小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家たち・日本編シリーズ(11)――山本定朝(1659~1719)

2017年12月16日 13時22分28秒 | 思想



 山本定朝は、言わずと知れた『葉隠』の著者です。『葉隠』といえば条件反射のように「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」という一句が思い浮かぶでしょう。この一句が独り歩きして、この書が、直面する死そのものに対する潔い心構えを説いているかのような理解がいまだにまかり通っているようです。
 しかしこの書の中身はそのようなものではなく、むしろ奉公人としての日常をいかに耐え、うまく生き抜いて人の上に出るかという処世哲学を説いたものです。厳しい制度や禁圧、武家社会のしきたりや組織内の内訌のただなかで、どうすれば立派な公務をまっとうできるかについて、繊細な配慮と知恵をめぐらせた書なのです。その意味では、「武士道といふは、生きることと見付けたり」とひっくり返して表現することさえできます。早い話が、問題の一句が登場する条を引用してみましょう。

《武士道といふは、死ぬことと見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当るやうにわかることは、及ばざることなり。我人、生きるほうがすきなり。多分すきの方に理が付くべし。若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危ふきなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違いなり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。》(聞書第一・二条)

 意訳します。
「武士道というのは結局のところいつも死ぬ覚悟で事に臨むということだ。大事においてどちらか選ばなければならない時は、この覚悟にふさわしい方を選ぶにかぎる。別に深いわけはない。腹を決めて一気に進むだけのことだ。目的が達せられないまま死んだら犬死だなどというのは、上方風のうわずった武道であろう。大事においてどちらかを選ぶ場面で、目的が達せられるかどうかなどわからない。誰でも生きようとするから、理屈はそちらの方にいくらでもつけられるだろう。しかし初めから生き残ることを当て込んで目的を達せられなかったら、それはへっぴり腰だったということになる。だからこの構えではダメなのだ。逆に目的を達せずに死んだら犬死だの無謀だのと言われるかもしれないが、恥をかいたということにはならない。恥をかかないことこそが男の道だ。日が改まるごとに死んでは生まれ変わる気になって、いつも必死で事に臨む。これが真の武道の心得であって、そこから自由が生まれてくる。これをたえず続ければ一生誤ることなく、奉公の使命を果たせるのである。」
 最終部分でわかるように、これはどのような心構えで主君に仕えればよいかという基本原理を説いたもので、決して死それ自体を目指すことを良しとするのでもなければ、ましてや死の賛美などではありません。ひたすら命を捨てる覚悟で己れに与えられた職分を果たせと言っているのです。
 またこざかしい分別などは邪魔もので、こうと決めたらまっしぐらに進めと述べている条もありますが、一方では、川の深さを測りもしないで遮二無二わたってもダメで、主君の傾向や時の流れをよく見極める必要がある、無分別に奉公に乗り気になっても役に立たず身を滅ぼすだけだとも述べた条もあります。これなどは、明らかに、主君にうまく仕えて出世するための戦略を述べたものです。
 従来『葉隠』の記述には矛盾が多いと指摘されています。狂い死にや狂気を推奨したかと思えば、一方では、会議中のあくびを抑える方法や青白い顔を見せないための紅粉の具備の必要など、細かな「見栄」の重要性を強調していますし、組織の悶着や不当な圧力をいかに切り抜けるかを説いてもいます。
 また今の時代(元禄~享保年間)が平和が続いて堕落しているからといって時代を逆行できないのだから、「昔はよかった」などと嘆いてもはじまらない、今の若者だって何かことがあれば毅然と立つだろうと、至極もっともなことを唱えていますが、他方、服装だけでなく生理構造まで女性化した男、たるんだ精神、私利私欲ばかり求める今の風潮に対して、随所で苦言を呈しています。
 さらに一心不乱に勤めに精を出すことを勧める一方で、短い人生だから好きなことをして生きるのが一番で、自分は寝るのが好きだといった「享楽主義」のようなことを披露しているくだりもあります。
 これらの矛盾を問題視する人は、人生に矛盾はつきものだからそこにこそ人間的面白さを感じると言ってみたり、『葉隠』は、田代陣基(隠棲していた定朝のもとを訪れた二十歳年下の後輩)による七年間にわたる聞書きなのだから矛盾が出てくるのも当然だと解釈したりして、何とか辻褄合わせを試みます。
 しかしこの書の基本原理を右のように押さえておけば、さほど矛盾自体を問題視する必要がないことがわかるはずです。たとえば狂い死にの推奨は、初めのほうにしか出てきません。「死に物狂い」という言葉があるように、これはやはり先の引用部分と同じで、奉公において貫くべき内なる基本精神をレトリカルに述べたものでしょう。

 またこのこととつながるのですが、定朝が鍋島藩二藩主光茂に初めて仕えたのは、関ヶ原の戦いから七十年以上後のことでした。以来御側役として三十年間勤め上げ(途中少しの中断あり)、ちょうど関ヶ原以後百年経った時に光茂が死去します。定朝はかねてより追腹を切る覚悟でしたが、光茂自身が生前、全国に先駆けて追腹禁止令を出しており、やむなく剃髪して隠遁の道を選びます。『葉隠』の口述はそれから十年後に始まっています。
このように、定朝の生きた時代は戦乱が終わって平和が続き、都市が栄え華美な風俗が流行した時代です。戦国時代を懐古して戦闘を本領とする武士の現在の手持ち無沙汰をかこっても仕方がない。しかし柔弱に流れる今の風俗に武士がそのまま染まって基本精神を忘れてしまうのでは困る。平和の時代にはそれに合った緊張感の維持の仕方があるはずだ。統治を担う武士がそれをしっかり身につけずに一体誰が世を引き締められるか。型を守ること、下世話に言えば恰好をつけること、それがいまの武士道だ。だから紅粉も必要なのだ――これがおそらく定朝の本当に言いたかったことでしょう。
 さらに、最後の「享楽主義」的な表白には、若い者にはこれは秘密にしておくべき奥の手だが、という但し書きがついています。これもすでに年季を積んだ定朝にしてみれば、こせこせと小役人風に義務をこなして一生を終えるのではつまらない、どうせなら家老にまで出世して、主君に対してはばからず自由かつ適切に諌言できる地位を確保した上で、好きなことをできる境地を得たいものだという理想を語った言葉でしょう。
 「寝るのが好き」という言葉には、激しい行動への情熱を発揮することの叶わない時代に生まれてきてしまった自分へのアイロニーが込められており、事に臨んで豪傑の吐く「どれ、昼寝でもするか」という逆説的な言葉によく似ています。
 こうして『葉隠』は、命を顧みず主君のために闘うという武士本来の精神を、平和な時代にそのまま反映させるにはどうすべきかという屈折した心境がなさしめた作品です。それは言い換えれば、定朝が己れ自身を立たせ、後続の者をも立たせようとする曰く言い難い苦心の跡だとも言えましょう。そこに論理的矛盾などを見るのはつまらないことです。

 改めてこの大著の全貌を概観してみると、全体は「漫草」という陣基の短いはしがきのあと「夜陰の閑談」という序説、以下、十一の「聞書」よりなっています。聞書の第一第二は定朝自身の教訓と箴言、第三から第五までは藩祖・直茂、第一代藩主・勝茂、第二代藩主・光茂、第三代藩主・綱茂の言行録その他、第六から第九までは鍋島藩士の逸話、第十第十一は他藩の武士の情報や逸話です。
 従来、第一と第二に関心が集められてきましたが、この部分は、量的には全体の約五分の一を占めるにすぎません。もちろんここに鋭い言葉が多く集められているのは当然ですが、他にも注目すべき断章があるので、そちらにも少し目を配ってみましょう。
 「夜陰の閑談」にはこの著作の基本モチーフがすべて出ていますが、その中に、初代藩主・勝茂公が家の存続のために並々ならぬ苦労をされたことを縷々述べた後、次のようなくだりが出てきます。なお文中、「御上」は綱茂の跡を継いだ四代目当主・吉茂のことを指します。

《されば、憚りながら御上にも、(中略)せめて御譲りの御書き物なりとも御熟覧候て、御落ち着き遊ばされたき事に候。御出生候へば、若殿若殿とひやうすかし立て候に付いて御苦労なさる事これ無く、国学御存じなく、我儘のすきの事ばかりにて、御家職方大方に候故、近年新儀多く、手薄く相成り申す事に候。斯様の時節に小利口なる者共が、何の味も知らず、知恵自慢をして新儀を工み出し、殿の御気に入り、出頭して悉く仕くさらかし申し候。》

 これは要するに現政権への激しい批判です。発覚したらまず命はなかったでしょう。定朝は自ら期するところを秘中の秘として陣基に口伝し、自分の死後は焼き捨てよと命じています。諌言することこそ家臣の務めだと説いているのも気にかかります。それは命懸けだそ、という含みが感じられます。『葉隠』という題名には、権力批判・体制改革を若年者に託すという意図も込められていたでしょう。
 さて聞書の内容ですが、初めにも述べたように、これはうまく出世するための巧妙な知恵を細部にわたって説いたものです。それも利権目的ではなく、あくまでも主君のお側で真の奉公を果たすための出世の勧めです。
 周りに群がる愚物どもからいかに抜きんでて主君の心を有効に動かすか。そのための命懸けであり、死に狂いでした。権力を取らなければ主君を動かせないからです。これがおそらく定朝の一番の狙いだったでしょう。そこには観念的な哲学や倫理学はみじんもなく、きわめてプラクティカルな行動指針しかありはしません。
 必要なとき以外は余計なことを言わないこと。むやみに事を荒立てないように仲裁に意を尽くすこと。談合の重要な意義。争議に勝つには下の身分の者にも自分の意見を述べ、独善に陥らないようにすること。口論では、まずは相手に折れてみせて存分にしゃべらせ、ぼろを出したところを狙って思いの丈を語ること。その道に長けた者がこだわりなく周りの素人に自分の仕事の評価を求める謙虚な態度の推奨。律儀・正直ばかり考えたのでは心が縮こまるから時にはほらを吹いて気張った構えを示すことが武士には必要だ等々。
 総じてこの書は、相手の心を読む心理学や、寛容の精神の大切さ、人間関係を円滑に運ぶためのデリカシーや思いやり、日ごろの処世の心得などについての記述に満ち溢れています。「情けは人の為ならず」を地で行くような書です。
 たとえば、相手の欠点を直すには直接指摘せず、自分にはこういう欠点があってどうにもうまく直せない、どうしたらよいかと相談する。すると相手も、自分にも同じ欠点があると応じるから、それではお互い気をつけて一緒に直して行こうと持ちかければ、うまく行くだろう、と。
 また諌言は自分がその地位に適さない時は控えて、上司にやらせるよう日ごろから人間関係に気を配っておくべきだ、と。さらに武士の不祥事には切腹の措置をすぐに決めずに、慎重にも慎重を期し、四段構えで行くべきだと自ら進言した話もあります。
 また紹介されている逸話の中にいくつも寛容や思いやりを尊ぶ話が出てきます。
 たとえば助右衛門という侍が、刃傷沙汰を起こして逃げてきた縁者をかくまった時、差し出せとの命令に応じず、武士の一分に関わるとしてどこまでも守り、死罪になどしないということを重々確認してから差し出したという話。
 またある賢君が、武士の拷問をやめさせるために一計を案じて愛鳥をわざと逃がし、家老たちに鳥の世話役を拷問にかけよと命じて嘘の白状を引き出し、その後真相を暴露して、武士は拷問にかけられること自体を恥として嘘もつくのだから、恥をかかせてはいけないと諭した話。
 その他、「諌言意見は和の道。熟談にてなければ用に立たず」とか、忠節にあまりに熱心になると反対給付を求めるようになり、それが得られないと反逆心が生じるから、それくらいなら忠節などないほうがましだとか、奉公はどんなに辛くても今日一日すると思えばこらえられるとか、身分不相応な贅沢は慎むべきだが倹約は義理を欠くから若者に勧めるべきではないとか、若いうちの出世は長持ちしないので、ゆっくり進んで五十歳くらいに完成するのがよいなど、じつに含蓄の深い処世訓がちりばめられています。
 これらの言葉は、ほとんどが、長く生き抜くことにとってのバランスを重んじたものであり、情熱を暴発させるのとはまったく反対といっていいでしょう。時間に耐え、関係に耐え、しぶとくじっくりと真の奉公人としての自己完成を目指すこと、それが定朝の時代の「武士道」だったのです。
 盛徳院死去の折、光茂公から追腹禁止の使令が出されましたが、追腹を決めていた人たちは誰もが禁止令に従うのに躊躇していました。その時、末座から石丸采女という若侍が一人敢然とこう言ったということです――《若輩者の推参に候へども、御意の趣ごもつともに仕り候。私儀山城殿の座を直し候者に候へば、一途に追腹と存じはまり候へども、殿様御意を承り、その理に詰り候上は、面々はともかくも、某に於ては追腹存じ留り、世継に奉公仕るべく候》。
 これを陣基に書き留めさせた定朝は、世の移り行きをかみしめつつ、何とも複雑な思いに浸ったに違いありません。若侍・采女の勇気ある態度に感銘を受けながら、ああ、時代は変わったのだ、これからはいかに平和をしぶとく賢く生き抜くかに武士としての本分を尽していくべきなのだなあ、という感慨に身を浸したことでしょう。



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