小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源39

2014年07月13日 22時48分52秒 | 哲学
倫理の起源39




3.家族

 家族とは、性愛的な共同性が、それにかかわる個体の生の時間に見合うだけの「ふくらみ」をもち、そのことによって、社会制度上の一単位としての意義・資格・権利を獲得するに至った共同性である。
 この意義・資格・権利を獲得することにとって、次世代(子ども)の誕生と生育という事実が大きな力を示すが、それは、ある性愛的な共同性が「家族」と名指されることにとって絶対の必要条件というわけではない。特定のカップルについて婚姻という形での社会的承認が成立すれば(これも必ずしも法律上の承認を不可欠とするわけではない)、そのとき、この婚姻という観念の中に、次世代を生み出す可能性がすでに繰り入れられてある。言い換えると、子どもが実際に生まれない夫婦でも、それが周囲から夫婦として承認されていれば、その承認の観念のうちに、次世代を孕むという条件が潜在的に含まれているのである。というのは、次の理由による。
 婚姻とは、一人の性愛の相手と生活を共にするという「心情の契約」のことであり、この「心情の契約」は当事者のみならず、その相互の身体の排他的な占有を周囲もまた認めるところに成り立つ。そこで、この契約のうちには、生活の長きにわたる共同からおのずから生ずる事態がすべて織り込まれているのである。婚姻が認められたということは、「あなた方は子どもを産んでもいいですよ」と言われたことと等しい。
 では、家族共同体の内在的な人倫性とはいったい何だろうか。これを考えるためには、「夫婦関係を軸とする家族の共同性」が、どういう条件のもとに維持されるかということを押さえておく必要がある。これには次の三つが考えられる。

 ①夫婦を構成する男女が、相手を自分の妻、自分の夫として一定の時間認知し続けること。
 ②子どもが生まれた時、その養育の責任を両親が共通に担うこと。
 ③その家族の内部で、夫婦以外の肉体的な性関係が公式的に禁止されていること(インセスト・タブーの維持)。


 これらはすべて必要な条件であって、どれかひとつが破られた場合には、いずれの場合にもその家族は崩壊する。それぞれについて説明を加える。

 ①について。
 この条件が成り立つために最も重要なのは、上に述べた、「心情の契約」としての排他的な身体の相互占有が守られることである。逆に言えば、不倫や浮気が発覚した時、夫婦関係は容易に破綻しうる。しかし不倫や浮気という「事実」そのものは、それだけとしては①の条件の破壊に必ず結びつくわけではない。発覚しなければ(よいと言っているわけではないが)、「知らぬが仏」で夫婦関係は維持されることがあるし、またたとえ発覚したり、配偶者が気づいていたとしても、他の条件しだいでは、「家族の崩壊」に結びつかないことがありうる。たとえば、子どもが幼かったり経済力がないので不倫された側が我慢するとか、心情的には破綻しているのに、社会的なメンツや利害などを考慮して形式的に夫婦関係を保ち続けるとか、「もう決してしない」と誓ったので許すとか……。
 また逆に、不倫や浮気のような外部要因がなくとも、①の条件はいくらでも危機の可能性を含んでいる。性格や価値観の不一致、性の不一致、飽き、貧困など。

、②について。
 昔から「子はかすがい」と言われるように、子どもの養育は夫婦の共同事業である。家族の外側の社会は、この責任を当事者に課すことによって、それぞれ個体の生命の限界を超えた社会それ自身の連続性を確保する。子どもの養育は、両親の愛情によって支えられるが、この愛情の持続的な積み重ねが、結果的に子どもを一人前の社会人にまで育てる義務を果たすという親の人倫性を成就させるのである。
 なお、夫婦関係が壊れて片親になっても、養育責任を果たすことはできるし、いっぽうがとんでもない親なら、別れた方が子どもにとってもよっぽど幸せだといったことはもちろんありうる。そういう場合は、「家族の崩壊」とは必ずしも言えない。しかし、先に断ったように、これは、「夫婦関係を軸とする家族の共同性」としてはいったん崩壊して、そののち別の形で再構築されているのである。

 ③について。
 インセスト・タブーが守られることは、当然のように考えられているので、ふつうこの問題はあまり俎上に上らない。しかし、じつはこの条件は、家族共同体がその面目を維持することにとって核心をなしているのである。ソフォクレスの『オイディプス王』は、図らずもこのタブーを犯してしまった王の悲劇をテーマとしている。
 そもそもあることが公式的にタブーとされるという事実は、現実にはそれが行われていることを意味している。そうして、人類がそれを公式的には禁圧しなくてはならなかった背景には、社会を維持するための何らかの知恵がはたらいていることを示している。
 かつて1970年代から80年代、文化人類学で、なぜインセスト・タブーが成立したのかという問いが大きなテーマとされたことがあった。その折、構造主義人類学のレヴィ=ストロースの説が流行した。それによれば、「部族間における交換財としての女」の価値をキープしておくために、部族内の女には手を付けないことにしたというのである。この説は、部族社会の族外婚ルールを説明するには適しているが、インセスト・タブーそのものを説明する説としては、いくつかの難点がある。いまこれについては詳しく触れないが、一例を挙げれば、この説は、いかなる社会・文化にも存在する母子相姦禁制の理由を説明しない(拙著『可能性としての家族』ポット出版参照)。私はこれに自説を対置した。
 私の説は単純である。インセスト・タブーが公然と破られるとどうなるかを考えてみればよい。そもそも家族とは、性愛関係と親子関係とを縦横の軸とした、相互の関係を社会的に認知する構造であって、それ以外ではない。誰それは私の父、誰それは私の妹、というように。
 近親相姦がもし公認されれば、この縦横の軸のしくみは端的に壊れる。オイディプスの母・イオカステは、同時に彼の妻である。その間に子どもが生まれれば(事実神話では生まれたことになっているが)その子が女なら、イオカステという共通の母から見た場合、その子はオイディプスの妹であるが、同時に、彼はその妹の父でもあるのだから親子関係もそこに重ね合わされている。
 こうした錯雑した認知の乱れが放置され、さらに拡張されていけば、「家族」関係(同時に親族関係)の共通了解そのものが成り立たないことになる。この共通了解が成り立たなければ、「世代」という概念自体が意味をなさず、物的精神的なあらゆるものを含めた世代から世代への「継承」ということが成り立たない。もちろん、①の夫婦関係の持続も壊れるし、②の養育責任の所在もわからなくなる。つまり文化秩序、社会秩序そのものが崩壊するのである。そのことが無意識に悟られていたために、人類社会では、タブーの範囲に差はあれど、どこでも必ず禁止規則が敷かれてきたのである。

 以上のように、三つの基本条件がそろうことによってはじめて家族の共同性の維持が保証される。
 なお、ここで必須条件として挙げなかった点、たとえば、同居とか家計の共同などは、大切な条件ではあるが、必ずしも必須とは言えない。長期の単身赴任や遠洋航海などでメンバーがバラバラであっても家族関係は維持されうるし、一家族の中に働き手が複数いれば、家計を分けたからと言って関係が希薄化するとは限らず、その取り決めがメンバーにとって満足のいくものなら、十分に温かい家族関係を保つことができる。要は、相互認知の観念をどこまでキープできるかにかかっているのである。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (もういちどask)
2014-07-14 19:17:24
こうやって立て続けにこのモチーフの記事をアップされると、何か挑発されているような侮辱されているような心地で、こちらも引っ込みがつかなくなってしまいます。
あなたがただの趣味の手慰みでこういうことをされているのなら、僕も何もいいません。
でも、あなたにとって思考することは「ことばの闘い」であり真剣勝負のいとなみだということであれば、おたがいの身分や人格や感情を大切にするとかしないという以前に、「何が真実か」ということに迫ることこそもっとも切実な課題であるはずです。
嫌がらせをしているつもりはありません。とにかく真実を探りたくて、僕なりに精一杯の問題を提起をしてきたつもりです。あなたがほんとにそうお感じになるのなら、おまえのいうことなんか論理になっていないよ、と軽くあしらってくれてもいいのです。
あんまり自己宣伝をしたくないからいいかげんな名前を使ってきたけど、ここで返信したくないのなら、あなただろうとあなたのお仲間だろうと、「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」という僕のブログを荒らしにきてくれてもけっこうなのです。真実に向けた新しい展開や発見のためなら、喜んで反論に応じます。
とにかく大切なことは、「何が真実か」ということです。

というわけで、「家族」という集団の本質的な共同性=倫理とは何かということ、まだいまいち納得できないものがあります。
「家族」という概念とは何かというのなら、文字通り「家」という空間で一緒に暮らしている集団だとさしあたっていえるのでしょう。
あなたはここで一夫一婦制を前提というか基本にして語っておられるけど、世の中には一夫多妻制の家族もあれば母子家庭の家族もあれば、まるで血のつながりのない人たちが一つ屋根の下で暮らしている家族もあります。
血のつながりを持った家族に血のつながりのないものがひとり紛れ込んでいたら、そのものは家族とみななされるか、ということだって倫理の問題でしょう。僕は、血のつながりよりも「一緒に暮らしている」ということこそ家族の本質だと思っています。
したがって「父親」とか「母親」とか「夫」とか「妻」という概念がよくわかりません。世間には自分の配偶者のことをよく夫とか妻といわないで「同居人」といったりする人がいるが、その気持ちはよくわかります。僕だって、自分の女房なんか、目の前の一緒に暮らしている女、ということ以上のことはよくわかりません。自分の母親だって、母親というより一人の女だとして見てきたのかもしれません。

そして、家族は性愛(エロス)の衝動の上に成り立った場である、というのは違うと思います。そこが吉本対幻想のいちばんだめなところだと思っています。一緒に暮らしていれば、だんだん性衝動は減衰してくるのです。夫婦だって、だんだんセックスしなくなってゆく。恋人どうしの方がずっと熱心にセックスしている。猿や犬だって一緒だろうと思うが、一緒に暮らせば性衝動は減衰してくるのです。したがって人間の自然状態において「インセスト・タブー」などというものは存在しないのです。人類はまず「インセスト・タブー」を設定して家族の歴史を始めたかというと、そうじゃない。歴史のはじめにおいては、近親相姦などというもの存在しなかった。だから、家族どうしや集団どうしで「女を交換する」という習俗が生まれてきた。というかそれはもう、猿の時代から緩慢なかたちにせよ機能してきたことです。

「一緒に暮らす」集団である家族では、性衝動は減衰してゆくが、他者の生存のためにわが身を差し出す「もう死んでもいい」という感慨が深くなる。これによって「家族」という集団が成り立っているのであって、エロスの衝動の上に成り立っているのではない。
「結婚は人生の墓場なり」などというが、それは一面の真実です。女は、「もう死んでもいい」という勢いで出産・育児という難事業を果たしてゆく。人間は「もう死んでもいい」という感慨から生きはじめ、「もう死んでもいい」という感慨にたどり着いて死んでゆく。
まあ、吉本さんの「死の位相学」も、そこのところを徹底的に探求すれば読む値打ちもあるのだが、そこのところの探求はどうしようもなくちゃちだった。隔靴掻痒で、ほんとにいらいらさせられる本だった。まあ「死ぬのは怖くてもいいんだよ」というのがあの人の口癖ですからね、そんな探求ができるはずもない。そこのところであの人はもう、思考停止していた。そこのところは、夏目漱石のほうがずっと本格的に格闘して考えていた。
それはともかくとして、「家の中で一緒に暮らしている集団」というのが「家族」の定義であって、「世代」の問題なんか二の次でしょう。誰もが「世代」という意識で家族をいとなんでいるわけではない。「今ここ」の「一緒に暮らしている」という事実によってもたらされる家族意識がある。つまり、家族のためなら「もう死んでもいい」という気になれるということ、そういう気になれるから、人類社会に家族という制度が定着していったのでしょう。「世代」という目的意識なんかじゃない。それはあくまで共同体の制度性から要請されている問題です。
家族は、共同体の一部として挿入されている場であると同時に、共同体の制度支配からの避難場所でもある。だから、法の論理が成り立たない側面も持っている。
共同体は「生きのびる」ための装置であるが、それでも人の心は自然状態において「もう死んでもいい」というところから華やいでゆく。そうやって死の瞬間の心の華やぎというか恍惚が体験される。だから、特攻隊や自爆テロや焼身自殺ということも起きてくる。中学や高校の教室で手首を切るという行為が流行したりすることだって、ひとまずそういう体験でしょう。人間というのはそういうやっかいな生き物だということ。
家族は、人間の「もう死んでもいい」という感慨を死守している場です。エロスの衝動が減衰してゆくことを支払ってでも、人はその感慨を死守しようとする。
かんたんに「性愛の場である」などといってもらっては困ります。

世の中にはいろんな形態の「家族」があるが、ひとまず一夫一婦制の家族にしぼって考えるなら、その起源は、女と男が持続的固定的な性愛関係の「契約」を結んだところにあるのではないですよ。そんな「アダムとイブ」の関係が起源であるのではない。
その家族形態まず、母子関係の集団としてはじまった。だから、古代以前はすべて母系社会だった。そのとき女たちは、父親なんか誰かわからない子を産んでいたのです。
人類が最初に「家」という構造物を積極的に建てるようになってきたのは、おそらく氷河期明け以降のことでしょう。氷河期のネアンデルタールやクロマニヨンは洞窟の中などで集団生活をしていた。そこでは寒さのために半分以上の乳幼児が死んでしまう環境だったが、氷河期が明けて気候が温暖になり、子育ての歩留まりが飛躍的に向上した。そうなると、女は、自分で子を育てようとする。その子育ての場として、「家」がどんどん建てられていった。これは、日本の縄文時代でも同じです。
で、そのころ男たちはどうしていたかといえば、そうした女系社会の外を衛星のようにうろつきながら、不特定多数の女とセックスしていた。そのころの男はまだ「家族」の一員ではなかったのです。しかし共同体が発生して制度支配が発展してくると、どうしてもそこからの避難場所がほしくなってくるし、女たちが引き寄せたということもあって、その子育て家族に寄生してゆくようになっていった。
夫=父親は、基本的本質的に「家族」の闖入者なのです。だから西洋では、根強く「父殺し」の衝動が残っている。西洋の女は、子供のころに父親から暴行姦淫されたという妄想=トラウマを抱くことが多い。これは、「父殺し」の衝動の裏返しでしょう。現在の日本だって、思春期の娘の多くは、父親のことを「キモイ」とか「くさい」といって鬱陶しがる感情になりがちです。これだって「父殺し」の無意識でしょう。まあ、父親が、娘に対してひそかに性愛衝動を持ってしまっている。だから「父殺し」の衝動を向けられてしまう。家族の本質自然において、性愛衝動を持ってこられることはいい迷惑で、そこは性愛衝動が基本的には存在しないはず空間なのです。しかし父親=夫からしたらそこは制度支配からの避難場所だから、そこでこそ性愛衝動を膨らませてしまう。そうして「インセスト・タブー」という制度が生まれてきた。
とにかく一夫一婦制の家族は、アダムとイブみたいに男と女が性愛の契約関係を結んだところからつくられていったのではないのです。そういう男女の性愛関係の契約が中心にあると思うなんて、男の勝手な妄想に過ぎないのです。夫婦のセックスなんて、本質的には家族の外の行為なのです。家族の本質に、夫婦のセックスなんか組み込まれていないのです。本質的には、男は夫でも父親でもないです。そこのところを誤解している男が多すぎる。男なんか、ただの家族の闖入者なのです。そういう分をわきまえていないから、娘から「キモイ」とか「くさい」とかいわれる。それは性的な拒否です。もともと家族は、インセスト・タブーどころか、性愛衝動そのものが存在しない空間だったのです。それが「家族」であることの本質です。

吉本隆明にしろあなたにしろ、「家族」という概念のとらえ方が変ですよ。そうやって「生活者の思想」という美名のもとに、男たちが家族の中の性愛衝動に居座り、自分も家族の一員だと居直っていったところから戦後の家族の崩壊がはじまったのだろうと思えます。それが団塊世代を中心とした「ニューファミリー」現象であり、そうやってお父さんが娘に性愛衝動を抱いたりするようになっていった。
あなただって、この記事に「家族の再生」に向けた提言をこめておられるのでしょうが、じつはあなたたちのその思想によって家族は崩壊していったのです。それはまあ「男根主義」みたいなものですからね。男も家族の一員だとか、夫と妻あるいは父と母こそ家族の中心=基礎だというその「ニューファミリー」的な思い込みこそ、戦後の家族の崩壊の元凶だと思えます。
一夫一婦制の家族はそのようにして生まれてきたのではないし、その性愛衝動に「家族」という単位の本質があるのではない。日本列島で一夫一婦制の家族が定着していったのは、中世以降のことですよ。それまで男は、基本的には母子関係という「家族」の外の存在だったのであり、共同体の支配制度(戸籍制度)が半ば無理やり男を家族の中に挿入していったのです。
夫婦のセックスなんて、本質的には「家族」の外の出来事です。それによって「家族」が成り立っているのではない。
家族の倫理性は、性愛関係の上に成り立っているのではない。ともあれそこは、他者に身を捧げて「もう死んでもいい」という感慨が息づいている空間です。そしてそれこそがじつは性愛衝動の根源のかたちでもあるところがやっかいなわけで、なんにせよ吉本隆明の「対幻想」という概念なんて、安っぽい男根主義というかナルシズムの産物だろうと思えます。
家族とは、夫とか妻とか父とか母とか子とか兄とか妹とか、そのような相互関係を確認するためのシステムなのですか。冗談じゃない。家族の倫理性は、「一緒に暮らした」という事実の重みと確かさの上に成り立っている。血のつながりなんかなくても、ひとつ屋根の下で一緒に暮らせば「家族」なのです。そして一緒に暮らせば、性愛衝動は減衰してゆくのです。
あなたもレヴィ=ストロースも、すぐに合目的的な論理で説明しようとしてくる。それが、下部構造決定論や労働史観に汚染された近代人の思考の限界です。歴史は、人間の意志や欲望でつくられてきたのではない。人の心が時代状況のなりゆきに反応していった結果としてつくられていったのです。
あなたはかんたんに「排他性」といわれるけど、向こう三軒両隣と積極的な関係を結んでゆく衝動だって持っているじゃないですか。まあ家族とは、共同体から排斥監視されながら、人と人の関係の純粋体験が生まれてきたりする空
返信する
Unknown (追伸)
2014-07-14 19:19:03
まあ家族とは、共同体から排斥監視されながら、人と人の関係の純粋体験が生まれてきたりする空間なのでしょう。家族は他を排除しているのではなく、排除されている空間なのです。その歴史のはじめに女たちが自分で子供を育てようとしたということは、男たちが共同体作りや戦争などに熱中していって、そうするしかない情況に追いつめられていったということでもあります。そうして男たち自身も、自分たちがつくったその共同体の制度支配や戦争に追いつめられていった。
基本的に男は「家族」に寄生している存在であり、男と女の性愛関係が家族という単位をつくっていったのでもない。もしも「家族の倫理」とか「家族という存在の必然性」というものが成り立つのなら、そのことの上に問われなければならない。
僕がいうことなんか、相手にするほどの値打ちもないですか?僕は、あなたに悪意なんかこれっぽちもないですよ。
ただもう、真実が知りたいだけです。
返信する

コメントを投稿