以下の記事は、月刊誌『正論』2017年1月号に掲載された拙稿に若干の訂正を施したものです。
去る二〇一六年十月七日、日弁連が福井市で人権擁護大会を開き、「二〇二〇年までに死刑制度の廃止を目指す」とする宣言案を賛成多数で採択しました。採決は大会に出席した弁護士で行われ、賛成五四六、反対九六、棄権一四四という結果でした。当日は犯罪被害者を支援する弁護士たちの反対論が渦巻き、採決が一時間も延長されたそうです。
また同月九日、朝日新聞がこの日弁連の宣言を「大きな一歩を踏み出した」と全面評価する社説を載せ、これに対して同月十九日、「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」が「誤った知識と偏った正義感にもとづく一方的な主張」として、公開質問状を送付しました。同フォーラムは二週間以内の回答を求めており、回答も公開するとしています(以上、産経新聞記事より)。
まず日弁連について。
この団体は強制加入であり、全国に加盟弁護士は三七〇〇〇人超いますが、今大会に集まったのは七八六人(わずか2%。賛成者だけだとわずか1.4%)です。しかも委任状による議決権の代理行使は認められていません。こういうシステムで死刑廃止のような重要な宣言を採択してよいのでしょうか。団体の常識を疑います。
次に朝日新聞の社説について。
これはフォーラムの公開質問状が批判しているとおり、「死刑廃止ありきとの前提で書かれている」ひどいものです。論理がまったく通っていない箇所を引用します。
《宣言は個々の弁護士の思想や行動をしばるものではない。存続を訴える活動は当然あっていい。
そのうえで望みたいのは、宣言をただ批判するのではなく、被害者に寄り添い歩んできた経験をふまえ、いまの支援策に何が欠けているのか、死刑廃止をめざすのであれば、どんな手当てが必要なのかを提起し、議論を深める力になることだ。》
日弁連の総意として宣言が出された以上、弁護士の思想や行動は当然しばられます。これを著しく非民主的な手続きでごく一部の執行部が打ち出したということは、明らかな独裁です。
また、あたかも被害者支援弁護士たちが「ただ批判」しているかのように書き、実態も調べずに「支援策が欠けている」と決めつけています。
極めつけは「死刑廃止をめざすのであれば」というくだりです。被害者やその遺族に寄り添って死刑存続を望んでいる人たちが、いつの間に「死刑廃止をめざし」ている人に化けさせられたのでしょう。毎度おなじみ朝日論説委員の頭の悪さよ。作文の練習からやり直してください。
さて朝日新聞は十一月二日付でフォーラムの質問状に回答しましたが、これについて記者会見を行った高橋正人弁護士は「聞きたかったのは、なぜ朝日は死刑存続を望むわれわれも死刑廃止に向けた議論に協力しなければならないと主張したのか、という点だったが、答えていない。残念だ」と話し、今後、再質問も検討するそうです。さもありなむ。
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/sankei-afr1611080041.html
ところで問題の日弁連の「宣言」の中身について検討してみましょう。正式名称は、「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/2016/2016_3.html
結論から言うと、これまた「罪を犯した人の人権」にだけ配慮した一方的なもので、被害者および遺族の支援については申し訳程度にしか言及されていません。以下、この宣言における死刑廃止論の根拠を箇条書きでまとめます。
①平安時代には死刑がなかった。死刑は日本の不易の伝統ではない。
②国連の自由権規約委員会、拷問禁止委員会等から、再三勧告を受けている。
③誤判、冤罪であった場合、取り返しがつかない。
④法律上、事実上で死刑を廃止している国は一四〇か国あり世界の三分の二を占める。
⑤OECD加盟国のうち死刑を存続させているのはアメリカ、韓国、日本の三つであるが、アメリカは州によっては廃止しており、韓国は十八年以上死刑を執行していないので。OECD三四か国のうち、国家として統一的に存続させているのは日本だけである。
⑥死刑には犯罪抑止効果があるという説は、実証されていない。
⑦内閣府の最近の意識調査では「死刑もやむを得ない」という回答が八割を超えるが、死刑についての十分な情報が与えられれば、世論も変化する。
⑧そもそも死刑廃止は世論だけで決めるべき問題ではない。
⑨日本の殺人認知件数は年々減少しているのだから、死刑の必要性には疑問がもたれる。
⑩死刑は国家による最大かつ深刻な人権侵害であり、生命というすべての利益の帰属主体そのものの滅却であるから、他の刑罰とは本質的に異なる。
だいたい以上ですが、ひとつひとつ検討します。
①ですが、たしかに不易の伝統ではないでしょう。しかし平安時代の法と近代法を単純に比較するわけにはいきません。なぜなら古代や中世においては、支配階層と一般民衆とは截然と分かれており、高い身分の者が低い身分の者に対して今なら考えられないほど理不尽で残酷なことをしても平気で許されていたに違いないからです。いくら法的に死刑がなくても、私的な刑としての殺害はいくらでも行われていたでしょう。
②ですが、ここには国連を、国家を超越した権威を持つ機関として疑わない戦後日本人の弊害がもろに出ています。国連の勧告は七つありますが、そこには日本の法律や受刑者への対処に対する無知と、その裏返しとしての「人権真理教」が躍如としています。ここでは主なものだけ取り上げます。
第一に「死刑執行の手続き、方法についての情報が公開されていない」と指摘していますがそんなことはありません。手続きは確定後、法務大臣の署名捺印によって執行され、その氏名も公開されます。また方法は誰でも知っているとおり絞首刑です。
第二に「死刑に直面している者に対し、被疑者、被告人段階、再審請求段階、執行段階のいずれにおいても十分な弁護権、防御権が保障されていない」とありますが、これもウソです。日本の司法手続きは重大犯罪においてきわめて慎重であり、前三者については確実に保障されています。
もっとも裁判員裁判のもとでは、しばしば求刑越えの判決が出されることがありますが、これはむしろ裁判員制度自体の問題点です。裁判員制度は、英米系の陪審員制度をより進んだ制度と勘違いした弁護士たちが日本にもそれに類する制度の導入を強引に進めた結果できた制度です。いまその問題点については論じませんが、ご本家の陪審員制度こそ被告人段階での十分な弁護権、防御権が保障されていない欠陥を表わしているのです。この点については拙著『「死刑」が「無期」かをあなたが決める 裁判員制度を拒否せよ!』参照。
また最後の執行段階については、死刑制度が存在する以上、確定者に執行段階で弁護権や防御権を保障することは論理矛盾であり、法そのものの権威を失墜させます。さらに日本の実態として、死刑が確定しても執行までの期間に高齢に達していたり心身の健康を損なっていたりすれば延引されるのが普通です。
第三に「心身喪失の者の死刑執行が行われないことを確実にする制度がなく」とありますが、これもデタラメです。刑法39条には「心身喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」とあって、入念な精神鑑定が行われることが保障されています。国連は日本の刑法を読みもしないでこういう断定を下しているのです。
第四に国連勧告では「死刑執行の告知が当日の朝になされること」がけしからんという趣旨になっていますが、もっと前に告知すべきだとでもいうのでしょうか。心の準備期間が長い方が人道的だと言いたいのでしょうが、さてここにはキリスト教文化圏と日本との価値観の違いが出ています。
日本では死刑囚の多くが「いつ告知されてもおかしくない」という覚悟を早くから決めて「お迎えの日」を静かに待っています。考え方によりますが、あらかじめ執行日を知らされていれば、むしろ多くの日本人はかえって動揺と不安の日々を過ごさなくてはならないでしょう。この国連の勧告には、キリスト教文化圏の価値観を普遍的なものとして押しつけている傲慢さがあらわです。
何よりも問題なのは、日弁連幹部が、法律の専門家でありながら、この勧告の明らかな誤りを認めず、そのまま自分たちの主張に利用している事実です。
③の誤判、冤罪の可能性は廃止論者が必ず持ち出す論拠です。しかし誤判や冤罪を防げるかどうかは、法理上、死刑制度の存在とは直接のかかわりをもちません。日弁連は判断形式を誤っています。それはちょうど交通事故の可能性がゼロではないから車を廃止しろという議論が間違っているのと同じです。
冤罪をいかに防ぐかは、捜査から判決までの全刑事過程における手続きをいかに厳正・慎重に行うかというテクニカルな問題であって、国家が死刑制度を持つことが是か非かという本質的な問題とは別です。冤罪をゼロにするためにどういう司法手続きがさらに必要かと問うのが正しい判断形式なのです。再審制度があるのもそのためで、これが不十分だというならそれを改めていけばいいのです。
④⑤の世界情勢は死刑廃止に向かっているという議論もよく聞かされます。しかしこれまた欧米が全部正しいという価値観を押しつけるもので、単なる情勢論におもねています。
日弁連のこの宣言では、⑧で「そもそも死刑制度は世論だけで決める問題ではない」と正しい指摘をしています。ところが世界の多くの国が廃止しているから日本もそれに倣えというのは広い意味の世論に従えといっているのと同じで、論理が破綻しています。日本では「死刑もやむを得ない」という世論は直近で八割を超えていますが、この数字が必ずしも存置論者の論拠にならないのと同断です。両陣営は水掛け論をやっているのです。
また廃止論者は国の数や「先進性」というあいまいな基準を傘に着ていますが、これは多様な文化を尊重するリベラルなインテリのスタンスと矛盾しています。
しかもそれを言うなら、廃止または凍結した国が数では多数派でも、中国、インド、インドネシア、パキスタン、バングラデシュなど、人口の多い国では存置しており、超大国かつ先進国であるアメリカの三十三州でも存置されていることを考慮に入れるべきでしょう。そこでいま、少なく見積もってアメリカの全人口の半数が存置側の州に住んでいるとすると、その人口は一・五億人になります。
以上を勘案した上で、四捨五入して人口一千万人以上になる国で、存置国:廃止国(事実上の停止も含む)の人口を集計してみると、約五十二億人:約十七億人となり、人口比では圧倒的に存置国のほうが多いことがわかります。
http://www.geocities.jp/aphros67/090100.htm
http://ecodb.net/ranking/imf_lp.html
もう一つ重要なことは、たとえ法的には廃止されていても、欧米諸国では、凶悪犯やテロリストを逮捕前の犯行現場で警察が殺害してしまうことが非常に多いという点です。またフィリピンや南米諸国のように法的には廃止の建前を取っていても、麻薬所持や取引だけで超法規的に殺してしまうような国もあります。
警察による殺害は審理抜きの死刑と同じです。このほうがよっぽどひどい「人権侵害」に当たるはずですから、国連および日弁連幹部はこれらをきちんとカウントして、それに対して強く非難の目を向けるべきでしょう。「人権真理教」の弁護士たちは、著しく公正を欠くと言わなければなりますまい。
⑥の「死刑に犯罪抑止効果があるかどうかは実証されていない」というのは、正しい指摘です。本当に実証するためには、少なくとも人口、政治形態、経済規模、文化的特性、治安状態、国民性などが非常に似通った複数の国を選び出し(そんな国はまずありませんが)、一方は廃止、他方は存置して、数十年にわたって実験結果を比較してみなければならないでしょう。しかしそんなことは不可能です。ですから、ここでも廃止論者と存置論者は決着のつかない水掛け論をやっているのです。
⑦「十分な情報によって世論が変化する」は、日弁連も大いに世論を気にしている証拠で、先述の通り⑧と矛盾します。「十分な情報」という言葉で何を言おうとしているのかよくわかりませんが、もしこれが正しいなら、むごたらしい犯行現場や被害者遺族の心情について「十分な情報」が与えられれば、世論はさらに存置側に傾く可能性もあるでしょう。日弁連幹部の論理はそういう事情を公平に見ずに、もっぱら「初めに廃止論ありき」で、そのための政治的な闘争をやっているのだということを自己暴露したものと言えます。
⑨「殺人数が減っているから死刑は必要ない」というのはまったくの没論理です。いくら減っていても冷酷な動機と残虐な手段で何人も殺す殺人犯は現にいますし、これからの情勢次第で凶悪殺人は増えるかもしれません。
以上、「死刑廃止宣言」の論拠を検討してきましたが、総じてこれらは、表層の情勢論に終始していて、そもそも死刑とは何か、それが行なわれるとすればその意義はどこにあるのかという本質的な問いに対する考察が欠落しています。
唯一⑩がその本質論に触れていますが、それもただ「国家が生命を奪う最大の人権侵害」という犯罪者個人の被害の面が押し出されているだけで、被害者の側の悲しみや憤りについてはまったく思料されていません。これでは被害者の立場に立つ人たちが怒るのも当然と言えるでしょう。(以下次号)
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