小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する17

2015年03月12日 11時01分35秒 | 哲学
日本語を哲学する17



永らく中断していた『日本語を哲学する』シリーズを再開します。第Ⅰ部第2章「沈黙論」の途中からです。沈黙は言語活動の重要な一部であるという考えに基づいて、言語表現のうちに沈黙が現象するさまざまな様相を8つ挙げましたが、その7番目からの展開となります。どうぞよろしく。

人の話を聞いたり、本を黙読しながら、感じたり考えたりしている時

 この場合には、言語を機能としてみるかぎり、「沈黙」状態にあることが当然であるから、そこに何ら問題はないように見える。ある相手の話を聞きながら自分でも別のことを話したり、黙読しながら他のことを発語するのは、機能的に不可能だからである。聖徳太子は一度に十人の話をきけたという伝説があるが、仮にある言葉を聞きながら別の話題のモードを構成するようなことが可能に見えるにしても、それは、瞬間瞬間でモードの切り替えをやっているにすぎない。
 ただし、一点だけ注意しておくべきことがある。それは、聞きながら、あるいは読みながら、同時に別の言語をみずから構成することは不可能であるにしても、聞きながら、あるいは読みながら、同時に「感じる」ことは可能だということである。たとえば、相手の話を聞いている最中に怒りを感じるとか、小説を読んでいる途中でその内容に涙を流すとか。
 これらは、言うまでもなく、その当の話や読み物を唯一の媒介としつつ、もっぱらそれについて「感じて」いるのだが、そのとき、その「感じて」いる営みは、話されたり書かれたりしている当の素材とは別の言語表現としてけっして構成されはしない。しかし、みずからに対する情緒的表現にはなり得ているのである。なぜなら、「何事かを感じる」ということは、すでにそれだけで自分に対して表現的であることを意味するからである。情緒とは本来そういう本性をもっているのであって、この自分自身に対して表現的であることは、その次の瞬間にその「感じ」を「考える」営みにもっていくこと、言い換えると「言語」として構成する営みにつなげていくことの、準備態勢の意味をもつのである。
 私がこのことを強調するのは、「心」や「精神」のはたらきを、「思う、考える」という「理性」的な営みに限定しようとするプラトン、アリストテレス、デカルト、カントなど西洋哲学を代表する巨匠たちが示してきた伝統的な偏向に対して抗いたいからである。たしかに「人は何事かを思い、考えている時には言語によってそうしている」という命題は普遍的に妥当する。しかし、「心」や「精神」のはたらきは、「思う、考える」ことだけではない。
 感じること、情緒的であること、情念などは、西洋の伝統的な哲学では、「パッション」として把握されているが、周知のように、この把握は「パッシヴ(受け身)」であることと語源的に通底している。だが情緒は、単に、外界や肉体からやってくる刺戟によって引き起こされる受身的な態勢ではない。情緒もまた「心」や「精神」のはたらきの一部であるとすれば、私たちは、ある情緒の状態や気分に浸っている時(常に人はそうなのだが)、不断にかつ非反省的な仕方で、身体内的・身体外的な状況を一定の能動的な「意味(sense, Sinn)」としてとりまとめ、そのとりまとめをみずからに対して与えている。そしてこの「意味」は、とりあえず言語的な「意味」の外側にあって、次なる身体行動や言語活動の「意味」を支えるのである。
 本稿は『日本語を哲学する』と題されているが、わが日本語は、西洋哲学が言語をただロゴスとみなし、その裏側で情緒的な存在の仕方をただ「パッション」とみなしてきた偏向に対して異議申し立てをするのに、さまざまな意味で恰好の特性をもっている。自然と対立していない日本語の特徴は、曖昧で非論理的という非難をこうむってきたが、それは西洋的な観点から見るからそう見えるのであって、じつは私たち人間一般が世界をどう感受し、世界をどう生きているかということを表現するのにとても適しているのである。しかしこの点は第二部で具体的に展開することにして、ここでは、「沈黙」の様態のうち、思想的に見て最も重要と思われる「⑧現実場面における発語の断念(選択による沈黙)」というテーマに移ることにしよう。

⑧現実場面における発語の断念(選択による沈黙)

「黙る」あるいは「黙っている」状態を「発語の断念」とか「選択による沈黙」と名づけると、そこには明瞭で積極的な意志がはたらいているという感じがつきまとう。しかし人が身体間交流のさなかにおかれていながら、しかもこれまで記述してきた七つの状態のどれにも当てはまらずに「黙る」あるいは「黙っている」時、そこに常に明瞭な意志がはたらいているかどうかは、じつは微妙である。「断念」とか「選択」と名づけたのは私自身だが、これらの用語自体が少し不適切かもしれない。
 ここでは、ある生活文脈(状況コンテクスト)を背景としつつ身体間交流が行われている時、能力、病的状態、不全状態、性格傾向、相手の発語を聞いている(読んでいる)状態などを除外してもなお、「現に一定時間、黙る、あるいは黙っている」様態が存在することに着目し、その全体を想定している。だからこの様態には、たとえば次のようなさまざまなケースと大きな幅とが包含されている。

・ある興奮や感動が発語を抑止させる。
 (例)相手から思ってもみなかった非難を浴びる、素晴らしい映画を観終わる、目の前の相手を恋しく思う気持ちが急に募る、など。

・驚きのために言葉が出ない。
 (例)親しい人の突然の訃報に接する、大きな事件を目前にする、など。

・感情的な理由なしにとっさに言葉に詰まる。
 (例)スピーチをしていて、それまでの脈絡に連続させられる言葉を見つけられない、脈絡自体の混乱を意識する、語彙を忘れる、など。

・言いたいこと、言うべきことはあるように思えるが、うまく言葉に構成できない。
 (例)話題が微妙だったり深刻だったりする、精確さを意識しすぎている、言語表現技術がもともと未熟である、など。

・決断をためらったために結果的に黙ることになった。
 (例)相手の話に違和感を持つが、その饒舌に即座に太刀打ちできない、言ったほうがいいという気持ちもあるが、相手への思いやりもある、など。

・考えたうえで、ここは黙っておいた方がいいと感じる。
 (例)相手の言葉の意図がよく読めず、どう答えてよいかわからない、言えば関係を悪くすると判断した、相手が興奮しているので話にならない、など。

・こういう場合には黙っているべきだという人倫的・生活的慣習に規定されている。
 (例)儀式が進行中である、途中で口をはさむのは礼儀にもとる、公式的な場なので言葉の選択に慎重にならざるを得ない、卑猥な話は慎むべきである、など。

・人から口止めされている。
 (例)その人のプライバシーを暴くことになる、政治的な秘密にかかわる、など。

・口止めされていなくても、関係のモードが異なるために、ここでは言うべきではないと感じる。
 (例)仕事上の立場を優先させなければならない、子どもの前で性的な話、残酷な話、複雑な話をすべきではない、友人関係の質に差異があるのでこの人には言えないと感じる、など。

・あらかじめ黙っておこうと明確に判断・決意していて黙っている。
 (例)あの人には言ってもわかってもらえないとあきらめている、言えば人間関係を壊すことが明瞭である、無視することによって相手から遠ざかる、愛情や思いやりの深さのためにあえて黙っている、など。

・発語するタイミングを見計らっている。
 (例)相手の話が一段落つくまで待つ、わかってもらうためには時間が必要である、状況が成熟しないと逆効果になる恐れがある、など。

・「黙れ」と相手から言われてその見幕に押されて黙ってしまう。
 (例)一定の権力関係が前提となっている、こちらの発語に後ろめたさがもともとともなっている、など。

・沈黙をはさむほうが美学的効果を高められると感じられる。
 (例)これは、文学表現の場合に特に顕著である。詩人や作家はさほど自覚的でなくとも、ある種の美的直観に基づいてあえて散文的な説明をせずに飛躍させることがたいへん多い。漫画のコマ展開などもこの飛躍が生命になっている。

 そういうわけで、こうした種々の沈黙様態を単に「明瞭な意志」という概念との関係だけに限定して論じるわけにはいかない。というのも、意志とは、発語や沈黙もふくめた「身体的ふるまい≒行為」の根拠として自己確認される心的現象であり、人があるふるまい(この場合は「黙る」あるいは「黙っている」)をなしている時、そこにいつも並行的につきまとっているようなものではないからである。意志は、むしろあるふるまいのプロセスの出発点や終局点においてのみ発生する自己対象化の意識の一つである。これに対して、「黙る」あるいは「黙っている」様態の全体のなかには、他のすべてのふるまいと同じように、意志を自己確認するいとまがない場合や、あとから振り返ってみても果たしてそこに自分の意志がはたらいていたと言えるのかどうかはっきりしない場合というのが多く含まれている。
 それでは、「沈黙の言語的意味」を探索するために、その諸様態をどのような基準によって整理すればよいだろうか。


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