農協の市場で購入した、ラズベリーです。日本国のキイチゴに似た、ラズベリーを生食で楽しんでいます。「ブラックべリーとどう違うの?」と友人と議論しましたが、やはり、違うようです。蒸し暑い時節柄ですが、来年も、手に入ればいいな、と思います。
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先に、年若い友人と、バスによる団体旅行をしました。彼は現在40歳であり、私は、彼の父親のひととなりも一応は知っております。彼の、ご父君は早世され、私と彼の年齢差を考えれば、歳若い父親とその子くらいの年齢差があります。
彼は既婚者であり、幼児のこどもを持っているそうです。いわゆる、自分の職責(地方の消防職員)を通じた悩みや、こどもを育てる、また家族を維持する悩みや、対社会的な様々な戸惑い、悩みを抱えています。
私の観るところでは、どうも、自分の考える様々な問題に前向きで意識的なだけに、現代のよりよい若者の一人かも知れません。
旅先の気安さで、とりとめのない話から、政治の話まで、車中の時間に任せて、長時間話し続けましたが、彼は彼の歳なりに、日常的に解決できない、様々な疑問や、悩みがあり、私にとっても思わぬ発見があり、年長者として、こちらの対応できる回答をしていったところです。
そのあたりの気安さについては、彼は祖父母との同居経験があるらしく、実のところ、当方のようなじじいのあしらいには長けているのかも知れません(失礼)
私自身としては、常日頃から、現在の若者たちを囲む情況は、私たちの同年の時代からさらに厳しいものと観察・予測(実際のところそれが私の現在の問題意識について全てですが)しています。このたび、それについて、疑問・相談なり、彼の語る事実を聞くのは、大変興味深いところでした。
彼は、保守的な考えを持って(すなわち「パヨク」に疑義を抱いている。)いるらしく、彼の職場、地域社会や人間関係で生じる、様々な疑問をぶつけてきます。
「即答で解決できる問題などありはしない」、と考えいなしつつ、彼の考える問題の解決の糸口にならないかと、こちらも応酬します。
以下、二人の論点について列挙します。
◎来る東京オリンピックの問題について
あなたの言う、東京オリンピック騒動のばかばかしさと、それにまつわるつまらない騒ぎ・動きについて以下のとおり考えています。
先に、私、せめて東京オリンピックまでは生きたい(「当面、東京オリンピックまでは生きていたい」(希望の表明)併せ「山口茜選手」礼賛)2016・12・5)などと、つまらないことをブログに書き連ねていました。
しかしながら、オリンピックが近づくにつれ、あなたの言うように時流便乗的で、政府・マスコミ・便乗企業の策動などの現実的なあさましい商業主義と、多くの国民(に見える)たちのオリンピック手放し礼賛の騒動を見るにつけ、アホらしいので、相乗りして騒ぐのは止めようと思ったところです(パラリンピックについては別件でまた申し述べます。)。
しかしながら、私とすれば、私の学童期の昭和30年台後半(昭和39年だったんですね。)の最初の東京オリンピックは、当時、絶望的な敗戦後、日本人の懸命な努力と奮闘により、戦後復興を果たしたもので、それが、日本国民の自負心と誇りの高揚と、国家の経済的な向上と、新幹線・高速道など社会資本の充実にどれほど役立ったかは、言及する必要があろうかと思われます。
少なくとも、敗戦後、軍役を解除され、焦土と化した故郷に帰ってきて、困窮した家族のために、食うや食わずで必死に働いてきた、われわれの父祖の営為と努力と、その達成として、日本国民の自負心と自恃の心のもとで、それがなされたイベントであることを、忘れてはいけない、筈です。高度成長期の、幕開けのような時期でした。
少し脱線しますが、あなたの世代であれば、大変お気の毒ですが、人災による日本国の国力退潮期に当たり、われわれが多少恩恵をこうむった右肩上がりの時代とは無縁であり、いわゆる経済成長の時期の恩恵にめぐり合わすことは少なかったと思われます。
今思えば、短かった成長期の渦中で、誤ったソビエトスターリニズムや毛沢東民族主義の影響下にあったパヨクの烏合の衆、マスコミ左翼・偏向学者たちが、経済戦士・企業戦士たちを「エコノミックアニマル」などと、ののしり、蔑称しましたが、それは自分たちも繁栄の上に無自覚に乗りかかりながらほざいており、今思えば、まったく恥知らずな言動です。
そして、今になって、経済的繁栄のない国民(現在の人災デフレの下での、と想起しましょう。)が、どれほど寄る辺のない思いをするのか、当時、まったく不問にされていました。
それ以来、私たち大多数日本人たちは、1990年代から、政府と財務省のタッグを組んだ人災によるデフレが固定化され、この失われた30年で、すっかり貧乏になったわけです。
何よりも、多くの企業戦士たちが、技術革新や改善の意欲のもとで、懸命に働き、当然果たすべきその社会生活を全うし、当該企業も、その努力と成果に応えていた時代は、今思えば、きわめてまともな時代でありました。
他国との貿易により、他国を収奪しているというのは、昔も今もパヨクの常套句であり、そんなことよりも、現在の、中共、北鮮などのように他国の弱みにつけ込み、それこそ不平等貿易を押し付けたり、ついには平然と侵略を実行する、下劣で悪逆な実態を批判し、報道しろ、というのが、私の言い分です。
少し脱線しますが、私の学生時代(1974年から1978年まで)はやった、「三丁目の夕日」(西岸良平著)という、30年代(当然「昭和」です。)回帰漫画を読み、その能天気な「昔はよかった」という自省心のなさと、根拠のない自己回顧の無限肯定を、当時、私は心底憎んでいました。また、この原作漫画は、その後も、時間を経て映画化もされ、大きな支持を受け、大ヒットもしました。
しかしながら、今、もし、そのあたりの、多くの国民の共同主観性・共同感性(偽らざる生活実感)を救い上げるとするならば、経済発展と豊かで安定した生活と、夢や希望を抱ける社会を希求するのが、当面、大多数国民の本音なのではないかと思われます。
そして、その第一義のために、すなわち、将来に、夢や希望の持てる時代を実現・継続するため、極端な分配の不均等の是正や、安心・安全の国政を画策・操作するのが、いつの時代でも、政府・政府官僚の最初の役目であろう、と私は思うわけです。
私の若い時分から、老人の繰言で、「昔はよかったねえ」と言っていましたが、実際、私の生きた、昭和30年代から50年代に比べ、それ以降、経済的にも、政治的にも、よくなったことはまったくない、厳しい情況にあるのです。
現代のオリンピックは、政治的駆け引きの場である状況と、分けて考えることはできませんが、当初の東京オリンピックは、夢も希望もある時代の産物だったのです。
◎「学生時代はどんな時間を過ごしたのか」について回答します。
私、学生時代(1974年から1978年まで)、京都に居ましたが、その当時、学生運動が盛んで、周囲は皆、赤軍系の政治運動がごく一般的でした。しかしながら、私たちは、体制内左翼といわれた民生同盟員(共産党学生組織)や、新左翼赤軍とも肌合いが合わず、別途の在り方を求めていました。それなりに、お定まりの左翼だったわけです。
しかしながら、今になって、全共闘世代、東工大の先生の橋爪大三郎氏が、述懐していましたが、戦後の「日本の左翼運動は何の意味もなかった」、という点で、ほとんど賛成です。
私は、どうも、現在は、パヨクにつらなり、立憲民主党などの支援者らしい、現在の橋爪氏とは、一線を画しますが。
実のところ、私、当時、サヨク中二病であったのか、議会制民主主義など虚妄と思っており、家庭を持つまで、選挙などに行ったことは全くありません、でした。大衆が目覚めるのを待つ、と思っていました。結果として、愚かしい考えでした。
その後の、人並みの修行時代を経て、私なりの、思想的転回はあった、訳です。
どうも、今(2019年)考えれば、当時の、私たちやわが年長の安保世代を含めて、その後の長い時間の中で、団塊の世代の多くは、当時の自己のあやまてる思想遍歴に、どうも、何の自省も、嫌悪も、内省もなかったのではないか、と思われるのが、その結論です。
私たち同期で言えば、卒業を契機に、政治党派に属していたヤツバラは、見事に転進しました。「暴力学生」から、企業戦士や、公務員になった人間も多いところです。
しかし、その後の歴史の変動(?) を経て、どうも、誰も、高度資本主義の矛盾の中でも、世界規模で、各民族国家の国民大衆のほとんどが、窮乏したプロレタリアートによる「世界革命」など誰も望んでいない、ことが明確になりました。
何よりも、「国家の揚棄」をするなど端から嘘っぱちの夢物語であり、まあまともな国民国家(当然、近代を経た現在の議会制民主主義国民国家の枠内で)内では、国民の安心安全の確保と、経済的繁栄(この二つはうらはらの関係です。)以外を、開放される筈(?) の大多数国民大衆は、決して望んでいないことが、更に明確になりました。
ということで、殊に、われわれより少し上の、団塊のパヨク世代は、私たちにとって、非常に目障りですが、その歴史的(?) な役目はとうに終わった(お前たちはすでに死んでいる、ということです。)と思われつつ、そのバカ左翼の体質はそのまま温存され、国家は嫌い、政治は嫌い、自衛隊、警察はもとより嫌い(ついでに公務員も嫌いなら平仄が合うが)、そのバカサヨク根性をむき出しに、ことあるごとに、あらゆる国家政策に、無思考で、雰囲気だけで、「反対」「反対」と感情的な反応を繰り返します。
このあたりは、あなたも思い当たることは多いと思います。いわゆる、組織労働者などバカばっかりなんですね。
それにもかかわらず、今でも、失敗した後進国社会主義のなれの果ての、覇権国家である、中共、ロシアに過剰に心情加担して、あらゆる側面で(LGBT、女系天皇制問題、脱原発、米軍基地反対)いくらも、感情的な反動発言・反動行動を繰り返します。いい恥さらしです。早く死ねばいいのに、と思います。
◎ あなたは組合運動などを、しなかったのか?
残念ながら、あなたは、職務の特殊性があるので、組合員にはなれないですね。
しかし、私が、それを振り返ってみれば、就職した当時、新卒の学生としては、敗北した左翼体験を下に、社会的使命として、労働者の立場に立つ、真性の組合運動がなされているだろうと、思ったわけです。
しかしながら、考えることと現実とは、大違いであり、そんな高尚で絵に書いたような現実はまったくなく、まず、私の事業所は、共産党系の第一組合と、同盟系の第二組合が相互に反目していました。
さすがに、双方ともに入る気になれず、そのまま帰属していませんでしたが、ノンポリ(ノンポリティカル、政治運動をしないという当時の学生用語)といわれ、ノンポリというのは、「未組織組合員を指す言葉じゃないだろ」と思いましたが、さすがにいなかの話です。
そうは言っても、さすがに、共産党系組合に入る気になれず、その後、職場の人間関係で第二組合に入りましたが、彼らが賃金闘争などする筈もなく、名だけ入っていましたが、そういえば、こどもと一緒にスキー教室につれていってもらったことがあります。
私の見た範囲で、身内の宴会の主催と、自分たちの人事案件に介入することばかりで、これが、昨今の組合の実態なのですね。実際のところ、加入するとき、「出世できるから・・・」といわれ、「下品なヤツバラだな」と思いました。
そのうち、そのうち組合費が惜しくなり、「どうも、今後も出世できないようだから」(笑い)という理由で、やめました。やはり、慰留はありませんでした。
その後、先の「派遣切り」騒動のとき、当該組合の綱領に「社会正義の実現」を標榜しているからには何らかのアクションを起こすのかと、注視していましたが、どうもついぞ何もしていません。
結局のところ、今になって思えば、組織労働者の活動と歴史の中で、何が残ったんですかね?
彼らは、諸雑派雑居(力のない団体が押し合いへし合い無意味な行動を繰り返すこと)となった社民党、国民民主党、立憲民主党などとして、今も昔も変わらず、腐った政治活動を支援するわけでしょうか。
彼らのどんな政策を見ても、バカだなー、としか思えませんが、近頃流行の「外国人労働者の人権」をうたう前に、まず自国民労働者の賃金の向上に外国人労働者の導入が大きな問題であり、将来の労働者や大多数国民大衆に致命的な被害を与える、となぜ言わないのかと思います。
また、このたび、いいことは何もない、はっきりと労働者と国民の大多数(これは富者も含む。)の直接利害に対立する、消費税増税に対し、正面から、アホの自民党と戦わなかったのか、と腹が立ちます。お前らは、デフレの悪化に加担するのか、と。
これじゃあ、さすがに、お前のところの傘下組合員も、「いい加減にしろ」と、あんたらに愛想をつかしたんじゃないの、と思われます。
政治的アジテートを繰り返すばかりの、共産党系第一組合は、端から関与していません。
さすがに、団塊の世代でも、ロシアスターリニズム傘下のこの政党に、支持者は少ないらしいので、ここでは、言及はしません。
昔日は、所属組合が違えば、口も利かなかったそうですが、さすがに、われわれの世代以降はそこまで行かず、技術職が多い第一組合員と、事務職が主体の第二組合員は、比較的仲良くしていました。
どうも、ことの元凶は、団塊の世代に連なるじじい・ばばあ世代であり、彼らの、学生時代のアジ演説に似たような、無内容で、対外的に敵がい心だけむき出しの空疎な政治的発言や、仲間内での排他意識むき出しのサヨク発言を聞けば、バカ学生と一緒で、こいつらはダメだ、と心底思えます。なまじ、年を経ているだけに、もっとバカだ、というわけです。
くどいですが、結局、これらの世代が、「脱原発」とか、「基地反対」とか、その後の世界情況の変遷や、国民国家日本の大多数にとって、何が脅威であり、何を確立すべきかについて、まったく無自覚・無施策です。
おそらく、現在の、グローバリズムの大渦巻きの中で、本来必要とされるべき、健全な国民国家おいて不可欠な、大多数国民の利害の尊重と、健全なナショナリズムの肯定にいきつくことはないのでしょう。まさしく、老害であり、じじいの宿あ、なのです。
再度言います、いい恥さらしです、早く死ねばいいのに。
◎メディアの偏向問題について
あなたの言うメディアの偏向問題について回答します。NHKは偏向しているという、その話です。
私、さすがにアホらしいので、近頃、民放テレビはほとんど見ません。
ときに、興味深いドラマでもあれば見ますが、それはきわめて少ないところです。
その割りに、NHKの番組はよく観ます。Eテレと衛生放送が主流ですが。
しかしながら、あなたの言うように、不満はいくつもあります。
NHKの科学番組、歴史番組、幼児番組は好んで視聴します。現在、放映中の大河ドラマ、「韋駄天」も、不評だということですが、ビートたけしを除けば、面白く観ています。他にも、娯楽ドラマなどもよく見ている方でしょう。
ただし、ニュースなどは好みません。NHKの切り口が、非常に通俗的で、浅薄に思えるからです。
それは、その報道が「みなさまのNHK」として、不偏不党の、日本国民のみならず、どうも他国を同一視するような安いグローバリズムに配慮し、国籍不明で、NHKの高みから、日本国民を啓蒙し、教導していただけるような番組になっています。
視聴者にとっては、あんたらはどれだけ、インテリで偉いのか、と思わせるようです。
それは、日本国のインテリの宿命なのか、欧米系の教養で武装されているため、それこそ、欧米風の通俗的な、ポリティカルコレクトネス(浅薄な政治的・形式的公正さの担保)に呪縛されている。
言うこととやることが別の、帝国主義時代から、アジア・アフリカの後進国をだました、欧米流のダブルスタンダード(そんなものは古代からいくらも存在した。)などは、うかつにも端から意識することもなく、いわば無国籍の立場で、日本国民の大多数の抱く健全なナショナリズム(アジアの中での日本人の帰属意識)など、まったく配慮していません。
番組レベルで言うならば、何度も言う、あれほど質が高く面白い「日本語であそぼ」を作成するくせに、なぜ、その後に、あの通俗的な、「英語であそぼ」などというくだらない番組を、つまらない卑しいバランス感覚で、都合よく配置するのか、「お前らは、植民地になったこともないのに、恥知らずの植民地テレビか」とつくづく、ののしりたいわけです。おかげさまで、朝から不快になるので、私は、一連のEテレ番組を観なくなった。
どうも、この病巣は、私の記憶で言えば、かつて都知事選に立候補した、元報道記者の磯村尚徳氏などの呪縛なのか、欧米語の語学自慢が、報道の主流となり、いまだに、西欧主導のイデオロギーを跪拝・隷属するばかりとなっているのではないか。欧米オーソドックスの視点から、アジア特殊国家、日本国を見るという視点である。
「和魂洋才」と磯村氏も確か言っていた筈である。その後の彼の言動を見れば、どうもそれは、単にことばだけであったが、愚かしい結末です。
歴史観ひとつとっても、帝国主義の嵐に抗するアジアの中での「自主独立」日本、国民国家としての健全なナショナリズムの醸成、という明治期の理念と視点が欠落しているため、グローバリズムなどとという、米欧主導のかつての世界市民主義のような、安いしかし大変危険な理念に、何の疑いもなく載せられてしまう。
私のような普通の大衆とすれば、NHKの高学歴、高教養の幹部諸氏は、なぜ、日本人の価値観、歴史・伝統・文化をまず尊重し、肯定するスタンスを持たないのか、と疑問に思う。それこそ、NHKは、奇怪な、世界でも希な「正統なき異端」テレビになっている。
かつてのNHK会長が、「NHKは、国営放送であり、日本国のあるいは日本国の首班としての政府の意向のうちにその存在意義がある」と発言したが、私も、まったくそのとおりだと思う。
なぜ、バカな朝日新聞・朝日放送などに連動して、NHKは、国籍不明の、安い平等主義と奇怪なバランス感覚を根拠に、近隣の危険な覇権国家や、反日行動として、バカな政治発言を繰り返す頑迷な近代以前の腐った国家(南鮮そのものだ。)を、なぜ擁護するのか。
当然、日本人の大多数の利害に反する、不合理な、わが国の政府施策は、きちんと批判する報道はすべきことであるが、一般大衆として言わせてもらえば、その場合は、私はきちんと払うが国民から受信料をいただく「皆様のNHK」として、大多数国民大衆の利害に立って、その意見を陳べるのは当然のことである。
それでも、バカなパヨクコメンテーターに牛耳られ操作された、パヨク民放商業放送の報道番組を観ているより、少しはまし(?) なわけではあるが、つくづく、ため息が出るような情況ですね。
◎今、何が必要なのか
現在のグローバリズムは、米欧の一部の富者(金融資本)が、国境を越え、他国のほんの一握りの支配者と組み、世界規模で、その利害を実現しようとしているところにある。
日本国政府は、それに反対するどころか、規制緩和や、法律改悪により、農業・林業・漁業の解体など、自国国民の生命線を破壊し、他国に国内市場、いわば国民の安心・安全を無償で差し出している。
それについては、私の貧しいブログのみならず、先日お話した、小浜逸郎氏のブログ「ことばの闘い」を参考にして欲しい、と思います。
おりしも、現在、参議院議員選挙が行われています(その結果は、麻生太郎が消費税の引き上げを国民が承認した、とほざいていました。ろくでもない話です。)。
あなたは記憶にないでしょうが、私が思うに、現在の小選挙区制度、比例代表制度のもとで、国民の声は非常に政治に反映されなくなっている。無力感が、絶望感に変わらなければいいのですが。
そのことは、私のブログで触れたこともあったのですが、昔のように、中選挙区選挙により、同一選挙区で、なぜ、同一政党の政治家がしのぎを削るような状況にならないのか。それこそ、人物本位の選挙になり、民意がじかに反映すると思われるのです。
それは、実のところ、「死んだ子の年を数えている」わけですが、たとえば、「革新」政党になりさがった自民党も、その議員の選挙区だけ地方において、地方に住む大多数国民の切実な声に応えることはまったくないわけです。
本来、何よりも保守本流としての、自民党が、見識をもって、全世界で同時に仕掛けられている、一部の富者による、大多数弱者の収奪手段である、狡猾なグローバリズム政策を放棄すればよい、筈である。それに対し、わたしたちは、政策本位でしりをたたく必要がある。
デフレを強化する消費税の廃止、経済・亡国の病としてのデフレ解消、国民の生命線、農業・漁業・林業に係る、腐った構造改革(売国行為)の取りやめ、外国人労働者の無秩序な受け入れの廃止、実際にいくらも国難が山積し、夢も希望もない状況となっている。おしなべて、政治の貧困のためである。
私たちは、なかなかその解決方法を持っていませんが、今、あなたに申し上げるとすれば、そのような厳しく、希望を失うような情況にたいして、個人として意識的であり、考えを同一にする、同志を増やしていくしかないように思えるわけです。
当面、家族の幸福、知り合い・同志の幸福のみならず、そういう反省の契機に恵まれず、巻き添えをくうばかりの(決して全部が善良とはいわない。人間は環境しだいで善にも悪にもなるので。)、社会の大多数の国民の存在(大衆の原像)を視野にいれて、そのために、何をどうすればいいのかを、常に、誠実に考えて続ける必要があると思える、訳です。
そのあたりは、私は、学生時代から、考えを変えていません。
今後、ますます、私たちを取り巻く、グローバリゼーションの影響が多大なものになると思われますが、どんな厳しい情況になろうと、私たちは、明治の先人に習い、あるいは、敗戦後のわたしたちの父祖の苦闘を思い、まず、それらに手放しで迎合する、一部不道徳な支配層や、老若男女を通して無考えで愚かなパヨクたちを追い詰め、駆逐する必要があります。
明治期の優れたナショナリスト、福沢諭吉氏のことばを借りれば、私たちに「一身独立し、一国独立す」という気概がなければ、「独立の確保」はおろか、中共に蹂躙されるかも知れないわけです。
幸い、現在、あなたはフルタイムの仕事に就かれていると思われます。まず、日々の、その「社会的存在」としての責務を、お互いに果たしましょう。それはとても重要です。
そのうえで、「寸善尺魔」ということばもあったですね、自分自身の直接利害を超えて、お互いに、少なくとも善の側に組して、魔を退け、善の仕事が実現できるようにがんばりたいものですね。
まだまだ、いい足りないことは多く、また、いろいろ、話したいものです。
あなたの、現在の場所での、ご健闘、ご健勝を祈ります。
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先に、年若い友人と、バスによる団体旅行をしました。彼は現在40歳であり、私は、彼の父親のひととなりも一応は知っております。彼の、ご父君は早世され、私と彼の年齢差を考えれば、歳若い父親とその子くらいの年齢差があります。
彼は既婚者であり、幼児のこどもを持っているそうです。いわゆる、自分の職責(地方の消防職員)を通じた悩みや、こどもを育てる、また家族を維持する悩みや、対社会的な様々な戸惑い、悩みを抱えています。
私の観るところでは、どうも、自分の考える様々な問題に前向きで意識的なだけに、現代のよりよい若者の一人かも知れません。
旅先の気安さで、とりとめのない話から、政治の話まで、車中の時間に任せて、長時間話し続けましたが、彼は彼の歳なりに、日常的に解決できない、様々な疑問や、悩みがあり、私にとっても思わぬ発見があり、年長者として、こちらの対応できる回答をしていったところです。
そのあたりの気安さについては、彼は祖父母との同居経験があるらしく、実のところ、当方のようなじじいのあしらいには長けているのかも知れません(失礼)
私自身としては、常日頃から、現在の若者たちを囲む情況は、私たちの同年の時代からさらに厳しいものと観察・予測(実際のところそれが私の現在の問題意識について全てですが)しています。このたび、それについて、疑問・相談なり、彼の語る事実を聞くのは、大変興味深いところでした。
彼は、保守的な考えを持って(すなわち「パヨク」に疑義を抱いている。)いるらしく、彼の職場、地域社会や人間関係で生じる、様々な疑問をぶつけてきます。
「即答で解決できる問題などありはしない」、と考えいなしつつ、彼の考える問題の解決の糸口にならないかと、こちらも応酬します。
以下、二人の論点について列挙します。
◎来る東京オリンピックの問題について
あなたの言う、東京オリンピック騒動のばかばかしさと、それにまつわるつまらない騒ぎ・動きについて以下のとおり考えています。
先に、私、せめて東京オリンピックまでは生きたい(「当面、東京オリンピックまでは生きていたい」(希望の表明)併せ「山口茜選手」礼賛)2016・12・5)などと、つまらないことをブログに書き連ねていました。
しかしながら、オリンピックが近づくにつれ、あなたの言うように時流便乗的で、政府・マスコミ・便乗企業の策動などの現実的なあさましい商業主義と、多くの国民(に見える)たちのオリンピック手放し礼賛の騒動を見るにつけ、アホらしいので、相乗りして騒ぐのは止めようと思ったところです(パラリンピックについては別件でまた申し述べます。)。
しかしながら、私とすれば、私の学童期の昭和30年台後半(昭和39年だったんですね。)の最初の東京オリンピックは、当時、絶望的な敗戦後、日本人の懸命な努力と奮闘により、戦後復興を果たしたもので、それが、日本国民の自負心と誇りの高揚と、国家の経済的な向上と、新幹線・高速道など社会資本の充実にどれほど役立ったかは、言及する必要があろうかと思われます。
少なくとも、敗戦後、軍役を解除され、焦土と化した故郷に帰ってきて、困窮した家族のために、食うや食わずで必死に働いてきた、われわれの父祖の営為と努力と、その達成として、日本国民の自負心と自恃の心のもとで、それがなされたイベントであることを、忘れてはいけない、筈です。高度成長期の、幕開けのような時期でした。
少し脱線しますが、あなたの世代であれば、大変お気の毒ですが、人災による日本国の国力退潮期に当たり、われわれが多少恩恵をこうむった右肩上がりの時代とは無縁であり、いわゆる経済成長の時期の恩恵にめぐり合わすことは少なかったと思われます。
今思えば、短かった成長期の渦中で、誤ったソビエトスターリニズムや毛沢東民族主義の影響下にあったパヨクの烏合の衆、マスコミ左翼・偏向学者たちが、経済戦士・企業戦士たちを「エコノミックアニマル」などと、ののしり、蔑称しましたが、それは自分たちも繁栄の上に無自覚に乗りかかりながらほざいており、今思えば、まったく恥知らずな言動です。
そして、今になって、経済的繁栄のない国民(現在の人災デフレの下での、と想起しましょう。)が、どれほど寄る辺のない思いをするのか、当時、まったく不問にされていました。
それ以来、私たち大多数日本人たちは、1990年代から、政府と財務省のタッグを組んだ人災によるデフレが固定化され、この失われた30年で、すっかり貧乏になったわけです。
何よりも、多くの企業戦士たちが、技術革新や改善の意欲のもとで、懸命に働き、当然果たすべきその社会生活を全うし、当該企業も、その努力と成果に応えていた時代は、今思えば、きわめてまともな時代でありました。
他国との貿易により、他国を収奪しているというのは、昔も今もパヨクの常套句であり、そんなことよりも、現在の、中共、北鮮などのように他国の弱みにつけ込み、それこそ不平等貿易を押し付けたり、ついには平然と侵略を実行する、下劣で悪逆な実態を批判し、報道しろ、というのが、私の言い分です。
少し脱線しますが、私の学生時代(1974年から1978年まで)はやった、「三丁目の夕日」(西岸良平著)という、30年代(当然「昭和」です。)回帰漫画を読み、その能天気な「昔はよかった」という自省心のなさと、根拠のない自己回顧の無限肯定を、当時、私は心底憎んでいました。また、この原作漫画は、その後も、時間を経て映画化もされ、大きな支持を受け、大ヒットもしました。
しかしながら、今、もし、そのあたりの、多くの国民の共同主観性・共同感性(偽らざる生活実感)を救い上げるとするならば、経済発展と豊かで安定した生活と、夢や希望を抱ける社会を希求するのが、当面、大多数国民の本音なのではないかと思われます。
そして、その第一義のために、すなわち、将来に、夢や希望の持てる時代を実現・継続するため、極端な分配の不均等の是正や、安心・安全の国政を画策・操作するのが、いつの時代でも、政府・政府官僚の最初の役目であろう、と私は思うわけです。
私の若い時分から、老人の繰言で、「昔はよかったねえ」と言っていましたが、実際、私の生きた、昭和30年代から50年代に比べ、それ以降、経済的にも、政治的にも、よくなったことはまったくない、厳しい情況にあるのです。
現代のオリンピックは、政治的駆け引きの場である状況と、分けて考えることはできませんが、当初の東京オリンピックは、夢も希望もある時代の産物だったのです。
◎「学生時代はどんな時間を過ごしたのか」について回答します。
私、学生時代(1974年から1978年まで)、京都に居ましたが、その当時、学生運動が盛んで、周囲は皆、赤軍系の政治運動がごく一般的でした。しかしながら、私たちは、体制内左翼といわれた民生同盟員(共産党学生組織)や、新左翼赤軍とも肌合いが合わず、別途の在り方を求めていました。それなりに、お定まりの左翼だったわけです。
しかしながら、今になって、全共闘世代、東工大の先生の橋爪大三郎氏が、述懐していましたが、戦後の「日本の左翼運動は何の意味もなかった」、という点で、ほとんど賛成です。
私は、どうも、現在は、パヨクにつらなり、立憲民主党などの支援者らしい、現在の橋爪氏とは、一線を画しますが。
実のところ、私、当時、サヨク中二病であったのか、議会制民主主義など虚妄と思っており、家庭を持つまで、選挙などに行ったことは全くありません、でした。大衆が目覚めるのを待つ、と思っていました。結果として、愚かしい考えでした。
その後の、人並みの修行時代を経て、私なりの、思想的転回はあった、訳です。
どうも、今(2019年)考えれば、当時の、私たちやわが年長の安保世代を含めて、その後の長い時間の中で、団塊の世代の多くは、当時の自己のあやまてる思想遍歴に、どうも、何の自省も、嫌悪も、内省もなかったのではないか、と思われるのが、その結論です。
私たち同期で言えば、卒業を契機に、政治党派に属していたヤツバラは、見事に転進しました。「暴力学生」から、企業戦士や、公務員になった人間も多いところです。
しかし、その後の歴史の変動(?) を経て、どうも、誰も、高度資本主義の矛盾の中でも、世界規模で、各民族国家の国民大衆のほとんどが、窮乏したプロレタリアートによる「世界革命」など誰も望んでいない、ことが明確になりました。
何よりも、「国家の揚棄」をするなど端から嘘っぱちの夢物語であり、まあまともな国民国家(当然、近代を経た現在の議会制民主主義国民国家の枠内で)内では、国民の安心安全の確保と、経済的繁栄(この二つはうらはらの関係です。)以外を、開放される筈(?) の大多数国民大衆は、決して望んでいないことが、更に明確になりました。
ということで、殊に、われわれより少し上の、団塊のパヨク世代は、私たちにとって、非常に目障りですが、その歴史的(?) な役目はとうに終わった(お前たちはすでに死んでいる、ということです。)と思われつつ、そのバカ左翼の体質はそのまま温存され、国家は嫌い、政治は嫌い、自衛隊、警察はもとより嫌い(ついでに公務員も嫌いなら平仄が合うが)、そのバカサヨク根性をむき出しに、ことあるごとに、あらゆる国家政策に、無思考で、雰囲気だけで、「反対」「反対」と感情的な反応を繰り返します。
このあたりは、あなたも思い当たることは多いと思います。いわゆる、組織労働者などバカばっかりなんですね。
それにもかかわらず、今でも、失敗した後進国社会主義のなれの果ての、覇権国家である、中共、ロシアに過剰に心情加担して、あらゆる側面で(LGBT、女系天皇制問題、脱原発、米軍基地反対)いくらも、感情的な反動発言・反動行動を繰り返します。いい恥さらしです。早く死ねばいいのに、と思います。
◎ あなたは組合運動などを、しなかったのか?
残念ながら、あなたは、職務の特殊性があるので、組合員にはなれないですね。
しかし、私が、それを振り返ってみれば、就職した当時、新卒の学生としては、敗北した左翼体験を下に、社会的使命として、労働者の立場に立つ、真性の組合運動がなされているだろうと、思ったわけです。
しかしながら、考えることと現実とは、大違いであり、そんな高尚で絵に書いたような現実はまったくなく、まず、私の事業所は、共産党系の第一組合と、同盟系の第二組合が相互に反目していました。
さすがに、双方ともに入る気になれず、そのまま帰属していませんでしたが、ノンポリ(ノンポリティカル、政治運動をしないという当時の学生用語)といわれ、ノンポリというのは、「未組織組合員を指す言葉じゃないだろ」と思いましたが、さすがにいなかの話です。
そうは言っても、さすがに、共産党系組合に入る気になれず、その後、職場の人間関係で第二組合に入りましたが、彼らが賃金闘争などする筈もなく、名だけ入っていましたが、そういえば、こどもと一緒にスキー教室につれていってもらったことがあります。
私の見た範囲で、身内の宴会の主催と、自分たちの人事案件に介入することばかりで、これが、昨今の組合の実態なのですね。実際のところ、加入するとき、「出世できるから・・・」といわれ、「下品なヤツバラだな」と思いました。
そのうち、そのうち組合費が惜しくなり、「どうも、今後も出世できないようだから」(笑い)という理由で、やめました。やはり、慰留はありませんでした。
その後、先の「派遣切り」騒動のとき、当該組合の綱領に「社会正義の実現」を標榜しているからには何らかのアクションを起こすのかと、注視していましたが、どうもついぞ何もしていません。
結局のところ、今になって思えば、組織労働者の活動と歴史の中で、何が残ったんですかね?
彼らは、諸雑派雑居(力のない団体が押し合いへし合い無意味な行動を繰り返すこと)となった社民党、国民民主党、立憲民主党などとして、今も昔も変わらず、腐った政治活動を支援するわけでしょうか。
彼らのどんな政策を見ても、バカだなー、としか思えませんが、近頃流行の「外国人労働者の人権」をうたう前に、まず自国民労働者の賃金の向上に外国人労働者の導入が大きな問題であり、将来の労働者や大多数国民大衆に致命的な被害を与える、となぜ言わないのかと思います。
また、このたび、いいことは何もない、はっきりと労働者と国民の大多数(これは富者も含む。)の直接利害に対立する、消費税増税に対し、正面から、アホの自民党と戦わなかったのか、と腹が立ちます。お前らは、デフレの悪化に加担するのか、と。
これじゃあ、さすがに、お前のところの傘下組合員も、「いい加減にしろ」と、あんたらに愛想をつかしたんじゃないの、と思われます。
政治的アジテートを繰り返すばかりの、共産党系第一組合は、端から関与していません。
さすがに、団塊の世代でも、ロシアスターリニズム傘下のこの政党に、支持者は少ないらしいので、ここでは、言及はしません。
昔日は、所属組合が違えば、口も利かなかったそうですが、さすがに、われわれの世代以降はそこまで行かず、技術職が多い第一組合員と、事務職が主体の第二組合員は、比較的仲良くしていました。
どうも、ことの元凶は、団塊の世代に連なるじじい・ばばあ世代であり、彼らの、学生時代のアジ演説に似たような、無内容で、対外的に敵がい心だけむき出しの空疎な政治的発言や、仲間内での排他意識むき出しのサヨク発言を聞けば、バカ学生と一緒で、こいつらはダメだ、と心底思えます。なまじ、年を経ているだけに、もっとバカだ、というわけです。
くどいですが、結局、これらの世代が、「脱原発」とか、「基地反対」とか、その後の世界情況の変遷や、国民国家日本の大多数にとって、何が脅威であり、何を確立すべきかについて、まったく無自覚・無施策です。
おそらく、現在の、グローバリズムの大渦巻きの中で、本来必要とされるべき、健全な国民国家おいて不可欠な、大多数国民の利害の尊重と、健全なナショナリズムの肯定にいきつくことはないのでしょう。まさしく、老害であり、じじいの宿あ、なのです。
再度言います、いい恥さらしです、早く死ねばいいのに。
◎メディアの偏向問題について
あなたの言うメディアの偏向問題について回答します。NHKは偏向しているという、その話です。
私、さすがにアホらしいので、近頃、民放テレビはほとんど見ません。
ときに、興味深いドラマでもあれば見ますが、それはきわめて少ないところです。
その割りに、NHKの番組はよく観ます。Eテレと衛生放送が主流ですが。
しかしながら、あなたの言うように、不満はいくつもあります。
NHKの科学番組、歴史番組、幼児番組は好んで視聴します。現在、放映中の大河ドラマ、「韋駄天」も、不評だということですが、ビートたけしを除けば、面白く観ています。他にも、娯楽ドラマなどもよく見ている方でしょう。
ただし、ニュースなどは好みません。NHKの切り口が、非常に通俗的で、浅薄に思えるからです。
それは、その報道が「みなさまのNHK」として、不偏不党の、日本国民のみならず、どうも他国を同一視するような安いグローバリズムに配慮し、国籍不明で、NHKの高みから、日本国民を啓蒙し、教導していただけるような番組になっています。
視聴者にとっては、あんたらはどれだけ、インテリで偉いのか、と思わせるようです。
それは、日本国のインテリの宿命なのか、欧米系の教養で武装されているため、それこそ、欧米風の通俗的な、ポリティカルコレクトネス(浅薄な政治的・形式的公正さの担保)に呪縛されている。
言うこととやることが別の、帝国主義時代から、アジア・アフリカの後進国をだました、欧米流のダブルスタンダード(そんなものは古代からいくらも存在した。)などは、うかつにも端から意識することもなく、いわば無国籍の立場で、日本国民の大多数の抱く健全なナショナリズム(アジアの中での日本人の帰属意識)など、まったく配慮していません。
番組レベルで言うならば、何度も言う、あれほど質が高く面白い「日本語であそぼ」を作成するくせに、なぜ、その後に、あの通俗的な、「英語であそぼ」などというくだらない番組を、つまらない卑しいバランス感覚で、都合よく配置するのか、「お前らは、植民地になったこともないのに、恥知らずの植民地テレビか」とつくづく、ののしりたいわけです。おかげさまで、朝から不快になるので、私は、一連のEテレ番組を観なくなった。
どうも、この病巣は、私の記憶で言えば、かつて都知事選に立候補した、元報道記者の磯村尚徳氏などの呪縛なのか、欧米語の語学自慢が、報道の主流となり、いまだに、西欧主導のイデオロギーを跪拝・隷属するばかりとなっているのではないか。欧米オーソドックスの視点から、アジア特殊国家、日本国を見るという視点である。
「和魂洋才」と磯村氏も確か言っていた筈である。その後の彼の言動を見れば、どうもそれは、単にことばだけであったが、愚かしい結末です。
歴史観ひとつとっても、帝国主義の嵐に抗するアジアの中での「自主独立」日本、国民国家としての健全なナショナリズムの醸成、という明治期の理念と視点が欠落しているため、グローバリズムなどとという、米欧主導のかつての世界市民主義のような、安いしかし大変危険な理念に、何の疑いもなく載せられてしまう。
私のような普通の大衆とすれば、NHKの高学歴、高教養の幹部諸氏は、なぜ、日本人の価値観、歴史・伝統・文化をまず尊重し、肯定するスタンスを持たないのか、と疑問に思う。それこそ、NHKは、奇怪な、世界でも希な「正統なき異端」テレビになっている。
かつてのNHK会長が、「NHKは、国営放送であり、日本国のあるいは日本国の首班としての政府の意向のうちにその存在意義がある」と発言したが、私も、まったくそのとおりだと思う。
なぜ、バカな朝日新聞・朝日放送などに連動して、NHKは、国籍不明の、安い平等主義と奇怪なバランス感覚を根拠に、近隣の危険な覇権国家や、反日行動として、バカな政治発言を繰り返す頑迷な近代以前の腐った国家(南鮮そのものだ。)を、なぜ擁護するのか。
当然、日本人の大多数の利害に反する、不合理な、わが国の政府施策は、きちんと批判する報道はすべきことであるが、一般大衆として言わせてもらえば、その場合は、私はきちんと払うが国民から受信料をいただく「皆様のNHK」として、大多数国民大衆の利害に立って、その意見を陳べるのは当然のことである。
それでも、バカなパヨクコメンテーターに牛耳られ操作された、パヨク民放商業放送の報道番組を観ているより、少しはまし(?) なわけではあるが、つくづく、ため息が出るような情況ですね。
◎今、何が必要なのか
現在のグローバリズムは、米欧の一部の富者(金融資本)が、国境を越え、他国のほんの一握りの支配者と組み、世界規模で、その利害を実現しようとしているところにある。
日本国政府は、それに反対するどころか、規制緩和や、法律改悪により、農業・林業・漁業の解体など、自国国民の生命線を破壊し、他国に国内市場、いわば国民の安心・安全を無償で差し出している。
それについては、私の貧しいブログのみならず、先日お話した、小浜逸郎氏のブログ「ことばの闘い」を参考にして欲しい、と思います。
おりしも、現在、参議院議員選挙が行われています(その結果は、麻生太郎が消費税の引き上げを国民が承認した、とほざいていました。ろくでもない話です。)。
あなたは記憶にないでしょうが、私が思うに、現在の小選挙区制度、比例代表制度のもとで、国民の声は非常に政治に反映されなくなっている。無力感が、絶望感に変わらなければいいのですが。
そのことは、私のブログで触れたこともあったのですが、昔のように、中選挙区選挙により、同一選挙区で、なぜ、同一政党の政治家がしのぎを削るような状況にならないのか。それこそ、人物本位の選挙になり、民意がじかに反映すると思われるのです。
それは、実のところ、「死んだ子の年を数えている」わけですが、たとえば、「革新」政党になりさがった自民党も、その議員の選挙区だけ地方において、地方に住む大多数国民の切実な声に応えることはまったくないわけです。
本来、何よりも保守本流としての、自民党が、見識をもって、全世界で同時に仕掛けられている、一部の富者による、大多数弱者の収奪手段である、狡猾なグローバリズム政策を放棄すればよい、筈である。それに対し、わたしたちは、政策本位でしりをたたく必要がある。
デフレを強化する消費税の廃止、経済・亡国の病としてのデフレ解消、国民の生命線、農業・漁業・林業に係る、腐った構造改革(売国行為)の取りやめ、外国人労働者の無秩序な受け入れの廃止、実際にいくらも国難が山積し、夢も希望もない状況となっている。おしなべて、政治の貧困のためである。
私たちは、なかなかその解決方法を持っていませんが、今、あなたに申し上げるとすれば、そのような厳しく、希望を失うような情況にたいして、個人として意識的であり、考えを同一にする、同志を増やしていくしかないように思えるわけです。
当面、家族の幸福、知り合い・同志の幸福のみならず、そういう反省の契機に恵まれず、巻き添えをくうばかりの(決して全部が善良とはいわない。人間は環境しだいで善にも悪にもなるので。)、社会の大多数の国民の存在(大衆の原像)を視野にいれて、そのために、何をどうすればいいのかを、常に、誠実に考えて続ける必要があると思える、訳です。
そのあたりは、私は、学生時代から、考えを変えていません。
今後、ますます、私たちを取り巻く、グローバリゼーションの影響が多大なものになると思われますが、どんな厳しい情況になろうと、私たちは、明治の先人に習い、あるいは、敗戦後のわたしたちの父祖の苦闘を思い、まず、それらに手放しで迎合する、一部不道徳な支配層や、老若男女を通して無考えで愚かなパヨクたちを追い詰め、駆逐する必要があります。
明治期の優れたナショナリスト、福沢諭吉氏のことばを借りれば、私たちに「一身独立し、一国独立す」という気概がなければ、「独立の確保」はおろか、中共に蹂躙されるかも知れないわけです。
幸い、現在、あなたはフルタイムの仕事に就かれていると思われます。まず、日々の、その「社会的存在」としての責務を、お互いに果たしましょう。それはとても重要です。
そのうえで、「寸善尺魔」ということばもあったですね、自分自身の直接利害を超えて、お互いに、少なくとも善の側に組して、魔を退け、善の仕事が実現できるようにがんばりたいものですね。
まだまだ、いい足りないことは多く、また、いろいろ、話したいものです。
あなたの、現在の場所での、ご健闘、ご健勝を祈ります。