我が家では、一家全員で、童話作家斎藤洋さんの童話を愛好してきました。うちの長男が、保育園に行くころから(昭和61年ころから)、自営業であった妻に変わり、暇であった私が、毎晩、寝る前に、絵本の読み聞かせをしておりました(当時とても楽しかった覚えがあります。)。当時の保育園では、園児の年齢に応じ、「ひかりのくに」とか「こどものとも」とか費用徴収をして絵本を配布していました。
単価が高かったので、保育園での配付はなかったのでしょうが、福音館の「こどものとも」、「かがくのとも」、「たくさんのふしぎ」など忘れがたい、子ども向け月刊誌がありました。殊に「たくさんのふしぎ」は今もばっちり保存しておりますが、昆虫や動物、自然現象に関わる最新の情報に更新された自然科学などの新情報やその傑作集は、私が読んでいた社会科学系での著者の作品に至るまでも少なからずありました(「夢ってなんだろう」、「鬼が出た」、「びょうきのほん」など)。
「かがくのとも」などは、文章、写真、イラストも秀逸で、限られた予算で極めて質が高く気鋭の若い著者、作家も多く、こどものとも誌に、現職の動物園(旭山動物園)の飼育係(著者「あべひろし」さんなど、こどものともの付録に、手書きイラスト及び手書き文章で「どうぶつ新聞」が毎回ついてました。)など、様々な方が執筆していました。
「子供が科学に興味をいだけなくなるのは、(国の将来にとって)末期的なこと」と、どなたかの著書で読みましたが、私も、深く共感します。民族語、日本語でこんな素晴らしい子供向けの本が読めるのは極めて幸せなことです、子ども向けの出版がこれほど質が高いのは、日本と日本人にとって誇るべき文化といっていいと思います。それは、貧困、階級(?)や、社会階層を越え、貧民の子供でも読み書きができ、「志」と自己努力そして周囲のいくばくかの幸運な働きかけや支援があれば、多くの子供に、自分で思うより高次の自己実現が出来るという、救いのあり方を担保していると思われるからです。まさに、「自立心」の自己確立を助けるのですね。
ところで、こどものとき読んだ本というのは、一生を呪縛されるような(「読書せざるを得ないように呪われる」というような)場合があり、その意味、とても切実で、怖い場合もあることを承知おく場合があるかもしれません。それこそ、後知恵になりますが、無媒介でいいですが「明るく楽しく正しいだけで世界は出来ていない」ことを、教えてもらったのは、私にとっては主に読書からであろうかと思います。
前置きが長くなりましたが、こどもと始めた読書として、その中でたまたま出会ったのが、斎藤洋さんの「ルドルフとイッパイアッテナ」という童話です。事故で、野良ネコとなった、ルドルフという子クロ猫の成長記と冒険物語なのですが、それこそ話体で、子猫がずっと綴る極めて楽しい物語です。教養小説でもあり、彼を取り囲む世界と、庇護者(ひごしゃ)となった、教養(本が読める)もあり、雄猫としての実力もある、「イッパイアッテナ」という野良ネコ(「・・・もいっぱいあってな」という決め台詞が名前の由来)です。その観察と、ネコ社会、人間社会の批評が鋭くまた面白く、大人も思わずニヤッとさせる傑作です。
Eテレのファンの私としては、この作品が、後日、紙芝居のように動きの少ないアニメになり、毒蝮三太夫のナレートで夕刻に放映されたとき、うちの子供たちが、食い入るように眺めていたのを良く覚えています。このシリーズは、童話連作では今も続いています。
斎藤洋さんは、極めて、多作で活動範囲が広い作家で、忍者もの「なん者ひなた丸」や、ユーレイ・妖怪もの「ナツカのおばけ事件簿」、「タカオのつくもライフ」、歴史もの「西遊記」、「白狐魔鬼」それぞれシリーズがあり、少年小説「K町の奇妙な大人たち」、「遠く不思議な夏」、ジュブナイル「サマー・オブ・パールズ」「ミスカナのゴーストログ」、不思議話「ドローセルマイアーの人形劇場」、「アルフレートの時計台」、SF「ルーディーボールエピソード1」「イーゲル号航海記」シリーズ、大人向けに思える「コリドラス・テイル」、数多くのすぐれた絵本もあり、あらゆるジャンルにわたり、多産で、柔軟かつ優れた物語作家の面目躍如という感じですね。たぶん、翻訳されても彼の著書は世界的にも通用するのではないかとひそかに思っています。
彼のエッセイで初めて知りましたが、絵本の印税は、作家と挿絵画家と折半するとのことで、児童作家はその意味で報われないのかもしれませんが、作風ごとに良質な挿絵作家に恵まれ(使って)、良質な絵本を作っています。記憶に残るところでは、高畠純(白狐魔記)、杉浦範茂(ルドルフとイッパイアッテナ)、佐々木マキ(風力鉄道に乗って)、和田誠(空中メリーゴーランド)、物語と同時に、その特徴的な挿絵が楽しめます。
私の調べでは、出版総数258冊という膨大な数の彼の著書ですが、つまらない前向きな政治的な発言もなく、登場人物ひとりひとりの考えやセリフも良く吟味されています。
彼の物語は、「こどものためになる・・・」、「 ・・・の役にたつ・・・」などという課題図書などにまつわる過剰な倫理性やその裏かえしの通俗性、とは質の違ったユーモアで、よくある「良識」というバイアスに無縁なのは明らかです。むしろ、「面白ければ(いろいろな面白さがありますが)いいじゃない」という子供の健全性や、読書を通じて「・・・・・他者世界に対する想像力を養う」契機に至るまでの、レベルが保持されています。
2015年に出版された、「遠く不思議な夏」という物語で、小学生の主人公が、北関東の母の実家に遊びに行く(1950年代の終わりくらいに思われる。)話で、こどもに昔話をするのが大好きな祖父というのが登場し、早熟な孫の鋭い突っ込みにも、話しをねつ造し、うまいこと言い逃れるという話があり、思わず笑ってしまいます。しかし、まだ、忌みごととか、たたりとか、キツネとか妖怪とかが出てきて、知恵づき不思議を半ば信じることのできる年頃のこどもの世界や、経済成長前期である、まだ夢のある周囲の農村の世界が活写されています。むしろ、わたしたちが懐かしく追想するような「遠く不思議な夏」なのです。
彼は、良質な物語が、本当に、好きなのか、「西遊記」とかギリシャ神話とか海外童話の翻訳が多数あり、私にとって、とても懐かしい自然の王のようなアムールトラを描いた物語「偉大なる王」という翻訳小説もありました(小学校の時に黄色くなった古い版で何べん読み返したことか。)。落語ものとか、企画ものも多く、最近では、江戸時代の御庭番の女の子を描いた、良質の講談本の焼き直しのような物語も登場しています。つまり、彼は、彼の生活史に登場した、あらゆる読み物のジャンルを超え、それを置き換え、再度より面白く作り変えたいのかと、ひそかに思っているのではないかと推察するところです。
実際のところ、翻訳は、適当にしていただいて、オリジナルの童話をもっと書いて欲しい、というのが、われわれの切なる願いなのですが。なかなか、シリーズものも続編が出てきません(個人的に、父子家庭の小学生の男の子の、つくもがみ(古くなった物に憑く妖怪)との話を描く「タカオのつくもライフ」の続編を読みたいところです。)。また、スターウォーズに触発されたらしい、「ルーディーボールエピソード1」の続編も早く読みたいところです。長編も十分に読みごたえがあるのですが、短編では、正義感にあふれ、父親にゴーストバスター(幽霊・妖怪退治屋)の定職をあてがい離婚家庭を修復しようとする、金銭的にも性格的にもちゃっかりした明るい女の子による「ナツカのおばけ事件簿」シリーズは、定期的に新作が出ているようですが。怪奇譚「ドローセルマイアーの人形劇場」、「アルフレートの時計台」も、不思議な話を扱いながらも、「こうあったかもしれない」というわれわれの人性を視野に入れた上質な読み物になっており、読後に余韻が残ります。
いずれにせよ、彼の本領発揮であり、特に秀逸と思われるのは、ペシミズムと上質なユーモアに彩られた「風力鉄道に乗って」、「空中メリーゴーランド」、「ぼくのおじさん」、想像力により物語はどのように紡がれていくかという思考実験のような(?)「アブさんとゴンザレス」(これはすごい。
)、こどもや大人の垣根自体をはるか高く越えたような、優れた、面白い物語です。やはり、物語とは想像力の産物なのですね。
うちの子供たちに読み聞かせたときからはるかな時間がたってしまいましたが、今でも彼らは、我が家の共有本棚から、適当に手に取っているようです。
斎藤洋さんとの出会いだけでも、こどもを持って授かった小幸福の一つです。
決め台詞、「いやー、いい童話本って本当に楽しいですね・・・」。
単価が高かったので、保育園での配付はなかったのでしょうが、福音館の「こどものとも」、「かがくのとも」、「たくさんのふしぎ」など忘れがたい、子ども向け月刊誌がありました。殊に「たくさんのふしぎ」は今もばっちり保存しておりますが、昆虫や動物、自然現象に関わる最新の情報に更新された自然科学などの新情報やその傑作集は、私が読んでいた社会科学系での著者の作品に至るまでも少なからずありました(「夢ってなんだろう」、「鬼が出た」、「びょうきのほん」など)。
「かがくのとも」などは、文章、写真、イラストも秀逸で、限られた予算で極めて質が高く気鋭の若い著者、作家も多く、こどものとも誌に、現職の動物園(旭山動物園)の飼育係(著者「あべひろし」さんなど、こどものともの付録に、手書きイラスト及び手書き文章で「どうぶつ新聞」が毎回ついてました。)など、様々な方が執筆していました。
「子供が科学に興味をいだけなくなるのは、(国の将来にとって)末期的なこと」と、どなたかの著書で読みましたが、私も、深く共感します。民族語、日本語でこんな素晴らしい子供向けの本が読めるのは極めて幸せなことです、子ども向けの出版がこれほど質が高いのは、日本と日本人にとって誇るべき文化といっていいと思います。それは、貧困、階級(?)や、社会階層を越え、貧民の子供でも読み書きができ、「志」と自己努力そして周囲のいくばくかの幸運な働きかけや支援があれば、多くの子供に、自分で思うより高次の自己実現が出来るという、救いのあり方を担保していると思われるからです。まさに、「自立心」の自己確立を助けるのですね。
ところで、こどものとき読んだ本というのは、一生を呪縛されるような(「読書せざるを得ないように呪われる」というような)場合があり、その意味、とても切実で、怖い場合もあることを承知おく場合があるかもしれません。それこそ、後知恵になりますが、無媒介でいいですが「明るく楽しく正しいだけで世界は出来ていない」ことを、教えてもらったのは、私にとっては主に読書からであろうかと思います。
前置きが長くなりましたが、こどもと始めた読書として、その中でたまたま出会ったのが、斎藤洋さんの「ルドルフとイッパイアッテナ」という童話です。事故で、野良ネコとなった、ルドルフという子クロ猫の成長記と冒険物語なのですが、それこそ話体で、子猫がずっと綴る極めて楽しい物語です。教養小説でもあり、彼を取り囲む世界と、庇護者(ひごしゃ)となった、教養(本が読める)もあり、雄猫としての実力もある、「イッパイアッテナ」という野良ネコ(「・・・もいっぱいあってな」という決め台詞が名前の由来)です。その観察と、ネコ社会、人間社会の批評が鋭くまた面白く、大人も思わずニヤッとさせる傑作です。
Eテレのファンの私としては、この作品が、後日、紙芝居のように動きの少ないアニメになり、毒蝮三太夫のナレートで夕刻に放映されたとき、うちの子供たちが、食い入るように眺めていたのを良く覚えています。このシリーズは、童話連作では今も続いています。
斎藤洋さんは、極めて、多作で活動範囲が広い作家で、忍者もの「なん者ひなた丸」や、ユーレイ・妖怪もの「ナツカのおばけ事件簿」、「タカオのつくもライフ」、歴史もの「西遊記」、「白狐魔鬼」それぞれシリーズがあり、少年小説「K町の奇妙な大人たち」、「遠く不思議な夏」、ジュブナイル「サマー・オブ・パールズ」「ミスカナのゴーストログ」、不思議話「ドローセルマイアーの人形劇場」、「アルフレートの時計台」、SF「ルーディーボールエピソード1」「イーゲル号航海記」シリーズ、大人向けに思える「コリドラス・テイル」、数多くのすぐれた絵本もあり、あらゆるジャンルにわたり、多産で、柔軟かつ優れた物語作家の面目躍如という感じですね。たぶん、翻訳されても彼の著書は世界的にも通用するのではないかとひそかに思っています。
彼のエッセイで初めて知りましたが、絵本の印税は、作家と挿絵画家と折半するとのことで、児童作家はその意味で報われないのかもしれませんが、作風ごとに良質な挿絵作家に恵まれ(使って)、良質な絵本を作っています。記憶に残るところでは、高畠純(白狐魔記)、杉浦範茂(ルドルフとイッパイアッテナ)、佐々木マキ(風力鉄道に乗って)、和田誠(空中メリーゴーランド)、物語と同時に、その特徴的な挿絵が楽しめます。
私の調べでは、出版総数258冊という膨大な数の彼の著書ですが、つまらない前向きな政治的な発言もなく、登場人物ひとりひとりの考えやセリフも良く吟味されています。
彼の物語は、「こどものためになる・・・」、「 ・・・の役にたつ・・・」などという課題図書などにまつわる過剰な倫理性やその裏かえしの通俗性、とは質の違ったユーモアで、よくある「良識」というバイアスに無縁なのは明らかです。むしろ、「面白ければ(いろいろな面白さがありますが)いいじゃない」という子供の健全性や、読書を通じて「・・・・・他者世界に対する想像力を養う」契機に至るまでの、レベルが保持されています。
2015年に出版された、「遠く不思議な夏」という物語で、小学生の主人公が、北関東の母の実家に遊びに行く(1950年代の終わりくらいに思われる。)話で、こどもに昔話をするのが大好きな祖父というのが登場し、早熟な孫の鋭い突っ込みにも、話しをねつ造し、うまいこと言い逃れるという話があり、思わず笑ってしまいます。しかし、まだ、忌みごととか、たたりとか、キツネとか妖怪とかが出てきて、知恵づき不思議を半ば信じることのできる年頃のこどもの世界や、経済成長前期である、まだ夢のある周囲の農村の世界が活写されています。むしろ、わたしたちが懐かしく追想するような「遠く不思議な夏」なのです。
彼は、良質な物語が、本当に、好きなのか、「西遊記」とかギリシャ神話とか海外童話の翻訳が多数あり、私にとって、とても懐かしい自然の王のようなアムールトラを描いた物語「偉大なる王」という翻訳小説もありました(小学校の時に黄色くなった古い版で何べん読み返したことか。)。落語ものとか、企画ものも多く、最近では、江戸時代の御庭番の女の子を描いた、良質の講談本の焼き直しのような物語も登場しています。つまり、彼は、彼の生活史に登場した、あらゆる読み物のジャンルを超え、それを置き換え、再度より面白く作り変えたいのかと、ひそかに思っているのではないかと推察するところです。
実際のところ、翻訳は、適当にしていただいて、オリジナルの童話をもっと書いて欲しい、というのが、われわれの切なる願いなのですが。なかなか、シリーズものも続編が出てきません(個人的に、父子家庭の小学生の男の子の、つくもがみ(古くなった物に憑く妖怪)との話を描く「タカオのつくもライフ」の続編を読みたいところです。)。また、スターウォーズに触発されたらしい、「ルーディーボールエピソード1」の続編も早く読みたいところです。長編も十分に読みごたえがあるのですが、短編では、正義感にあふれ、父親にゴーストバスター(幽霊・妖怪退治屋)の定職をあてがい離婚家庭を修復しようとする、金銭的にも性格的にもちゃっかりした明るい女の子による「ナツカのおばけ事件簿」シリーズは、定期的に新作が出ているようですが。怪奇譚「ドローセルマイアーの人形劇場」、「アルフレートの時計台」も、不思議な話を扱いながらも、「こうあったかもしれない」というわれわれの人性を視野に入れた上質な読み物になっており、読後に余韻が残ります。
いずれにせよ、彼の本領発揮であり、特に秀逸と思われるのは、ペシミズムと上質なユーモアに彩られた「風力鉄道に乗って」、「空中メリーゴーランド」、「ぼくのおじさん」、想像力により物語はどのように紡がれていくかという思考実験のような(?)「アブさんとゴンザレス」(これはすごい。
)、こどもや大人の垣根自体をはるか高く越えたような、優れた、面白い物語です。やはり、物語とは想像力の産物なのですね。
うちの子供たちに読み聞かせたときからはるかな時間がたってしまいましたが、今でも彼らは、我が家の共有本棚から、適当に手に取っているようです。
斎藤洋さんとの出会いだけでも、こどもを持って授かった小幸福の一つです。
決め台詞、「いやー、いい童話本って本当に楽しいですね・・・」。