天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

国力とはなにか(中野剛志)読書ノート

2015-08-24 06:19:18 | 読書ノート(天道公平)

 3.11以降、私にとって最も重要な著作の一つであった、中野剛志氏の「国力とは何か」について皆様方に再
度ご紹介をしたいと思います。
 3.11同年7月に上辞されたこの本は、その啓示される内容はもちろんとして、著者の、国民国家日本に対す
る危機意識と、危機に当たった同胞への強い関心と支援の気持ちにに裏打ちされたものでした。その後彼の献
策に、安倍政権は、ほとんど振れていませんが、心ある国民国家日本の皆さま(私たち)が、彼の思考と政策
に意識的であるということは、日常的に「敵」と闘うことについて大きな力になることを信じます。

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「国力とは何か」(経済ナショナリズムの理論と政策)について(2011年7月刊行)その1                           H27.3.18
一 危機と国家(ステイト)

 パラダイム(パラダイムシフト(英: paradigm shift)とは、その時代や分野において当然のことと考えら
れていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命的にもしくは劇的に変化することを言う。パラダイムチェ
ンジとも言う。)を引き起こしたのは、東日本大震災だった。
 当時の支配的イデオロギー「グローバル化により、国民国家は有効性を失い、後退する。(1990年代構造改
革から繰り返し、「規制緩和」、「小さな政府」、「地方分権」、2010年「平成の改革」で典型的に取沙汰され
たもの)
 東日本大震災の惨状は、「グローバル化による国家の退場」を根こそぎ吹き飛ばした。「地域主権」の空疎
さ、中央から地方への関与なくして、巨大危機に対応は困難、である。
 国家は非常時に備え、危機管理機能の準備と、その暗黙の了解がなければ、平時の経済体制、日常生活の営
みも困難となる。
 国家の役割は、グローバル化(西欧)、ローカル化(地方分権)で後退することは、虚妄のイデオロギーだ
った。

二 国民(ネイション)という運命共同体

 被害大の東北地方は、宮城・岩手は国家の食糧供給県であり、福島は国家中枢の電力の3分の1を供給する拠
点であり、国家の生命線を脅かすものである。同時に、被災の現実に対し、深い同情と共感を寄せた。(外国
の被災者に対するものと質的に違った。)・・・・・人間の心理や意識は、同郷・同国人に対し、より高い関
心を向けるものという現実がある。

ア 天皇陛下のお言葉
「ナショナリズム」という言葉には、排外主義的・利己的・攻撃的というイメージがある。しかし、東日本大
震災を目のあたりにした国民の多くに自然とわきあがった確かな強い感情を否定することはできない。(私見
:考えれば、昔、私も、左翼のナショナリストと名乗ろうとしていました。G.オーウェルの「右であれ左であ
れわが祖国」も同様なものかもしれません。) 出国を試みた外国人は多くいたが、日本人で出国しようとし
た(できなかった)日本人がほとんどではなかったか。また、偏狭な排外主義で、他国の支援を受け入れない、
在日外国人を排斥するような話も全くなかった。
 このたびの大震災の直後、3月16日に今上天皇よりビデオメッセージが発せられた。

(      略  (本文を参照ください。)        )

 この言葉の内容を否定するものはほとんどいないだろう。
 しかし、会ったこともない被災者の苦難を分かち合うということは、実は当たり前のことではない、それは
他人であるは図の被災者を単なる他人と考えず、同じ運命共同体に属する同胞として意識することにより、可
能となること、である。その意識こそナショナリズムである。
 たとえば、東日本大震災級の危機になると、国民全体が連帯しなければ克服はできない、もし西日本の住民
が東日本の不幸をみすてるようであれば、日本は経済的のみならず、精神的にも東西に分裂してしまうだろう、
この大震災は、国民国家(ネイション・ステイト)分裂の危機である。(私見;当然、国家間の戦争も想定さ
れるはずである。)

三 国力(ナショナル・パワー)とは

 東日本大震災の被災者の救済や被災地の復興に当たっては、国家が物資、人材、資金、技術などの資源を大
規模かつ計画的に動員し続けなければならない。国家は、東北地方という一部の地域を救済・復興するために、
北海道から沖縄までの日本国民全体に一定の負担を強いなければならない、ここでいう「日本国民」には、ま
だ生まれていない将来の世代も含む、ものである。
 国家は、課税による①復興資金をねん出し、被災者だけのために集中的に投下する。②国債を発行すること
で現在の被害者の救済のため将来の国民と負担を共有する。③国家予算の優先順位を操作し、電力不足による
停電の回避のため、電気使用の抑制や、止むを得ない場合は強制する。(復興を効果的に進めようとすればす
るほど課す負担は大きくなる。)
 独裁国家であればまだしも、東北地方の被災地の復興に対し直接利害を持たない人々が、復興の費用負担に
同意するうえで大きな役割を果たすのが、彼らが被災者に対し抱く強い同情の念である。被災地以外に住む日
本人は、被災した日本人を同じ運命共同体に属する同朋と見做し、その不幸に深く共感する。この同国人に対
する同朋意識、すなわちナショナリズムが、復興費用の負担への同意を可能にする。
 国家(近代国家)は、とりわけ民主国家は、ナショナリズムに訴えることで国民の資源を動員する。国民
(ネイション)が団結・連帯して行動することによって生み出される力こそ、「国力(ナショナル・パワー)」
にほかならない。
 国民の団結と連帯により被災地が復興し、経済活動が正常化すれば日本全体がその恩恵を受ける。
 東日本大震災が国難であるとすれば、被災地を放置し、東北地域をみすてることが、東北地域以外に住む日
本人が、東北地方に住む人を同朋と見做していないこと、国民という共同体が分解しているということであり、
真の国難とは、国民の間で共有すべき一体感や同朋意識が失われ、国民が分裂することなのである。

四 危機と国力

 危機は、大地震、原発事故にとどまらない。アジア通貨危機、リーマン・ショックなども同様である。国力
は同様に試される。経済における国力の維持や強化を追及しようとする主張や立場は、一般的に「経済ナショ
ナリズム」と言われてきた。この、「経済ナショナリズム」の理論づけと危機克服の、「国力」の本質を明ら
かにしようとするのが本書の目的である。
 「構造改革論」の論理  人口減少と、少子高齢化により内需は縮小の一途をたどる。その閉塞感の打破の
            ため、海外市場に進出し、海外殊にアジアからの投資や人材を呼び込みたいため、
            国家の規制や社会の慣行などの障壁は、モノ、カネ、ヒトなどの国際移動の活発化
            を妨げるものであり、即刻撤廃すべきだ。
 「平成の開国」(民主党菅内閣)は、遅れてきた構造改革論である。しかし、「構造改革」や「平成の改革
を支持したものには、被災地復興の理念と根本的に矛盾することに無自覚である。
 被災後、日本から出ていった外国人のように、外国から入ってきたマネーは、利益を最大化するものにしか
(日本が市場として有効かどうか)以外にしか動かない、我が国がグローバル化すればすれほど、東北の被災
地を復興することは困難となる。

 ア 危険性も確かにある
   ナショナリズムの危険な側面、ア 2003年のイラク戦争、2001年の同時多発テロを引き金にした、イラ
  ク戦争(テロに憤激したアメリカ国民を背景にしたイラク侵略)、イ 資源ナショナリズム 他

 イ 本書の構成
  あ グローバル化を引き金にした、世界経済危機
  い 「経済ナショナリズム」の理論、理念
  う 「国力」の実態解明
  え 経済ナショナリズムに基づく経済政策
  お ケインズ主義的財政金融政策の検討
  か 経済ナショナリズムから見る国際秩序の構造
  き 今日の世界危機と、日本の進むべき進路

日本の七大思想家(小浜逸郎)(時枝誠記)

2015-08-24 05:34:49 | 読書ノート(天道公平)
私見:時枝誠記を思い出すのに、いつも同時に哲学者三浦つとむを連想します。私においては、彼らは
 今もセットメニュー(?)のように感じられてしまうのです。
  二人とも、自国「日本」を常に対象化しつつ、徹頭徹尾、彼ら独自の思想を、より深く掘り下げた
 硬骨の、市井の研究者であり、また生活者として、自立して自己の人性を貫いた人でもあり、その
「思想」は今も古びない(常に鍛えなおされる姿勢がある。)ものです。
                                 
 (私にはとても及びがたいところですが、彼らの営為は、「私たち」の考察にも、勇気を与えてくれ
  ま す。)

         時枝誠記(1900~1967)

一 言語とは思想そのものである

 ア 人は「話す」------これは自己を自己から「話す」、「放つ」行為である。
  
 イ 人は「語る」。語るは「騙る」に通じる。人は語ることによって虚構する。

   社会の構成員としての人間が、自己から自己を放ち、世界の既定の事実に絶えず自己を付け加え
  る。(私見:表現行為(自己表出)と言っていいのでしょうか。)

二 西洋近代に素手で格闘を挑む

  国語学者、文法学者
    山田孝雄(西洋的手法で日本語文法を策定)、橋本進吉(現在の学校文法の基礎、代表作とし
     て上代音韻の研究)
  時枝文法学
   ア 民族言語自体の文法体系を目指したこと
   イ 言語一般の本質を、話し手と聞き手との主体的意識のあり方に焦点を定め、西洋の力を借り
    ずに独創的・哲学的な言語思想を作ったこと
      主著「国語学原論」は、現在でも、世界的な意味での労作である。

  「国語学原論」の特徴
    ア 言語過程説----社会的構成実態としての「言語(ラング)(ソシュール言語学)」を否定
     し、実際の言語活動のみに、言語の存在を認める。
    イ 言語の存在条件の既定------言語が実現する土台として、主体、場面、素材の三条件を規
     定し、同時に「場面」を客体界と主体的側面が不可分に融合した状態と考えた。
    ウ 「詞辞論」------時枝理論の白眉をなすもので、従来からの「てにをは」論に理論的根拠
     を与えたもの。
      辞----助詞、助動詞、接続詞、感動詞、その他は、詞、という。
     日本語独自の基本構造の解明と、他国言語にも一般化できる、ことの大きな達成
    エ 日本語は「風呂敷型」・「入れ子」型構造、印欧語は、天秤型構造----根本的差異を明確
     に規定している。
    オ 「零(ゼロ)記号」論-----陳述の最後に、用言の終止形、連体形の後に、表現はされてい
     ないが、取りまとめとして「辞」が存する。(EX:「桜は美しい。」など)
    カ 「述語格」論-----文の基本は、まず述語にあり、主語、客語、補語などは述語の中に潜在
     していたものが出てきたもの。(欧印言語「主→客」を否定)
     本質をいいあてているのではないか(大森荘蔵につながる)。
      意味論------「意味」を主体の把握作用と定義する。言語外の意味を考える際も示唆的で
       ある(大森荘蔵につながる)。
    キ 敬語論-------話し手と聞き手、話し手と話題の中の人物との関係という視点を徹底的に貫
     いた、論理性の優れた論である。

三 言語道具観の否定------ア 言語過程説

 「一般言語学講義」(ソシュール)の批判(ラング(言語体系)の批判)
  時代的な制約での、行き違い
   ソシュールは言語を、「ラング」(言語体系)と「パロール」(はなし)の相互依存の関係として
  とらえていた。
  時枝の言語過程説は、ソシュールの発展形に近い。
   ア 言語に係る音声は、「シニフィアン」(ソシュール言語学)は、「指し示し」が近い。
   イ 言語の概念は、「シニフィエ」(ソシュール言語学)は、「指し示され(事物の概念)」を指
    し示される。
    アとイの不可分の構造を、「シーニュ」と呼ぶ。
     水面と空気が接するところに波立ちが起きる場合、波立ち自体がシーニュであり、水が波の本
    体であるとも、空気の流れが波の本体であるともいうことができない、その不可分の結合がシー
    ニュである。
      (それらの説明は正しい。)
 
 時枝の言語過程説とは、
  事物や表象の概念化 → 脳中で聴覚印象 → 音声表出 → 聞き手
  (話し手)
 聴覚印象 → 脳中で概念化 → 事物・表象
  (聞き手)

 言語主体の生きた表現行為以外の場所に言語など存在しない。(時枝誠記)
 なぜなら、言語を社会的実体として認めると、言語を、手段、道具などにおとしめてしまう(西洋的
方法論に対する反発)。



四 「概念」は言語の外にあるのか------イ 言語の存在条件の規定  

    (省  略)

五 日本語文法の特性を理論化------ウ「詞辞」論

 日本語の文は、「詞」と「辞」の区別とその連関によって成り立っている。
 本居宣長など 「詞」を玉に、「辞」を玉をつなぐ緒にたとえ、両者相まって日本語(やまとことば)
が成立する。(卓抜な比喩)

  日本語は膠着語であり、品詞分類を体系的に整理することが難しい。
   *膠着語(びゅうちゃくご)
         例えば、「飛ぶ」という動詞だと
     tob という語幹に、
     tob anai:「飛ばない」     ・・ナイ(未然)
     tob imasu:「飛びます」    ・・ウ、・・マス、・・タ(連用、終止)
     tob eba:「飛べば」       ・・トキ、・・バ(仮定)
     tob ou:「飛ぼう」        ・・ヨ(命令)
     のように、語尾を付着させて変化させる。 このように日本語における膠着語とは、語幹に語
    尾をいろいろ変化させて付着させていく言葉をいう。

 「国語学原論」
   一、詞------概念過程を含む形式
   二、辞------概念過程を含まぬ形式

  〈「一、」は、表現の素材を、一旦客体化し、概念化してこれを音声によって表現するのであって、
   「山」「川」「犬」「走る」等がこれであり、又主観的な感情ごときものを客体化し、概念化する
    ならば、   「嬉し」「悲し」「怒る」「喜ぶ」などと表すことができる。(中略)「二、」
   は概念内容の概念化されない、客体化されない直接的な表現である。「否定」「打ち消し」等の語
   は、概念過程を経て表現されたものであるが、「ず」「じ」は直接的表現あって、観念内容をさし
   表したものではない。同様にして、「推量」「推しはかる」に対して「む」、「疑問」「疑い」に
   対して「や」「か」等は皆直接的表現の語である。(中略)それは客体界に対する主体的なものを
   表現するものである。助詞、助動詞、感動詞ごときがこれに入る。〉

         「 川   が   流れ  て   い   ます 」
             詞   辞    詞   辞   詞   辞

「言語美」の指示表出と自己表出の二重性、に言語の本質を見出している理論は、時枝の二大別に
  ほぼ相当する。
   (詞-----指示表出性が強い。辞----自己表出性が強い。)

  小浜の見解とすれば、
   ( ソシュールの、シニフィアンとシニフィエの不可分一体を是認するので)「詞」を「思想を対象化して表現する
   ところのもの」、と呼び、「辞」を「思想そのものの直接的表現」、と呼んでいる(「国語問題と
   国語教育」時枝誠記)のが適当である。

六 主述対立構造の否定------エ 日本語の「風呂敷型」、入れ子型構造

 「風呂敷型」とは、「辞」(助詞、助動詞等)がその上にある「詞」又は文節の群を風呂敷のように包
み込んで、統括しながら次の部分に連接する。
 
  「入れ子型」構造
    花 が + 咲いた 
 
   全体が、咲いたで、統一される。
  
   (これら二つに論理は、日本語の文法を説明するうえで実情に合っている。)

    EX)「これが欲しかったんだ」(主語なき文章)

        「そんな話は聞いたことがない」
        「僕はウナギだ」(鰻屋でウナギを注文するときの話)

七 意図はわかるが微妙な論------オ 「零記号論」

  零記号論------陳述の最後に用言の終止形が使われたり(花は美しい。)など、その直後に、表現さ
   れてはいないがそれ以前の部分を取りまとめる役としての「辞」が存在する。
 これは、前の、エ 日本語の「風呂敷型」、「入れ子型構造」と併せて考えると理解できるような微妙
 な論である。

(後   略)

八 言語の本体は述語である------カ 「述語格」論  
 「述語格」論------文の基本はまず、述語にあり、主語、客語、補語などは、述語の中に潜在していた
         ものが必要に応じて後から表出されたものである。
          言語一般の本質を言い当てている。(反印欧語的発想)
         
      「おや、まあ」とか「えっ?」とか、主語+述語でない文はいくらもある。
      (印欧語でも日常的に同種の例はいくらでもある。(主語なきセンテンス)) 
       デカルト以来のヨーロッパ近代哲学は、主客二元論をその論理的骨格にしていることに逆
      らいたい(そんな風に皆生きてない(ヨーロッパの呪縛))

    大森荘造の「立ちあらわれ一元論」に連続していく。

九 意味とは話し手と聞き手の把握作用そのもの------キ 意味論

 吉本は、言語の「意味」を時枝に負わず、言語の「価値」(芸術的言語の価値)との関係で扱ったため、
「書き言葉」と「話し言葉」、自己表出と指示表出、文学言語と生活言語の三対の概念を図式的な並行関
係に置く結果となり、彼の立論に論理的に無理を生じさせた。

  時枝の意味論は------「意味とは言語主体の把握作用そのものである」という核心
    より正確に言えば、「意味とは、言語をやり取りする主体同士のそれぞれの把握作用である」と
   いうべきであった。
    時枝は、言語をあくまでそれを用いる主体同士の動態的な「過程」と捉えようとした。
    EX)「馬鹿だなあ」という「話し言葉」の多義性

    言語の持つ多義性の意味づけにおいて、極めて優れた規定である。

    (吉本ですら、言語の「意味」を考察するに当たり、「書き言葉として標記されたもの」との呪
     縛から逃れえなかった。)

   A 「この絵、なかなかいいね。」
         ↓
   B(a) 「この絵、なかなかいいね。」 → 自分に対する言い聞かせ(聞き取りそのもの)    
         ↓
   B 「うん、なかなかいい。」      「内面」を形成していくための初発の行為

          
                       「聞くことは話すことである」という名言

   言語の本質とは、「話し手の表現とそれを受け取って理解する聞き手とのやり取りの過程」である。

   ハイデガー「存在と時間」の中で、
    〈「意味する」というのはいったい何を意味するのか、と自問し、それに対し、意味たは、投企
     がどこにむかっているか考えているときの、その「どこに向かってと、言うことである。・・
     ・・・人間だけが意味に満ちていたり、意味を喪いうるのである。〉
    と語っていることと、正確に呼応している。

   近代哲学の基礎にある「主客二元論」的な認識論図式を根底から超克すべき、である。

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   お詫び申し上げますが、六の、入れ子型構造の表記がうまくいっていません。
   大変申し訳ありませんが、原著を当たられることをおすすめします。
   ところで、「日本の七大思想家」は、新書版で、比較的携帯が易しいところです。
   夏旅行等、携行を是非お勧めします。