小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する11

2013年11月14日 16時22分43秒 | 哲学
日本語を哲学する11



 さらにヴィトゲンシュタイン批判を続ける。

 
 五・六   わたくしの言語の限界は、わたくしの世界の限界を意味する。
 五・六一  論理は世界に充満する。世界の限界は、論理の限界でもある。


 この二節のうち、はじめのほうは当たっているところがある。たしかに言語コミュニケーションが通じないと感じるとき、私たちは、それぞれの「世界の限界」をどうしようもなく意識するために、言語を用いることを諦める(別れるとか殴るとかの行動に出る)。ただし、それは人間をどこまでも言語動物として規定できるかぎりで言えることで、「言語=世界全体」という図式から逃れて、言葉にできない身体性(感覚や運動)、情緒性(欲望や感動)の世界に浸るとき、私たちは別の世界に住まっているのであり、そこでは言葉とは次元の違う「わたくしの世界の限界」に出会っているのである。
 後者は、これまで述べてきたように、ヴィトゲンシュタインの前提を認めれば、前者から当然に導かれる命題だが、世界=論理でもなければ言語=論理でもないので、まったく的をはずしている。
 しかし、この誤った世界把握をそのまま続けていくと、次のようなことになる。

 六・三七三 世界はわたくしの意志から独立している。
 六・四   すべての命題は等価値である。
 六・四一  世界の意味は世界を越えたところに求められるにちがいない。
 六・四二  (略)倫理の命題は存在しえない。(略)
 六・四二一 倫理を言葉になしえぬことは明らかである。


 
 世界が「わたくしの意志」から独立しており、かつその世界そのものの「意味」が、世界を越えたところに求められるにちがいないのだとすれば、その「意味」の宿る場所とはどこなのか。それはまさしく人間が絶対にたどり着けない「神」の領域というほかはないだろう。
「神」という超越的な表象あるいは概念を人間が作り出さざるを得なかった事情を、私たちは十分に理解することができる。そうしてそれは、だれもが神にはなりえないという痛苦な認識(デカルトの言う、「不完全性」の認識)を基盤として初めて成り立つことも確かである。しかし、そのことは、別に人々が神に近づこうとする意志(すなわち「倫理」)や、神と親しくありたいという感情(すなわち「信仰心」)をも否定することにはならない。ヴィトゲンシュタインは、「論理」という意匠のもとに、神と人との間に橋をかける可能性を一気に否定して得意げである。だが、この「得意げ」は、人間生活の苦しみを知らない「子どもの得意げ」と何ら変わるところがない。彼は絶対的な超越性と人間臭さとの間に「論理」的な境界線を引いて、これで万事解決であるかのようにふるまっているが、それは、じつをいえば、両者を断ち切って見せることによって、「絶望」を、ただその見かけのかっこよさのためだけに肯定していることと同じなのだ。彼はこの「潔い」断絶の強調によって、「絶望」のさなかにある人間の切なる思いに対する関心から無限に逃避しているにすぎない。
 ヴィトゲンシュタインはここで、「人間には自由意志をはたらかせて世界を変えることなどできない。ゆえに、倫理的なことがら、価値選択にかかわることがらについては私たちは語る資格をもたない」という絶望を、あたかも「論理的に証明している」かのような仮象を用いて表現している。しかし、彼が置いているはじめの公理――世界は徹頭徹尾、論理それ自体である――が不適切であるなら(人々の情緒的な賛同を得られないなら)、この帰結はすべて無意味である。
 私たちは上記のような絶望を抱くことがいくらでもある。しかし人が絶望するのは、まさに自由意志に希望を託すからであって、希望をもたなければ絶望することもできない。ヴィトゲンシュタインの考えるように、世界が論理構造として脱倫理的に出来上がっているから倫理や価値を言葉にできない(と感じることがある)のではない。私たち人間が厳密な論理の支配には我慢ならないと感じて、未知を引き受けつつ自らの実存を歴史(世界)のなかに投企する(自由を求める)存在であるからこそ、固いこの世の必然に衝突してくず折れるという経験がはじめて訪れるのである。小林秀雄が言うように、「僕等が抵抗するから、歴史の必然は現れる。僕等は抵抗を決して止めない」(「歴史と文学」)のだ。
 こうして『論理哲学論考』におけるヴィトゲンシュタインの純粋論理展開の姿をまとった世界観が、人間を殺すための絶対客観主義的な発想にもとづいていることがわかるであろう。人間を殺すこと、倫理や価値についての絶望を「論理的に」語ることは、同時に世界を完全支配する絶対的な超越者を立てるキリスト教特有のニヒリズムを語ることと等しい。ヴィトゲンシュタインの哲学は、神に酔える哲学者・スピノザの現代ヴァージョンであると言えるかもしれない。
 このことに気づかず、『論理哲学論考』の見かけのかっこよさにいかれて、言語の適用領域を脱倫理的な「論理」の世界にのみ限定する「潔さ」の体裁にころりとまいってしまう日本の「ポストモダン」風な哲学・言語学・社会学の徒たちがあとを絶たないのは、まことに困ったことである。
「語りえぬ物事については沈黙すべきである」という彼の有名なテーゼは、じつはユダヤ=キリスト教的な神の絶対性の前には、現実的な生から立ち上がるいかなる倫理的な要請も無意味であると言っていることと同じなのだ。しかし、。人は倫理や価値についても語らねばならないし、それは可能である。なぜなら、生の在り方そのものが倫理命題や価値命題を絶えず要求するのだし、その要求に適切に応えるためには、言葉を用いる以外に方法がないからである。
 日本のヴィトゲンシュタイン・ファンたちは、一度でもこの問題について考えたことがあるだろうか。彼らは、日本人の伝統的な世界感性から独自に言語学・倫理学を普遍的な形で立ち上げようとする試みを封鎖するお先棒を担いでいることに気づいているだろうか。

 以上によって、言葉の問題を命題の真偽の問題だけに限定することがいかに偏った言語思想であるか、またその偏りが、言語表現に先立って永遠不変の「真理」があるという想定からきたものであること、そしてこの想定は、ユダヤ=キリスト教文化における唯一絶対の創造神というイメージを前提として導き出されたものであること、が明らかになったと思う。
 言葉以前に、漠然とした「意」とか情緒とか気分、イメージ、ごく広い意味での認識、世界の意味把握といったものはありうるし、そういうものの存在に権利を与えることは重要である。言葉をもたない動物も、これらのものをさまざまなレベル、さまざまなかたちで分有していることはたしかである。しかし、思考・思想・論理は、言葉以前には成立し得ない。しかも言葉が切り開いている世界は、けっして「論理」や「命題」などに限定されない。
 私たちは、あらかじめしっかりとした「思想」や「論理」をもち、しかるのちそれを「言語」という規範形式に流し込むのではない。そうではなく、言語の使用そのものが、すなわちそのまま思想表出なのである。心の中で何を言おうか考えてから口に出すとき、口に出す前にすでに言葉は彼の内面で表出されつつあるのだ。
 以上のことは、どんな言語表現にも例外なく当てはまる。「ああ」「うん」「えっ?」などの間投詞でさえ、ある思想をあらわしている。そこには発語主体の主体的な状況把握とそれを引き受けて自らを投企する姿勢とが同時に込められているからである。


*次回は、言葉の本質についてまとめます。

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1 コメント

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Unknown (あああ)
2020-11-26 23:47:05
ニヒリズムって表現にもトリックがあるな
ニーチェに言わせれば積極的ニヒリズムになることで生の肯定をして超人になることを説いてるし
ヴィトゲンシュタインに言わせれば永遠の相を説いてるし
カントに言わせれば、第一第二第三の定式な訳で
まあ、あんたはきっと形而上学の立場で批判してるんだろうが
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