高橋洋一VS三橋貴明ヴァージョン2――コメンテーター「空き地」さんに応える
立秋を過ぎて、やや暑さがおさまってきたようですね。けっこうなことです。
ところで、当ブログの7月27日付記事「高橋洋一VS三橋貴明」
(http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/94ad439f6c7708f9b4d88c10bb6b3bdd)
に対して、「空き地」さんという方から以下のような批判的コメントをいただきました。対立点は明白で、しかもかなり重要な問題に触れています。「空き地」さん、ありがとうございます。
直接コメントをお返ししてもいいのですが、どちらの言い分がより妥当か、なるべく多くの方に判定してもらうほうが言論の発展に貢献するだろうと考え、私からのお応えを新たにブログ記事として掲載することにしました。なお、少々他のことにかまけていたためにお返事が遅くなりましたことをお詫びいたします。
では以下に、「空き地」さんのコメントを全文コピペします。
Unknown (空き地)2014-08-03 09:56:17
私と真逆の見解だったので楽しく拝見させていただきました。
全般的に三橋貴明氏の主張を鵜呑みにしすぎではないかと思いますね。氏は「物価と価格」の区別も付いていないような御仁ですので、そういう人の語る「経済学もどき」の言説が「弱者保護や国民の利益」に適うとは到底思えません。
主さんは大学教員であられるそうですが、そのような一定の社会的影響力を持つ方であれば、「リフレ派が何を主張しているのか」と言った基本的なことは事実を正確に把握された方が宜しいかと思います。少なくともリフレ派は金融政策万能論者でもリバタリアン的な市場原理主義者でもありません。「傲っている、毒されている」などといった情緒的な表現で批判する前に事実関係をご自身の目や耳で確かめられるべきだと考えます。
世の中「善意の強い方が正しい」ということはありません。口先で「弱者に優しい」だのとほざいても、理に適っていない善意はむしろ弱者を弱者のままに押し留めることになりかねません。あなたが「机上の空論」と切って捨てる経済理論の方が実際には「社会全体の幸福」を増進させるということは歴史上明らかなのです。
長々と失礼いたしました。
私の見解はコチラ↓にまとめてありますので、もし興味がおありでしたらお読みいただければと思います。
http://ameblo.jp/akichi-3kan4on/entry-11896627528.html
それでは上に掲げられているURL掲載の「空き地」さんの見解も参考にさせていただいたうえで、反論いたします。
まず単なる修辞上の問題に過ぎないといえばいえるのですが、私が「傲っている(正しくは『傲慢な』)、毒されている」といった表現を使ったことに対して、「空き地」さんは、事実関係を確かめない「情緒的な表現」と批判されています。しかしそれを言うなら、「空き地」さんご自身も、三橋氏の言説をその中身もじゅうぶん確かめないままに「経済学もどき」と決めつけているようですし、「口先で『弱者に優しい』だのとほざいても」などとずいぶん情緒的な表現を使っているのではありませんか。反論相手に対してきちんと論拠を示しつつ「情緒的表現」を使うことを私はけっして否定しません。はばかりながらそういうことをこれまでもさんざんやってきました。
ちなみに私はくだんの記事で、高橋氏のどこが「傲慢」であるか、また安倍総理が市場原理主義者(新自由主義者)にいかに「毒されている」か、その論拠をきちんと示しています。安倍政権の経済政策の誤りについて、この記事だけでは説明不足だと思われる向きは、当ブログ、以下のURLへどうぞ。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/3249423496d0112f3d568fc9b6fda158
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/55b73e611e35e242be65e08d68f02b94
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/53ad286cccfdf5c42140b2da39762e32
なお、リフレ派「一般」が、金融政策万能主義者でもリバタリアン的な市場原理主義者でもないことは、経済学の素人である私も知っておりました。クルーグマンやスティグリッツはリフレ派ですが、彼らは同時にケインズ的な財政出動の意味を大きく認めていますね。
その点で、リフレ派「一般」が金融政策しか頭にない「机上の」理論家であるかのような表現を私が取ったことは、たしかに誤解を招きやすい点がありました。そのことを率直に認めたいと思います。そのうえで、改めて私の趣旨を述べます。
私のこの記事での眼目は、二つあります。
一つは、アベノミクス第一の矢の推進に大きな功績のあった「日本のリフレ派経済学者の多く」が、積極的な財政出動に対して概して冷淡であり、金融と財政のパッケージとしての意義を深く自覚せず、場合によっては、公共事業派と不毛な論争を続けていることです(例:原田泰氏)。
もう一つは、この記事はそもそも、高橋洋一氏というひとりのリフレ派「代表」格の一発言を問題としたものであり、その発言が、ある現実的な課題(この場合はタクシー規制緩和の見直し)を突き付けられると、いかにただの市場原理主義の間違った法則をオウムのように反復することしかできないかということを示そうとしたものです。
その法則とは、規制緩和を徹底させて自由な競争市場に任せ、モノやサービスを提供しさえすれば、需要はいつもそのまま自動的についてきて、需給バランスがとれ、消費者に安価なサービスを提供できるような幸せな社会になるという「机上の」理論です。
この法則が間違っている点は、二つあります。
一つは、デフレ期にはこの法則が通用しないという現実があること。まさに消費が冷え込んでいかに供給だけを増やしても需要がついてこない状態がデフレなのですから。状況によって政策を変えなくてはいけないのに、それを「理論」という名の硬直したイデオロギーが阻んでいる事態こそが問題なのです。
もう一つは、デフレ下では、物価が下がって一見消費者にとってありがたいように見えても、その現象が同時に、生産現場での投資の停滞、企業の倒産、雇用の悪化、賃金の低下、失業の増大などを生み出している事実に目を配ろうとしないこと。少し考えればわかるように、タクシー運転手は、タクシーを運転しているときにはサービスの提供者ですが、その同じ人が、給料をもらって生活するときには、少なくて不安定な生活費で家族を養わなくてはならない消費者でもありますね。「買う人」は同時に他の局面では「働く人=労働力を売る人」でもありますから、その労働力がデフレ不況のために安く買いたたかれれば、当然その人は、生活に必要な消費ができなくなるわけです。
安いものが買えてよいというのは、収入が安定していてある程度余裕のある人(例えば年金だけで生活できる人)の満足感をあらわしているだけです。デフレ現象は、マクロ経済全体の不活性状態ですから、結局、投資と消費(と輸出)によって構成されるGDPを押し下げ、平均的な国民全体の生活を貧しくするのです。現にここ二十年の日本ではそうなってきたし、安倍政権の経済政策によっても、この事態は少しも解決していません(実質賃金の低下、消費の冷え込み、など)。
高橋氏は、「タクシー運転手の給料が低いのは当たり前だ」とか「規制緩和して料金が下がれば、それで食べていけない人は自然と他業種に移る」などと言い放つことによって、自身がマクロ経済全体の力学にまったく関心がないことを自己暴露しているのです。低賃金に甘んじている労働者が、この不況下に(「ゆるやかな回復基調」などという政府の公式見解はでたらめです)、他の仕事に移ることがどんなに難しいか、高橋氏は想像したことがあるのでしょうか。ここには物事を総合的に見る目が全く欠落しています。これで経済学者としての公共精神があるなどと言えますか?
つまりはそれが「新自由主義」の「理論」という名のイデオロギーなのであって、高橋氏はリフレ派経済学者を気取りながら、このイデオロギーに完全に拘束されています。要するに彼は正しい意味でのリフレ派ではないのですね。日本のリフレ派経済学者と呼ばれる人には、なぜかこの種の人が多いことを改めて問題視しておきます。
ところで、「空き地」さんは、三橋氏を「『物価と価格』の区別も付いていないような御仁」と決めつけていますが、察するにこれは、タクシー料金という「価格」の一事例を材料にしてその格安性を問題にすることと、デフレ現象の指標である「物価」の下落を問題にすることとの混同であるという趣旨と受け取れます。それ以外に、三橋氏がこの「区別をつけていない」ような議論をしている他の例を寡聞にして知りませんので。
でもね、「空き地」さん。私たちが問題にしている新聞記事は、もともと、個別具体事例を通して、二人の経済論客がどういう見識を示すかという枠組みによって編まれたものです。言うなれば、「タクシー料金」というのは、この場合、現在の国民経済の状態をどう見るかという問題に関する象徴的な材料の意味をもっています。
その意味で、生鮮食料品や原油など、毎日変動する品目ではなく、ある程度恒常性をもったタクシー料金という個別一事例について語ることは、「物価」一般について語ること(たとえばCPIを問題にすること)とそんなに大きな隔たりはないと思いますよ。現に高橋氏だって、これを材料として、「規制緩和」一般の正当性を強く主張しているではありませんか。
「空き地」さんが、三橋氏を「物価と価格の区別も付いていないような経済学もどきの言説を語る御仁」と決めつけるからには、そういう証拠を彼の発言のなかから集めてきて示してほしいものです。ご自身のブログの文章も読ませていただきましたが、そこにも他の証拠らしいものは見当たりませんでした。また、三橋氏が果たして「口先で『弱者に優しい』だのとほざいて」いるだけの人かどうか、これも論証の必要がありそうですね。「情緒的な表現で批判する前に事実関係をご自身の目や耳で確かめられるべきだと考えます。」
さらに「空き地」さんは、「あなたが『机上の空論』と切って捨てる経済理論の方が実際には『社会全体の幸福』を増進させるということは歴史上明らかなのです。」と、すごい(スケールがバカでかいという意味です)認識を示しておられます。
私が「机上の空論」としているのは、新古典派に発し、いまもなおグローバリズムの牽引役を果たしている競争原理主義、新自由主義であって、どんな状況下でも政府の介入を排して個人・民間の「自由な」競争にゆだねるのが「社会全体の幸福」につながるとするような理論傾向のことです(アダム・スミスをその元祖とするのは誤解です)。この理論傾向は、歴史の教えるところによれば、世界恐慌を食い止めることができず、結果的にケインズらの提唱による管理通貨制度への移行や、ニューディール政策などの大規模な公共事業による雇用の創出に頼らざるを得なかったのではありませんか。
やがて経済学界では、反ケインズ派(シカゴ学派など)が勢力を盛り返し、現在も経済政策の決定に当たってその隠然たる力を示しています。アメリカでは、共和党の「小さな政府」論がその代表です。EUの経済理念もこの立場に立っていますね。日本の代表者は、言うまでもなく構造改革・規制緩和を押し進める竹中平蔵氏一派です。
さてこの傾向がアメリカ社会やEU社会や日本社会全体の幸福を増進させたことが本当に「歴史上明らか」ですか。これこそ、いくつもの事例の提示と壮大な証明が必要なのではありませんか。
ちなみに私の貧しい認識によれば、この傾向は、アメリカ社会の貧困層を著しく増大させ、EUの国家間格差を思い切り広げて優勝劣敗を明確化させ(ドイツは国家単位としてはひとり勝ちしていますが、平均的な国民の生活は貧しくなっています)、さらに日本の経済社会のよき慣習を破壊しつつあります。これらの国々において、どのような意味で幸福な社会が実現しているのでしょうか。
長くなるので引用しませんが、「空き地」さんがご自身のブログで展開しておられる「経済理論」なるものは、まったく素朴なレベルの需要と供給の「均衡理論」以外の何ものでもありません。民間の自由競争に任せれば自然に市場メカニズムが作用して均衡点に落ち着くというだけのものです。この理論では、繰り返しますが、供給さえ整っていれば、需要はそれに応じて自然についてくる(セーの法則)という非現実的な仮定が前提とされており、また、価格が均衡点に達するのが「本来の」姿であり、その場合には完全雇用が実現し、非自発的な失業はあり得ないとされています。
残念ながらこの古典的な理論だけでは、実際に起きている不況や失業の問題が解決できなかったので、ケインズ理論が見直されつつあるわけです。その日本における代表者の一人が三橋氏であると私は考えています。
ケインズ理論は、もともと数学のように「絶対的・普遍的正しさ」が要求されるような場で新古典派経済学との間に理論的な決着をつけるような性格のものではありません(そういうことを経済学に要求するのがそもそも間違っているのです)。しかし、資本主義を肯定しつつ、不況や失業や広範囲の貧困をいかにして食い止めるかという公共精神の抱き方、倫理的態度において、新古典派経済学よりもはるかに優っているというのが、私なりの見立てです。
なお、「空き地」さんのブログにおける三橋批判は、彼が言おうとしていることの誤解と歪曲に満ちており、いちいち論駁する煩に堪えません。まあ、いい年をして代理戦争を買って出るのも大人げないのでやめておきましょう。
大きなお世話ですが、最後に一言だけ申し上げておきます。「空き地」さんは、どうも「正統派経済学」なるアカデミックな観念に金縛りになっているようですが、豊かな実地経験と驚くべき情報収集能力と自力で考え抜く知性をもった三橋氏のようなすぐれた「経済評論家」や、現代社会が抱えている思想課題に対する真剣な問題意識をもった私のような「素人」をバカにしてはいけませんよ。
それではまた、お互いにもう少し勉強してから出会うことにいたしましょう。妄言多謝。
*この稿をアップしたのちに、前回の記事にある人から寄せられたコメントに接し、大いに参考になりました。そのコメントで紹介されている記事によれば、そもそもタクシー業界に規制緩和を適用することは、この業種の特殊性からして不適切であるというのです。なぜそう言えるのかがたいへん具体的に、冷静に分析されています。この記事の書き手は、どちらかといえば規制緩和の方向性自体には賛成のようで、それだけによけい説得力があると感じました。
http://www.capital-tribune.com/archives/2758
立秋を過ぎて、やや暑さがおさまってきたようですね。けっこうなことです。
ところで、当ブログの7月27日付記事「高橋洋一VS三橋貴明」
(http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/94ad439f6c7708f9b4d88c10bb6b3bdd)
に対して、「空き地」さんという方から以下のような批判的コメントをいただきました。対立点は明白で、しかもかなり重要な問題に触れています。「空き地」さん、ありがとうございます。
直接コメントをお返ししてもいいのですが、どちらの言い分がより妥当か、なるべく多くの方に判定してもらうほうが言論の発展に貢献するだろうと考え、私からのお応えを新たにブログ記事として掲載することにしました。なお、少々他のことにかまけていたためにお返事が遅くなりましたことをお詫びいたします。
では以下に、「空き地」さんのコメントを全文コピペします。
Unknown (空き地)2014-08-03 09:56:17
私と真逆の見解だったので楽しく拝見させていただきました。
全般的に三橋貴明氏の主張を鵜呑みにしすぎではないかと思いますね。氏は「物価と価格」の区別も付いていないような御仁ですので、そういう人の語る「経済学もどき」の言説が「弱者保護や国民の利益」に適うとは到底思えません。
主さんは大学教員であられるそうですが、そのような一定の社会的影響力を持つ方であれば、「リフレ派が何を主張しているのか」と言った基本的なことは事実を正確に把握された方が宜しいかと思います。少なくともリフレ派は金融政策万能論者でもリバタリアン的な市場原理主義者でもありません。「傲っている、毒されている」などといった情緒的な表現で批判する前に事実関係をご自身の目や耳で確かめられるべきだと考えます。
世の中「善意の強い方が正しい」ということはありません。口先で「弱者に優しい」だのとほざいても、理に適っていない善意はむしろ弱者を弱者のままに押し留めることになりかねません。あなたが「机上の空論」と切って捨てる経済理論の方が実際には「社会全体の幸福」を増進させるということは歴史上明らかなのです。
長々と失礼いたしました。
私の見解はコチラ↓にまとめてありますので、もし興味がおありでしたらお読みいただければと思います。
http://ameblo.jp/akichi-3kan4on/entry-11896627528.html
それでは上に掲げられているURL掲載の「空き地」さんの見解も参考にさせていただいたうえで、反論いたします。
まず単なる修辞上の問題に過ぎないといえばいえるのですが、私が「傲っている(正しくは『傲慢な』)、毒されている」といった表現を使ったことに対して、「空き地」さんは、事実関係を確かめない「情緒的な表現」と批判されています。しかしそれを言うなら、「空き地」さんご自身も、三橋氏の言説をその中身もじゅうぶん確かめないままに「経済学もどき」と決めつけているようですし、「口先で『弱者に優しい』だのとほざいても」などとずいぶん情緒的な表現を使っているのではありませんか。反論相手に対してきちんと論拠を示しつつ「情緒的表現」を使うことを私はけっして否定しません。はばかりながらそういうことをこれまでもさんざんやってきました。
ちなみに私はくだんの記事で、高橋氏のどこが「傲慢」であるか、また安倍総理が市場原理主義者(新自由主義者)にいかに「毒されている」か、その論拠をきちんと示しています。安倍政権の経済政策の誤りについて、この記事だけでは説明不足だと思われる向きは、当ブログ、以下のURLへどうぞ。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/3249423496d0112f3d568fc9b6fda158
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/55b73e611e35e242be65e08d68f02b94
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/53ad286cccfdf5c42140b2da39762e32
なお、リフレ派「一般」が、金融政策万能主義者でもリバタリアン的な市場原理主義者でもないことは、経済学の素人である私も知っておりました。クルーグマンやスティグリッツはリフレ派ですが、彼らは同時にケインズ的な財政出動の意味を大きく認めていますね。
その点で、リフレ派「一般」が金融政策しか頭にない「机上の」理論家であるかのような表現を私が取ったことは、たしかに誤解を招きやすい点がありました。そのことを率直に認めたいと思います。そのうえで、改めて私の趣旨を述べます。
私のこの記事での眼目は、二つあります。
一つは、アベノミクス第一の矢の推進に大きな功績のあった「日本のリフレ派経済学者の多く」が、積極的な財政出動に対して概して冷淡であり、金融と財政のパッケージとしての意義を深く自覚せず、場合によっては、公共事業派と不毛な論争を続けていることです(例:原田泰氏)。
もう一つは、この記事はそもそも、高橋洋一氏というひとりのリフレ派「代表」格の一発言を問題としたものであり、その発言が、ある現実的な課題(この場合はタクシー規制緩和の見直し)を突き付けられると、いかにただの市場原理主義の間違った法則をオウムのように反復することしかできないかということを示そうとしたものです。
その法則とは、規制緩和を徹底させて自由な競争市場に任せ、モノやサービスを提供しさえすれば、需要はいつもそのまま自動的についてきて、需給バランスがとれ、消費者に安価なサービスを提供できるような幸せな社会になるという「机上の」理論です。
この法則が間違っている点は、二つあります。
一つは、デフレ期にはこの法則が通用しないという現実があること。まさに消費が冷え込んでいかに供給だけを増やしても需要がついてこない状態がデフレなのですから。状況によって政策を変えなくてはいけないのに、それを「理論」という名の硬直したイデオロギーが阻んでいる事態こそが問題なのです。
もう一つは、デフレ下では、物価が下がって一見消費者にとってありがたいように見えても、その現象が同時に、生産現場での投資の停滞、企業の倒産、雇用の悪化、賃金の低下、失業の増大などを生み出している事実に目を配ろうとしないこと。少し考えればわかるように、タクシー運転手は、タクシーを運転しているときにはサービスの提供者ですが、その同じ人が、給料をもらって生活するときには、少なくて不安定な生活費で家族を養わなくてはならない消費者でもありますね。「買う人」は同時に他の局面では「働く人=労働力を売る人」でもありますから、その労働力がデフレ不況のために安く買いたたかれれば、当然その人は、生活に必要な消費ができなくなるわけです。
安いものが買えてよいというのは、収入が安定していてある程度余裕のある人(例えば年金だけで生活できる人)の満足感をあらわしているだけです。デフレ現象は、マクロ経済全体の不活性状態ですから、結局、投資と消費(と輸出)によって構成されるGDPを押し下げ、平均的な国民全体の生活を貧しくするのです。現にここ二十年の日本ではそうなってきたし、安倍政権の経済政策によっても、この事態は少しも解決していません(実質賃金の低下、消費の冷え込み、など)。
高橋氏は、「タクシー運転手の給料が低いのは当たり前だ」とか「規制緩和して料金が下がれば、それで食べていけない人は自然と他業種に移る」などと言い放つことによって、自身がマクロ経済全体の力学にまったく関心がないことを自己暴露しているのです。低賃金に甘んじている労働者が、この不況下に(「ゆるやかな回復基調」などという政府の公式見解はでたらめです)、他の仕事に移ることがどんなに難しいか、高橋氏は想像したことがあるのでしょうか。ここには物事を総合的に見る目が全く欠落しています。これで経済学者としての公共精神があるなどと言えますか?
つまりはそれが「新自由主義」の「理論」という名のイデオロギーなのであって、高橋氏はリフレ派経済学者を気取りながら、このイデオロギーに完全に拘束されています。要するに彼は正しい意味でのリフレ派ではないのですね。日本のリフレ派経済学者と呼ばれる人には、なぜかこの種の人が多いことを改めて問題視しておきます。
ところで、「空き地」さんは、三橋氏を「『物価と価格』の区別も付いていないような御仁」と決めつけていますが、察するにこれは、タクシー料金という「価格」の一事例を材料にしてその格安性を問題にすることと、デフレ現象の指標である「物価」の下落を問題にすることとの混同であるという趣旨と受け取れます。それ以外に、三橋氏がこの「区別をつけていない」ような議論をしている他の例を寡聞にして知りませんので。
でもね、「空き地」さん。私たちが問題にしている新聞記事は、もともと、個別具体事例を通して、二人の経済論客がどういう見識を示すかという枠組みによって編まれたものです。言うなれば、「タクシー料金」というのは、この場合、現在の国民経済の状態をどう見るかという問題に関する象徴的な材料の意味をもっています。
その意味で、生鮮食料品や原油など、毎日変動する品目ではなく、ある程度恒常性をもったタクシー料金という個別一事例について語ることは、「物価」一般について語ること(たとえばCPIを問題にすること)とそんなに大きな隔たりはないと思いますよ。現に高橋氏だって、これを材料として、「規制緩和」一般の正当性を強く主張しているではありませんか。
「空き地」さんが、三橋氏を「物価と価格の区別も付いていないような経済学もどきの言説を語る御仁」と決めつけるからには、そういう証拠を彼の発言のなかから集めてきて示してほしいものです。ご自身のブログの文章も読ませていただきましたが、そこにも他の証拠らしいものは見当たりませんでした。また、三橋氏が果たして「口先で『弱者に優しい』だのとほざいて」いるだけの人かどうか、これも論証の必要がありそうですね。「情緒的な表現で批判する前に事実関係をご自身の目や耳で確かめられるべきだと考えます。」
さらに「空き地」さんは、「あなたが『机上の空論』と切って捨てる経済理論の方が実際には『社会全体の幸福』を増進させるということは歴史上明らかなのです。」と、すごい(スケールがバカでかいという意味です)認識を示しておられます。
私が「机上の空論」としているのは、新古典派に発し、いまもなおグローバリズムの牽引役を果たしている競争原理主義、新自由主義であって、どんな状況下でも政府の介入を排して個人・民間の「自由な」競争にゆだねるのが「社会全体の幸福」につながるとするような理論傾向のことです(アダム・スミスをその元祖とするのは誤解です)。この理論傾向は、歴史の教えるところによれば、世界恐慌を食い止めることができず、結果的にケインズらの提唱による管理通貨制度への移行や、ニューディール政策などの大規模な公共事業による雇用の創出に頼らざるを得なかったのではありませんか。
やがて経済学界では、反ケインズ派(シカゴ学派など)が勢力を盛り返し、現在も経済政策の決定に当たってその隠然たる力を示しています。アメリカでは、共和党の「小さな政府」論がその代表です。EUの経済理念もこの立場に立っていますね。日本の代表者は、言うまでもなく構造改革・規制緩和を押し進める竹中平蔵氏一派です。
さてこの傾向がアメリカ社会やEU社会や日本社会全体の幸福を増進させたことが本当に「歴史上明らか」ですか。これこそ、いくつもの事例の提示と壮大な証明が必要なのではありませんか。
ちなみに私の貧しい認識によれば、この傾向は、アメリカ社会の貧困層を著しく増大させ、EUの国家間格差を思い切り広げて優勝劣敗を明確化させ(ドイツは国家単位としてはひとり勝ちしていますが、平均的な国民の生活は貧しくなっています)、さらに日本の経済社会のよき慣習を破壊しつつあります。これらの国々において、どのような意味で幸福な社会が実現しているのでしょうか。
長くなるので引用しませんが、「空き地」さんがご自身のブログで展開しておられる「経済理論」なるものは、まったく素朴なレベルの需要と供給の「均衡理論」以外の何ものでもありません。民間の自由競争に任せれば自然に市場メカニズムが作用して均衡点に落ち着くというだけのものです。この理論では、繰り返しますが、供給さえ整っていれば、需要はそれに応じて自然についてくる(セーの法則)という非現実的な仮定が前提とされており、また、価格が均衡点に達するのが「本来の」姿であり、その場合には完全雇用が実現し、非自発的な失業はあり得ないとされています。
残念ながらこの古典的な理論だけでは、実際に起きている不況や失業の問題が解決できなかったので、ケインズ理論が見直されつつあるわけです。その日本における代表者の一人が三橋氏であると私は考えています。
ケインズ理論は、もともと数学のように「絶対的・普遍的正しさ」が要求されるような場で新古典派経済学との間に理論的な決着をつけるような性格のものではありません(そういうことを経済学に要求するのがそもそも間違っているのです)。しかし、資本主義を肯定しつつ、不況や失業や広範囲の貧困をいかにして食い止めるかという公共精神の抱き方、倫理的態度において、新古典派経済学よりもはるかに優っているというのが、私なりの見立てです。
なお、「空き地」さんのブログにおける三橋批判は、彼が言おうとしていることの誤解と歪曲に満ちており、いちいち論駁する煩に堪えません。まあ、いい年をして代理戦争を買って出るのも大人げないのでやめておきましょう。
大きなお世話ですが、最後に一言だけ申し上げておきます。「空き地」さんは、どうも「正統派経済学」なるアカデミックな観念に金縛りになっているようですが、豊かな実地経験と驚くべき情報収集能力と自力で考え抜く知性をもった三橋氏のようなすぐれた「経済評論家」や、現代社会が抱えている思想課題に対する真剣な問題意識をもった私のような「素人」をバカにしてはいけませんよ。
それではまた、お互いにもう少し勉強してから出会うことにいたしましょう。妄言多謝。
*この稿をアップしたのちに、前回の記事にある人から寄せられたコメントに接し、大いに参考になりました。そのコメントで紹介されている記事によれば、そもそもタクシー業界に規制緩和を適用することは、この業種の特殊性からして不適切であるというのです。なぜそう言えるのかがたいへん具体的に、冷静に分析されています。この記事の書き手は、どちらかといえば規制緩和の方向性自体には賛成のようで、それだけによけい説得力があると感じました。
http://www.capital-tribune.com/archives/2758
空き地さんという方は三橋さんのブログにまるでストーカーのように誹謗中傷まがいのコメントを繰り返しているような方で、論点をずらしたりただレッテルを貼るなど、(私から見ると)まともな会話が不能であり、わざわざ相手にする必要もないと思っていたのです。しかしこのような真摯な返答をされるとはご苦労様でした・・・笑
また映像メディアなどでお話を拝聴させて頂くのも楽しみにしております。
高木克俊氏の「超個人的美学」でも本ブログが紹介されておりまして、前回のエントリー拝見した次第です。
http://achichiachi.seesaa.net/article/403072371.html
私もこの案件、怒りに心が震えた一人です。そして先生のエントリーを読んで胸がスッと致しました。本当に感謝申し上げます。
空き地さんは、先日は、後藤翔さんの「日本が日本であるために」にコメントして、後藤さんのエントリーで公開処刑にあったばかりです。
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-187.html
という事で、先生の今回のエントリーを含めると、二連続で公開処刑の恥晒しとなった訳です。
私が拝読しているブログで「コメ汚し」をして廻っているので、本当に困ったお方です。
高橋洋一氏は時計泥棒で逮捕された経歴もお持ちなようで、彼の言説には、何か人間性の欠陥を感じてしまいます。
田中秀臣、原田泰などなど、リフレ派の先生方には、そのような方が多い気が致します。憶測ですが・・・・笑
これからも、先生のコラム、楽しみにしております。
残暑厳しき折り、くれぐれもご自愛下さい。
お二人が書かれていること、いずれもたいへん参考になりました。
日本のリフレ派「学者」は、すべてではありませんが、どうも狭い専門領域での知見に固執して、柔軟性を失っているように思えてなりません。もっと伸びやかにならないと、ノーベル経済学賞など、とても望めませんね(笑)。
これからもどうぞよろしく。
規範的分析と、事実解明的分析をある程度分けるのが良いと思います。
>民間の自由競争に任せれば自然に市場メカニズムが作用して均衡点に落ち着くというだけのものです。
ケインズ理論も、この前提に立っています。マクロ経済学上の貯蓄と投資が一致するには、三面等価の原則が成立しないといけませんが、それはこの市場の調節能力を前提としています。
これは、市場の調節能力の十分でない短期の動きを描くはずだったケインズ理論の欠陥であり、ハイエクも早々にこの欠陥を指摘していました。