EU崩壊の足音聞こゆ
フランス国民戦線党首マリーヌ・ルペン
25日までに行われたEUの欧州議会選で、反EU勢力が躍進しました。フランスでは「極右」と称されるFN(国民戦線)が得票率25%で首位に立ち、イギリスでもEUからの離脱を掲げる独立党が得票率27.5%でトップ、その他、ギリシャ、イタリアなど、財政悪化や高い失業率に悩むラテン諸国でも、EUが緊縮財政を強いてくることに反発する勢力が得票率を伸ばしています。欧州議会全体では、反EU勢力は約2割を占める140議席程度になるとのこと。
このような動きは、だいぶ前から予想されていました。フランスのオランド大統領は就任後2年を経ても成果を上げておらず、支持率は史上最低の10%台。またイギリスは、すでに、2017年末までにEU残留・離脱を問う国民投票を実施することを決めており、前倒しも検討されています。
私たち日本人は、はるか遠くのヨーロッパのこの変動を、何となく「対岸の火事」のように感じていないでしょうか。しかしそれは、いくつかの点から見て大きな間違いです。
まずEUが抱えている経済危機の深刻化は、グローバル化が極限まで進んだ今日、世界経済、ひいては日本経済に大きな悪影響を及ぼします。ちなみにEU統計局が今月上旬に公表した今年1~3月期の経済成長率はゼロだそうです。
おそらく今回のニュースだけでユーロの価値は相当下落するでしょう。これが崩壊ということにでもなれば国際市場の大混乱が予想されます。かねてから為替市場における「避難所」と位置付けられてきた円は、買いが殺到して再び急騰するかもしれません。そうなると、せっかくアベノミクス異次元緩和による円安で一息ついたトヨタなど輸出関連企業は、壊滅的な打撃をこうむるでしょう。
第二に、ヨーロッパは、古くから移民問題という悩ましい課題を抱えています。ヨーロッパは、第二次大戦における過激な民族主義に対する反動から、コスモポリタン的な理想に基いて移民に対して寛大な政策をとってきましたが、これは現実には多くの軋轢を生み出す結果になっています。賃金競争による単純労働者の所得の低下、雇用の不安定や失業率の増大、宗教・言語の違いによるコミュニケーション障壁や文化摩擦の高まりなど。
こうした現象は、移民受け入れ策の必然的な結果と言ってもよいもので、だからこそ、移民規制の強化を訴えるナショナリズム的政党が国民の支持を得るのです。
それなのに日本の安倍政権は、欧米に見習え式に「少子化に備えてこれから日本も移民を」などと愚かな政策を掲げています。欧米がこの問題でどんなに苦しんでいるか、そのリアリティを政策担当者はきちんと繰り込もうとしないのです。少子化対策を真剣に考えるなら、まず「勤労していない日本国民」、たとえば元気な高齢者やニートに焦点を当てるべきでしょう。移民受け入れは国益(国民の利益)を損なうことが明瞭です。
安倍政権は、新自由主義にたぶらかされて、この問題の深刻さが見えなくなっているのです。経済界における新自由主義は、一部グローバル企業経営者や富裕な金融投資家の思想的バックボーンですから、国境を取り外し、自由な競争をあまねく行き渡らせることが善であるという信念に取りつかれています。
日本の社会経済政策が、この信念をそのまま引き継ぎ、規制を緩和して市場をもっと世界に向かって開かないといけないなどという方向に走っている事態には、まことに嘆かわしいものがあります。むしろフランスの国民戦線やイギリスの独立党が、なぜ反EUの声を上げるのか、その現実的な事情をよくよく見るべきなのです。
もともとEUモデルは破綻しています。これが破綻する理由は、私のような素人でもわかる単純なことです。
一国の経済政策は、金融政策と財政政策との呼吸の合ったパッケージによって成り立ちます。
金融政策は、中央銀行が担うもので、通貨量や公的金利の調節、手持ち公債の売りや市場に出回る公債の買い上げなどによって、景気の安定を図ります。たとえばデフレ期は供給過剰(モノがありすぎ)、需要不足(買いたくてもおカネがない)の状態ですから、モノが売れず物価が下がります。すると企業は投資を控えますから、そのしわ寄せがまず勤労者の所得に襲いかかります。すると消費がますます冷え込みます。この状態から脱するために中央銀行は、通貨の発行量を増やしたり金利を下げたり公債を買い上げたりすることによって、貨幣が市場に潤沢に出回るようにするわけです。アベノミクス第一の矢は、この政策のうちに含まれます。
ところが、金融政策だけでは限界があります。というか、そもそも金融政策は、籠の片棒を担ぐ役割しかないのです。もう片方を担ぐ人がいなければ籠は持ち上がりません。それを担うのが財政政策です。これは政府が受け持つしかない。つまり公共投資を積極的に行って、国内の民需を引き出すのです。これをやらないと、企業はデフレマインドのまま足踏みし、いくら中央銀行が量的緩和を行っても、金融機関から企業にお金が回りません。
銀行にお金ジャブジャブあるね、でもそれ借りて新しく設備や機械導入したり人雇ったりする経営者いないね。この状態を下世話な言葉で、「ブタ積み」状態と言います。
そうすると得をするのはだれでしょうか。景気が良くなったと騒がれながらちっともその実感を持てないのはだれでしょうか。答えは明らかですね。
もともとアベノミクス第二の矢とは、この積極的な財政出動を意味していました。しかしこれを果敢に行うには、財務省、マスコミなどの抵抗勢力があまりに強い。財務省が抵抗するのは、インフレ恐怖症、ケチ礼賛病という長年の宿あによるものですが、マスコミは単にバカなだけです。
ともかく第二の矢は、公共事業の予算を早くも削られて、苦戦を強いられています。代わりに安倍政権は、デフレ期にはけっしてやってはいけない逆進性(低所得層に負担が多くかかる)を持つ消費増税などを断行して民を苦しめているわけです。
おまけに経済学界では、金融緩和派(リフレ派)と公共投資派とが、理論をめぐって争い合う始末です。本来この両派はタグを組んでこそ意味があるのに……。特にリフレ派は、学者のメンツを保ちたいためか、いたずらに公共投資派に対する不毛な反論に明け暮れています。もちろん、すでにブタ積み状態になっているおカネを有効に使わせる政策を打つべき(第二の矢を適切に放つべき)と主張している公共投資派が正しいのです。
EUに話を戻します。
EUモデルがもともと破綻しているというのは、思い切りわかりやすく言えば、いま述べてきた金融政策と財政政策の担い手を、EU中央銀行(ECB)と各国政府に分裂させているからです。これはユーロという統一通貨を用いながら、その使い方は各国の方針に任せられるということを意味します。しかしより厳密に言うと、この財政政策でさえ、各国の自由に任せられているわけではないのですが、それはすぐ後で述べます。
ヨーロッパには昔から国民性の違いが顕著で、勤勉な国、遊び好きで怠け者の国の区別がはっきりしていますね。そういう重要な(しかし計量化しにくい)国情の違いを無視して、統一通貨で一緒にやっていきましょうというのは、理想は麗しいかもしれませんが、現実には無理なのです。
現にギリシャは財政破綻し、イタリア、スペイン、ポルトガルなどは破綻しかけていますが、危機を自国の金融政策で乗り切ろうとしても、それができない構造になっています。そこで、EU(実質的にはドイツ)に何とかしてくれと縋るわけですが、EUとしてはその要請をただで聞いてやるわけにはいかない。結果、要請国に厳しい緊縮財政を強いることになります。これがまた、その国の国民の不満を買います。
そりゃそうですね。ただでさえ経営不振や失業で悩んでいるところへ持ってきて、おカネを使うな(デフレに甘んじろ)と言われたら、ますます国民の経済的な士気は下がってしまいます。悪循環です。
この厳しい緊縮財政の縛りについては、次のようなからくりがあります。
1993年に発効したマーストリヒト条約には、EU加盟の条件として「年間財政赤字額の名目GDP比が3%を超えず、かつ政府債務残高の名目GDP比が60%以内であること」と謳われています。同条約成立後に多少緩和されたようですが、文言としては生きています。この文言が生きている限り、EU諸国がデフレ傾向を脱却するために積極財政に打って出るのは極めて困難になります。
しかも2008年のリーマンショック以後、実際には、「政府債務残高の名目GDP比が60%以内であること」という条件を守れている加盟国はほとんどなく、上に挙げた四か国以外にも、ドイツ、フランス、ベルギー、アイルランドなど、みな60%を超えてしまいました。つまり、この条件は実質的には空文化していることになり、だからこそやばいと思って、各国こぞって「財政健全化」、つまり緊縮財政に走らざるを得ないわけです。自縄自縛というべきでしょう。
ちなみに、けっして財政赤字や債務残高の割合だけがその国の経済状態の健全・不健全を測る指標ではないのですが、この種の数字だけの尺度を金科玉条のように用いるところに、EUエリート集団の浅はかさが象徴されていると言えるでしょう(この点は、そのまま日本の「財政健全化」路線にも当てはまります)。
こうして、EUの未来は暗いのです。
ヨーロッパを一つにしようというこの構想は、もちろん、国際競争力で アメリカやソ連(当時)や日本に負けないようにしようという経済的な動機が大きかった。EUは、もとはEEC(ヨーロッパ経済共同体)と呼ばれ、域内貿易の自由化(グローバル化)などを目指したゆるい連合体でした。この段階では、斬新な試みとして内外の評判も良かったようです。
しかし先にも述べたように、この構想は、集団心理学的には、二度の世界大戦で勝者も敗者もひどい目に遭ってこりごりしたそのトラウマに発していると言えるでしょう。「民族」の汚点をなるべく消したい。そのためには統一ヨーロッパという消しゴムが必要だ――しかしこの消しゴムは、それぞれの国の伝統を消し去ることはできませんでした。いまその矛盾が噴出しつつあるわけです。
ところで、「対岸の火事」ではないと述べた最大の理由は、次の点です。
域内グローバリズムを理想と考えたEUモデルは、そのまま世界のグローバリズムの縮小版なのです。新自由主義者たちが理想と考えるように、域内でヒト、モノ、カネが極端に自由に行き来するようになると、結局はどういうことになるか。各地域や国の特殊性、伝統、慣習、そして文化までもが蹂躙され、そのことによって多極化したエスニックな情熱がかえって奮然と盛り上がるのです。
それが人性というもので、人性をきちんと織り込まない理想は必ず失敗するというのが歴史の教訓です。共産主義の理想が一番わかりやすいですね。EUの黄昏は、世界資本主義の未来を不気味に暗示していると言えるでしょう。
ちなみに、EU当局が、財政破綻しかけた国の要請を聞き入れる代わりに条件として打ち出す緊縮財政の要求は、世界的視野に広げてみた時、かつての韓国、アルゼンチン、トルコ、一部のアフリカ諸国などにIMF(国際通貨基金)が突きつけた要求とそっくりです。こうして世界経済の覇権は、一部の国ではなく、ごく一部のグローバル資本家、グローバル投資家の手に移って行くのです。
最後に、経済政策においてどこまでもおバカな日本政府に一言警告。
新自由主義の申し子であるアベノミクス第三の矢・成長戦略などにうつつを抜かしていると、第一と第二の矢の連携の重要性を忘れ、一国内でも、EUと同じような金融政策と財政政策の深刻な分裂をきたしますよ(もうきたしているか)。
EUモデルの破綻は、単に世界のグローバリズムの縮小版であるだけではなく、一国内の経済政策運営に対する強い警鐘の意味も持つのです。
フランス国民戦線党首マリーヌ・ルペン
25日までに行われたEUの欧州議会選で、反EU勢力が躍進しました。フランスでは「極右」と称されるFN(国民戦線)が得票率25%で首位に立ち、イギリスでもEUからの離脱を掲げる独立党が得票率27.5%でトップ、その他、ギリシャ、イタリアなど、財政悪化や高い失業率に悩むラテン諸国でも、EUが緊縮財政を強いてくることに反発する勢力が得票率を伸ばしています。欧州議会全体では、反EU勢力は約2割を占める140議席程度になるとのこと。
このような動きは、だいぶ前から予想されていました。フランスのオランド大統領は就任後2年を経ても成果を上げておらず、支持率は史上最低の10%台。またイギリスは、すでに、2017年末までにEU残留・離脱を問う国民投票を実施することを決めており、前倒しも検討されています。
私たち日本人は、はるか遠くのヨーロッパのこの変動を、何となく「対岸の火事」のように感じていないでしょうか。しかしそれは、いくつかの点から見て大きな間違いです。
まずEUが抱えている経済危機の深刻化は、グローバル化が極限まで進んだ今日、世界経済、ひいては日本経済に大きな悪影響を及ぼします。ちなみにEU統計局が今月上旬に公表した今年1~3月期の経済成長率はゼロだそうです。
おそらく今回のニュースだけでユーロの価値は相当下落するでしょう。これが崩壊ということにでもなれば国際市場の大混乱が予想されます。かねてから為替市場における「避難所」と位置付けられてきた円は、買いが殺到して再び急騰するかもしれません。そうなると、せっかくアベノミクス異次元緩和による円安で一息ついたトヨタなど輸出関連企業は、壊滅的な打撃をこうむるでしょう。
第二に、ヨーロッパは、古くから移民問題という悩ましい課題を抱えています。ヨーロッパは、第二次大戦における過激な民族主義に対する反動から、コスモポリタン的な理想に基いて移民に対して寛大な政策をとってきましたが、これは現実には多くの軋轢を生み出す結果になっています。賃金競争による単純労働者の所得の低下、雇用の不安定や失業率の増大、宗教・言語の違いによるコミュニケーション障壁や文化摩擦の高まりなど。
こうした現象は、移民受け入れ策の必然的な結果と言ってもよいもので、だからこそ、移民規制の強化を訴えるナショナリズム的政党が国民の支持を得るのです。
それなのに日本の安倍政権は、欧米に見習え式に「少子化に備えてこれから日本も移民を」などと愚かな政策を掲げています。欧米がこの問題でどんなに苦しんでいるか、そのリアリティを政策担当者はきちんと繰り込もうとしないのです。少子化対策を真剣に考えるなら、まず「勤労していない日本国民」、たとえば元気な高齢者やニートに焦点を当てるべきでしょう。移民受け入れは国益(国民の利益)を損なうことが明瞭です。
安倍政権は、新自由主義にたぶらかされて、この問題の深刻さが見えなくなっているのです。経済界における新自由主義は、一部グローバル企業経営者や富裕な金融投資家の思想的バックボーンですから、国境を取り外し、自由な競争をあまねく行き渡らせることが善であるという信念に取りつかれています。
日本の社会経済政策が、この信念をそのまま引き継ぎ、規制を緩和して市場をもっと世界に向かって開かないといけないなどという方向に走っている事態には、まことに嘆かわしいものがあります。むしろフランスの国民戦線やイギリスの独立党が、なぜ反EUの声を上げるのか、その現実的な事情をよくよく見るべきなのです。
もともとEUモデルは破綻しています。これが破綻する理由は、私のような素人でもわかる単純なことです。
一国の経済政策は、金融政策と財政政策との呼吸の合ったパッケージによって成り立ちます。
金融政策は、中央銀行が担うもので、通貨量や公的金利の調節、手持ち公債の売りや市場に出回る公債の買い上げなどによって、景気の安定を図ります。たとえばデフレ期は供給過剰(モノがありすぎ)、需要不足(買いたくてもおカネがない)の状態ですから、モノが売れず物価が下がります。すると企業は投資を控えますから、そのしわ寄せがまず勤労者の所得に襲いかかります。すると消費がますます冷え込みます。この状態から脱するために中央銀行は、通貨の発行量を増やしたり金利を下げたり公債を買い上げたりすることによって、貨幣が市場に潤沢に出回るようにするわけです。アベノミクス第一の矢は、この政策のうちに含まれます。
ところが、金融政策だけでは限界があります。というか、そもそも金融政策は、籠の片棒を担ぐ役割しかないのです。もう片方を担ぐ人がいなければ籠は持ち上がりません。それを担うのが財政政策です。これは政府が受け持つしかない。つまり公共投資を積極的に行って、国内の民需を引き出すのです。これをやらないと、企業はデフレマインドのまま足踏みし、いくら中央銀行が量的緩和を行っても、金融機関から企業にお金が回りません。
銀行にお金ジャブジャブあるね、でもそれ借りて新しく設備や機械導入したり人雇ったりする経営者いないね。この状態を下世話な言葉で、「ブタ積み」状態と言います。
そうすると得をするのはだれでしょうか。景気が良くなったと騒がれながらちっともその実感を持てないのはだれでしょうか。答えは明らかですね。
もともとアベノミクス第二の矢とは、この積極的な財政出動を意味していました。しかしこれを果敢に行うには、財務省、マスコミなどの抵抗勢力があまりに強い。財務省が抵抗するのは、インフレ恐怖症、ケチ礼賛病という長年の宿あによるものですが、マスコミは単にバカなだけです。
ともかく第二の矢は、公共事業の予算を早くも削られて、苦戦を強いられています。代わりに安倍政権は、デフレ期にはけっしてやってはいけない逆進性(低所得層に負担が多くかかる)を持つ消費増税などを断行して民を苦しめているわけです。
おまけに経済学界では、金融緩和派(リフレ派)と公共投資派とが、理論をめぐって争い合う始末です。本来この両派はタグを組んでこそ意味があるのに……。特にリフレ派は、学者のメンツを保ちたいためか、いたずらに公共投資派に対する不毛な反論に明け暮れています。もちろん、すでにブタ積み状態になっているおカネを有効に使わせる政策を打つべき(第二の矢を適切に放つべき)と主張している公共投資派が正しいのです。
EUに話を戻します。
EUモデルがもともと破綻しているというのは、思い切りわかりやすく言えば、いま述べてきた金融政策と財政政策の担い手を、EU中央銀行(ECB)と各国政府に分裂させているからです。これはユーロという統一通貨を用いながら、その使い方は各国の方針に任せられるということを意味します。しかしより厳密に言うと、この財政政策でさえ、各国の自由に任せられているわけではないのですが、それはすぐ後で述べます。
ヨーロッパには昔から国民性の違いが顕著で、勤勉な国、遊び好きで怠け者の国の区別がはっきりしていますね。そういう重要な(しかし計量化しにくい)国情の違いを無視して、統一通貨で一緒にやっていきましょうというのは、理想は麗しいかもしれませんが、現実には無理なのです。
現にギリシャは財政破綻し、イタリア、スペイン、ポルトガルなどは破綻しかけていますが、危機を自国の金融政策で乗り切ろうとしても、それができない構造になっています。そこで、EU(実質的にはドイツ)に何とかしてくれと縋るわけですが、EUとしてはその要請をただで聞いてやるわけにはいかない。結果、要請国に厳しい緊縮財政を強いることになります。これがまた、その国の国民の不満を買います。
そりゃそうですね。ただでさえ経営不振や失業で悩んでいるところへ持ってきて、おカネを使うな(デフレに甘んじろ)と言われたら、ますます国民の経済的な士気は下がってしまいます。悪循環です。
この厳しい緊縮財政の縛りについては、次のようなからくりがあります。
1993年に発効したマーストリヒト条約には、EU加盟の条件として「年間財政赤字額の名目GDP比が3%を超えず、かつ政府債務残高の名目GDP比が60%以内であること」と謳われています。同条約成立後に多少緩和されたようですが、文言としては生きています。この文言が生きている限り、EU諸国がデフレ傾向を脱却するために積極財政に打って出るのは極めて困難になります。
しかも2008年のリーマンショック以後、実際には、「政府債務残高の名目GDP比が60%以内であること」という条件を守れている加盟国はほとんどなく、上に挙げた四か国以外にも、ドイツ、フランス、ベルギー、アイルランドなど、みな60%を超えてしまいました。つまり、この条件は実質的には空文化していることになり、だからこそやばいと思って、各国こぞって「財政健全化」、つまり緊縮財政に走らざるを得ないわけです。自縄自縛というべきでしょう。
ちなみに、けっして財政赤字や債務残高の割合だけがその国の経済状態の健全・不健全を測る指標ではないのですが、この種の数字だけの尺度を金科玉条のように用いるところに、EUエリート集団の浅はかさが象徴されていると言えるでしょう(この点は、そのまま日本の「財政健全化」路線にも当てはまります)。
こうして、EUの未来は暗いのです。
ヨーロッパを一つにしようというこの構想は、もちろん、国際競争力で アメリカやソ連(当時)や日本に負けないようにしようという経済的な動機が大きかった。EUは、もとはEEC(ヨーロッパ経済共同体)と呼ばれ、域内貿易の自由化(グローバル化)などを目指したゆるい連合体でした。この段階では、斬新な試みとして内外の評判も良かったようです。
しかし先にも述べたように、この構想は、集団心理学的には、二度の世界大戦で勝者も敗者もひどい目に遭ってこりごりしたそのトラウマに発していると言えるでしょう。「民族」の汚点をなるべく消したい。そのためには統一ヨーロッパという消しゴムが必要だ――しかしこの消しゴムは、それぞれの国の伝統を消し去ることはできませんでした。いまその矛盾が噴出しつつあるわけです。
ところで、「対岸の火事」ではないと述べた最大の理由は、次の点です。
域内グローバリズムを理想と考えたEUモデルは、そのまま世界のグローバリズムの縮小版なのです。新自由主義者たちが理想と考えるように、域内でヒト、モノ、カネが極端に自由に行き来するようになると、結局はどういうことになるか。各地域や国の特殊性、伝統、慣習、そして文化までもが蹂躙され、そのことによって多極化したエスニックな情熱がかえって奮然と盛り上がるのです。
それが人性というもので、人性をきちんと織り込まない理想は必ず失敗するというのが歴史の教訓です。共産主義の理想が一番わかりやすいですね。EUの黄昏は、世界資本主義の未来を不気味に暗示していると言えるでしょう。
ちなみに、EU当局が、財政破綻しかけた国の要請を聞き入れる代わりに条件として打ち出す緊縮財政の要求は、世界的視野に広げてみた時、かつての韓国、アルゼンチン、トルコ、一部のアフリカ諸国などにIMF(国際通貨基金)が突きつけた要求とそっくりです。こうして世界経済の覇権は、一部の国ではなく、ごく一部のグローバル資本家、グローバル投資家の手に移って行くのです。
最後に、経済政策においてどこまでもおバカな日本政府に一言警告。
新自由主義の申し子であるアベノミクス第三の矢・成長戦略などにうつつを抜かしていると、第一と第二の矢の連携の重要性を忘れ、一国内でも、EUと同じような金融政策と財政政策の深刻な分裂をきたしますよ(もうきたしているか)。
EUモデルの破綻は、単に世界のグローバリズムの縮小版であるだけではなく、一国内の経済政策運営に対する強い警鐘の意味も持つのです。
産業競争力会議、つまりは竹中さんや三木谷さんの影響力が強いということなのでしょうが、経済成長のためには国柄や伝統は二の次、手段は選ばないという、安倍政権の意図が明確になってきたように思われます。
移民政策はむろんですが、いわゆる残業代ゼロ法案にしても、畢竟するところは解雇規制の緩和、つまりは日本型終身雇用の廃絶が最終目的であることは見えており、きわめて新自由主義的な志向の産物です。
細かいところでいえば、金融庁が打ち出している「日本版スチュワードシップ・コード」というものがありますが、これは機関投資家に投資先企業に対する監視強化を促すもので、やや乱暴な言い方をすれば、かつて物議を醸した「村上ファンド」の行為を制度化するものですから、日本型雇用慣行の弱体化、企業経営のアメリカ化に道を開くものです。
新自由主義の病根は、国家の存在目的をもっぱら財産権の保護に置くジョン・ロック型の民主主義(これが米国の国家哲学でしょう)にあるのではないかと思われます。
このロック主義に対しては、右からは長谷川三千子さん、左からも関曠野さんが鋭い攻撃を浴びせていますが、日本の論壇にはホッブズ説を国家主義だと批難し、政府への抵抗権を主張したロックを持ち上げるという定型的な思考パターンがあるせいか、マスコミが左右を問わずロック主義に感染しているため、日本社会への浸透力は存外強いものがあると思われ、いささか心配なところです。
また、思想としての新自由主義の最大の強みは、従来左翼によって飽かず繰り返されてきた日本社会への批判を、彼らが自分の武器としてそっくりそのまま流用できる点にあるように思われます。
日本人男性の会社優先的生き方や、女性の社会進出の遅れ、日本人の「内向き」志向への批判などは、左翼と新自由主義者に共通するもので、左派系新聞が概してTPPに賛成なのも、彼らの中で反TPP=保護貿易=鎖国=自民族中心主義という、馬鹿げた図式が成立しているせいでしょう。
EUの失敗についてはまったく先生のご指摘のとおりだと思われます。自国経済の弱体化を、海外(EUの場合は域内)に市場を求めることで糊塗しようとしたのが米国やEUの経済政策ですが、米国はともかくEUの場合、同じ欧州とはいえ多様な民族性の存在という現実の前に、脆くも挫折したというところでしょう。
グローバル化が云々される現代においてこそ、自らの足元、つまり国家や文化的伝統について思いを致すことが重要だと感じます、その点、安倍首相は文化や伝統を輸出用の商品、ソフトパワーの一種としてしか捉えていないのではないかと(彼の著書などを読むと)思われ、段々と不安になってきた昨今であります。
今回は特に、ランピアンさんの鋭い分析力が冴えわたっているように思いました。拙ブログへのコメントだけで終わらせてはもったいない気がします。
おっしゃることはいちいちごもっともで、これ以上私が付け加えることはありませんが、ことにロック主義の呪縛という点に関しては、教えられるところ大でした。
昔から日本では、フェミニズムなども含めた左派論壇と、財界が歓迎する規制緩和や雇用規制の自由化などの政策とは妙に相性がいいのですね。林道義氏が批判していた「働けイデオロギー」の支配です。いまこの同じパターンが、過酷な労働市場への女性の進出促進と、TPPなど一連の新自由主義的政策との結託として表れているのだと思います。ここでは国民生活を豊かなゆとりあるものにするという基本中の基本がすっかり忘れられています。安倍さんはそのことを理解していないらしい。
ソフトパワーやクールジャパンの輸出という過度の「外向き志向」と、その反対の、青年の「内向き志向」批判については、7月25日付の「三橋新日本経済新聞」で、施 光恒(せ・てるひさ)さんが的確な批判を展開しています。
ご参考までに。
それではまたよろしく。
という記事を読みました。
その記事のコメント欄に書いてもよかったのですが、別にあなたにだけ伝わればいい話なのでこちらにコメントします。
GDPだのデフレだのと、アルファベットやカタカナを並べて経済を語っている人達がいる。
そういう人達の話は全て役に立ちません。
三橋さん達がしてきた話も含めてです。
そんな「役に立たない話」の中で、ちょっと特殊なのが「財政政策を勧める話」です。
この話の支持者はどういうわけかいまだに元気に経済を語っている。
すでに相当に大人しくなった財政破綻論者達とは大違いです。
「変だ」という指摘がされるという点では、財政政策を勧める話もその他の話と同じです。
私もこれまでに財政政策の支持者に対して批判的なことをけっこう書いてきました。
つい最近においても、青木泰樹さんという方の記事にこういうコメントを書きました。
リフレ派だけではなく、財政政策好きの人達が見ているものも幻想だと思いますよ。
大規模な財政政策をずっとやれ、とでも言うのでない限り、公共事業などをしていた人達には再就職先が必要になります。
そしてその再就職先は、緩やかなインフレが続く様な社会でなくては存続が難しい。
では、大胆な財政政策をきっかけにして緩やかなインフレが続く社会になる保障は?
例えば、藤井聡さんによると、政府系の建設投資額と名目GDPには相関性があるそうです。
藤井さんが用意したグラフを見ると、確かに政府が投資を減らすとGDPも減っていた。
つまりは、財政政策好きの人が紹介するグラフにおいても政府がお金を使い、
それが呼び水となって「緩やかなインフレが続く様な社会になる」という事は起こっていないのです。
それなのに「金融政策では駄目だから財政政策を」という様な話がある。
やがて効果が切れそうだという点では同じだろうに。
その他にも、藤井さんのファンに対してこういう話をした事があります。
財政政策でデフレ脱却という話には問題がある。
藤井さん達は、財政政策で需要をコントロールできるという話をしている。
ただ、財政政策をする政府や、政策の利害関係者のコントロールが容易ではない。
それで「アイヌへの補助金」や「行き過ぎた生活保護」に苦情が出てもすぐには止められないという事が起こる。
「公共事業」とか「福祉」にしても、好きな時に蛇口を絞められないかもしれない。
利害関係者が上手く反発するなら、蛇口を絞めるのが5年くらい先になったりもするだろう。
それなのに、まるでデフレを脱却すればその瞬間に公共事業を減らして行けるかの様な話をしている藤井さん達はおかしいではないか。
今までの経験から言うと、こういう指摘にもっとも耐えるのが財政政策を支持する人達です。
どんな指摘をしようとも耐えて、それで今までと何も変わらないような姿勢で財政政策を支持し続ける。
リフレ派にはそういう人はいなかった。
財政破綻を心配する人でさえ財政政策の支持者ほどには酷くない。
というわけで、私から見て財政政策の支持者はかなり「特殊」です。
反応があるならまたコメントしましょう。