天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「別府旅行記」(文化と伝統を破壊するグローバリズムとどう戦うのか)(あらゆるところで猛威を振るうコロナファシズムとどう戦うのか。)(その5)

2020-09-16 22:19:17 | 時事・風俗・情況
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前回忘れていた、もみや料理編を追加します。
 妻の言い分ではありませんが、例えば京都に旅行して見て、こんないい料理の旅館にどうやって泊まっていいかわかりません。それが、近場で、実現できるのは幸せな出会い、というものかも知れません。
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宿の部屋から、ぼうっとして、庭を朝方眺めていましたが、水盤に小さな水連が浮かんでいるのが目に入り、可憐な白い花が咲いています。「花があるな」という認識です。
夕暮れになってふと目をやると、あの花々が皆スーッとしぼんでいます。
ああ、良いものを見たと思いました。

こんな体験をするため、私たちは旅立つのではないか。
世の中には夏の七草というのもあって、夏花の一つは、羊草(ひつじぐさ)、水連の花だそうです。良い名前です。昔の大島弓子の作品にそんな名前があった覚えがあります。
後で、仲居さんに聞くと、先に大女将が植えた花で、「ががぶた(鏡蓋)」というそうです。
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先に、コロナ以降、旅行できなかった期間を経て、政府観光キャンペーン「GO TO トラベル」を利用して、別府へ旅行した。
「不要、不急の県外移動はやめてください」、という、市及び勤務先の、同調圧力・間接強制のもとでの、私の日常生活の中においてである。

もともと、わが県(山口県)では、小学生の修学旅行の定番は大分県であった。
老人の温泉愛好ではないが、こどもたちにとっても、豊かな温泉、豊富な湯量と、熱泉で有名な別府地獄めぐりシリーズは人気があり、血の池地獄、海地獄、など、上級生からの申し送りで、旅行を心待ちにしていた。田舎の純朴(?) で、好奇心旺盛な、家族旅行もろくにしていないような、当時の小学生など、ちょろいものである。
そして帰途では、下関市で、今は無き大洋漁業(現在のベイスターズの昔のオーナー会社・捕鯨を中心にした総合食品会社を営んでいた。)の工場に立ち寄り、魚肉ソーセージを試食するのが定番(さすがにクジラの大和煮の接待はなかった。)であった。

 それを言えば、昭和の時代、湯の町別府は、職場の慰安旅行、新婚旅行などでも、当時の右肩上がりの時代前期における、定番の観光地であったわけであろう。同時にまた、別府は大人の歓楽街でもあった。

先ごろ、小学校以来、半世紀を経過し、夫婦で別府を再訪したが、思いのほか楽しい旅行だった。
最初は、電車(JR九州のスーパーソニック号である。)で行ったが、有名な亀井観光のバスで、 最高地点の温泉までバスに乗り、坂道を徒歩でくだりつつ、順繰りに、様々な温泉(地獄)を巡って歩いたが、鉄輪(かんなわ)温泉とか、興味深く、面白い体験だった。
 それぞれ、足湯、温泉たまご、野菜蒸し、両足蒸しなど、温泉の文化や伝統を尊重しつつ、趣向を凝らした、新たな体験ができる。

 それにつけても、いつもの定番である、中共人、南鮮人など、かまびすしく、どこの観光スポットでも、彼らの、傍若無人の振る舞いにいら立つのも同様である。何度も言うが、彼らには、他国の文化や伝統に対する敬意がない。彼らに教養がないのは確かであるが。
私の大衆としての感覚レベルでいえば、こんなイやなやつらと、折り合っていく必要があるのか、私の余暇の時間に、と、つくづく思う。
その辺りは、かつての、日本国、各観光地や、東京の名門百貨店と同様である(今はどうなったのだろうか。)。皆、よく辛抱していたな。
また、同時に、湯治客の減少からなのか、営業を休止しているような、小さな温泉旅館も数多く見つけた。
観光地の衰亡は、国民にもその責任はある。一義的に政府の責任である、デフレの長期化で現在の所得落ち込みで、そんな余裕がどこにあるといわれれば、それまでではあるが。

古代から、九州は中国大陸との文化・軍事、様々に、臣従も含め、独自交流をしており、もともと朝鮮・中共との人的な交流に抵抗感は少なかった、ところかもしれない。
 かつて訪れた(一昨年)博多の街も、かつては、家族連れの中共人が普通に居酒屋を利用し、ほしいままに行動していた。もともと、パリーグ球団ソフトバンクホークスが、韓国系のオーナーである。
楽天といい、企業のイメージ戦略で、企業や企業人として社会的責任を果たさない失点や欠落は、人気スポーツオーナーの企業として払拭される。バカな話である。
球団のファンであることは、オーナー会社がろくでなし企業であっても、同時に企業のファンなのか、私は真顔で問いたい。
俺(私)の好きな球団だから、社長はいい人、会社はいい会社、ケータイ電話を持ちたい、応援しようと思うのだろうか、なかなか、一般大衆とは不可解なものである。
前に書いたが、先に、ふと、テレビをつけたとき、「中―ソ」戦とテロップがあり、中共とソ連が野球をするのかと漫然と考えていたことがあり、そのような野球ファンはではあるが。

 しかしながら、現在のような、軍国・覇権主義独裁国家になり下がった、中共に対し、異議をもうしたて、サイレントインベージョン(静かなる侵略)に意識的である(すなわち中共に媚び国民と国富を売り渡す売国政治家たちに抗議する)ことは、日本人としてとても重要である、と思う。

 ここは、立命館太平洋大学のキャンパス地でもあり、駅前から外国人学生(南鮮系、中共系、それ以外はさすがにいない。)が、数多くバスなどに乗り込んでくる。さすがに、団体の中共人、南鮮人などは、目立っては乗りこんでこない。
 グローバリズム鼓吹・啓蒙大学など、もとより興味はないが、やはり、「落命館」(昔大学野球の際同立戦(同志社対立命館)の時「おちめいかん」と呼称した。応援のエールは「あほー、あほー、あほの立命」となる。)である。
 近年の国内大学進学率の低下で、国内市場ではなく、外国からの学生を当て込んだのか、成功したかどうかは別にして、きっぱりビジネスである。
 私の学生時代、「(大学の存在の意味とは)一部寡占資本に奉仕するパワーエリートの養成のため・・・」、とパヨク学生がアジ演説をしていたが、私たち学生の実感としては、パワーエリートとは程遠く、実のところ学生数水増しの立派な営利企業であった。
 ただし、うちの学校は、採算の合わない、神学部とか、宗教部とかあった。
 神学部のOB、あの佐藤優が書いていたが、当時の政治運動で警察に拘束されそうになった時、教官が裏になり表になり懸命に助けてくれた、という述懐があった。私の在学時にも、宗教部の職員たちにも、そのような雰囲気はあった。

 もともと、ここ別府は、観光のためには、なんでもやる、ところらしく、駅前に銅像が立っている「観光の父」、油谷熊八氏は、別府に観光客を誘致するため、富士山に観光宣伝塔を建てたり、大阪で、セスナを使い観光ビラをまいたり、亀井観光で美人バスガイドを大量採用したりと、ときに猥雑で、時勢を見越した、たくましい観光商法を行った(銅像の賛にそう書いてある。)わけです。
 こういう目端の利く人や、大衆の現実・動向を見越した先見性のある人は、私は好きです。
  
 しかしながら、好みといえばそこまでですが、現在の別府市の、地方文化の隆盛などというプレゼンでの、別府アルゲリッチ音楽祭など、好きになれません。
 地方で、文化を売りにするなら、それぞれの、独自の文化や伝統に根差したものを売るべきでしょう。おまけに、つまらないイデオロギーに媚び「平和」とか、ついでに、落ち目のピアニストを担いで、「国際化」とか、おまけをつけて強行するなど、地方公務員・文化人がおちいりやすい、つまらない話です。
 もともとクラシック音楽に動員力があるかどうかわからないし、そんなもので、観光客は動かないよ、と思えます。

 別府市は、一時は羽振りがよかったのか、立派な箱物は市内の随所にあります。
 「一村一品運動」で名をはせた、平松知事も決して嫌いではありません。「シンクグローバリー、アクトローカリー」を、「世界規模で思考し国民国家大分県民大衆の利害のために動け」、というのは決して間違いではありません。

 前々回に訪れた時、街あいの一坪にも満たないような揚げ物屋(とんかつや)で聞きましたが、昔は、おやじたちが好んだ、ストリップ劇場や、風俗も盛んで、歓楽客のために、狭い一階の店舗で、深夜まで料理屋を営み、こどもたちは二階で寝起きしていたといいます。
 ある意味悲惨な話ですが、景気の良かった時代を、問わず語りで、懐かしいそうに話しますが、商売人の「昔はよかった」という話も、旅先ではいいものです。

 街は、朝鮮焼き肉や、冷麺屋なども多く、潜在的に在日の方々の数も多いものだと思われます。
 繫華街のはずれに、立派な伝統建築である共同浴場竹瓦温泉があり、中は、カランも何もない浴槽だけの浴場は、あきれるくらいシンプルで笑えます。別料金を出せば、砂蒸し風呂もあるようです(その後コロナ戒厳令下でどうなったか今回見ていない。)。いずれ、試しに行く予定です。

 妻は嫌がりますが、古びて、落ち目になったうらぶれた繁華街も、旅行者として散歩するにはいいものです。
 あっちこっちで、落ち目のあんちゃんなどもたむろしています。

 こんな景色を好むのも、こちらも古びたからだろうという自覚はあるのですが、さすがに日本有数に温泉地であり、今でも、街中に小規模の銭湯(おんせん)などいくらもあります。
 どんな人が今、どうやって生計を営んでいるのかと、こちらの興味を、好奇心をゆすぶります。
 街中には、なぜこんなものがあるというようなびっくり店舗(秘宝館は見なかった。)や、老舗のパン屋もあります。
 キャバレーのようなアメリカンスタイルのダンスホールや、トキハ百貨店もまだ健闘しています。
 それぞれ、営業の工夫と、努力のあとがよくわかります。

 しかしながら、油谷さんのように、先を読む必要がありはしないか。
 今、日本国で金が使えるのは、高齢者層である。
 彼らの潜在需要がどうなのか調べ、それに配慮する必要がありはしないのか。
 私もそうであるが、日本国の文化や伝統に敬意と配慮ができず、それどころか、最低限のマナーも払えない外国人を私は許さない。
 看過することさえ腹が立つ。必要であれば、つたない英語でたしなめる。そのために英語を学習したわけでもあるから。
 南鮮も中共も英語立国(英語が使えないと生きていけない国家)であるので、彼らは私よりましな英語を話すだろうが。

 日本人観光客が来なくなった別府に、これから誰が来るというのか?
 観光地の窮状ということで、様々な観光地で私は感じ、考え、ときに旅館の人と話をしました。国内旅行を怠り、日本独自の歴史や伝統に意識的でなかったのは、確かに国民大衆の責任です。
 今でも、日本国の各所には、私たちの知らない様々興味深いことがあります。

 閑話休題、定宿(じょうやど)となった割烹旅館(かっぽうりょかん)のことである。
 このたび、「GO TOキャンペーン」でネットデビューをされたということで、名前を公表します。
 割烹旅館もみやといいます。
 実のところ、貧しい私たちは、もともと割烹旅館の意味も知らなかった。
 加齢(?) により、おいおいその意味を覚えてきたところで、この旅館に巡り合えたのは、幸せである。別府駅の山の手口から、徒歩10分くらいのところにあり、電車でも、自家用車でも行けます。
 板前さんは、京都で料理修行をしたという人で、この旅館は、料理旅館として、昼食とか、宴会でも有名なところです。
 世間話のついでに聞けば、先の大分県の平松知事などお歴々たちがよく利用していたとのことです。

 今、思えば、うちの妻はよく家で料理をする方だと思う。
 小学校時代、重度の食物アレルギーであった長男の給食を、ほぼ毎日自作し、届け続けた。
 その中で、様々な料理の技術・体験をしたのだと思う。
 ときに「あんたなんかに料理の味はわからない」と、言下に言われるが、うまい、まずいくらいはわかる、時にあなたのまずい創作料理はわかる、と、心中で、妻をへこましておく。

 最初に宿泊したときは、11室あるというこの旅館の一番いい部屋に案内してもらい、重厚な板戸の広いガラス越しに、見る場所によって、陰陽と趣のある庭を堪能した(標記の写真のとおりです)。
 建具も古びが入っており、ケヤキのくり火鉢のそばで、板戸を開け放ち、ゆかたを着くずし、古畳に手枕で横たわりながら、庭を眺めているのは至福の時間である。

 うちは前述したように、美食をする家ではないが、ここの料理は別格である。
 板前さんは、さすがに京都で修行したという人であり、これが正統の京料理なのかと思われる。
 奇をてらわず、しかし新しい試みの美麗な懐石料理が並ぶ。質も飛び切りと妻が言う。
 季節により、メイン料理は、城下(しろした)かれいとか、フグとか、豊後牛とか並ぶ。
 妻に連れられ、条件の許すところで、名店という旅館をいくつか渡り歩いたが、結局、ここの料理が一番良かった(妻も同意する。)(美食ブログになってしまいます。)。
 うちの妻が言うが、器(うつわ)も素晴らしいという、有田とか、古伊万里とか、呉須の色がいいと教えてくれる、器を乗せる大分の竹細工もきれいで、飴色のつやが出ていて思わず手に取って賞玩したいようなものもある。

 部屋付きの仲居さんがおり、客をそらさない応対をされる。
 この道何十年という、サービスは見事なものだと思う。ツボを得た、対応であり、およそほとんどのことはこなし、きちんと教育を受けた人であろうことがこちらに感じられる。問われたこと以外、不必要なことは言わない。
 こういうのが、「おもてなし」というのではないかと思われる。
 何度か通ううちに、一応は引退して、現在は温泉付きのマンションに一人で住んでいると、彼女の境涯を話してくれた。私たちもいつの間にか気の置けない存在になったのかもしれない。
 言葉の端々に、接客業としての彼女の自恃の心がのぞく。
 私は自分の仕事に自負心を持たない人を信用しない。いい意味で彼女は客と対等なのだ。
 そしてまた、旅館業務は人手を要する。サービスの維持だけでも、たくさんの人手がかかっている。「今日から減額」というわけにはいかないのである。この業種はブラック企業ではやっていけない。
 本来、心づけが常識なのであろうが、私たちにはそれができない。しかし、外国でチップを払うくらいなら、日本でひそかに包みたい、と思う。

 いつぞやの湯布院での、えせ日本旅館がおもい浮かべられ、改めて、歴史と伝統と文化というものが、私たちの生活になくてはならないものであるかが、納得・理解できる。
 ここの旅館で、私は「おもてなし」の実存形態(大ぎょうな話であるが)ではないかと思う。
 それにつけても、このような、私たちにも利用可能な、老舗旅館が、将来に向かって、グローバリズムやコロナの狂騒の中で消えていきつつある、あるいはすでに消えてしまったのかもしれないことを私は惜しむ。
 たぶん、その喪失の原因とは、金銭のみならず、おもてなしに対する相互の気持ちの交流がかなえられず、危うくなったことではないのか、と思う。苦労して生業を営む張り合いをなくすのだ。
 必要なのは、苦しい時は助け合う、という、国民国家日本人の大多数庶民の相互の気持ちの交流であろう。

 若女将(わかおかみ)のことに触れることを忘れていた。
 ここの旅館は、創業者大女将(おおおかみ)という人が健在であり、人前には出てこないが(たぶん働き場所があるのだと思う。)、彼女は、孫にあたるのだと仲居さんが言っていた。
 最初の日にあいさつにでてくるのだけど、けらけら笑う、明るい人である。
 私は、女将見習いと、自分で言っており、そのことでまた、けらけら笑う。
 必要以上に決して介入しないが、地元の観光案内をいろいろ教えてもらった。別府市の竹細工記念館もその一つである。
 旅館内には私設の美術館もある。
 別府にゆかりのある竹細工やらちぢみの小さくかわいい人形なりが廊下の陳列台に並べてある。
 たぶん、象牙細工の一連の人形なども価値あるものだと思う。
 旅館の二階部分に、陶磁器やらの一連のコレクションがあり、掛け軸なども収蔵されている。
 大女将が集めたものだという。
 宿泊を重ねるにつれ、様々な客室を見ることができた。
 たびごとに、新しい発見ができるのは楽しいことである。

 この度は二泊し、連日、近在の温水プールで泳いでいた。
 最後は、日地町(ひじまち)の、私営、かけ流しプールというのに行ってみた。
 別府のプールということで、お約束で、シャワーでシャンプーは使えない。
 小中学校のプールと同様ということである。
なれれば、そんなものかという気になる。
 また、別府で有名な城下カレイは、日地城(暘谷城)の地下水が別府湾で湧出し、そこで育つ、まこカレイのことを称すると聞いた。
 城址には、あの滝廉太郎の銅像もあり、こんなことも、行ってみなければわからないものである。

 この旅館では、過剰なお出迎えも、過剰なお見送りもない。
 仲居さんが言っていたが、時々、美味しいものを食べに、骨休みをしにくればいいじゃないの、といい、まったくそのとおりだと思った。
 時を置かず、また早く行きたいものだと思っている。