この齢になると、少々の人の思惑や、周囲の感情も気にならなくなって(おやじ街道を驀進中)、いわば客気(かっき)にはやる学生時代のような心情と、環境的には家族内放置として、寄る辺のない状況に落ち込んでしまい、家族のうちでの「世間」の代表と、殊に娘と、意見の食い違いで、折に触れ、様々な問題で、厳しい対立を残さないように注意しつつ、適宜(?) にやりあっている今日この頃です。
ところで、本日は、私の長年の愛読書(気分転換にとても良かったのです。)であり、推理作家「内田康夫」さんの標記のシリーズ作品について、考えてみたいと思います。
皆さま、ご承知のとおり、浅見光彦シリーズ出版数は、昭和57年以来、115作9300万冊を超えるベストセラーとなっています。
元々、私、本来推理小説は、創元推理文庫で中学生の時読んだエラリー・クイーン以来、高校で出あった、ハヤカワ推理文庫のレイモンド・チャンドラーから、大学の英語教材で知ったロス・マクドナルドなどの探偵小説くらいしか読みませんでした。1970年代後半の当時、私が読んでいた、村上春樹は、アメリカ現代小説で、ダシール・ハメットから、ロス・マクドナルド(いわゆる「ハードボイルド」というやつです。)に至りまた現代作家に至る系譜を良く問題にしていました。そういえば、彼(村上春樹)の語り(文体)がなぜ新しかったかというと、流麗なレイモンド・チャンドラーの比喩や知性ある(?) 言い回し、皮肉とユーモアをどこかで借りていたように思います。
彼の著書でいえば彼のデビュー作、個別時代体験とその体験へのこだわり、それにまつわる感情の澱のようなものが詰まった「風の歌を聴け」から、「ねじまき鳥のクロニクル」くらいまでは、ハードカバーで買いつつ、日本の新しい文学の出現なのだとして興味深く、ついて行きました。
殊に、今思い起こせば、オーム真理教のサリン事件後、彼が、彼自身に急かされるかのように書いた、1997年の「アンダーグラウンド」は、当時、とても感動しました。
サリン事件の被害者を主に、インタビューの構成で作り上げられたこの本は、彼の本来の小説のモチーフと、浅原彰晃というマイナスエネルギーの極北の存在を対象化し、それと切実に切り結ぶような村上の背景が読み進むにつれ読者にも受感でき、そのカルト宗教のグロテスクな構造と誰もが意識化したこともないような本当に怖いわれわれの時代や社会状況が浮かびあがり、彼の営為は、同時代で、世界標準で考えても十分に批評に耐えきる、本当にいい作家なのだと、思えました。それまでは、「政治的・社会的発言」を慎重に避けていた村上春樹でしたが、この仕事で、作家として、あたかも私たちの「現在性」の問題に肉薄するかのようである、と感心した覚えもあります。
私は、ここまでの業績で、あのカッコつき「ノーベル賞」を授与してもいいと思っています(私のとても好きな「蛍・納屋を焼くその他の短編」は当然入っていると思いますが)。
しかし、その後、村上春樹の長編小説はつまらなくなってしまい、同時にエッセイもつまらなくなり、小説から離れたジャズ評論とか、音楽評論のようなものしか読まなくなってしまいました。その原因を考えるとすれば、こちらも馬齢を重ね、日常に埋没し、子育てや、家族や仕事との桎梏にかかりきりとなり、その否応なしの生活感性を自分自身の問題として媒介しようとすれば、多くの一般大衆のそんな切実な実生活上の悩みや痛苦の影響を受けないような(はっきり言って浮き上がった)彼の思考(例えば、村上春樹は自分で子供を作らない、と言ったような気がしますが、たとえば埴谷雄高のように観念上の意識的な行為として決めたかどうかは知りません。)は、時代(現在性)とは、かい離するようで、彼の著書が色あせて見えだし、また、何よ
り、大きな原因は、彼が、外国に生活・活動の拠点を移し、日本社会や同時代性や、何より大衆の「現実感覚」が繰り込めなくなったことが大きかったように思われたところです。
特に、2011年の、3.11後の発言は、凡百の西欧人の視点・発言のみを意識し、日本人の実感と背反した、通俗的でしかないような発言に終始しています。「原発を選択したのは誤った選択だった」、なにそれ、誰が意識的に選択できた、あなたの選ぶ都市的な快適な生活は、安価で地方を犠牲にした安定供給される電気の保証なしにはあり得なかっただろうに。
それは、フツーのおばちゃんに、「あなたはいいわね、外国に生活の拠点を移せて」と言われても言い返せない体たらくではないですか。あなたは、現代小説が翻訳できるほどの英語力を持ち(レイモンド・カーバーなどの翻訳は好きです。そういえば、名作「心臓を貫かれて」も彼の訳でした。)、外国で自己の翻訳本が売れているというかもしれないが、自分では民族語日本語で書きつつ、日本の市場をあてにしつつ、外国に行ってから、あるいは行く前から、しばらくあなたは、つまらない本しか書いてないのではないのか。
かたや、日本にとどまった村上龍は、3.11の際に、彼の原則性を示したそれなりの発言と、(外国新聞への寄稿、「桜の木の下には瓦礫が埋まっている」という著書)その後も、それなりに表現行為を続けています。時々、つまらないポカをやるにしても。
村上春樹様、あなたのファンはまだまだ日本国に多いでしょうが、あの大江健三郎のようにノーベル賞を受賞したとしても、「昔はよかったけどねー」、でも「今があれじゃねー」といわれないように、今後も「ノーベル賞」欲しさに、バカな政治的迎合発言をしないように気を付け、思い直して、また、良い小説を書いてくださいね。
「浅見光彦」の推理小説から大きく逸脱しました。
私は、内田康夫という、決してノーベル賞を受賞しないような、日本の推理小説作家の、浅見光彦シリーズに、私の生涯での相対安定期(今振り返って比較的穏やかに過ごせた日々)というべく、30代の半ばで出会いました。
当時、今よりもっとお金がなかったので、古本屋で、100円(まだ内税だった。)で文庫本を大量に買い込み、乱読しながら、大変楽しい時間を過ごさせていただきました。
私は、本来ハードボイルド好みですから、基本的にトリックとか推理の組み立てとか、あまり興味がありません。彼は、最初から、構成とか考えずに行き当たりばったりに書き始めるといいます。最初にプロローグを入れるが、どこへどうつながるかわからない、とまで語っており、たぶん、読者としても、その謎解きに過剰な期待はしていません。
内田康夫のシリーズは「○○伝説殺人事件」とか、過去の敗者の歴史や、日本各地の地勢的な特殊性に根差した小説が極めて多いのです。同時にマスコミを騒がした社会的な事件も多く扱っています。その過程で、過去の因縁が形を変えて、現在の人間や家族を呪縛し、血塗れた歴史を繰り返すというのはパターンですが、彼の小説は文字通り、「北は北海道から南は九州沖縄まで」日本全国(1999年に沖縄で完了)を網羅し、その熱意と、それぞれの地域の歴史などとの綿密な調査と構想力との混合は感服するほどのものです。
私の住む山口県でも、小説の細部を見ると、原発建設予定地そばの島(祝島)での、対岸の原発建設反対運動とその島の平家の落人伝説をテーマにした「赤い雲殺人事件」や、あの血液製剤汚染事件で厚生省のでたらめな安全対策に加担した帝京大の安部先生をモデルにした「遺骨」では、長門市の戦後の満州・朝鮮からの引揚げ船の悲しい歴史とか、また犯人が大分県姫島から、電車も何もない時間にモーターボートを使って山口県徳山港に逃れるなど、地勢を認識した山口県民には良く分かりますが、その着眼は素晴らしい「姫島殺人事件」、など、また、安倍晋三首相の先祖が、日本海を経由して青森の十三湊の安東氏の系譜に至るもの「十三の冥府」など、様々な場所と様々な歴史に、その舞台を借りています。これは、多くの読者の、それぞれの故郷地方も同様に証明できるのではないかと思います。
彼の小説は、読み進むにつれ、彼自身の戦争体験(疎開、空襲被災体験、飢餓体験、価値観の変動体験)がとても大きく思われます。彼の、こども時代のル・サンチマン(弱者の怨念)や後ろめたさは、学童として、悲惨な体験を経た、戦争体験により培われた比重がとても大きいように感じられます。彼は、縁故疎開というのか、家族の知人のいる田舎に避難して助かったというか、下記のように、東京大空襲などで被害にあった友人たちにも大きな負い目があるようです。また、登場人物の多くが、自分の幼児・学童体験にとてもこだわり、それがまたプロローグにつながるのですが、それがまた、内田康夫の資質につながっているような気がします(「沃野の伝説」の欠食児童の逸話)。
そのうえで、「正義」の問題になるわけですが、彼は、一貫して、戦災や、社会的な事件で被害に遭い、死んでいったとき、被害者として一般大衆はどう振る舞い、どう犠牲になったか、その歴史や状況を丁寧に描いています。ひたすら、謎解き、トリックに執着するような、推理小説とは縁遠く、浅見光彦に言わせていますが、どのように、(一般庶民のレベルで)「正義を実現する」かに、大きな注意を払っています。その控えめな正義に、共感します(子ずれ母子(?) クジラというか、日本の捕鯨をめぐる述懐にはどうかなと思ったが。「鯨の哭く海」)。
(このたび浅見光彦シリーズが完了(最終話)してからインタビューに答えた著者の言葉)
「僕は反戦を声高に言う作家ではないが、戦争の記憶がある最後の世代として戦争のことを書いておいた方がいいと思った。終戦の年、僕は小学5年。当時の中学生は工場で働くなど多少なりとも(国の)お役に立ったが、僕は学童疎開をしていた。負い目があるんですね。だから僕自身の節目にもなる作品を書くに当たって、自然と戦争をモチーフにすることになりました。小説ですが、歴史的な事実も読者に伝えたかった。」
そして、浅見光彦に語らせていますが、「私の行動原理は「好奇心」である」、と。殺人事件に出くわし、そんなセリフで、被害者の家族などのひんしゅくを買います。浅見光彦は、33歳で、育ちの良い、ハンサムで温厚な男ですが、作者と同じで、酒が飲めず、美味しい食べ物に、とても執着します。これも、内田康夫の戦中の飢餓体験が大きいようです。また、狂言回しとしての、浅見探偵の本職が、「旅と歴史」社の契約社員というのが、象徴的です。
ちなみに、私の選ぶ、浅見光彦シリーズランキングを挙げていきますと、
ア 箸墓伝説、イ 化生の海、ウ 十三の冥府、エ 江田島殺人事件、オ 沃野の伝説、
カ 鳥取雛送り殺人事件、キ 平城山(ならやま)を越えた女、ク 天河伝説殺人事件、
ケ 氷雪の殺人、コ ユタが愛した探偵、サ 鐘、シ 透明な遺書、即座に、様々な作品を思い浮かべます。殊に、「箸墓伝説」は、作者の国文学に関する資質・教養なのか、折口信夫の死者の書のプロローグから始まり、卑弥呼の墓ともいわれる発掘不能の古墳の盗掘に絡み、戦争中の学徒動員兵(あの
「無言館」も出てきます。)たちの戦争と当時のアイドルをめぐる青春の葛藤、そして後年のその碩学の考古学者の殺人事件から、過去に種をまかれた連綿と続くおぞましい、愛憎や、悲しい情念が浮き彫りとなります(映画のまずいキャッチコピーみたいですね。)。
また、最期は、なぜなのか発掘と干渉を望まない、宮内庁の箸墓隠ぺいで幕が下ろされるのです。また、彼の執筆中に、例の「神の手」と言われた、考古学者の歴史捏造事件が摘発され、作者の言い分ではないけれど、天啓のような事件もありました。浅見光彦の、いや内田康夫のそのごく普通で良質な正義感に、読者は動かされます。
私のランクした本のどれをとっても、それを契機に「浅見光彦ファンクラブ」に入りたいようなできばえです。私の記憶が確かであれば、亡吉本隆明の奥さん、亡吉本和子さんも、愛読者の一人ではなかったか、と思います。
ところで、浅見光彦シリーズも変質していきます。
内田康夫氏は、日本全国の旅達者でしたが、1999年ですか、豪華客船飛鳥に乗って、外国旅行に行きました。
それ以降、元を取る(旅行費用を補てん)するためと称し、外国を舞台にしたシリーズを書いていますが、それ(「上海迷宮」、「イタリア幻想」その他)が面白くありません。
やはり、国情というか、生活感性というか、庶民=読者と、歴史や生活体験の同一を前提を同じにしないと、その評価は困難であるかもしれません。その後の、山口県を舞台にした、「汚れっちまった道」、「萩殺人事件」などにも精彩がなくなったように思われます。
なぜなのか、と考えてみましたが、内田康夫は読者を大切にする人ですが、彼が外国シリーズを書き出したのは、読者が日本国の旅情ミステリー(そのように区分けされています。)に飽きたのか、日本国に対する関心が薄くなったのか、良く分からないところです。ただ、どこの地方も疲弊し、独自の歴史と文化を失うような、日本国中の、良いも悪いもなく習俗や伝統の喪失が、経済の疲弊とともに間接的に影響しているのでは、と思うところでもあります。
浅見光彦最後の事件「遺譜」というのも、米欧発のグローバリズム(新帝国主義、無慈悲な資本主義)に、安易に迎合しているようで好きになれません。ナチスの文化破壊によるヨーロッパの非アーリア人の芸術絵画を当時の良心的なドイツ人と日本人が協力して、日本に隠匿したストーリーなど、現在のEUの圧倒的な覇者であり、また十分に反日的な国ドイツは、「本当はヤな国だよな」、と誰かが思えば、この本も嘘っぽくて、皆、読まなくなるでしょう。何も、小説の中にまで、架空の嘘っぽい国際親善を持ち込むことはないのです。
しかしながら、まだまだ、日本国に、地方と興味深い独自の文化・歴史は残っているのじゃないですかね。
浅見光彦さん、あなたまで下劣なグローバリズム(世界均質主義)に秋波を送る必要はない、あなたは「思いやり」と「察し」の文化のある日本国で、育ちのよい、他人に親切な、お坊ちゃんでいい、と私も思います。
たとえ、グロテスクであろうが、悲劇であろうが、体を張って、神の代行者のように、何より自分自身に強いられて「真実」に全力で迫る、リュー・アーチャー(ロス・マクドナルドの探偵小説の主人公の探偵、最近忘れ去られたかもしませんが、村上春樹と同様に私もとても好きです。)を、私は決して嫌いではないが、あなたには、それは向かない、あなたの読者もそれを望まない、と私は思います。
探偵小説の探偵は、それぞれの国情(?) に応じ、独自路線を往くべきで、いわば国の数だけでも必要ではないでしょうか?私、例えば、現在の国家としての振る舞いをみて、フランスは嫌な国だと思いますが、メグレ警視シリーズはとても好きです。
浅見探偵がまた、別の、日本を舞台にした優れたシリーズで復活するのを望みます。多くの読者も、また日本人としての「正義」が実現されるのを望んでいるのではないでしょうか。
ところで、本日は、私の長年の愛読書(気分転換にとても良かったのです。)であり、推理作家「内田康夫」さんの標記のシリーズ作品について、考えてみたいと思います。
皆さま、ご承知のとおり、浅見光彦シリーズ出版数は、昭和57年以来、115作9300万冊を超えるベストセラーとなっています。
元々、私、本来推理小説は、創元推理文庫で中学生の時読んだエラリー・クイーン以来、高校で出あった、ハヤカワ推理文庫のレイモンド・チャンドラーから、大学の英語教材で知ったロス・マクドナルドなどの探偵小説くらいしか読みませんでした。1970年代後半の当時、私が読んでいた、村上春樹は、アメリカ現代小説で、ダシール・ハメットから、ロス・マクドナルド(いわゆる「ハードボイルド」というやつです。)に至りまた現代作家に至る系譜を良く問題にしていました。そういえば、彼(村上春樹)の語り(文体)がなぜ新しかったかというと、流麗なレイモンド・チャンドラーの比喩や知性ある(?) 言い回し、皮肉とユーモアをどこかで借りていたように思います。
彼の著書でいえば彼のデビュー作、個別時代体験とその体験へのこだわり、それにまつわる感情の澱のようなものが詰まった「風の歌を聴け」から、「ねじまき鳥のクロニクル」くらいまでは、ハードカバーで買いつつ、日本の新しい文学の出現なのだとして興味深く、ついて行きました。
殊に、今思い起こせば、オーム真理教のサリン事件後、彼が、彼自身に急かされるかのように書いた、1997年の「アンダーグラウンド」は、当時、とても感動しました。
サリン事件の被害者を主に、インタビューの構成で作り上げられたこの本は、彼の本来の小説のモチーフと、浅原彰晃というマイナスエネルギーの極北の存在を対象化し、それと切実に切り結ぶような村上の背景が読み進むにつれ読者にも受感でき、そのカルト宗教のグロテスクな構造と誰もが意識化したこともないような本当に怖いわれわれの時代や社会状況が浮かびあがり、彼の営為は、同時代で、世界標準で考えても十分に批評に耐えきる、本当にいい作家なのだと、思えました。それまでは、「政治的・社会的発言」を慎重に避けていた村上春樹でしたが、この仕事で、作家として、あたかも私たちの「現在性」の問題に肉薄するかのようである、と感心した覚えもあります。
私は、ここまでの業績で、あのカッコつき「ノーベル賞」を授与してもいいと思っています(私のとても好きな「蛍・納屋を焼くその他の短編」は当然入っていると思いますが)。
しかし、その後、村上春樹の長編小説はつまらなくなってしまい、同時にエッセイもつまらなくなり、小説から離れたジャズ評論とか、音楽評論のようなものしか読まなくなってしまいました。その原因を考えるとすれば、こちらも馬齢を重ね、日常に埋没し、子育てや、家族や仕事との桎梏にかかりきりとなり、その否応なしの生活感性を自分自身の問題として媒介しようとすれば、多くの一般大衆のそんな切実な実生活上の悩みや痛苦の影響を受けないような(はっきり言って浮き上がった)彼の思考(例えば、村上春樹は自分で子供を作らない、と言ったような気がしますが、たとえば埴谷雄高のように観念上の意識的な行為として決めたかどうかは知りません。)は、時代(現在性)とは、かい離するようで、彼の著書が色あせて見えだし、また、何よ
り、大きな原因は、彼が、外国に生活・活動の拠点を移し、日本社会や同時代性や、何より大衆の「現実感覚」が繰り込めなくなったことが大きかったように思われたところです。
特に、2011年の、3.11後の発言は、凡百の西欧人の視点・発言のみを意識し、日本人の実感と背反した、通俗的でしかないような発言に終始しています。「原発を選択したのは誤った選択だった」、なにそれ、誰が意識的に選択できた、あなたの選ぶ都市的な快適な生活は、安価で地方を犠牲にした安定供給される電気の保証なしにはあり得なかっただろうに。
それは、フツーのおばちゃんに、「あなたはいいわね、外国に生活の拠点を移せて」と言われても言い返せない体たらくではないですか。あなたは、現代小説が翻訳できるほどの英語力を持ち(レイモンド・カーバーなどの翻訳は好きです。そういえば、名作「心臓を貫かれて」も彼の訳でした。)、外国で自己の翻訳本が売れているというかもしれないが、自分では民族語日本語で書きつつ、日本の市場をあてにしつつ、外国に行ってから、あるいは行く前から、しばらくあなたは、つまらない本しか書いてないのではないのか。
かたや、日本にとどまった村上龍は、3.11の際に、彼の原則性を示したそれなりの発言と、(外国新聞への寄稿、「桜の木の下には瓦礫が埋まっている」という著書)その後も、それなりに表現行為を続けています。時々、つまらないポカをやるにしても。
村上春樹様、あなたのファンはまだまだ日本国に多いでしょうが、あの大江健三郎のようにノーベル賞を受賞したとしても、「昔はよかったけどねー」、でも「今があれじゃねー」といわれないように、今後も「ノーベル賞」欲しさに、バカな政治的迎合発言をしないように気を付け、思い直して、また、良い小説を書いてくださいね。
「浅見光彦」の推理小説から大きく逸脱しました。
私は、内田康夫という、決してノーベル賞を受賞しないような、日本の推理小説作家の、浅見光彦シリーズに、私の生涯での相対安定期(今振り返って比較的穏やかに過ごせた日々)というべく、30代の半ばで出会いました。
当時、今よりもっとお金がなかったので、古本屋で、100円(まだ内税だった。)で文庫本を大量に買い込み、乱読しながら、大変楽しい時間を過ごさせていただきました。
私は、本来ハードボイルド好みですから、基本的にトリックとか推理の組み立てとか、あまり興味がありません。彼は、最初から、構成とか考えずに行き当たりばったりに書き始めるといいます。最初にプロローグを入れるが、どこへどうつながるかわからない、とまで語っており、たぶん、読者としても、その謎解きに過剰な期待はしていません。
内田康夫のシリーズは「○○伝説殺人事件」とか、過去の敗者の歴史や、日本各地の地勢的な特殊性に根差した小説が極めて多いのです。同時にマスコミを騒がした社会的な事件も多く扱っています。その過程で、過去の因縁が形を変えて、現在の人間や家族を呪縛し、血塗れた歴史を繰り返すというのはパターンですが、彼の小説は文字通り、「北は北海道から南は九州沖縄まで」日本全国(1999年に沖縄で完了)を網羅し、その熱意と、それぞれの地域の歴史などとの綿密な調査と構想力との混合は感服するほどのものです。
私の住む山口県でも、小説の細部を見ると、原発建設予定地そばの島(祝島)での、対岸の原発建設反対運動とその島の平家の落人伝説をテーマにした「赤い雲殺人事件」や、あの血液製剤汚染事件で厚生省のでたらめな安全対策に加担した帝京大の安部先生をモデルにした「遺骨」では、長門市の戦後の満州・朝鮮からの引揚げ船の悲しい歴史とか、また犯人が大分県姫島から、電車も何もない時間にモーターボートを使って山口県徳山港に逃れるなど、地勢を認識した山口県民には良く分かりますが、その着眼は素晴らしい「姫島殺人事件」、など、また、安倍晋三首相の先祖が、日本海を経由して青森の十三湊の安東氏の系譜に至るもの「十三の冥府」など、様々な場所と様々な歴史に、その舞台を借りています。これは、多くの読者の、それぞれの故郷地方も同様に証明できるのではないかと思います。
彼の小説は、読み進むにつれ、彼自身の戦争体験(疎開、空襲被災体験、飢餓体験、価値観の変動体験)がとても大きく思われます。彼の、こども時代のル・サンチマン(弱者の怨念)や後ろめたさは、学童として、悲惨な体験を経た、戦争体験により培われた比重がとても大きいように感じられます。彼は、縁故疎開というのか、家族の知人のいる田舎に避難して助かったというか、下記のように、東京大空襲などで被害にあった友人たちにも大きな負い目があるようです。また、登場人物の多くが、自分の幼児・学童体験にとてもこだわり、それがまたプロローグにつながるのですが、それがまた、内田康夫の資質につながっているような気がします(「沃野の伝説」の欠食児童の逸話)。
そのうえで、「正義」の問題になるわけですが、彼は、一貫して、戦災や、社会的な事件で被害に遭い、死んでいったとき、被害者として一般大衆はどう振る舞い、どう犠牲になったか、その歴史や状況を丁寧に描いています。ひたすら、謎解き、トリックに執着するような、推理小説とは縁遠く、浅見光彦に言わせていますが、どのように、(一般庶民のレベルで)「正義を実現する」かに、大きな注意を払っています。その控えめな正義に、共感します(子ずれ母子(?) クジラというか、日本の捕鯨をめぐる述懐にはどうかなと思ったが。「鯨の哭く海」)。
(このたび浅見光彦シリーズが完了(最終話)してからインタビューに答えた著者の言葉)
「僕は反戦を声高に言う作家ではないが、戦争の記憶がある最後の世代として戦争のことを書いておいた方がいいと思った。終戦の年、僕は小学5年。当時の中学生は工場で働くなど多少なりとも(国の)お役に立ったが、僕は学童疎開をしていた。負い目があるんですね。だから僕自身の節目にもなる作品を書くに当たって、自然と戦争をモチーフにすることになりました。小説ですが、歴史的な事実も読者に伝えたかった。」
そして、浅見光彦に語らせていますが、「私の行動原理は「好奇心」である」、と。殺人事件に出くわし、そんなセリフで、被害者の家族などのひんしゅくを買います。浅見光彦は、33歳で、育ちの良い、ハンサムで温厚な男ですが、作者と同じで、酒が飲めず、美味しい食べ物に、とても執着します。これも、内田康夫の戦中の飢餓体験が大きいようです。また、狂言回しとしての、浅見探偵の本職が、「旅と歴史」社の契約社員というのが、象徴的です。
ちなみに、私の選ぶ、浅見光彦シリーズランキングを挙げていきますと、
ア 箸墓伝説、イ 化生の海、ウ 十三の冥府、エ 江田島殺人事件、オ 沃野の伝説、
カ 鳥取雛送り殺人事件、キ 平城山(ならやま)を越えた女、ク 天河伝説殺人事件、
ケ 氷雪の殺人、コ ユタが愛した探偵、サ 鐘、シ 透明な遺書、即座に、様々な作品を思い浮かべます。殊に、「箸墓伝説」は、作者の国文学に関する資質・教養なのか、折口信夫の死者の書のプロローグから始まり、卑弥呼の墓ともいわれる発掘不能の古墳の盗掘に絡み、戦争中の学徒動員兵(あの
「無言館」も出てきます。)たちの戦争と当時のアイドルをめぐる青春の葛藤、そして後年のその碩学の考古学者の殺人事件から、過去に種をまかれた連綿と続くおぞましい、愛憎や、悲しい情念が浮き彫りとなります(映画のまずいキャッチコピーみたいですね。)。
また、最期は、なぜなのか発掘と干渉を望まない、宮内庁の箸墓隠ぺいで幕が下ろされるのです。また、彼の執筆中に、例の「神の手」と言われた、考古学者の歴史捏造事件が摘発され、作者の言い分ではないけれど、天啓のような事件もありました。浅見光彦の、いや内田康夫のそのごく普通で良質な正義感に、読者は動かされます。
私のランクした本のどれをとっても、それを契機に「浅見光彦ファンクラブ」に入りたいようなできばえです。私の記憶が確かであれば、亡吉本隆明の奥さん、亡吉本和子さんも、愛読者の一人ではなかったか、と思います。
ところで、浅見光彦シリーズも変質していきます。
内田康夫氏は、日本全国の旅達者でしたが、1999年ですか、豪華客船飛鳥に乗って、外国旅行に行きました。
それ以降、元を取る(旅行費用を補てん)するためと称し、外国を舞台にしたシリーズを書いていますが、それ(「上海迷宮」、「イタリア幻想」その他)が面白くありません。
やはり、国情というか、生活感性というか、庶民=読者と、歴史や生活体験の同一を前提を同じにしないと、その評価は困難であるかもしれません。その後の、山口県を舞台にした、「汚れっちまった道」、「萩殺人事件」などにも精彩がなくなったように思われます。
なぜなのか、と考えてみましたが、内田康夫は読者を大切にする人ですが、彼が外国シリーズを書き出したのは、読者が日本国の旅情ミステリー(そのように区分けされています。)に飽きたのか、日本国に対する関心が薄くなったのか、良く分からないところです。ただ、どこの地方も疲弊し、独自の歴史と文化を失うような、日本国中の、良いも悪いもなく習俗や伝統の喪失が、経済の疲弊とともに間接的に影響しているのでは、と思うところでもあります。
浅見光彦最後の事件「遺譜」というのも、米欧発のグローバリズム(新帝国主義、無慈悲な資本主義)に、安易に迎合しているようで好きになれません。ナチスの文化破壊によるヨーロッパの非アーリア人の芸術絵画を当時の良心的なドイツ人と日本人が協力して、日本に隠匿したストーリーなど、現在のEUの圧倒的な覇者であり、また十分に反日的な国ドイツは、「本当はヤな国だよな」、と誰かが思えば、この本も嘘っぽくて、皆、読まなくなるでしょう。何も、小説の中にまで、架空の嘘っぽい国際親善を持ち込むことはないのです。
しかしながら、まだまだ、日本国に、地方と興味深い独自の文化・歴史は残っているのじゃないですかね。
浅見光彦さん、あなたまで下劣なグローバリズム(世界均質主義)に秋波を送る必要はない、あなたは「思いやり」と「察し」の文化のある日本国で、育ちのよい、他人に親切な、お坊ちゃんでいい、と私も思います。
たとえ、グロテスクであろうが、悲劇であろうが、体を張って、神の代行者のように、何より自分自身に強いられて「真実」に全力で迫る、リュー・アーチャー(ロス・マクドナルドの探偵小説の主人公の探偵、最近忘れ去られたかもしませんが、村上春樹と同様に私もとても好きです。)を、私は決して嫌いではないが、あなたには、それは向かない、あなたの読者もそれを望まない、と私は思います。
探偵小説の探偵は、それぞれの国情(?) に応じ、独自路線を往くべきで、いわば国の数だけでも必要ではないでしょうか?私、例えば、現在の国家としての振る舞いをみて、フランスは嫌な国だと思いますが、メグレ警視シリーズはとても好きです。
浅見探偵がまた、別の、日本を舞台にした優れたシリーズで復活するのを望みます。多くの読者も、また日本人としての「正義」が実現されるのを望んでいるのではないでしょうか。