嫁に行った(結婚しただけ、と強く主張するかもしれない。)うちの娘が第二子を授かり、4月の初旬からわが家に里帰りしていました。
長男の二歳と数月の孫息子も一緒です。
3月末が臨月であったため、それまでは、フルタイムで働いている我が家は手が出せず、早くから、婿の実家に、日中ほとんど預けており、婿が、行ったりきたりで、めんどうをみていたようです。
おそらくそれまでの欠落感や、自分なりに堪えていたもの、飢餓感のようなものがあったのでしょう、彼が、病院で、弟に出会った際、母親に近寄ろうと、何が何か分からなくなって、大泣きをして暴れたそうです。
退院後、わが家に母親と一緒にやってきましたが、日ごろは、元気で前向き(?) であるような彼も、なかなか、われわれに近寄って来ず、「○○君、因循(いんじゅん)(ぐずぐずして煮え切らないこと)になったねー」と、つい言ってしまい、周囲から、「止めて」と小言を食らうような状態です。
そのうち、少しずつ気持ちがほどけたのか、われわれにも、タイミングを選んでまとわりつくようになりました。
しかし、娘が授乳するときとか、母親が赤子の世話にかかると、大声を出してむしゃぶりついて、必死で邪魔しようとします。それが、とても切実で、こちらが引いてしまうような状態です。こちらも懸命に阻止しようとしますが、なかなか、引き離そうとするのも大変です。
私の子育てははるか以前のことで、記憶のかなたではあったのですが、これだけ、感情をむき出しにするこどもを見るのにびっくりして、思わず「ほー」と感服してしまいました。
まさしく、「愛」というものは、強く排他的であり、同時に反目の「そねみ」、「しっと」とかも、負けずに強い感情であり、三つ子の魂ならぬ、二歳児でも、これだけ、強い感情の嵐があるのですね。この歳になって、とてもびっくりしました。まあ、今になって振り返る自分自身の幼児期体験や、育児体験は、全く棚上げにしてです(それは私の記憶の鈍磨かもしれません。)。
振り返ってみれば、どうも、これは、私自身の、生きる活力のようなものが逓減していってしまい、思春期から、恥の多い若き時代に至るまで、ほれた、腫れた、愛した、しっとしたなどの強い感情からはるかに離れたことの証拠なのかもしれません。
それは、仏教的には、執着が衰え、楽になり、お浄土へ近づいた(?) かもしれませんが、どうもそれはさみしいことではあります。
しかしながら、これから先、私自身、生の残照を味わうかのように醜く狂態をさらすこととなるかも知れず、いつものように、人性、先のことはわかりませんが、と申し上げます。
閑話休題、うちの孫にも、流行があるようで、あれほど「ぞうさん」に打ち込んでいながら、今は全く、「ぞうさん」について、言及しなくなりました。
そのかわりというか、彼の好きだったものをたどっていってみれば、自動車→電車→新幹線、その間に親が連れて行ったJR山口線のSL(スチーム・ロコモーティブというのか)見物をはさみ、彼の内面で進化していった結果、今は、「機関車トーマス」に夢中です。
どうもこのアニメも、長い放送の歴史があるようですが、このドラマの設定も、蒸気機関車がディーゼル機関車と張り合ったり、機関車トーマスの雇い主が、シルクハットをかぶって登場したりと、時代がいろいろ錯綜しています。
うちの婿がこども時代(20年から30年前)も、このアニメはあったというので、製作者側からもいろいろ変更・変遷の歴史はあったと思われまが、 現在の設定では、イギリスの架空の島で、彼らの生産(営業)活動は行われているようです。
さすがに、欧米のアニメであり、出てくる機関車やディーゼル機関車たちは、自分の意欲や欲望・野心を平然と口に出し、かつその目的に沿って行動します。それは、どうも、幼児の自己主張を肯定し、積極的な個性を見につけさせるという構えた教育的方針とは思えないので、英国では、ごく普通の脚本なのでしょう。
どうも、説明の文章(ナレーション)が多く、説明的でアニメの展開としては面白くないですね。
比較しても、日本の幼児番組の方が、このあたりの演出はずっとうまいと思われます。
番組の背景をみてみると、蒸気機関車と新興のディーゼル機関車たちの間には根深い対立があり、相手が悪いんだとお互いいに主張しあい、また、蒸気機関車の間でも、それぞれの優位性をめぐって闘いがあります。日本人の好きな「みんな違ってみんないい」などという価値観とは、はっきり齟齬するようです。
そこは欧米・外国産のアニメであって、対立し戦い合って、合意に達し、対当の立場で友情を取り結ぶということとなり、いわゆる、自立、できれば相互を尊重した並存型の共生を目指すこととなっています。
これはどうも、国家や民族など厳しい対立の中で、一致点を見出そうとする、欧米の思考であり、巧まずして、こどものうちから、知らず知らずのうちにそれを刷り込んでいこうとするのでしょう。
機関車の中には、公爵家所有の機関車などというものも出てきて、階級社会英国の現実や、その階級社会における鉄道事業に係る国民の実感はこんなものであろうかと思われるところです。また、同時に、アニメをとおしてでさえ、私たちにも、蒸気機関車発明の祖である英国の誇りと自負も、見る者に知らず知らずに感じとれるようになっています。
観察していると、どうも、うちの孫は、機関車トーマスの物語が好きというよりは、さまざまな機関車の種類と、そのキャラクターの違いに、もともとの乗り物好きが高じて、夢中になっているようです。どうも、登場するキャラクターは、日本からきた機関車の○○とか、日本国(?) の模型メーカーの意向を受け、新キャラクターが登場しているような気さえもします。
したがって、うちの孫は、さまざまな、相互接続可能な車両の模型をたくさんもっており、孫に「これは何」と聞くと、逐一名前を教えてくれ、そのうち飽きたら、答えてくれなくなります。
孫に甘いうちの妻に、「(機関車トーマスシリーズを)買ってやらないの」と聞いてみると、「いやだ」と答え、彼女もどうも「機関車トーマス」が好きでないようであり、私と同様に、彼のコレクションに買い足す予定はないようです。
「背景をみたら、結構厳しいアニメだよね」とたずねると、妻も同意します(彼女はスヌーピーの強力な愛好者です。)。
実のところ、わが家のこどもたちが幼少の頃から、このアニメはあった筈ですが、うちの親子がそれに打ち込んだ記憶はありません。
はっきり言って、うちの孫はその物語を頭に入れていません。
孫に言うと嫌われるかかも知れないので、私はいいませんが、機関車の先頭部分に人の顔が入っておのおの会話するのが見えるのは、どうも感覚的に好きになれません。なぜなのかは私自身の問題ですが、そこは、人の好き好きですので、勝手です。
昔、私の幼少時に、「トムとジェリー」というスラップ・コメディー(どたばた劇)アニメがあり、当時ディズニーアニメが嫌いだった私も、大変愛好しました(毎夕習慣のように見ていました。)。
折があって、それを今になってみてみれば、今の私にとっては、確かに「過激な暴力シーン」がたくさんあり(ディズニーアニメもそれがほとんど全てだったが)、今思えば、幼児がみていいのかどうかはなんともいえません。当時のアニメの舞台は、まだ元気で活力ある豊かなアメリカ社会であったかも知れませんが、今見ていると、ワンパターンでつまらないのですね。
まあ、漫画やアニメを倫理的な裁断で見ても不毛であることはよく理解しています。もともと、良識とか、価値あるものの息苦しさの中から、反目のように出てきた文化でしょうから。
それを言えば、テレビの放映番組の倫理規定に厳しいといわれる(これは受け売り)(社会の秩序・治安維持とかいろいろ問題があるのでしょう。)アメリカのアニメも、昔はいくらも過激であり、暴力シーンに満ちていたぞ、と私は証言できます。
先ごろより、わが市の美術館で、「羊のショーン展」が開かれています。
クレイ(粘土)アニメである、かのアニメは、登場してくるそのキャラクターや舞台装置にもなかなか味わいがあり、かわいらしい登場人物たちです。
内容は、トリックスター(いたずらもの)のショーンが農場を舞台に、仲間や地域社会を巻き添えにスラップ・コメディを繰り返すわけですが、皆が自分の思惑に忠実にもがき、衝突し、ブラックユーモアもあり、いい時代の、アメリカのどたばた劇をなぞっているようで、思わずにやり、とさせられます。
どうも、こども時代に、アニメ・フリークエンター(強烈なアニメ愛好家)だった人が、作成しているのであろう、と思われる作です。
うちの孫にはちょっと早いのかもしれません。
長男の二歳と数月の孫息子も一緒です。
3月末が臨月であったため、それまでは、フルタイムで働いている我が家は手が出せず、早くから、婿の実家に、日中ほとんど預けており、婿が、行ったりきたりで、めんどうをみていたようです。
おそらくそれまでの欠落感や、自分なりに堪えていたもの、飢餓感のようなものがあったのでしょう、彼が、病院で、弟に出会った際、母親に近寄ろうと、何が何か分からなくなって、大泣きをして暴れたそうです。
退院後、わが家に母親と一緒にやってきましたが、日ごろは、元気で前向き(?) であるような彼も、なかなか、われわれに近寄って来ず、「○○君、因循(いんじゅん)(ぐずぐずして煮え切らないこと)になったねー」と、つい言ってしまい、周囲から、「止めて」と小言を食らうような状態です。
そのうち、少しずつ気持ちがほどけたのか、われわれにも、タイミングを選んでまとわりつくようになりました。
しかし、娘が授乳するときとか、母親が赤子の世話にかかると、大声を出してむしゃぶりついて、必死で邪魔しようとします。それが、とても切実で、こちらが引いてしまうような状態です。こちらも懸命に阻止しようとしますが、なかなか、引き離そうとするのも大変です。
私の子育てははるか以前のことで、記憶のかなたではあったのですが、これだけ、感情をむき出しにするこどもを見るのにびっくりして、思わず「ほー」と感服してしまいました。
まさしく、「愛」というものは、強く排他的であり、同時に反目の「そねみ」、「しっと」とかも、負けずに強い感情であり、三つ子の魂ならぬ、二歳児でも、これだけ、強い感情の嵐があるのですね。この歳になって、とてもびっくりしました。まあ、今になって振り返る自分自身の幼児期体験や、育児体験は、全く棚上げにしてです(それは私の記憶の鈍磨かもしれません。)。
振り返ってみれば、どうも、これは、私自身の、生きる活力のようなものが逓減していってしまい、思春期から、恥の多い若き時代に至るまで、ほれた、腫れた、愛した、しっとしたなどの強い感情からはるかに離れたことの証拠なのかもしれません。
それは、仏教的には、執着が衰え、楽になり、お浄土へ近づいた(?) かもしれませんが、どうもそれはさみしいことではあります。
しかしながら、これから先、私自身、生の残照を味わうかのように醜く狂態をさらすこととなるかも知れず、いつものように、人性、先のことはわかりませんが、と申し上げます。
閑話休題、うちの孫にも、流行があるようで、あれほど「ぞうさん」に打ち込んでいながら、今は全く、「ぞうさん」について、言及しなくなりました。
そのかわりというか、彼の好きだったものをたどっていってみれば、自動車→電車→新幹線、その間に親が連れて行ったJR山口線のSL(スチーム・ロコモーティブというのか)見物をはさみ、彼の内面で進化していった結果、今は、「機関車トーマス」に夢中です。
どうもこのアニメも、長い放送の歴史があるようですが、このドラマの設定も、蒸気機関車がディーゼル機関車と張り合ったり、機関車トーマスの雇い主が、シルクハットをかぶって登場したりと、時代がいろいろ錯綜しています。
うちの婿がこども時代(20年から30年前)も、このアニメはあったというので、製作者側からもいろいろ変更・変遷の歴史はあったと思われまが、 現在の設定では、イギリスの架空の島で、彼らの生産(営業)活動は行われているようです。
さすがに、欧米のアニメであり、出てくる機関車やディーゼル機関車たちは、自分の意欲や欲望・野心を平然と口に出し、かつその目的に沿って行動します。それは、どうも、幼児の自己主張を肯定し、積極的な個性を見につけさせるという構えた教育的方針とは思えないので、英国では、ごく普通の脚本なのでしょう。
どうも、説明の文章(ナレーション)が多く、説明的でアニメの展開としては面白くないですね。
比較しても、日本の幼児番組の方が、このあたりの演出はずっとうまいと思われます。
番組の背景をみてみると、蒸気機関車と新興のディーゼル機関車たちの間には根深い対立があり、相手が悪いんだとお互いいに主張しあい、また、蒸気機関車の間でも、それぞれの優位性をめぐって闘いがあります。日本人の好きな「みんな違ってみんないい」などという価値観とは、はっきり齟齬するようです。
そこは欧米・外国産のアニメであって、対立し戦い合って、合意に達し、対当の立場で友情を取り結ぶということとなり、いわゆる、自立、できれば相互を尊重した並存型の共生を目指すこととなっています。
これはどうも、国家や民族など厳しい対立の中で、一致点を見出そうとする、欧米の思考であり、巧まずして、こどものうちから、知らず知らずのうちにそれを刷り込んでいこうとするのでしょう。
機関車の中には、公爵家所有の機関車などというものも出てきて、階級社会英国の現実や、その階級社会における鉄道事業に係る国民の実感はこんなものであろうかと思われるところです。また、同時に、アニメをとおしてでさえ、私たちにも、蒸気機関車発明の祖である英国の誇りと自負も、見る者に知らず知らずに感じとれるようになっています。
観察していると、どうも、うちの孫は、機関車トーマスの物語が好きというよりは、さまざまな機関車の種類と、そのキャラクターの違いに、もともとの乗り物好きが高じて、夢中になっているようです。どうも、登場するキャラクターは、日本からきた機関車の○○とか、日本国(?) の模型メーカーの意向を受け、新キャラクターが登場しているような気さえもします。
したがって、うちの孫は、さまざまな、相互接続可能な車両の模型をたくさんもっており、孫に「これは何」と聞くと、逐一名前を教えてくれ、そのうち飽きたら、答えてくれなくなります。
孫に甘いうちの妻に、「(機関車トーマスシリーズを)買ってやらないの」と聞いてみると、「いやだ」と答え、彼女もどうも「機関車トーマス」が好きでないようであり、私と同様に、彼のコレクションに買い足す予定はないようです。
「背景をみたら、結構厳しいアニメだよね」とたずねると、妻も同意します(彼女はスヌーピーの強力な愛好者です。)。
実のところ、わが家のこどもたちが幼少の頃から、このアニメはあった筈ですが、うちの親子がそれに打ち込んだ記憶はありません。
はっきり言って、うちの孫はその物語を頭に入れていません。
孫に言うと嫌われるかかも知れないので、私はいいませんが、機関車の先頭部分に人の顔が入っておのおの会話するのが見えるのは、どうも感覚的に好きになれません。なぜなのかは私自身の問題ですが、そこは、人の好き好きですので、勝手です。
昔、私の幼少時に、「トムとジェリー」というスラップ・コメディー(どたばた劇)アニメがあり、当時ディズニーアニメが嫌いだった私も、大変愛好しました(毎夕習慣のように見ていました。)。
折があって、それを今になってみてみれば、今の私にとっては、確かに「過激な暴力シーン」がたくさんあり(ディズニーアニメもそれがほとんど全てだったが)、今思えば、幼児がみていいのかどうかはなんともいえません。当時のアニメの舞台は、まだ元気で活力ある豊かなアメリカ社会であったかも知れませんが、今見ていると、ワンパターンでつまらないのですね。
まあ、漫画やアニメを倫理的な裁断で見ても不毛であることはよく理解しています。もともと、良識とか、価値あるものの息苦しさの中から、反目のように出てきた文化でしょうから。
それを言えば、テレビの放映番組の倫理規定に厳しいといわれる(これは受け売り)(社会の秩序・治安維持とかいろいろ問題があるのでしょう。)アメリカのアニメも、昔はいくらも過激であり、暴力シーンに満ちていたぞ、と私は証言できます。
先ごろより、わが市の美術館で、「羊のショーン展」が開かれています。
クレイ(粘土)アニメである、かのアニメは、登場してくるそのキャラクターや舞台装置にもなかなか味わいがあり、かわいらしい登場人物たちです。
内容は、トリックスター(いたずらもの)のショーンが農場を舞台に、仲間や地域社会を巻き添えにスラップ・コメディを繰り返すわけですが、皆が自分の思惑に忠実にもがき、衝突し、ブラックユーモアもあり、いい時代の、アメリカのどたばた劇をなぞっているようで、思わずにやり、とさせられます。
どうも、こども時代に、アニメ・フリークエンター(強烈なアニメ愛好家)だった人が、作成しているのであろう、と思われる作です。
うちの孫にはちょっと早いのかもしれません。