倫理の起源26
繰り返しを含むが、ニーチェの倫理思想で特筆すべき点を簡単にまとめておこう。この考え方は主として絶頂期に書かれた『善悪の彼岸』および『道徳の系譜』に顕著にあらわれている。
彼によれば、古代で徳とされたものは、本質的に集団の保持のための戦闘者、貴族のためのものであり、勇敢、自尊心、率先して危険に立ち向かう意志、人を率いる指導力、自己犠牲をいとわない精神、苦難に不平を言わず堪える力、劣弱な存在を堂々と軽蔑する心といったものであり、逆に、同情、やさしさ、柔和、利他、憐れみ、隣人愛、平等、女性的な心遣い、万人に分配される自由といった道徳項目はあまり問題にされなかった。たとえば彼にしては比較的穏健な調子で書かれている次の二つの引用を見よう。
(前略)たとえ、そこにすでに思いやり、同情、公正、柔和、助け合いなどが些少ながら絶えず行なわれているとしても、また、こうした社会状態において、やがては〈徳〉という敬称をもって呼ばれ、ついには〈道徳性〉という概念とほとんど一致してしまうような衝動のすべてが、すでにもう活動しているとしても、こんな状態の時期ではそれらはまだぜんぜん道徳的価値評価の範囲には入らない、――それらはまだ道徳外のものである。たとえば同情的な行為は、ローマの最盛期においては善とも悪ともいわれなかったし、道徳的とも不道徳的ともいわれなかった。そういう行為が賞賛されることがあっても、ひとたびそれが社会全体の振興、〈国家公共のことがら〉に役立つ何らかの行為と比較されるやいなや、その賞賛には上々のときといえども一種の不満げな軽侮の念がまつわりついた。結局のところ〈隣人愛〉は、隣人に対する恐怖に比べれば常に何らか副次的なものであり、いくぶんか慣習的な、気ままな見せかけのものである。(『善悪の彼岸』二〇一)
侵害、暴力、搾取を互いに抑制し、自己の意志と他者の意志とを同等に扱うこと、このことは、もしそのための条件が与えられてさえいるならば(すなわち、各人の力量や価値尺度が実際に似たりよったりで、しかも彼らが同一の団体のうちに共に属しているとすれば)、ある大ざっぱな意味において個人間の良俗となりうるであろう。だがこの原則を広くとって、できるならそのまま社会の根本原則とみなそうとするやいなや、ただちにそれは生否定への意志であり解体と頽落の原則であるというその正体を暴露するであろう。このことの理由についてわれわれは徹底的に考えすすめ、あらゆる感傷的な女々しさを寄せつけぬようにしなくてはならない。生そのものは本質において他者や弱者をわがものにすること、侵害すること、圧服することであり、抑圧すること、厳酷なることであり、おのれ自身の形式を他に押しつけること、摂取同化することであり、すくなくとも――ごく穏やかに言っても搾取することである。(中略)先に仮定されたように、その内部でも各個人が平等にふるまっている――これはすべての健全な貴族体制に見られるところだが――ような団体にしても、(中略)他の団体に対しては、おのが内部では各個人とも抑制しあっている一切のことを進んで行なわなければならない。その団体は権力への意志の化身であらねばならない。それは生長しようと欲し、周りのものへとつかみかかり、これをおのれの方へ引きよせ、圧服しようと欲するであろう。――これは何らかの道徳性や背徳性から出ることではなくて、それが生きているからこそであり、生こそは権力への意志だからである。(同二五九)
お分かりのように、ここでは概略次のようなことが言われている。
古典時代には、ある共同体の内部の統治者、支配者どうしの間では、互いに多少の自己抑制をはたらかせて、同情、公正、柔和、助け合いなどの感情や行動を示しはするが、それは特に「道徳」とはみなされず、それぞれが均衡を維持する必要からとられたやむを得ない手段にすぎなかった。彼らはじつは同情を軽蔑していた。ひとたび共同体の外部と相対するときには、または敵対者を倒すときには、それらはかなぐり捨てられて、本音がむき出しとなる。その本音とは生の本能的な拡張欲求であり、「力への意志」である。
ここには一応、利他的な道徳心が発動する以前の人間の生に対する現実主義的な視線が生きてはいる。ニーチェは、自己拡張欲求を人間をも含む生命体本来のものとみており、利他的な道徳は、あくまで人間だけが作り出したものであり、しかもそれは弱者の自己保存欲求から編み出されたものであると考えた。彼は、荒々しく暴力的な生の本能を表わすのに、「獅子」とか「猛獣」とか「金毛獣」といった比喩を好んで用いる。そしてこの比喩はまた、この世に支配者として君臨してきた戦士階級、貴族階級の精神にも適用される。これに対して道徳によって馴致され惰弱化した人間どもは、「畜群」であり「羊」であり「奴隷」である。
ニーチェにとって一番我慢がならなかったのは、世界が力と力のぶつかり合いであるという現実を、同情道徳や隣人愛道徳によって隠蔽しようとするその欺瞞性であろう。ちなみにこの道徳批判の意志は、ちょうど「お互いの思いやりや信頼」に過度に依存するわが日本の戦後社会、特に国際外交のだらしない姿勢に適用するとき、見事に当てはまると言える。まさしく現在の国際社会は、やくざ化した力と力のぶつかり合いにほかならないのに、お人好しの日本人の多くは、相変わらずそのことを実感しようとしないからである。こうした意味では、彼のこだわりとこの精神様式を援用する人たちには、一定の妥当性があると認めざるを得ない。
すでに述べたように、ニーチェは、カントが「善と快、徳と福」の二項対立原理で倫理や道徳の問題を押さえようとしたのに対して、「優と劣、強と弱」の対立原理を対置した。この対置は、倫理学の発展史という観点からすれば、落とすことのできない重要な相対化の試みだった。キリスト教道徳に限らず、「よい」の概念を道徳的な「善」の概念にのみ限定して理想化することは、私たちの現世における自己充実と幸福感情と矜持、優れたものへの正しい評価やそれに向かっての実現の意欲といったものに対する抑圧に帰着するからである。
しかし、ニーチェのこの考え方には、いくつかの論理的な欠陥がある。そしてそれらの欠陥は、彼の人間把握の仕方そのものに根本的な誤りがあることにもとづいている。結論を先回りして言うと、彼はカントの道徳主義を激しく批判しているが、その批判に見られる人間把握の仕方は、じつはカントとも共通する極度に個人主義的、個体主義的な方法なのである。
右の引用で、彼は、一共同体の内部では、互いの間で同情や寛容や柔和や助け合いなどが一定の良俗として機能することを認めている。しかるに外部に向かうときには、「侵害すること、圧服すること、抑圧すること、厳酷なること、おのれ自身の形式を他に押しつけること、摂取同化すること」なる弱肉強食原理が露出するというのである。だが本当にそれだけだろうか。
たしかに戦闘状態や弱者を征服しようとしているその時点では、敵や被征服者に対してこうした容赦ない攻撃性を示さなくてはならない局面があるだろう。しかし人間のかかわりは、たとえ戦闘状態や征服の最中であっても、いつも単純に、そうした一個体から他の一個体への、一集団から他の一集団への侵害や圧服や押しつけといった一方的な作用だけで成り立っているだろうか。私は、こういうものの捉え方は、二重の意味で間違っていると思う。
第一に、他の個体や、異族に接する時、たとえ相手を力に任せてこちらの意のままにしてやろうと心の中で企んでいた場合でも、その目論みを目論みどおりにうまく実現するためにこそ、まずその他者や異族が何を望み、どんな性質の存在であるのかを理解しなくてはならない。そしてそのためには、最低限度の意志の疎通が必要となる。また、こちらの積極的な意思表示や行動が、相手の望みや性質にかなうものである、あるいは少なくとも我慢するのはやむを得ないと思わせる必要がある。人間と人間、集団と集団とのかかわりでは、むしろこういう心理的なさぐり合いと駆け引きと友好的な態度の表示が主要なはたらきを占めているのであって、いきなりの暴力的な侵害などは、むしろ例外的な事態に属する。長期にわたる賢明な征服者は、必ずこのことを心得ているものである。戦争の真っ最中である敵国どうしの首脳も、会談が成立すれば握手して抱擁するだろう。
第二に、戦闘状態や征服の最中であっても、同じ共同体の成員どうしの間では、同情(共感や友情や同志愛)、公正、柔和、助け合いなどの徳が現に作用している。いや、ともに戦うためにこそ意志や感情の結束が求められるのであり、内部における相互の同情や助け合いや信頼の精神に亀裂が走れば、その共同体はたちまち崩壊の憂き目にあうだろう。内部の秩序維持から外部への攻撃に関心が移るとき、ただ「同情と助け合いと信頼」の道徳から、戦士の征服本能へと一方的な転換が起きるのではない。前者を内部でより強く維持しつつ、まさにその力を活用して外部に対する後者の共同意思を構成するのである。じっさいにこのようにしなければ、内紛の危機に見舞われ、異族の征服という対外的な戦略自体がうまく機能しない。こういう人間力学を緻密に考えようとしないニーチェは、道徳否定の感情を性急に表現したいがために論理的な破綻をきたしているというべきである。
さてこれに続いてニーチェは『道徳の系譜』のなかで、この強弱、優劣の原理を軸にして、良心の疚しさや負い目の意識がどのようにして発生したかという「心理学」を語っている。要するに、本来は外に向かうべき力への意志が、現実世界で敗北し挫折したがゆえに(ユダヤ民族がその典型としてイメージされている)、その攻撃の矛先を自己自身の内部に向けたのが起源だというのである。
この「心理学」は、フロイトにも大きな影響を与えたようである。フロイトの「心的外傷による神経症」という発想は、圧倒的な外力(主として子どものエロス発動に対する親の立ちはだかり)による自己抑圧という力動的な心の過程に焦点を合わせている。これは、ニーチェが、良心に過度にさいなまれる人々を「神経病者」「精神の肺病病み」と呼んだこととよく符合する。
しかしこの考え方は人間をとらえる経路として適切だろうか。ここではフロイトには言及しない(私なりのフロイト批判は、『方法としての子ども』ちくま学芸文庫、『無意識はどこにあるのか』洋泉社などを参照していただければさいわいである)が、ニーチェの良心発生論は、人間の複雑な心の成り立ちを考えるにあたって、やはりある種の単純さ、粗雑さを免れていないように私には思える。というのは、彼の良心発生論は、ちょうど自然界にエネルギーの存在を仮定するのと同じように、「力への意志」の普遍的な先在をはじめから仮定しているため、その伸長のベクトルが抵抗や暴力に出会って折れ曲がるという物理的な比喩以上のものを出ていないからである。
私たちが良心の疚しさとか負い目の意識を持つとかいうとき、それは、具体的な人間関係への配慮に支えられている。本稿のはじめの方で記したように、私たちのうちに道徳的な意識が根付く根拠は、個人的には、愛の喪失に対する不安や、共同体から追放される恐怖に求められる。これは誰もが共通に持つ根拠であるために、いわば相互規定的である。だれもが相手(複数が作っている雰囲気でもよい)の気持ちを配慮しながら「なるべく嫌われたくない。できれば仲良くしたいものだ」と案じつつ接する。そこには、うまくいけば、相手からの永続的な承認や愛が得られるかもしれないという未来への期待感情も常に含まれている。これは幼児が親と関係する場合でも同じである。
つまり個の力(エネルギー)、生命力を伸長させていこうとする意志というような疑似実体的なものがはじめにあるのではなく、はじめにあるのは、どうやって関係づくりをしていこうかという不安なのだ。そしてこの不安ははじめにだけあるのではなく、よく親しんだ関係世界のただなかを生きていても、知り尽くした相手と日常的に接するときにも、新しい集団に参加しようとするときにも、自分が属している集団に異分子が加わってくるときにも、大なり小なり絶えず私たちにつきまとうのである。
そして、このいわば存在論的な意識に私たちは常につきまとわれているために、実際の生活において、借りを作ってしまったとか、きちんと支払えるかどうかわからないという感覚をどこかに伴わせて生きている。もちろん、この「借り」とか「支払い」という言葉を、実際の借金や決済の意味にとってもかまわないし、純粋に心理的な関係の磁場にはたらく作用と考えてもかまわない。いずれにしても、そういう日常的な配慮(不安)がまずあって、それが「良心」という関係対応のパターン(心の姿勢)を形成させる基盤となるのである。しかしこのことは必要条件であって十分条件ではない。
「良心」や「負い目の意識」が確固たるものとして根付くために要請されるのは、これもすでに述べたことだが、私たちがやがてばらばらに別離していく存在であることを自覚しているという事実である。私たちは人と関係を取り結ぶことによって、喜びを得たり苦しみを味わったりするが、この喜びはやがて終わってしまうことを知っているし、この苦しみは完全に贖ってはもらえないこともどこかでわきまえている。なぜなら行きがかりによって永久に別れてしまうかもしれないし、やがてはどちらかが先に死んでしまうからである。
つまり私たちは、少なくとも共生している間は、永遠に返済できないかもしれない借財をなるべく背負い込まないようにしようと互いに感じ合っているのである。この「死すべき存在」であることの自覚をまって、「良心」という心構えがようやく完成する。動物は自分がいつか必ず死ぬという自覚をもっていない。したがって動物には「良心」は存在しない。
我が国には「世間体」という面白い観念がある。個人主義の立場から見れば、こういう観念を気にするのはくだらないこととして軽蔑に値するのかもしれない。しかし、「世間」とは人間が関係しあう世界を端的に抽象した言葉であって、「体」とは、それぞれの実存を規定する基本的な形式のことである。どうあがこうと自分もまた「世間」の一員なのであり、その基本的な形式としての「体」を身に帯びざるを得ない。関係への配慮と無縁な「自由な個人」など存在しないからである。よって、「世間体」とは、まさに「良心」の主体的なあり方を客体化した表現なのである。馬鹿にすべきではない。
そして多くの人間づきあいを重ねていくうちに、この「良心」あるいは「負い目の意識」をだれもが抱えていることがほぼ確信できるようになったとき、そこに「信頼」という人倫の基本形式が生まれる。「良心」「負い目の意識」の遍在は、人間関係において「信頼」が成立していることの、個人的な表現なのである。
繰り返しを含むが、ニーチェの倫理思想で特筆すべき点を簡単にまとめておこう。この考え方は主として絶頂期に書かれた『善悪の彼岸』および『道徳の系譜』に顕著にあらわれている。
彼によれば、古代で徳とされたものは、本質的に集団の保持のための戦闘者、貴族のためのものであり、勇敢、自尊心、率先して危険に立ち向かう意志、人を率いる指導力、自己犠牲をいとわない精神、苦難に不平を言わず堪える力、劣弱な存在を堂々と軽蔑する心といったものであり、逆に、同情、やさしさ、柔和、利他、憐れみ、隣人愛、平等、女性的な心遣い、万人に分配される自由といった道徳項目はあまり問題にされなかった。たとえば彼にしては比較的穏健な調子で書かれている次の二つの引用を見よう。
(前略)たとえ、そこにすでに思いやり、同情、公正、柔和、助け合いなどが些少ながら絶えず行なわれているとしても、また、こうした社会状態において、やがては〈徳〉という敬称をもって呼ばれ、ついには〈道徳性〉という概念とほとんど一致してしまうような衝動のすべてが、すでにもう活動しているとしても、こんな状態の時期ではそれらはまだぜんぜん道徳的価値評価の範囲には入らない、――それらはまだ道徳外のものである。たとえば同情的な行為は、ローマの最盛期においては善とも悪ともいわれなかったし、道徳的とも不道徳的ともいわれなかった。そういう行為が賞賛されることがあっても、ひとたびそれが社会全体の振興、〈国家公共のことがら〉に役立つ何らかの行為と比較されるやいなや、その賞賛には上々のときといえども一種の不満げな軽侮の念がまつわりついた。結局のところ〈隣人愛〉は、隣人に対する恐怖に比べれば常に何らか副次的なものであり、いくぶんか慣習的な、気ままな見せかけのものである。(『善悪の彼岸』二〇一)
侵害、暴力、搾取を互いに抑制し、自己の意志と他者の意志とを同等に扱うこと、このことは、もしそのための条件が与えられてさえいるならば(すなわち、各人の力量や価値尺度が実際に似たりよったりで、しかも彼らが同一の団体のうちに共に属しているとすれば)、ある大ざっぱな意味において個人間の良俗となりうるであろう。だがこの原則を広くとって、できるならそのまま社会の根本原則とみなそうとするやいなや、ただちにそれは生否定への意志であり解体と頽落の原則であるというその正体を暴露するであろう。このことの理由についてわれわれは徹底的に考えすすめ、あらゆる感傷的な女々しさを寄せつけぬようにしなくてはならない。生そのものは本質において他者や弱者をわがものにすること、侵害すること、圧服することであり、抑圧すること、厳酷なることであり、おのれ自身の形式を他に押しつけること、摂取同化することであり、すくなくとも――ごく穏やかに言っても搾取することである。(中略)先に仮定されたように、その内部でも各個人が平等にふるまっている――これはすべての健全な貴族体制に見られるところだが――ような団体にしても、(中略)他の団体に対しては、おのが内部では各個人とも抑制しあっている一切のことを進んで行なわなければならない。その団体は権力への意志の化身であらねばならない。それは生長しようと欲し、周りのものへとつかみかかり、これをおのれの方へ引きよせ、圧服しようと欲するであろう。――これは何らかの道徳性や背徳性から出ることではなくて、それが生きているからこそであり、生こそは権力への意志だからである。(同二五九)
お分かりのように、ここでは概略次のようなことが言われている。
古典時代には、ある共同体の内部の統治者、支配者どうしの間では、互いに多少の自己抑制をはたらかせて、同情、公正、柔和、助け合いなどの感情や行動を示しはするが、それは特に「道徳」とはみなされず、それぞれが均衡を維持する必要からとられたやむを得ない手段にすぎなかった。彼らはじつは同情を軽蔑していた。ひとたび共同体の外部と相対するときには、または敵対者を倒すときには、それらはかなぐり捨てられて、本音がむき出しとなる。その本音とは生の本能的な拡張欲求であり、「力への意志」である。
ここには一応、利他的な道徳心が発動する以前の人間の生に対する現実主義的な視線が生きてはいる。ニーチェは、自己拡張欲求を人間をも含む生命体本来のものとみており、利他的な道徳は、あくまで人間だけが作り出したものであり、しかもそれは弱者の自己保存欲求から編み出されたものであると考えた。彼は、荒々しく暴力的な生の本能を表わすのに、「獅子」とか「猛獣」とか「金毛獣」といった比喩を好んで用いる。そしてこの比喩はまた、この世に支配者として君臨してきた戦士階級、貴族階級の精神にも適用される。これに対して道徳によって馴致され惰弱化した人間どもは、「畜群」であり「羊」であり「奴隷」である。
ニーチェにとって一番我慢がならなかったのは、世界が力と力のぶつかり合いであるという現実を、同情道徳や隣人愛道徳によって隠蔽しようとするその欺瞞性であろう。ちなみにこの道徳批判の意志は、ちょうど「お互いの思いやりや信頼」に過度に依存するわが日本の戦後社会、特に国際外交のだらしない姿勢に適用するとき、見事に当てはまると言える。まさしく現在の国際社会は、やくざ化した力と力のぶつかり合いにほかならないのに、お人好しの日本人の多くは、相変わらずそのことを実感しようとしないからである。こうした意味では、彼のこだわりとこの精神様式を援用する人たちには、一定の妥当性があると認めざるを得ない。
すでに述べたように、ニーチェは、カントが「善と快、徳と福」の二項対立原理で倫理や道徳の問題を押さえようとしたのに対して、「優と劣、強と弱」の対立原理を対置した。この対置は、倫理学の発展史という観点からすれば、落とすことのできない重要な相対化の試みだった。キリスト教道徳に限らず、「よい」の概念を道徳的な「善」の概念にのみ限定して理想化することは、私たちの現世における自己充実と幸福感情と矜持、優れたものへの正しい評価やそれに向かっての実現の意欲といったものに対する抑圧に帰着するからである。
しかし、ニーチェのこの考え方には、いくつかの論理的な欠陥がある。そしてそれらの欠陥は、彼の人間把握の仕方そのものに根本的な誤りがあることにもとづいている。結論を先回りして言うと、彼はカントの道徳主義を激しく批判しているが、その批判に見られる人間把握の仕方は、じつはカントとも共通する極度に個人主義的、個体主義的な方法なのである。
右の引用で、彼は、一共同体の内部では、互いの間で同情や寛容や柔和や助け合いなどが一定の良俗として機能することを認めている。しかるに外部に向かうときには、「侵害すること、圧服すること、抑圧すること、厳酷なること、おのれ自身の形式を他に押しつけること、摂取同化すること」なる弱肉強食原理が露出するというのである。だが本当にそれだけだろうか。
たしかに戦闘状態や弱者を征服しようとしているその時点では、敵や被征服者に対してこうした容赦ない攻撃性を示さなくてはならない局面があるだろう。しかし人間のかかわりは、たとえ戦闘状態や征服の最中であっても、いつも単純に、そうした一個体から他の一個体への、一集団から他の一集団への侵害や圧服や押しつけといった一方的な作用だけで成り立っているだろうか。私は、こういうものの捉え方は、二重の意味で間違っていると思う。
第一に、他の個体や、異族に接する時、たとえ相手を力に任せてこちらの意のままにしてやろうと心の中で企んでいた場合でも、その目論みを目論みどおりにうまく実現するためにこそ、まずその他者や異族が何を望み、どんな性質の存在であるのかを理解しなくてはならない。そしてそのためには、最低限度の意志の疎通が必要となる。また、こちらの積極的な意思表示や行動が、相手の望みや性質にかなうものである、あるいは少なくとも我慢するのはやむを得ないと思わせる必要がある。人間と人間、集団と集団とのかかわりでは、むしろこういう心理的なさぐり合いと駆け引きと友好的な態度の表示が主要なはたらきを占めているのであって、いきなりの暴力的な侵害などは、むしろ例外的な事態に属する。長期にわたる賢明な征服者は、必ずこのことを心得ているものである。戦争の真っ最中である敵国どうしの首脳も、会談が成立すれば握手して抱擁するだろう。
第二に、戦闘状態や征服の最中であっても、同じ共同体の成員どうしの間では、同情(共感や友情や同志愛)、公正、柔和、助け合いなどの徳が現に作用している。いや、ともに戦うためにこそ意志や感情の結束が求められるのであり、内部における相互の同情や助け合いや信頼の精神に亀裂が走れば、その共同体はたちまち崩壊の憂き目にあうだろう。内部の秩序維持から外部への攻撃に関心が移るとき、ただ「同情と助け合いと信頼」の道徳から、戦士の征服本能へと一方的な転換が起きるのではない。前者を内部でより強く維持しつつ、まさにその力を活用して外部に対する後者の共同意思を構成するのである。じっさいにこのようにしなければ、内紛の危機に見舞われ、異族の征服という対外的な戦略自体がうまく機能しない。こういう人間力学を緻密に考えようとしないニーチェは、道徳否定の感情を性急に表現したいがために論理的な破綻をきたしているというべきである。
さてこれに続いてニーチェは『道徳の系譜』のなかで、この強弱、優劣の原理を軸にして、良心の疚しさや負い目の意識がどのようにして発生したかという「心理学」を語っている。要するに、本来は外に向かうべき力への意志が、現実世界で敗北し挫折したがゆえに(ユダヤ民族がその典型としてイメージされている)、その攻撃の矛先を自己自身の内部に向けたのが起源だというのである。
この「心理学」は、フロイトにも大きな影響を与えたようである。フロイトの「心的外傷による神経症」という発想は、圧倒的な外力(主として子どものエロス発動に対する親の立ちはだかり)による自己抑圧という力動的な心の過程に焦点を合わせている。これは、ニーチェが、良心に過度にさいなまれる人々を「神経病者」「精神の肺病病み」と呼んだこととよく符合する。
しかしこの考え方は人間をとらえる経路として適切だろうか。ここではフロイトには言及しない(私なりのフロイト批判は、『方法としての子ども』ちくま学芸文庫、『無意識はどこにあるのか』洋泉社などを参照していただければさいわいである)が、ニーチェの良心発生論は、人間の複雑な心の成り立ちを考えるにあたって、やはりある種の単純さ、粗雑さを免れていないように私には思える。というのは、彼の良心発生論は、ちょうど自然界にエネルギーの存在を仮定するのと同じように、「力への意志」の普遍的な先在をはじめから仮定しているため、その伸長のベクトルが抵抗や暴力に出会って折れ曲がるという物理的な比喩以上のものを出ていないからである。
私たちが良心の疚しさとか負い目の意識を持つとかいうとき、それは、具体的な人間関係への配慮に支えられている。本稿のはじめの方で記したように、私たちのうちに道徳的な意識が根付く根拠は、個人的には、愛の喪失に対する不安や、共同体から追放される恐怖に求められる。これは誰もが共通に持つ根拠であるために、いわば相互規定的である。だれもが相手(複数が作っている雰囲気でもよい)の気持ちを配慮しながら「なるべく嫌われたくない。できれば仲良くしたいものだ」と案じつつ接する。そこには、うまくいけば、相手からの永続的な承認や愛が得られるかもしれないという未来への期待感情も常に含まれている。これは幼児が親と関係する場合でも同じである。
つまり個の力(エネルギー)、生命力を伸長させていこうとする意志というような疑似実体的なものがはじめにあるのではなく、はじめにあるのは、どうやって関係づくりをしていこうかという不安なのだ。そしてこの不安ははじめにだけあるのではなく、よく親しんだ関係世界のただなかを生きていても、知り尽くした相手と日常的に接するときにも、新しい集団に参加しようとするときにも、自分が属している集団に異分子が加わってくるときにも、大なり小なり絶えず私たちにつきまとうのである。
そして、このいわば存在論的な意識に私たちは常につきまとわれているために、実際の生活において、借りを作ってしまったとか、きちんと支払えるかどうかわからないという感覚をどこかに伴わせて生きている。もちろん、この「借り」とか「支払い」という言葉を、実際の借金や決済の意味にとってもかまわないし、純粋に心理的な関係の磁場にはたらく作用と考えてもかまわない。いずれにしても、そういう日常的な配慮(不安)がまずあって、それが「良心」という関係対応のパターン(心の姿勢)を形成させる基盤となるのである。しかしこのことは必要条件であって十分条件ではない。
「良心」や「負い目の意識」が確固たるものとして根付くために要請されるのは、これもすでに述べたことだが、私たちがやがてばらばらに別離していく存在であることを自覚しているという事実である。私たちは人と関係を取り結ぶことによって、喜びを得たり苦しみを味わったりするが、この喜びはやがて終わってしまうことを知っているし、この苦しみは完全に贖ってはもらえないこともどこかでわきまえている。なぜなら行きがかりによって永久に別れてしまうかもしれないし、やがてはどちらかが先に死んでしまうからである。
つまり私たちは、少なくとも共生している間は、永遠に返済できないかもしれない借財をなるべく背負い込まないようにしようと互いに感じ合っているのである。この「死すべき存在」であることの自覚をまって、「良心」という心構えがようやく完成する。動物は自分がいつか必ず死ぬという自覚をもっていない。したがって動物には「良心」は存在しない。
我が国には「世間体」という面白い観念がある。個人主義の立場から見れば、こういう観念を気にするのはくだらないこととして軽蔑に値するのかもしれない。しかし、「世間」とは人間が関係しあう世界を端的に抽象した言葉であって、「体」とは、それぞれの実存を規定する基本的な形式のことである。どうあがこうと自分もまた「世間」の一員なのであり、その基本的な形式としての「体」を身に帯びざるを得ない。関係への配慮と無縁な「自由な個人」など存在しないからである。よって、「世間体」とは、まさに「良心」の主体的なあり方を客体化した表現なのである。馬鹿にすべきではない。
そして多くの人間づきあいを重ねていくうちに、この「良心」あるいは「負い目の意識」をだれもが抱えていることがほぼ確信できるようになったとき、そこに「信頼」という人倫の基本形式が生まれる。「良心」「負い目の意識」の遍在は、人間関係において「信頼」が成立していることの、個人的な表現なのである。
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