天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「白夜の大岩壁に挑む クライマー山野井夫妻」(2007年作品)を観て

2018-12-26 20:55:24 | スポーツその他
 BS放送NHKの朝番組に、渡邊あゆみアナウンサーをMCとして、「NHKプレミアム・カフェ」という番組があります。過去放映した番組の中で、人気のある番組について、要望された番組を再放送する番組です。わが拙いブログでもそのうちいくつかについて触れたことがあります。
 
 この番組のMC(司会・進行者)の渡辺アナウンサーは、かつて黒田あゆみさんと名のっていたように思われます。それは、仕事(職場)名なのか、彼女は、良い時代のNHKアナウンサーの系譜を引いているようで、自分を目立たせず、上手に、番組とゲストとそれにかかわる逸話を導きだしているようです。

 その中で、折にふれ、何度も見かえしている番組の一つに、標記の番組があります。
 夫婦の登山家(登山家相互夫婦というべきかも知れない。)が、未踏峰の、極北のグリーンランドの巨大な岩塊に登攀を試みる番組です。最初は登山にかける夫婦愛情(人情)物語かと思っていましたが、決してそれだけの番組ではありませんでした。
 この夫婦は、登山家として有名な山野井泰史さん、妙子さんという人で、双方とも、殊に夫のほうは天才クライマーとして、その世界レベルの技術の高さ・確かさと、名だたる高峰の登攀の実績を残している高名な方のようです。
その名声の前に「現存する」という限定が付くのは驚くべきことですが、有名で優秀なクライマーは、日本人も含め、おしなべて早世していくというのが、どうも業界(?) の常識であるようです。
 彼ら夫婦も、それぞれ凍傷によって、手の指の何本とか、足の指が何本かない、という、身体の欠損を経ています。どうも、地上で、低地で暮らしているわれわれと、登山家たちとは、違った時間が流れているようにも思われます。
妻の妙子さんは、彼女の表現で、(遭難によって)「指が短かくなった」と言っていましたが、手の指の多くは損なわれて(?) います。
 それは見ている方がびっくりしますが、番組に付帯した取材録画を見れば、登山も下界での家事もそれで淡々とこなしているようです。彼女の女性的な表現で、「短かくなった」というのでしょう。女らしいひとだなあ、というのが私の感想です。
それこそ、登山家とすれば、平地の日常と、山での別世界の日常が、登山をよりどころに、相互に転換してしまうようなところがあるのかも知れません。人によっては、どちらにいても、馴染めないという場合もあることでしょう。
また、登山の選択自体にも、さまざまな人たちが多くの高峰を登頂しており、初登頂というのは少なくなり、現在では、同じ峻険な山でも、ルートにより難易度がいくつにも別れ、それによって、さまざまな、初登頂があるようです。彼らには、「名誉や、栄達のためでなく」と、仲間内での不文律があるのかも知れません。それは、こちら下界の住民としては、支払う労力・努力に比べ、とても効率が悪いことが理解できるからです。
 彼らの登攀の歴史、夫婦としての相互のいきさつや、履歴、事故のてん末などについては、ノンフィクション作家の沢木耕太郎氏(「凍」、2005年、新潮社)による、著書があるようです。
「夫婦のともづな」ともいいますが、かつて難度の高い高山での下山中の遭難時に、妻の懇願で(二重遭難を避けるため)「ザイルを切ってくれ」といわれても、夫は頑としてザイルを保持した、という経験があり、その結果として、夫婦が延命したようですが、それこそ、文字通り、「絆(きずな)」で深く結びついた夫婦であることがよくわかります。
 そして、そのうえで、体の欠損や、厳しい体験を経た夫婦が、それぞれスポーツマン(?) としてどのような登山をするのかが、観ているものの興味をかきたてることとなります。

 彼らはこだわらず(それが決してうれしいことではないことは見ていてよくわかる。)に、彼らの欠損の跡を見せ、今も痛みや不適合があることを話しますが、いずれにせよ、その欠損や不自由は、下界(?) の生活者たちと同様に、厳しい登山においても、彼らの技術や、工夫・技術によって補うしかないものです。
 今回の登攀の同伴者に同年齢の男性が一人おり、彼らは、今回3人でチームを組むわけですが、その男性も同様に、足の指が欠損しており、なかなかすばらしい(?) 組み合わせです。チームを組み、命を相互に預ける以上、私たちよりさらに厳しく強い、相互の紐帯と信頼が必要なのでしょう。
グリーンランドの岸壁(オルカと称せられるらしい。)とは、しろうとには完全な一枚岩のように見えますが、どうも、どうやって登攀路を見つけるかが、最初の手順になるようです。
 ふもとのベースキャンプまでは、登攀者以外の他の支援が受けられますが、中途からの段階的なベースキャンプには、完全に3人の協同作業ということとなります。相互の、登山家としての全経験と全技術を出し合い、登攀に臨みます。ルートの難度は当然としても、立ちふさがるのは天候や、風やらいくらもあるところです。
 どうも素人目で観ていると、二人一組で、トップとその支援(命綱の保持・支援が主と思われる。)がルート開拓を行い、足場を作っていきます。
 どうも、昔日のように、岩にボルトを打ち込むという作業ではなく、岩の隙間やクラックに、着脱可能な、金属やプラスチックのような足場器具を設置していくようであり、もし外れたらどうするんだろうと、こちらはひやひやするばかりです。
どうも、他者の命が架かったルートを作っていくのは、大変な心労と重圧を与えるようで、時間を計りつつ交代していかなければ、集中力や気力が持たないようです。たとえ、3人のチームにしても、その重圧からは逃れられない、ように思われます。
 リーダーらしい、山野井夫が、「アルピニストとして、リードを握れないと何の楽しみもないでしょ」、とメンバーに、プレッシヤー(?) 及び激励の言葉をかけます。
 彼らは、その自負心と誇りのために登攀しているのですね。
 殊に、山野井夫の笑顔がいいのですね。これだけ苛酷なスポーツにかける人ながら、童顔の優男で、白い歯を見せながらの、その話しぶりがとても魅力的です。男の私が見ても惹かれるようで、これはファンが多いのでしょうね。
 本人は年上の妻ひとすじかも知れないが。

 厳しい難所を経由し、最期の仮露営所(猫の額みたいなところです。)から下を見れば、足がすくむような高さです。一面世界の、氷河や、切り立った絶景が望まれ、文字通り絶景ですが、一般人としては、とても長くはいたくない場所ですね。
スープを沸かし、最小限の補給を済ませ、テントにくるまりそのまま眠ります。もちろん、無駄な体力を使わないためです。
最期の初登頂は、夫は妻にその権利を譲ります。
 人類未踏の地に、妻が最初に足を踏み入れ、文字どおりの「栄冠」を手にします。
 瞬間の王というか、つかの間の栄光ですね。もちろん、どんなに優れた達成も、永続することはないことが前提の話です。
この感動の質はいったい何なのかと考えてみました。
 私たちは、どうも、「類」としての同胞存在の優れた達成の成果を見ているのですね。殊に同じ民族として、非力な人間が、大した装備なしに、切り立つ極地の岩山を登りきるその努力と執念の見事さに、感動するわけでしょう。自分たちには及びもつかないが、優れた人が、不断の努力と節制で目的を成し遂げる、その過程に感動するといってもいいかも知れません。

 一時代、登山は、「征服する」と言っていた時代がありました。
 レイプじゃあるまいし(オヤジは下品です。)、さすがに、近年は、そんな表現をする人はいなくなりましたが、それこそ、自然の許容の範囲でなければ、登山などは不可能なことは、優れた登山家たちには自明であるからでしょう。
運が良かったから、自然が味方してくれたから、彼らはその様に語り、謙虚に振る舞います。死線をさまよったことのある彼らは、大言壮語はしないものです。
 私には、あの、冒険家、今は亡き植村直己さんの、茫洋とした風貌と、智恵遅れではないかと思われるかのような話しぶりが連想されます。優れたアスリートの日常というのはそんなものでしょう。

 登山したあとはどうするのか。栄冠の頂点から、「下界に帰還しなければならない」筈ですが、凡人の私たちとすれば、「どうやって帰るんのだろう」と心配するばかりです。
 帰路を放送で流すことはなく、最期に、山野井泰史氏が、何十キロもある一番大きい荷物を背負って降りてきます。見事なリーダーですね。

 かつて、BSNHKの別番組で、熟練登山家が、パートナーの登山家(女性)を、遭難でなくし、捲土重来を目指し、追悼登山を行い、ついに初志貫徹して、「(彼女の死に対し)初めて泣けた」と、号泣する番組を見ました。
 私には、人間の紐帯が、具体的に性差を超えるとは思わないが、それこそ困難な状況の中で、同じ棒組(仕事を分かち合うコンビ)として、命のやり取りをする体験をした人は、強い「絆」を相互に持つものでしょうか。
 私たちも「こんな苛酷な体験を一緒にすれば」と、他者には伝えがたいだろうが、数多くの愛憎を含むだろう、そのいきさつ(友情)に思いをはせます。
 それは、スポーツというには、過酷過ぎる営為ですが、ぎりぎりのところで奮闘する人間の姿は、その及びがたさとともに、観るものに深い感動を与えます。

 山野井さんは、登山にスポンサーを求めないということです。
 彼らは、パートタイム勤務というつましい生活の中で、遠征費用や、滞在費用や、現地でかかる経費を捻出し、外国政府との交渉をこなしていくのでしょう。そこに、少なくとも、プロとしての栄達はない、後付けになりますが、つましい中で、趣味とも、生きがいとも知れず、厳しい目的を追い求める、求道者のような姿があります。
 妻、妙子さんも、その辺のおばちゃんと全く変わらず、奥多摩のいなかで、目立たず、淡々と、日々を暮らしていくようです。
 同じ「日本人」として、とてもうれしく、誇らしいことですね。そして、その目だたない、夫婦としての過ごし方も、私たちには同様に、好ましく、感じられ、非凡な人というのは、きわめて平凡に暮らしているのだなあ、と納得します。

 最近、政治家や、有力者の言動や、行動を見るたびに、日本人として在ることが屈辱で仕方のないことが多いものですが、こんな彼らの姿を見れば、いささかもの、喜びや誇りを感じるところです。
 その後も、順調に、何度も、難度の高い山を踏破しており、そのキャリアを積み、ますます、その名を知らしめているようです。こんな人たちもいる、と、根拠はないのですが、心強い思いがします。