日本語を哲学する19
言語表現や沈黙表現の直接的な条件を以上のように分類整理すると、当然次のような疑問が生ずる。
これらの整理は、発語や沈黙の混沌たる実態の記述としては、かえって「分断」になってしまって、どれかの頂点に属するはずのものが他の頂点に属するとも考えられるような場合がいくらでもあり得るのではないか。分析それ自体が混乱を惹き起こしはしないか。
まったく妥当な疑問である。だが、一般に分析とはそもそも何のために行われるのだろうか。それは混沌たる事態を言葉によってとりあえず整理するためなのだが、じつはその「とりあえずの整理」は、再び綜合するという目的に向かっての手段なのである。手段が有効であるか否かは、いったん分析された各エレメントが、どのように再統合されるかにかかっている。私たちは、事柄のより深い理解に達するために、この「分析-綜合」のダイナミクスをいかにうまく成し遂げるかという試みを模索する以外に、さしあたり有効な方法をもたない。
この場合に即して簡単に解説を施しておこう。
三者の関係は、じつは相互規定的である。第一に「気分」と「関係」とは切っても切り離せない。たとえば、ある悲しみや怒りや不満の表出が、どのような形でなされるかは、それがどういう関係において行われるかによって大いに異なってくる。部下は上司〔という関係)の前では理不尽と感じられる指令に対して黙って従おうという意志をもたざるを得ないかもしれないが、家に帰って、その不満を妻(という関係)に対した時には「愚痴」という言語表現によってぶちまけるかもしれない。また逆に、ある「気分」は、「関係」そのものを規定する。上司に対する不満が鬱積していて、あるきっかけでついに爆発すれば、彼は「辞職します」ときっぱり言明することによって、上司-部下という関係を破壊するかもしれない。
第二に「気分」と「話題」も、分かちがたく結びついて互いが互いを規定し合う関係にある。たとえば、疲れている時に難しい本を理解しようと挑戦しても、ただ眠くなるだけである。このように、ある「気分」は「話題」を規定する。逆に、誰かがうれしい知らせをもたらしてくれたという「話題」が成立すると、それまでの鬱屈した「気分」が一気に吹き飛んでしまうかもしれない。
そして第三に、「関係」と「話題」についても同じである。お葬式で弔辞を述べるという「関係」のモードでは、どんな言葉を選択すべきかはおのずから限定されるので、そこではすでにある「話題」了解の仕方が成立していると考えられる。まさか「生前、私はあの人をずっと軽蔑していました」とは言うまい。逆に、何やら楽しそうに会話している人々が目の前にいるという「話題」了解があるとき、そこに自分も加わりたいと思えば、それが可能かどうかをめぐってその人々と自分との「関係」がどのようなものであるかを測定・判断せずにはいられない。赤の他人ならほおっておく(沈黙を守る)だろうし、親しい友人たちなら介入して話題を共有したいと思うだろう。
これらの場合、「関係」についての判断のほうが「話題」了解よりも先立つと考えることもできるが、具体的な実態を微細に眺めるなら、測定や判断がもっと曖昧であるために「話題」了解よりも「関係」についての判断が後になるケースの方が意外に多いことに気づく。
たとえば呑み屋で十人くらいの人数で歓談している時、話題はしばしばひとまとまりにならずに分裂する。そしてある瞬間、ある人が孤立するというようなことがよくある。隣の数人が盛り上がっている。さて彼がそれに加わろうかと思う時、ふと切れ切れに聞こえてくる話題からして、これは自分が加わってもいい「関係」かそうでないかという判断が訪れてくる。つまり、互いによく知り合った十人で飲んでいるという大枠の「関係」スタイルはもちろん既に成立しているのだが、もっと小さな枠組みの「関係」スタイルがそこで成立していることに気づくのは、漠然たる「話題」了解を経た後のことである。
家族関係の内側での両親と子どもの関係、タイトルに惹かれて買ってきた本を読みはじめたら、これは自分の読むような本ではないと感じたとき(いうまでもなく、読むことは対話することである)、などにおいても、同様に、「話題」了解のほうが「関係」判断に先立っているのである。前者の場合には、親の会話に割って入ろうと思った子どもが、話されている言葉群やその調子の漠然たる察知に基づいて、大人と子どもとの断絶(という関係)をそのとき意識するのだし、また後者の場合には、タイトルから想像される「話題」のイメージがまずあり、それにもとづいて中身に入り込むことによって、著者と読者との「関係」の断絶を経験するのである。
以上のように、三者は互いに絡み合いつつ総合的にはたらくことによって、私たちの発語や沈黙のあり方を規定する。
なおまた、次のことも付言しておく必要がある。図の正四面体頂上の「沈黙」あるいは「発語」は、ただ周囲の「条件」によって受動的に規定されるのみではなく、ある沈黙や発語が、「条件」そのものを能動的に変容させてゆくという逆の側面も見逃してはならない。要するに、底面の三角形の各頂点と頂上の言語活動それ自体との関係にも、相互規定的なダイナミクスがあると考えておくことが大切である。
言語表現や沈黙表現の直接的な条件を以上のように分類整理すると、当然次のような疑問が生ずる。
これらの整理は、発語や沈黙の混沌たる実態の記述としては、かえって「分断」になってしまって、どれかの頂点に属するはずのものが他の頂点に属するとも考えられるような場合がいくらでもあり得るのではないか。分析それ自体が混乱を惹き起こしはしないか。
まったく妥当な疑問である。だが、一般に分析とはそもそも何のために行われるのだろうか。それは混沌たる事態を言葉によってとりあえず整理するためなのだが、じつはその「とりあえずの整理」は、再び綜合するという目的に向かっての手段なのである。手段が有効であるか否かは、いったん分析された各エレメントが、どのように再統合されるかにかかっている。私たちは、事柄のより深い理解に達するために、この「分析-綜合」のダイナミクスをいかにうまく成し遂げるかという試みを模索する以外に、さしあたり有効な方法をもたない。
この場合に即して簡単に解説を施しておこう。
三者の関係は、じつは相互規定的である。第一に「気分」と「関係」とは切っても切り離せない。たとえば、ある悲しみや怒りや不満の表出が、どのような形でなされるかは、それがどういう関係において行われるかによって大いに異なってくる。部下は上司〔という関係)の前では理不尽と感じられる指令に対して黙って従おうという意志をもたざるを得ないかもしれないが、家に帰って、その不満を妻(という関係)に対した時には「愚痴」という言語表現によってぶちまけるかもしれない。また逆に、ある「気分」は、「関係」そのものを規定する。上司に対する不満が鬱積していて、あるきっかけでついに爆発すれば、彼は「辞職します」ときっぱり言明することによって、上司-部下という関係を破壊するかもしれない。
第二に「気分」と「話題」も、分かちがたく結びついて互いが互いを規定し合う関係にある。たとえば、疲れている時に難しい本を理解しようと挑戦しても、ただ眠くなるだけである。このように、ある「気分」は「話題」を規定する。逆に、誰かがうれしい知らせをもたらしてくれたという「話題」が成立すると、それまでの鬱屈した「気分」が一気に吹き飛んでしまうかもしれない。
そして第三に、「関係」と「話題」についても同じである。お葬式で弔辞を述べるという「関係」のモードでは、どんな言葉を選択すべきかはおのずから限定されるので、そこではすでにある「話題」了解の仕方が成立していると考えられる。まさか「生前、私はあの人をずっと軽蔑していました」とは言うまい。逆に、何やら楽しそうに会話している人々が目の前にいるという「話題」了解があるとき、そこに自分も加わりたいと思えば、それが可能かどうかをめぐってその人々と自分との「関係」がどのようなものであるかを測定・判断せずにはいられない。赤の他人ならほおっておく(沈黙を守る)だろうし、親しい友人たちなら介入して話題を共有したいと思うだろう。
これらの場合、「関係」についての判断のほうが「話題」了解よりも先立つと考えることもできるが、具体的な実態を微細に眺めるなら、測定や判断がもっと曖昧であるために「話題」了解よりも「関係」についての判断が後になるケースの方が意外に多いことに気づく。
たとえば呑み屋で十人くらいの人数で歓談している時、話題はしばしばひとまとまりにならずに分裂する。そしてある瞬間、ある人が孤立するというようなことがよくある。隣の数人が盛り上がっている。さて彼がそれに加わろうかと思う時、ふと切れ切れに聞こえてくる話題からして、これは自分が加わってもいい「関係」かそうでないかという判断が訪れてくる。つまり、互いによく知り合った十人で飲んでいるという大枠の「関係」スタイルはもちろん既に成立しているのだが、もっと小さな枠組みの「関係」スタイルがそこで成立していることに気づくのは、漠然たる「話題」了解を経た後のことである。
家族関係の内側での両親と子どもの関係、タイトルに惹かれて買ってきた本を読みはじめたら、これは自分の読むような本ではないと感じたとき(いうまでもなく、読むことは対話することである)、などにおいても、同様に、「話題」了解のほうが「関係」判断に先立っているのである。前者の場合には、親の会話に割って入ろうと思った子どもが、話されている言葉群やその調子の漠然たる察知に基づいて、大人と子どもとの断絶(という関係)をそのとき意識するのだし、また後者の場合には、タイトルから想像される「話題」のイメージがまずあり、それにもとづいて中身に入り込むことによって、著者と読者との「関係」の断絶を経験するのである。
以上のように、三者は互いに絡み合いつつ総合的にはたらくことによって、私たちの発語や沈黙のあり方を規定する。
なおまた、次のことも付言しておく必要がある。図の正四面体頂上の「沈黙」あるいは「発語」は、ただ周囲の「条件」によって受動的に規定されるのみではなく、ある沈黙や発語が、「条件」そのものを能動的に変容させてゆくという逆の側面も見逃してはならない。要するに、底面の三角形の各頂点と頂上の言語活動それ自体との関係にも、相互規定的なダイナミクスがあると考えておくことが大切である。
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