天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

思い出すことなど(わが義父について)  その8

2018-05-31 16:01:07 | エッセイ
思えば、当該ブログは、社会・思想の区分けで、登載しており、私とすれば、「志を高く」、できれば「質も高く」、展開していきたいと、強く、思います。
しかしながら、きわめて、恣意的に、興味本位(私に何が面白いかについて)に終始しているところでもあり、そのあたりは、読み飛ばしていただければ、と思っています。

ということで、先に「同窓会」などに深入りしましたが、引き続き、私的な思い出をつづりたいと思っています。

私は、大学を卒業と同時に、運よく就職でき、故郷(山口県)に帰京し、いなかならではの事情で、27歳のときに見合い結婚(あの年齢では、是非結婚したい、そういう時期がる。)し、その後は中間省略し、現在の私があるわけです。
それはきわめて、平凡な人性でありますが、それはそれで、春秋に富み、山坂もあります。

当時(1980年代前半)、いなかでも、見合い結婚は、珍しい部類となっており、マッチメーキング(媒酌人による男女双方の組み合わせ)(ボクシングの試合と同様の英語であり、笑えるところです。)の働きにより、どこの長男とどこの長女とがとか、家柄とか貧富(?) とか、それなりの瑕疵(かし;キズ・欠点)とか、ハンディキャップ(?) とか、いろいろ考えられた組み合わせがあり、事情通の地区の名士などのベテランのマッチメイカーが、事前調整し、「あそこのあの人」と「あそこのあの人」がと、斡旋をするわけです。
今思えば、これは、どうも、「お礼」とかの損得とか、感謝されたいとかより、歳をとって、「知り合いの子弟に、よい人にめぐり逢わせたい」、「若い人のお世話がしたい」という、純粋な好意に基づき働かれたようです。
その方々は、とうに鬼籍に入られ、いろいろ毀誉褒貶もあった方ですが、いまなら、その気持ちと善意が感じられるところです(かつて触れた、内田康夫の「浅見光彦シリーズ」で、浅見家に持ち込まれる、二男光彦に対する縁談のようなものですかね、おばちゃんになった人が、半ば自分の回春の夢を見るかのように、男女の世話焼きをしたがる、という話です。)。
昨今の「婚活市場」の厳しい話を聞くにつけ、日本政府の無策による貧困の問題を別にしても、現在の若者たちの寄る辺のない境遇にかわいそうな気がします。経済的貧困や、多忙や気持ちなどの余裕のなさによる社会的孤立は、個々の若者たちに「社会的関係の貧困」を招来するしかないように思われるからです。
今となれば、もし、身近に例があるなら、私も、世話焼きがしたいですね。若者よ、「一度くらいは結婚しろよ」、というところです。「世の中には、すべき苦労と辛抱はある」、と思います。

閑話休題、妻の実家は、中小企業を経営しており、二女の配偶者については、転勤のない公務員(私は地方公務員)を希望していたようです。今思えば、自分たちに相性のよい二女を、手元におきたかったような、義父母の思惑であったようです。
私も、二男で、二男・二女のカップルであり、比較的に「家」の呪縛からはのがれ易く、しかし、義父母たちは、わが父母と同様に、大家族の長男・長女であり、今思っても、世代的に、一貫して「割をくったような」、人性をおくっていました。
わが父は、長期の不在や、やはり偉い祖父のわりを食ったのか、こどもたちの扱いにどうも足りない、欠落したところがあり、私とすれば、その代わりにではないですが、今は亡き義父に、いろいろ教わったことは多いところです。
私の住むK市は、都市形態とすれば、商工業都市であり、農業もまだ十分に行われている、地方都市ですが、戦前から、茨城県が本社のH製作所が存置しています。現在は、車両部門(先ごろ英国に鉄道車両を輸出しています。)がほとんどですが、関連企業や、子会社、下請け企業の組合など、地元経済に大きな影響を与えています。
もともと、義父の会社は、戦後、家具製造業から出発していますが、H製作所の協力企業として、当該車両車体工事や、その艤装などの仕事を主にまかなうようになり、農家の長男が始めた初代の義父が兄弟などの親戚や、その家族や社員を含めた規模の企業になっていました。
生まれは、ちょうど大正二けた代で、それこそ、百田尚樹が言うように、三人のうち一人が戦死しているような厳しい世代です。
お酒が好きな人で、夕方の晩酌に行きあわせると、不出来の婿にも、さまざまな昔語りをしてくれました。
小学校の高等科を出て、家具の職人となり、従軍体験もあり、広島の原爆投下の翌日に、広島に入り、遺体の収容と、瓦礫などの撤去作業に従軍しています。原爆投下の日に現地にいなかったのは僥倖であったことである、と言っていましたが、今でも当時の戦友たちから、原爆手帳の申請の証人になって欲しい、と連絡がある、と述懐していました。幸い、義父には、めだった原爆症の発症は無かったようです。
話好きであったことも確かで、興が乗れば、戦争体験のことから、親会社との付き合いから、業者間の競争と戦いなど、自らの様ざまなクロニクル(年代記)を愉しく語ってくれ、それについても議論もたくさんしたところです。
酒の上での話なので、その話題は多岐にわたり、払えなかった税金のため、商品の差し押さえを受けた話(赤札をはられたそうです。)から、接待の効果で、一晩で仕事をもぎ取った話など、気持ちよく話は進みましたが、逆に、会社の後継者がちゃんと控えていたので、部外者の私とは、話しがしやすかったかもしれません。
基本的に、よい酒であり、ひょう逸で、楽しい話が出来ました。
進取の気性に富む人でもあり、私の知る限りでも、太陽熱温水器への投資(現物はうちでもらいうけました。)をしたり、アルミ素材による、新造船(漁船)を作ってみたりと、いろいろ、試行をしていました。
それこそ、命からがら復員したら、荒廃した国土や疲弊した家族が残っていた、という世代であり、どのようにして、戦後を生き抜いてきたかという話と、運よく(と言っていまた。) 右肩上がりの時代に生き合わせ、会社と社員を守ってきたかという話に尽きていました。アメリカ風に言えば、まさしく正統的な「ビジネスマン」(一代創業者)なのですね。
当時、「松下政経塾」という松下幸之助さんが創設した私塾(?) が評判を呼び、それに応募する若者たちに対して、私が批判的な言動をしたとき、「僕はそうは思わない」、「企業家として幅広い人材育成は当然必要なことだ」といい、さまざまに議論を仕掛けてきました。

今思えば、私たちの身近な、普通の生活者の中にも、優れた、敬すべき人がいるということもよく理解できます。

同業者の間でも、H協同組合の理事長を長く務め、商工会議所の副会頭もやっています(以前、商工会議所が盛んなころは、工業部会・商業部会からそれぞれ副会頭を選出していたようです。今はどうも、規制緩和によって商業部会の会員は、激減し、どうも組織として成り立っていないらしいです。)。
創業期当時の中小企業は、人材の確保が大問題であり、義母も運転免許を取得し、県内各地から、人手を集めてくるのに、おおわらわであったと聞いています。
景気のいい時代は、新卒者は誰も中小企業を相手にせず、当時も、懸命に集めた中卒の子など、地元の工業高校の夜間部などに通わせながら、寮のようなところで面倒をみており、生活指導などもしていたようです。
しかし、そんな子が、一人前になったら、辞めていってしまう、との話でもあり、それが採用試験など夢のような中小企業の実態です。近所の人に頼まれ、仕事のない、高校中退者なども、預かっていたようです。
後年、さる人が、その人は、私が、義父の関係者であると承知おいた人ですが、その家庭が母子家庭であり、母親に泣きつかれ、父の会社に就職したが、仕事が嫌でいつもいつも逃げ出そうとしていた。しかし、義父の指示で、従業員がチームを組み、おっかけてきて、逃げ出すのに往生した、と懐かしげにかたり、思いもよらず、義父の遺徳を偲んだところです。
結局、勤めは続かなかった人であり、偏屈そうな人でしたが、不思議に、親切にしてもらえました。
あるとき、会社の操業中、作業機械の操作ミスで事故となり、右腕を切断し、労災事故と、家族との間で裁判ざたとなり、大損害だったという話を聞いたこともあります。
その際、義父が、「君も、体が不自由になったのなら、勉強をして、他の道を目指したらどうか」、と助言したが、「どうも通じなかった」、とも言っており、中小企業の経営者の言葉として、含蓄のある言葉です。自己利益を出すばかりが、人として、なすべき仕事(人間としての社会的生活)ではないのですね。

敗戦後、戦争から帰ってきた男たちは、生家は貧困で、学歴もなく、生きていくため必死で働きました。その妻たちも同様で、しゅうと、姑、夫の兄弟などの世話に忙殺されました。うちの妻に言わせれば、子供のとき、遊んでもらった記憶など、ほとんどない、と言っています。

その厳しい奮闘の中で、戦後の経済的安定を勝ち取りながら、ひるがえって言えば、その受益を十二分に受けながらも、現在の不見識な政治家たちは、グローバリズムにうかうかと乗せられ、国益に反する、規制緩和、TPP、農協解体、行政部門民営化など、反動・背信政策に終始し、財務官僚は、国民の利害など眼中になく、自省の利害に終始し、経済の病、デフレ政策に全く手を打たず、バカ左翼・マスコミは、大多数国民大衆に明確に敵対する、反日勢力に加担し、八方ふさがりです。
今にして思えば、政治にも、経済にも、知識と造詣があり、視野の広い、国家や大多数の大衆を思いやる人材は、本当に必要なことです。
左翼バカはどうしようもないにせよ、見識のある、国民国家日本の真正のナショナリストの系譜は、政治家にも、官僚にも、企業人にも、途絶してしまったのか、と思えるところです。

わが義父も、晩年、体調を崩し、生涯を通じ、海外旅行など、一度も行っていません。本当に、お金をかけて遊ぶことの出来なかった、世代です。
しかしながら、義父の棺の前で、孫一同が、号泣していたことは、記憶にあります。

私も、同年生まれの、百田尚樹ではないですが、先に彼岸に行ったとき、われわれの父祖に愧じないよう、申し開きできるように、今後も、どうにかして、工夫して、我が国、内外の敵と、闘っていきたいものです。