理のもとに根拠づけられるのかということを自覚的に取り出すのが、本書を貫く最大のテーマであるが、いまこの段階では、以下のことを確認しておくにとどめよう。すなわち、ある習俗のもとにおさまっている共同性の観念は、それが一定の安定性を確保していさえすれば、「善」を「かくかくのもの」として自覚的に打ち出すことをしないのが常である。したがって、それは、ある特定の意志や行動が、共同性自身の精神に背反し、逸脱していると感知される場合にのみ、そのことを「悪」として個別的に摘出するのである。
 このように言ったからといって、誤解しないでほしいのだが、私は、ある特定の共同体に遵奉することがそのままで「善」であると言っているのではない。私がここで論じているのは、道徳的な「悪」と呼ばれている物事が、いついかなるときにおいてもどのようなかたちでその姿をあらわすかという、いわば形式的な本質論であって、それは特定の具体的な意志や行為(たとえば殺人)を直接指し示しているわけではない。だから当然、それらは、特定の共同体がいただく道徳律に背くものという規定を、それがかくかくの意志や行為であるから(たとえば殺人であるから)という理由だけによってはじめから帯びているわけではない。
 殺人も推奨されることがあり得るし、許容されることもあり得る。さしあたり押さえておくべきなのは、いかなる意志や行為であれ、「悪」という現象は、それらの意志や行為に関して、必ず自分の属する共同性からの追放を予感させるような心理現象として私たちの内面にあらわれるという事実である。
 かくかくの行為(たとえば殺人)がそれ自体として問題なのではない。「悪」が必ず、それを意志したり行為した本人の良心の不安・動揺・疚しさといった心理的な現象をともなうか、そうでなければ、同じ共同体に属する他者のとがめをともなってあらわれるという事実こそが、「悪」とは何かを考えるにあたって重要なのである。
 良心の疚しさや他者のとがめがつきまとうということは、「悪」と呼ばれるものが、いつも共同性からの背反という本質をもっていることをあらわしている。というのも、良心の疚しさとは、共同性の精神が自我に送り込んだ見張り役が力を発揮した事態であり、他者のとがめとは、まさしく当人に対する共同体の愛想づかしだからである。
 こうして「悪」とは、共同存在としての人間的条件を剥奪される可能性を秘めた自己個別化の振る舞いなのであり、結局は、共同性からの愛を喪失して孤立することなのである。「悪」をなすから共同体から追放されるのではない。逆である。ある意志や行為が一定の社会条件下では、共同存在としての人間の本分を失うことに結びつくから、それらの意志や行為が「悪」と呼ばれるのである。
 このことは、殺人のような特異例ではなく、むしろ「会っても挨拶もせず横柄な態度をする」とか、「約束を守らないことが多い」とか、「金遣いが荒い」とか、「人の話を聞いていない」とか、「意地悪なことをする」といった、法的にはとがめを受けることのない、日常のちょっとした「悪」を念頭に置いて考えると、もっとわかりやすくなるだろう。これらが繰り返されると、その人は共同性からの愛を差し向けられなくなるのである。
 こう考えてくれば、道徳的な「悪」とは、彼が自分の存在の根拠を置いているところの共同性に反する意志や行為のことであるという定義で十分であることが察しられよう。
 繰り返しになるが、私は、ここでは、特定の共同体のあり方が絶対善であると主張しているのではなく、むしろ反対に、「悪」という概念の中身(どんな具体的な意志や行為が「悪」に値するか)は、特定の共同体のあり方との相対的な関係によって決まると言っているのである。これはさしあたり、道徳に対する相対主義的な立場である。しかし、相対主義に徹するかぎり、道徳を人間存在の普遍的なあり方から根拠づけるという本書の目論見は果たせないであろう。だがこれについては、もっと後で展開する。

 しかし、と別の反論者は言うかもしれない、「悪」とは、それを実現すれば共同性から孤立する危険のある意志や行為である、と定義づけただけでは不十分である。たとえば殺人や強盗や暴行のように、もっと法や道徳が禁じている具体的な内容を含んだものとしてとらえられるべきもののはずではないか。
 この反論に関しては次のように答えよう。
 それは残念ながらできない相談なのである。というのも、いま試みているのは、「悪」という概念の一般的な定義づけである。一般的な定義づけにおいては、その概念が包むすべての外延が本質直観のうちに包摂されていなくてはならない。もし殺人という行為が行為それ自体として「悪」であるなら、すべての戦闘行為は否定されなくてはならなくなるし、また合法化されている殺人、正当防衛や緊急避難、医師の手術による違法性阻却、死刑などは、みな「悪」だということになる。
 そもそもこうした反論が出て来やすいのには、それなりに理由がある。一般の殺人や強盗や暴行は、凶悪犯罪事件として日々私たちの耳目を刺激しているので、「悪」のイメージとの間に親近性があるからである。しかし、先ほど例に挙げたように、「悪」と呼ばれるにふさわしいものには、法に引っかからないものも無数にある。それらもまた「悪」と呼ばれるにふさわしいのであってみれば、それらをすべて含んで、なぜそれらが「悪」と呼ばれるための条件を備えているのかが一般的に解き明かされるのでなくてはならない。
 そこで、法よりも懐の深い「道徳」という概念の範疇で「悪」とは何かを考えるなら、方法は二つしかない。
 ひとつは、私たちの社会で「悪いこと」と思える意志や行為を個別的に片端から数え上げて、だれもが異論を差し挟めないようなかたちで網羅的な体系を示すことである。しかし、そんなことは不可能である。何しろ、殺人でさえ必ずしも「悪」とは呼べない場合があるのだし、また共同体の歴史的社会的な条件しだいで、かつて「悪」であった意志や行為が、かえって「善」であると見なされることもあり、その逆もまたあるのだから(たとえば、身分制の社会では、武士階級の他階級に対する「切り捨てご免」は「悪」ではなかったが、平等な民主主義社会では、一方的な人命の殺傷は許されないことである)。
 そこでもう一つの方法に頼るしかない。それはこれまで試みてきたように、どんな小悪も大悪も、歴史的社会的条件の差異を超えてもれなく「悪」の枠組みにおさまってしまうような、そうした一般的抽象的な「悪」の概念とは何か、それらが「悪」と呼ばれるための基礎的な条件とは何かを、本質的に言い当てることである。
 そして、そのつどその時々の共同性からの排除や孤立化を招くような、個別的な意志や行為こそがまさにそれにあたるのである。なぜなら、こうした個別的な意志や行為に踏み込もうとしたり、踏み込んでしまったときにのみ人は多かれ少なかれ「良心の疚しさ」を覚えるからである。「良心」とはもともと自分が生きてきた共同社会によって個人の内面に培われるものである。
「こんなことをしたらあの人に悪いのではないか」と感じるとき、その相手がたとえひとりであっても、私たちは、その相手の向こうに「世間」や「社会」といった共同性全体の影を見ている。その相手になされるべきでない「こんなこと」は、その相手にのみかかわることであっても、常に同時に「人間」一般に向かってなされるべきでないことという意味を帯びている。
 たとえば借りた金を期日を過ぎても返さないという場合、相手との関係が親密であればあるほど、うっかりしていて返すのを忘れていたというようなことはままある。しかしその場合でも、そのことに気づいたときには、良心の声は、容赦なく迫ってくる。それは、相手との関係の特殊性にかかわらず、「良心」というものが、ある関係行為の参加メンバー双方にとって、「人間」一般としてお互いを見なしあうことを共通の了解としたところに成り立つからである。

 しかし、と第三の反論者は言うであろう。自分が依拠している共同性が、たとえば盗賊団や暴力団、過酷な独裁国家のように、それ自体として「悪」である可能性も排除できないのだから、共同性に対して孤立を招くような意志や行動は、逆に「善」でもありうることになるのではないか。
 これについては、次のように答えよう。
 もちろん、ある共同体が全体として「悪」である可能性はある。しかし、そう判断するのは、次のいずれかの場合である。一つは、判断者が、その共同体の外部にいて別の共同体に依拠している個人群である場合。もう一つは、当の共同体に属しながら、内的な理念のかたちで「よりよい」共同性を思い描きつつ、そのことに依拠して自分の属する共同体に批判的である個人群である場合。
 前者の場合、共同性から孤立しているのではなく、かえってより強力に共同性に依拠しているのである。
 というのも、たとえば「盗賊団」や「暴力団」と外部から名指しされる共同性は、より大きな共同性によって、全体として「悪」と決めつけられているのであり、もしその内部のメンバーが、自分の属する共同性は「盗賊団」や「暴力団」であるという自覚を得た場合には、すでに彼はより大きな外部の共同性のほうに半身を置いていることになるからである。
 また後者の場合、そういうことが可能なのは、既存の共同体がすでにうまく統一的に運営されずに、反対派の存在や分裂・内乱の危機などをあらわにしている場合であって、それこそはその共同体の「善」の精神が解体しつつある状態を示している。しかもこの場合、当の共同体に属しながらそれに対して批判的な個人群は、そのことによって「悪」となされるのではなく、批判的であることを通して、思い描かれた「よりよい共同性」に属していることをあらわしている。
 この状況では、当の共同体の内部で善悪の価値観が多様に相対化され混乱しているのであるから、その共同体はすでに単純な共同体としての生命を失いかけているのであり、そこから背反しようとしている個人は、もはや「悪」のうちにあるのでもなければ、すでに「善」のうちにあるのでもない。彼は、古い共同体からは排除されて「悪」とされるかもしれないが、理念として思い描かれている新しい共同性の設計図の上では、「善」とされる可能性ももっている。彼は、共同性から孤立しているのではなく、反対に、個と共同性との関係を新しく結びつけ編み直す運動の渦中にあるのである。
 したがって、たとえある人がいまよりも「よりよい」共同社会の構想を根底から立てることで当該の共同社会から一時的に孤立させられるとしても、そのことは、彼が「悪」の道にはまっていることにはならないし、共同性一般からの背反を「悪」とする定義を変更する理由とはならない。彼はすでに、彼の思い描く「よりよい」共同社会の一員のうちに自己のアイデンティティを認めているからである。

 ところでまた、次のような反論があり得るかもしれない。
 人間が作り上げる共同態的な関係のありようやその時々の状況によって、何が「善」であり、何が「悪」であるかは変わるのであるから、ある特定の意志や行為自体をそのものとして取り出して、これは「悪」であると決めつけられないということはひとまずそのとおりであろう。しかし、古来、キリスト教におけるモーゼの十誡や、仏教における五戒に代表されるように、殺人、盗み、邪淫、虚言、貪欲などは、おおむねどの伝統的共同体でも「悪」としてきたという共通性が認められる。このことに依拠するなら、「悪」を、同じ共同体に属する他のメンバーの、生命、財産、人格、自由その他、当人が大切にしている価値を理由もなく剥奪しないこと、というように、具体的かつ普遍的に規定できるのではないか。
 この反論は強力に思える。
 なるほどたしかに、十誡や五戒に列挙された「悪」の項目のそれぞれを、私たちは自然に悪いこと、非難されるべきこと、良心のとがめを受けるべきことと感じる。そのかぎりで、これらは人類が共通に抱いてきた、「しないほうがよいこと」の範例を指し示しているといってよいだろう。また、こうした具体的な「悪」の規定は、近代法で「罪」と規定されている行為にもほぼそのまま重なり合っている。
 しかし、十誡や五戒に定められた「悪」の項目は、特にしてはならないこととして、目立つものから順にいわば帰納的に列挙したにすぎないもので、これらをひとつもしなかったからといって、その人が完全に「道徳的な人」になるわけではない。
 たとえば、怯懦、卑屈、冷淡、憎悪、虚勢、暴言、吝嗇、浪費、失礼、侮蔑、裏切り、欺瞞、強引、無責任、陰湿な意地悪、感情に走った激高、などはこの中に含まれていないが、これらもまた、私たちの道徳生活のなかでは、「悪」として位置づけられる。道徳的な感受性は、行為としてはっきりと他者への侵害におよぶようなものではないような、ちょっとした心情のあり方に対しても敏感に目を光らせているのである。
 十誡や五戒にあらわされた「悪」は、宗教的な戒め(ヤハウェ以外の神を信じること、仏法を侮辱することなど)から離れて近代社会の文脈に置き直すなら、法的な犯罪に匹敵するもの、またはそれを喚起するものに限られている。だが、道徳的に「悪」とされるものは、先にも述べたように、法的なそれよりもはるかに広い。つまり、具体的な行為として目立つものから帰納的に「悪」の範囲を限定しようという試みは、いったんそれをはじめるとその外延にかぎりがないことがわかるし、また状況や関係しだいでは、ある感情や意志や行為が「悪」と見なされないことも起こりうる。したがってこの方法では、「悪」の本質に到達することは不可能なのである。
 加えて、具体的に「悪」と思える感情や意志や行為を帰納的に枚挙していくというこの方法では、それらがなぜ「悪」と呼ばれるのか、その原理がはっきりしない。
 もし私が先に形式的に定義づけたように、「悪とは、自分の依拠する共同性に背反する個別的な意志や行為のことである」としておけば、この定義からは、(悪意ある)殺人からタバコのポイ捨てのようなちょっとした行為までが、良心の疚しさを呼び起こすに足る「悪」として輪郭づけられることが容易に理解できよう。



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