天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「福原愛選手」礼賛 リオ・オリンピック瞥見(べっけん)(追記) 

2016-08-26 21:17:13 | スポーツその他
8月22日付けで、リオ・オリンピックが閉幕しました。
 もっとも印象的な、「福原愛選手」については先に考察しましたが、その他の選手についても併せ印象記を申し述べたいと思います。

ア 男子卓球 水谷隼(みずたにじゅん)選手について
彼は、このたびのオリンピックが、彼の絶頂期に当たるかと意識化しつつ、最初で最後かもしれない自分にとって最大のチャンスであることを自覚し、個人戦予選から、自己の世界ランク上位者に対し、ねばり強く勝負し、その過程で自分を高め、たびごとに声を出し、自分を鼓舞することにより、殊に個人戦準決勝では地力に勝る世界ランク第一位をフルセットまで追い詰めました。同じく、三位決定戦では、とうとうメダル獲得することができたのは、祝着至極というところです。実力と、それを生かすチャンスを引き寄せ、勝ち取るという、運動選手として、最大級の成果と達成を見せていただきました。このたび、テニス競技で、宿敵、巨漢マレーにこのたびまた敗退した錦織君より、世界トップへの道行きは近いのでは、と感じさせてもらいました。
彼の試合は、大多数の中でたった一人で戦うという「男子の本懐」であるかのような見事な内容でした。
 彼の、自身を鼓舞する雄叫びが、忘れられないところです。
 しかし、かつて日本の景気が右肩上がりの時代に、当時とても強かった日本卓球はオリンピックでメダルを取っていたのかと思っていましたが、それはなかったんですね、改めて日本卓球チームの長い道行きを思い、彼の達成を言祝ぐつもりになりました。
 また、女子卓球と同様に、彼も、団体戦では切替えました。
優秀で、強いリーダーに遭遇した、2名のメンバーも実力以上(?) のものを発揮し、それは他の二人の選手たちの優秀な指揮官に対する忠誠心(ロイヤルティ)のようなものを感じましたが、フルセットもなんのその、たたかれてもたたかれても奮起し、ついに勝利を呼び込むリーダーに追随して、見事決勝にまで上り詰めました。
 決勝では、実力に勝る、中国に地力の差で完敗しましたが、水谷選手は、「今までに勝ったことのない選手に勝てた。」とコメントしていましたが、時を得たすぐれた競技者の戦いは、聴視者を歓喜させる試合ぶりでした。解説者が、「もう一人水谷君がいたら中国に勝てる」と言っていましたが、それはさすがに、ないものねだりでしょう。

イ 女子バトミントン(ダブルス戦)に団体戦について
  女子バトミントンチームは、「高・松コンビ」と称され、高橋選手(25歳)と、松友選手(23歳)のペアです。彼女たちは、一学年違いの、高校時代から続くペアで、高橋選手はハードヒッター、松友選手はコースと緩急の差を狙う技巧派と、後衛、前衛とその持ち分を分けています。どうも、そのあたりは結成が長いペアらしく、双方に十分に納得ずくらしく、競技中も彼女たちのやり取りが自然で緊密な時間が流れているように思われました。また、同時に、彼女たちは、世界ランク一位のペアらしいですが、彼女たちのスポーツは、身長や、手足の長いことはとても有利なんですね。
  高橋選手は、観戦・応援中の同じく競技者の妹さんがいましたが、どちらかといえば体育会系の熱血タイプに見えました。一方、松友選手の方は、冷静で、クールビューティ(?) という感じで、ほとんど感情を外に表しません。それは、スポーツ選手として、大事な資質と思いますが、負けて動ぜず、勝って動ぜず、スポーツマン=戦略家として、今までの日本人の競技者にはいなかったタイプで、私には、見ていて大変頼もしい気がしました。彼女たちの優勝インタビューで、インタビュアーから、前回のロンドンオリンピックでの日本チームの雪辱とか、投げかけられて、「試合、見てません」と正直に回答し、その正直な応対と、彼女たちのオリンピックは個人技でしか(彼女たちは前回国内予選で敗退し、出られなかった。)ないことがよくわかりました。また、競技によっては、世界選手権優勝の方が、オリンピックよりさらに重要視される競技も多いことも理解できたところです。
 メダルの獲得が全部でいくつと言い募るのは、観客席であり、競技(「見世物」とまでは言いませんが)を見守る国民ばかりなんですね。

ウ 柔道・レスリングについて
  バトミントン競技と比べれば、瞬間瞬間であれほどの僅差を争う壮絶な柔道やレスリング競技などで、三位になった選手が、「銅メダルですみません」と、異様に自罰的に(?) ふるまうように思えたのとは対照的でした。その差を考察すれば、柔道はもともと武道であろうし、レスリングも同様に、本来生死を巡る戦いであったかもしれず、スポーツとして、それを観戦・応援する立場とすれば、相対的に軽い(?) 他の競技と比べ異和を感じたのかも知れません。日本人とすれば、当然「柔・道」とか、「レスリング・道」とか考えてしまうのは確かな気がしますが、それを現在のスポーツとして、ポイント制で戦うというのはもともと無理なのかもしれません。殊に、武道の時代を知っている日本人としては、その点理解しにくく不満なところです。競技が世界規模になれば、適正な共通ルールは必要でしょう。しかし、このたび優勝した100kg超級の男子柔道フランスの黒人チャンピオンなどは、オリンピック巧者であって、良い競技者(武道家)とは思えませんでした。
 先のロンドンオリンピックで、女子柔道57kg級で優勝した松本選手は、当初予選から武道家の顔つきであり、その目つきからしてめらめらと青白く殺気が漂うようでした。見事金メダルを獲得した後、「野獣ちゃん」と揶揄(やゆ:からかうこと。なぶること。)され、その後、年頃の女性としては、色々傷ついたようです(現在27歳)。このたび、銅メダルで終わりましたが、なかなか、武道家であり続けること、金メダル獲得の栄典だけで、競技者として自己を律し、体調と、精神を維持していくことは大変なことなのですね。このたびの彼女は、試合前から、あの凄みは消えていました(飽くまで私の主観ですが)。やはり、頂点というものは一瞬なのですね。「時よとまれ、君は美しい」というオリンピックの記録映画がありましたが、それは一瞬が永遠であるかのように、真理をついていると思います。
 このたびも、世界で戦うのなら「求道者」ならぬ「競技者」で仕方ないと思いましたが、日本の選手の中では、女子レスリングの吉田選手ではないですが「競技が人間を作る」ケースも多いことでしょうし、日本の女子レスリングの選手たちなどのその錬成の過程から見れば、彼女たちも、武道家に近いのではないか、と思われました。
 いろいろ、興味深いものでした。猛暑をしばらく遠ざけられたように、思えました。