以下にお届けするのは、雑誌『表現者』に「誤解された思想家たち」と題して連載してきた原稿に、多少の手を加えたものです。『表現者』でお目に触れなかった方のために、何回かにわたってこの画面に掲載していくことにいたします。よろしくお願いいたします。
第一回 法然房源空(1133~1212)
わが国で最大の寺数を誇る仏教の宗派は、親鸞を開祖とする浄土真宗ですが、親鸞の師である法然を開祖とする浄土宗は、これに比べるとずいぶん慎ましく見えます。こうした世俗的な意味での勢力分布の格差は、時の移り変わりとともに生じきたったやむを得ない現象というほかはないでしょう。
しかし現代における親鸞の盛名ぶりによって、両者の思想に画然たる差があると考えられたり、法然の思想の独創性に霞がかかってしまったりするとすれば、それは不当というべきです。後述するように、親鸞の思想は、ごく一部を除いて師・法然のそれをそのままなぞったものと言っても過言ではなく、法然が専修念仏の考え方を徹底的に究めていなければ、親鸞の言行そのものが存在しなかったのです。何よりも親鸞本人がそのことを真っ先に認めるだろうと思います。
ところが、西田幾多郎、三木清、亀井勝一郎、吉川英治、丹羽文雄、野間宏、吉本隆明、津本陽、五木寛之といったそうそうたる思想家、作家たちが、親鸞について格別の思い入れをこめて語っているのに、同じ人たちが法然について、それに見合うほどの関心を示しているとはとうてい言えません。
この主たる理由は、倉田百三の『出家とその弟子』をきっかけとした百年間の親鸞ブームによるものですが(西田の着眼は倉田より古い)、それにしても、両者に対するこの熱の違いはいったいなぜなのでしょう。以下その内的な理由をいくつか挙げ、それらが必ずしも根拠のあるものとは言えない所以を語ってみようと思います。
①法然は僧としての戒を守って妻帯しなかったが、親鸞は公然と妻帯した。その自ら破戒に踏み込み非僧非俗を生きた行状が、多くの人の共感を呼び起こした。
――この理由ですが、僧が肉食や妻帯を無理に我慢する必要はないと公然と説いたのは法然自身です。これを聴いた法然の帰依者・九条兼実が、ではあなたの弟子のひとりを私の娘(玉日姫)と結婚させてくださいと試練にかけたのを受けて、法然自ら親鸞を指名したのです(佐々木正著『親鸞・封印された三つの真実』洋泉社参照)。この指名がなかったら親鸞は果たして妻帯したかどうか。彼自身この破戒に対してかなり悩んだ形跡があります。
ちなみに妻帯OKの確信を抱いていた法然はすでにこの時七十歳を超えており、直前にはひそかに慕い合っていた式子内親王を失っています。叶わなかった自らの結婚を愛弟子に託したという推定も成り立つわけです。
②法然はほとんど京都中心に説法し続け、貴族高官との付き合いを絶やさなかったが、親鸞は、越後流罪のあと、東国の武士や庶民のただ中に飛び込んで永年布教を続けた。
――この理由ですが、法然の布教範囲が都中心に限られていたことは、彼が大都会で貴賤の別を問わず絶大な人気を得ていたことの証拠にこそなれ、地方の民衆を相手にしなかったことを意味しません。現に彼のもとには遠国からあらゆる身分の人々が集まってきましたし、土佐流罪の際には、弟子が赦免嘆願を勧めたのに対して、地方の民衆に教えを説くよい機会だと述べてこれを斥け、現に摂津で名もない人たちに布教しています。この時法然、なんと七五歳です。
他方、親鸞の場合は、流罪先の越後は再婚相手の恵信尼の郷里であり、二人して新しい生活を切り開いていく希望をそこに見出し得たはずです。加えて東国への布教活動は、まさに法然の教えを広めていこうとする彼の使命感にぴったり叶うもので、それは同時に法然の意志をそのまま引き継ぐものであったことになります。その実践活動の地域的広がりの差などに質的な違いを見出すことは出来ません。
③『歎異抄』の有名な言葉「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という鋭い逆説こそは、親鸞の思想を特徴づけるものであり、法然はそこまでは言い切らなかった。罪びとこそ阿弥陀仏の救済の対象としてお眼鏡にかなうという絶対他力の徹底性において、親鸞は法然に優っている。
――この理由ですが、これは端的に誤りです。「善人なおもて」は親鸞の独創ではなく、法然自身の言葉にすでにあります。「われ浄土宗を立つる意趣は、凡夫の往生を示さんがためなり。……善人なお生まる。いわんや悪人をや。……この宗は悪人を手本となし、善人まで摂するなり。」(『一期物語』)――これは確固たる「悪人正機」の説というべきでしょう。
一方ではたしかに法然は、ときに応じて逆の言い回しもしています。たとえば「罪をば十悪・五逆の者なお生ると信じて、小罪をも犯さじと思うべし。罪人なお生る、いかにいわんや善人をや。」(『和語燈録』)――これは、「黒田の聖人」への手紙の一部ですが、しかしこの場合は、前後の文脈から推して、黒田の聖人が、「自分は修行が足りないので往生できないのではないか」という不安を伝えてきたのに対して答えたものです。相手は「聖人」ですから、すでに十分な発心と念仏修行を経た人です。その人になお残る疑念を払拭してあげようという意図から書かれたのでしょう。「あなたならこれからも念仏を続けさえすれば往生できますよ」という優しい励ましの言葉と取るべきです。
法然は、この種の、相手に応じたモードの使い分けをしばしば行っていますが、それは矛盾とか不整合とか不徹底とか非難されるたぐいのことではありません。むしろ教えを説くのに硬直した原理によらず、常に相手の特定の境遇や資質を丁寧に見抜きながらそのつど言葉を選んでゆく優れた心理家の手法と言えるでしょう。現代風に言えば、彼は人間通の名カウンセラーだったのです。
ちなみに親鸞の思想をよく「絶対他力」と呼んで法然のそれと区別する向きがありますが、親鸞自身は「絶対他力」という言葉は一度も使ったことがなく、自力を恃む心を捨ててひたすら阿弥陀様の本願(観無量寿経における四十八願の、特に第十八願)を信じて念仏すれば往生は必定と説いただけで、その点では法然とまったく変わりません。
先に両人の思想について「ごく一部を除いて同じ」と述べましたが、そのごく一部とは、法然が念仏行をあくまで往生の条件と考えていたのに対し、親鸞の場合は、それに阿弥陀様に対する感謝・報恩の念というアイデアを加味している点です。しかしこれは、「往生必定」の確信をより強調しているわけで、その強調は見方を変えれば、末法観がより深まったことによるペシミスティックな原理主義化とも言えるものです。また、法然のように、「念仏は往生の条件」としたほうが、民衆に実践的な指針を与えることによって「往生必定」に対する不安を取り除くことができるので、支持を得られやすいのではないでしょうか。
④法然は、延暦寺に発する念仏停止の動きを憂え、いち早く「七箇条起請文」の制戒を発して保身に走っている。親鸞にはそうした「不純な」世渡り術の持ち合わせはなく、激しい一途な生き方を貫いており、そのことといくつもの鋭い詩的な言葉との見事な一致が彼の魅力を際立たせている。
――この理由ですが、念仏さえ唱えれば凡夫も悪人もみな往生できるという浄土門の教えは、それまでの聖道門の教えに対して爆発的な人気を博しました。そのため法然は、「七箇条起請文」をどうしても書かざるを得なくなったのです。これは、たとえば、「あ。念仏一回唱えれば往生できるのね。じゃ、南無阿弥陀仏。はいこれで俺は大丈夫」といったたぐいの軽薄な理解、他宗の修行者への謗りを意図した論争、進んで悪をなすほど成仏できるといったいわゆる「造悪論」など、困った事態の横行に対する対策として書かれたものです。それは、宗を起こした者にとっては、教えが誤り伝えられたり、そのためにいわれなき弾圧や誹謗中傷を受けたりする惧れへの当然の措置であって、宗祖の責任感の大きさを表しているのです。
一方、弟子の唯円が親鸞の言葉を書き残したものとして有名な『歎異抄』は、たしかに鋭く魅力的な詩的表現に満ちており(拙訳『新訳 歎異抄』PHP新書参照)、また和讃で多くの歌を残している点など、その点で散文的な法然に比べると印象に残りやすい点があるのは否めない事実です。しかしその生き方が特に一途で激しかったという証拠はなく、京都に帰ってからの二十数年間は庵で書写や著作に明け暮れる静かな生活を送っています。
⑤法然の主著『選択本願念仏集』は長くて難解だが、『歎異抄』は、短く簡潔で、誰でも親鸞の思想の神髄に触れられる。
――この理由ですが、これはある意味で当たっています。
『選択本願念仏集』はいわば浄土宗の理論書で、法然が阿弥陀仏の化身として崇めた唐の善導の教えを中核に据えて、往生のためには称名念仏がいかに重要な意味を持つかを説いた書物で、やや難解な部分を含むのは事実です。しかしきちんと通読すれば論旨は単純明快であり、その主張がいささかもぶれていないことがわかります。
これに対して親鸞の主著である『教行信証』は、多くの先人の教えをあまり整理せずに詰め込んで自分の解釈を施したもので、『選択本願念仏集』に比べると、ゴタゴタしていてはるかに読みづらい書物です。『教行信証』を読み切った人はあまりいないと思われます。しかし、もし親鸞ファンの多くが、主著に触れずに弟子が聞きとった言葉の鋭さだけから親鸞のイメージをつくり、それに近代人風のロマンティックな思い入れをしているのだとすれば、それは翻って、法然こそが専修念仏思想を深く説ききった張本人だという事実を忘れさせかねません。思想系譜の正当な理解という観点からすれば、これは少々困ることなのです。
以上で、親鸞偏重、法然軽視の風潮がどこから来ているかについて批判してきましたが、ここで法然の思想を要約しておきましょう。
今は末法の世であり仏道が廃れかけているので、我ら凡夫は、厳しい修行や積善や叡智などの自力によってこの生死の世界を離れて往生することは不可能である。しかし幸いにしてはるか昔に阿弥陀が、貴賤、老若男女、智愚、善悪の如何にかかわらずいっさいの衆生を救済するのでなければ自分は真の悟りを得たとはけっして言わないという誓いを立ててくれた。そして阿弥陀は現に悟りを得て仏になっている。したがってその誓いはもうすでに成就しているのだから、我々は阿弥陀に帰依しさえすれば、往生できるに決まっているのである。そのためにぜひ必要な行は、ひたすら心を込めて念仏を唱えることである。それ以外の行は、機(人、資質、与えられた条件)に応じて、念仏行の助けにはなりうるが、絶対に必要というわけではない。また、生涯悪業を重ねた人でも、死に臨んで心から南無阿弥陀仏を唱えるなら、阿弥陀は必ず迎えに来て浄土へ連れて行ってくれる……。
以上の法然の説の特徴として注意すべき点が二つあります。
一つは、他の行をけっして斥けない寛容さです。この寛容さは、硬直した教義による宗派争いを無意味化し、さらに飲酒や肉食や妻帯なども世の習いなのだからあえて禁欲する必要はないという考えにもつながっています。
もう一つは、「念仏」の行を、ただ心の内で仏や浄土を観想したり南無阿弥陀仏を思念したりするのではなく、あくまで「声に出して唱える」ことに限定する点です。この後者の点を法然がなぜ重要視したかを考えてみます。
当時、比叡山では円仁によって取りいれられた音楽的念仏法が盛んに行われたそうです。またのちに一遍が踊り念仏を諸国に広めたことは有名です。これらの流れには、思惟や感情を内部にこもらせずに身体表現として外に表出することの大切さが重んじられるようになった当時の文化的背景が反映しているでしょう。
法然もその流れの一環にあったというべきですが、称名念仏の重要視には、また法然なりの格別な意図があったと思われます。
それは、第一に、彼が心の中はみえないということをしきりに強調していることです。
また第二に、一般の民衆は一つのことを黙って集中的に長く思念することに耐えられず、日常生活のなかで、互いの身体表出(おしゃべり)を通じて思いを交換し唱和しあっているのであり、それこそが彼らの生の実態なのだという事実に、彼が深く気づいたということです。
また第三に、口に出した言葉は必ず自分もそれを聞くので、その声が意識に照り返してきて、さらに未来の自分のあり方を強く規定する力を持つという心理効果を彼が見破ったことです。
これらは法然の人間観察の鋭さと明敏さを表しています。
ところで称名念仏の最重要視は、これと異なる宗派の人たちの批判と反感にさらされたことは言うまでもありません。代表的なものに、法然没後すぐに書かれた明恵の『摧邪輪』、約五十年後に日蓮によって書かれた『立正安国論』があります。ここでは前者について述べましょう。
この書の批判点は、法然が①菩提心を不要と考えた、②聖道門を群賊にたとえた、の二点に絞られます。このうち、②は明恵自身の孤独な修行精神を汚されたという過剰な被害感覚にもとづくもので問題外です。
また①については、菩提心という言葉に明恵が特別の重みを置いたために生じた誤解の一種と考えられます。というのは、明恵にとってこの言葉は俗界への執着をきっぱり断ち、山に籠ってひたすら修行に励むことと不可分の関係にありますが、法然の場合は、在家の人や無縁のともがらでも、一念発起してから心を込めて念仏するなら、その営みのうちに菩提心はすでに含まれていると考えるからです。
法然は、念仏行には、三心、すなわち至誠心(まごころ)、深心(深く信じるこころ)、廻向発願心(阿弥陀様にもっぱら思いをさしむけるこころ)が不可欠だとしつこく説いています。これらの総合こそが菩提心であるという考えに、何らおかしなところはないと言えましょう。二人の食い違いは、初めから平行線であって、所詮キャラの違いと見なすより仕方がないようです。
こうして、あの実力者台頭によって貴族政治が壊れてゆく激動期、高踏的な学識や厳格な修行を蓄積することの無益が強く感じられる時期にあって、法然こそがまさにその時期にふさわしく、救済の対象を民衆一般へと大きく視線変更したのです。それは日本における最も顕著な宗教革命でした。
幼少時より、祖父母とかかわりが深かったため、私も言われるままに仏壇で手を合わせておりました。あの「南無阿弥陀仏」を七唱するんですね。同級生に、我が家の菩提寺の息子がおり、幼稚園から、当該菩提寺に併設された、仏教系の幼稚園に通い、こども同士としても様々のお付き合いをいたしました(ああ、昭和)。
長じて、学生時代に、吉本隆明に出会い、彼の主著(と、どうも吉本は思っていたのではないかと思われますが)親鸞論で、往相、還相論にかぶれてしまい、その友人に、「おまえも、親鸞を読めよ」と偉そうに口走ったことがあります。おそらく、その時点では、田川建三氏の吉本批判も頭に入らなかった、と思います。
その後、オウム事件を経て、浅原彰晃に対する言及で、さすがに私自身一連の親鸞論について疑義を生じることとなりましたが、著者には「オウムと全共闘」(1995年)というすぐれた情況、吉本論があり、その後、「吉本隆明―思想の普遍性とは何か」(1999年)、日本の七大思想家(2012年)と、読み進むにつれ、「あの吉本も無謬の人ではなかった」ことは理解できました。しかしながら、その「呪縛」ともいうべき思想的蹉跌が、戦中派としての厳しい戦争体験や、彼自身のすさまじい孤立感や孤独意識に起源する、<大衆>への過剰な思いこみにつながったものならば、その錯誤の背景があながちわからないではないような(?) ところではありますが。
「新訳歎異抄―絶対他力の思想を読み解く」(2012年)においては、著者が現代語翻訳に徹されたように思われましたが、いわゆる膾炙された「親鸞主義」でなく「正しい」位置に「親鸞」を置きたいと感じられるようで(いわゆる「マルクスはマルクス主義者でなかった」と口幅ったいことを書きますが)、積年の疑問と、聖道門に抗した最初の思想家、わが、法然上人の偉さがよく理解できました。不運にして、雑誌掲載はみておりませんでしたので、著書の刊行が待たれるところです。
また、奇しくも、当該著書の刊行が、2012年であり、吉本の没年にもあたり、感慨深いところです。
浄土真宗といえば、大教団でしょうが、当該寺院や、親戚の菩提寺との付き合いを見ていれば、ときどき、疑問に思えることがあります。殊に、広島県瀬戸田町の名刹耕三寺を訪れたとき、拝観料と、その壮麗な建築美に圧倒され、結局、観覧はしなかった覚えがあります。浄土の壮麗さ、ありがたさを、現世に映し出す意図なのでしょうが・・・。
我が家は、地味目の浄土宗ですが、このたび宗祖の「偉さ」がわかり、納得でき、積年の懸案が解決した思いです。
また、本年、実母を見送り、その際、わが同級生に、若き日の不明を愧じ、前言を撤回し、お詫びしたところです(笑い)。
拙文ごときによって「長年の懸案が解けた」とまではいかないと思いますが、それにしても、若き日の思い込み(私などはもっと単純でひどかったです)に対する懸案をずっと抱えていらっしゃったというところに、天道さんの並々ならぬ思想的な誠実さを見る思いでした。きっと同級生の方は温和な方で、ご母堂のご逝去の際に、微笑みとともに天道さんの「お詫び」を受け入れられたのでしょうね。そのご対面の様子が目に浮かぶようです。
なお、「その『呪縛』ともいうべき思想的蹉跌が、戦中派としての厳しい戦争体験や、彼自身のすさまじい孤立感や孤独意識に起源する、<大衆>への過剰な思いこみにつながったものならば、その錯誤の背景があながちわからないではないような(?) ところではありますが。」と書かれている部分ですが、おっしゃる通りと思います。吉本さんの場合は、多分にその資質のしからしめる所によって、反転の振幅やラディカリズムの度合いが、常人に比べてとても大きかったように感じられます。時代の急激な変遷に反応する一種の詩的センサーがどうしても論理を超えて極端に振れてしまうのでしょうね。若かった私たちがいささかそれに過敏にシンクロしてしまったのも、彼のその詩的センサーの威力だったように、今となっては思います。あの激しさの魅力は今も捨てがたいですし、少なくとも思想の原則としての「大衆の原像を繰り込め」というテーゼだけは、今後も正しく受け継がれるべきものと愚考いたします。
またよろしく。
私とすれば、著者の「オウムと全共闘」(1995年)、「吉本隆明―思想の普遍性とは何か」(1999年)が新刊本として手に入らないのは大変残念ですが、「吉本隆明」に触発されて、マチウ書試論をよみかえし、若き日の吉本の思惟の力、その迫力と、その思索を支える強い(昏い)情念に再度心底打ちのめされた覚えがあります。本当に、稀有の思想家、文学者であった人でした。しかしながら、思想の狎れあいと、その党派性をあれほど嫌った人ですから、「間違ったことは間違っている」ときちんと指摘することは、現在の私たちの義務であると思います。
うちの歴哲研で、若い者に吉本を含め当時の著書を色々読んでもらいましたが、いつか彼の優良な主著が、彼らに再評価されることを望みます。
先に、「新訳歎異抄―絶対他力の思想を読み解く」(2012年)においては、著者が現代語翻訳に徹されたように思われました」という部分は、訂正します。親鸞ー唯円と当時の真宗の内紛、また、当時の日本の宗教史、法然とのかかわりあい、布教者、家族持ちとしての苦闘、またその後の研究者についての言及など、本日、再度著書を手にとり、十分に意は尽くされていると感じました。申し訳ありません。不注意でした。
うちの娘に言わせると「禿頭の」「煩悩具足の凡夫」の一人である私ですが、開宗当時、修行も学問もできない衆生をいかに救済すればよいのか、と考え抜き、象牙の塔から降り、新宗教を始めた、法然ー親鸞の在り方に共感します。
著者が時に引かれる吉本の詩編に習い、私も引用 (大学時代のサークルの先輩が時に、慰めとも批評とも思えるように引用していました。(笑い) )しますが、「かれは紙のうえに書かれるものを恥じてのち 未来へ出で立つ」(「異数の世界へおりていく」吉本隆明)、今後とも、くじけず、「正しい」、「義」のために、私の位置でたたかっていきたいと考えています。
仏教は、最初から民衆救済のものだったったのであり、民衆の救済とは民衆を支配することと同義だったからです。
それまでのこの国には、税の徴収等、権力によって民衆を支配するという社会の仕組みが根付いていなかった。そのためのアイテムとして仏教が輸入された。民衆を「被支配者」として教育してゆくために仏教が必要だった。教育者としての僧侶を養成する機関として寺を日本中につくっていった。
仏教の歴史は、最初からずっといかに民衆を救済するるか、すなわちいかに「被支配者」として教育してゆくかという歴史だったのですよ。
しかしじっさいには、権力者たちが夢中になるほどには定着してゆくことができなかった。
法然が出てきたころは神道の御霊信仰の最盛期だったし、心ある仏教者には仏教はこのままでいいのかという危機感があった。
で、「宗教革命」というのなら、漢字を平仮名につくり変えたように、仏教もまた日本列島の歴史風土に沿うようにアレンジしてゆかないといけないということだった。
それが「南無阿弥陀仏」を声に出して唱える、ということだったのであり、そこに日本人として実存感覚の本質があると空也も法然も気づいていった。そして死ぬことはそうやって「今ここ」に消えてゆくことだと悟った。
鎌倉仏教は、そういう日本列島の歴史風土に回帰するという、いわば「ルネサンス」だった。
日本語の本質は「声に出す」ということにある。日本語の語彙は、声に出すことのニュアンスの上に成り立っている。それが、日本語は「身体的」である、ということのゆえんです。
あなたや吉本氏のように、「言葉の本質は沈黙にある」などといっている人たちには、日本語の本質も鎌倉仏教の革命性もわかるはずがないのですよ。
脳の「ブローカ野」でおなじみのブローカという人は、「人は言葉を記憶するのではない、言葉の運動を記憶するのだ」というようなことをいっています。つまり、言葉を思い浮かべることは、脳の中の記憶の貯蔵庫から引き出すのではなく(そんなものをすべて貯蔵していたら脳はパンクしてしまう)、かつてその言葉を聞いたときの聴覚神経を発火させながら「思い出す」のだ、ということです。言葉は聴覚神経に宿っている、ともいえる。そういう「身体と環境世界との関係」として記憶されているのであって、あなたたちの自意識やナルシズムの中に宿っているのではないということです。
文字なら、それを読んだ時の視神経や書いたときの腕の神経の動きが身体システムとして残っている。だから、声に出して読めというし、書いて覚えろ、という。
日本列島の和歌は、「声に出して読む=詠む」という習慣とともに歴史を歩んできた。「南無阿弥陀仏を声に出して唱える」ということだって、そのような日本語の身体性とともに発想されてきた。誰が偉いとかとか偉くないというような問題ではない、歴史風土の問題なのですよ。