小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「自由」は価値ではない

2019年02月21日 00時00分48秒 | 思想


『表現者クライテリオン』2019年3月号の特集「移民政策で日本はさらに衰退する」の座談会(出席者 施光恒氏、黒宮一太氏、柴山桂太氏、川端祐一郎氏)を読んで、触発されました。
「自由」という言葉について、少しきちんと考えてみようと思ったのです。

ドイツが先頭に立ったEUの「移民受け入れ政策」が、2015年に至ってどれほどヨーロッパ各地を荒れ回ったかは、よくご存じのとおりです。
昨年出版・翻訳されたダグラス・マレーの『西洋の自死』が、その惨状を余すところなく描いています。

イタリアはサハラ以南のアフリカ難民・移民たちであふれ、それ以前に、地中海を渡ろうとする多くの難民・移民が海の藻屑と消えました。
リビアのカダフィが暗殺された後、民主的な国家建設は少しも根付かず、かえって渡船ブローカーの暗躍する無秩序が支配したのです。

フランスのパリではテロ防止の非常事態宣言が出され、カレーの街にはドーバー海峡を渡ろうとする人々がキャンプを作ってひしめきました。

ロンドンはいまや45%が移民を占め、スウェーデンは世界第三位の犯罪国家になってしまったそうです。
そしてドイツは、ケルンで大晦日の日に大規模な女性暴行事件が起きて、500件を超す被害届が出されました。

オーストリアをはじめ、東欧諸国は、もはや移民受け入れを拒む姿勢に出ており、域内移動の自由を保障するEUのシェンゲン協定や、難民が最初に入国した国が難民を受け入れるダブリン規約は、実質上機能していません。

イギリスは、ブレグジットを強行せざるを得なくなり、アメリカでは、トランプ大統領がメキシコ国境の壁建設を強行しようと、非常事態宣言を出して、国論を分裂させています。

欧米におけるヒトの移動の「自由」は、理念の麗しさと現実とが乖離して、ほとんど全く生かされなくなったと言えるでしょう。

言うまでもなく、日本は、愚かにも、そういう現実を見ているはずなのに、何週か遅れで今年の4月から、何の準備態勢も整わないままに、移民を大幅に増加しようとしています。

関税の壁を削減・撤廃する貿易の「自由」は、ある産業に強い国にとってのみの「自由」であり、それはそのまま弱い国にとっては「不自由」を意味します。

アメリカ抜きTPP11は一部発効、日欧EPAはすでに発効しました。
日米FTA(Free Trade Agreement)は昨年12月にアメリカのほうから目標ペーパーが出ています。
これから恐ろしい交渉になりそうです。

日本はこれまた愚かなことに、自国の弱い産業について平気で関税障壁を下げています。
たとえば、ヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランドなど、酪農の強い国によって、日本の酪農家は壊滅的打撃を受けるでしょう。
さらに愚かなことに、テレビ・マスコミは、消費者ばかり連れてきて、「これからおいしいチーズが安く食べられるなんて嬉しいわ!」などとやっています。
こうして「自由」貿易が北海道その他の酪農家を殺しているのです。

さて、欧米やわが国などいわゆる「自由主義諸国」では、「自由」という言葉は、何よりも守らなくてはならない「価値」であるかのように信じられています。
言論の自由、職業選択の自由、居住移転の自由、経済の自由、学問の自由、宗教の自由エトセトラ。

しかし、こうした固形化した言葉よりももっと前に、自由という言葉が日常どのように使われるかを考えてみると、それは、私たちの身体が、いまある状態から別の状態に「移ることができる」という意味であることがわかります。
たとえば、「ここは自由に散歩してよい」とか、「今日はこれから自由な時間だ」というように。
つまり、自由というのはもともと、「身体が運動できる」という状態の形容としてあったのです。

その場合、大事なことは、一人の人間が何にも存在しない状態へ移ることをあらわすのではなく、必ず、ある制約条件から別の制約条件への運動の感覚を表すものにすぎなかったということです。
ある制約条件から解放されて「自由になる」ということは、別の制約条件を引き受けることでもあります。
何にもしないでぼーっと過ごすというのも、ある制約条件に他なりません。
とても退屈してしまうかもしれないのですから。

つまり、自由とは、そもそも単に運動を可能にするための意思の発動手段であって、けっしてそれ自体が目的でもなければ価値なのでもありません。
それは、本来、形容詞的、副詞的な使われ方をする言葉なのです。

ところがこれがいったん固形化して、名詞として扱われるようになると、だんだん事態が変わってきます。

プラトンは、2という数には2という「イデア」、3という数には3という「イデア」がある、と考えました。
こんな考え方は、リンゴを二つ、三つと数えている時は思い浮かびませんね。
ところが、「数」という概念が、数えられていた「もの=リンゴ」から自立して成立すると、こういう考えが浮かんでくるのです。

これと同じように、「自由に(気楽に)」遊んでいた子ども、「自由な(くつろいだ)」気分で手足を伸ばしていた人、などから自立して、「自由」という概念が、名詞として成立すると、そういう「実体」が、まるで遊ぶことや手足を伸ばすことからまったく独立に存在するかのような気がしてくるのです。
これがプラトンの言う「イデア」です。
つまり「自由」とは、言葉が固形化して出来上がった「理念(観念、アイデア)」なのです。

一旦この固形化の方向が定まると、それはどんどん人々の間で広がります。
そして、まるで、「自由」という実体が確固としてあり、しかもそれが、他の拘束された状態よりも一段優れた神様であるかのような「価値」として現れてくるのです。

つまり、「自由」というのは、それが抽象的で、しかも実体であるかのような様相を示すので、どこに当てはめても使えるという錯覚を呼び起こします。
実際、この言葉ほど便利な概念はないので、先に挙げた言論、学問、職業、居住、宗教など、近代の法では、至る所に使われ、国民の言動をきわめて寛容に受け入れているかのように見えます。
そもそも近代というのが、「自由」というイデア=イデオロギーが支配した時代なのです。

しかしこの「自由」イデオロギーがかたくなに守っているただ一つの非寛容があります。
それは、「非寛容な信念や行動を許さない」という非寛容です。
でもそのことに、「自由」イデオロギー信者たちは気づきませんでした。

誰もが、その生まれ育った土地の文化や伝統を背負っている。
そこから「自由」になることなどできません。
もし完全自由になったとしたら、その人は、故郷と人間関係を亡くした裸の無名者です。
でもヨーロッパ人たちは、自分たちが大きな文化や伝統を背負っていながら、それから「自由」になれると錯覚したのです。

すべてのヨーロッパ人が、といっては、失礼ですね。
特に知識人や政治家と呼ばれるエリートの人たちです。

別に文化や伝統などと大きなものを持ち出さなくとも、日々汗水流して働いている普通の人たちのことを思い浮かべればすぐわかることですが、彼らは、「何ものからも自由な自分」などを実感するところから遠いところにいて、ほとんどの時間を具体的な制約から次の具体的な制約へと体を移しているだけです。

エリートたちは、普通の人に比べて、相対的により広い、さまざまな対象に気を移すことができるので、そのため、普通の人よりはあの抽象的な固形物としての「自由」を実感しやすいだけなのです。

そうして、彼らはその「自由」を用いて失敗しました。
まさか自分たちが寛容であったために、イスラム教徒のような非寛容な信念をもった人々や、自分たちの文化にけっして溶け込まない人々が、どっと押し寄せてくるとは!

気づいた時にはもう遅く、自分たちの周囲にまだら模様を作って異邦人たちが居を占め、そしてけっして「自由な」対話など成立させようとはしないようになっていました。
自分たちの土地の何分の一かを、戦争よりは少しばかり静かに侵略していくことによって。

でもヨーロッパのエリートたちは、まだその深刻な事態に気づかないふりを決め込んでいるようです。
「多文化共生」という、成り立ちようもない美辞麗句にひたすらかじりつくことによって。

何がこのインヴェージョンから自分たちを守るのか。
もちろん、まずは「自由」イデオロギーの呪縛から醒め、その醒めた目をもって、国民国家という枠組みの重要さにいったんは差し戻すことです。
東欧諸国がすでにそれを実行しているように。

「自由」は普遍的価値でも何でもありません。
このイデオロギーには、何々を通して、何を実現させるのか、という具体的な問いが欠けているのです。

以上、ヨーロッパについて述べてきたことは、おせっかいではなく、もちろん、日本自身への警告です。
まだ遅くない、まだ遅くないと言っているうちに、移民国家・日本もたちまち手遅れになります。
その日は近いのです。

最後にまとめとして、自由についての定式を3つ挙げておきましょう。
(1)自由は、状態を変える意思の発動手段であって、目指すべき目的でもなければ価値でもない
(2)自由には、もともと自由を許さない非寛容を受け入れるほどの寛容さはない。
(3)自由は、現実的な拘束や制約を通してしか実現されないし、実感されない。


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2 コメント

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自由は関係に基づいた概念 (cool47)
2019-02-22 10:39:08
小浜様のお考えはもっともだと思いますが、「自由は価値ではない」と言い切ってしまうと、自由を価値から切り離してしまうので、別の害を生むように思います。
自由は関係に基づいた概念であるので、その関係性が、自分にとって価値があるかは個人が判断するものだと思います。つまり、自由の個々の関係性において価値判断はありうるので、「抽象的自由は具体的価値とは異なる」ないしは「自由の価値を具体的に検討しよう」などと表現していただけるといいのではないかと考えます。
返信する
cool47さんへ (小浜逸郎)
2019-02-22 17:47:57
コメント、ありがとうございます。

おっしゃる通り、自由は関係概念なので、「価値ではない」と言い切ってしまうと、そこに価値を感じる人、たとえば奴隷的な拘束から逃れたいと思っている人にとっては「そんなはずはない」ということになるでしょうね。

でも、この論考では、ヨーロッパに発し、アメリカや日本に広がった歴史的な産物としての「自由」の理念について、果たしてそれは、それを「普遍的価値」として押し戴く人々自身の幸せにつながるものだったか、という問いかけの意味で「自由」という言葉を俎上に載せています。
そのため、あえて挑発的な言い方になってしまったことは否めません。

また、強固なイデオロギーとして集団が掲げている概念を、あまり「個人個人の価値判断によっていろいろだ」というふうにものわかりよくとらえない方がいいと思います。
それは、このイデオロギーのド壺に嵌ることになりかねないからです。

なお、あなたの言われる、「抽象的自由は具体的価値とは異なる」ないしは「自由の価値を具体的に検討しよう」というアイデアには、賛同します。
まさに具体性が捨象されるところに、こうした「イデア」の一人歩きが起きるのですから。
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