天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか。(その5)(コロナファシズムとどう戦うのか。)

2021-03-25 18:55:01 | 時事・風俗・情況
先に、NHKの将棋早指し選手権の決勝を見ていましたが、今年は見事に、昨年の決勝敗退者、稲葉陽(あきら)8段が優勝しました。本人も、また、対戦者の斎藤慎太郎8段も、順位戦で、プロ棋士で10人しかいない、A級バリバリの人です。
殊に、斎藤8段は、今期の順位戦で高い勝率であり、稲葉8段にも勝ちこしています。
私の記憶では、昨年の決勝の際、稲葉8段は、対戦相手のベテランの深浦康市9段に、もろくも(?) 敗れ去ってしまいました。
当時の私の個人的な印象で、彼は、勝負師として人が良すぎるのではないかと、思われました。
それのせいなのか、過去において、なかなか、タイトルに手が届かなかったところです。
彼は、今年の同番組の、将棋講座の講師をも勤めており、地味ながら、丁寧で、親切な教え方は、しろうと目にも、謙虚で好ましいものでした。
今年も決勝までに勝ち上がりましたが、プロの勝負師として、捲土重来を目指す、強い決意が表れていました。
最近の将棋は高度になりすぎていて、私のようなものには、どちらが勝つかが、最期まで、よくわかりません。勝負場面が多面的で、どう進むかが、どれが必至なのかわからなくなるのです。
双方、若い頭脳が相互に火花を散らし、執念というか、勝負への執着で、稲葉陽8段が優勝しました。
優勝インタビューで、普段は冷静で喜怒哀楽もわからないような(失礼)、彼が、何度も、目をしばたたかせているのが印象的でした。
稲葉8段おめでとうございます。
結婚されれば、ブースター効果があるということでしたが、これからも、勝負師として、命を削るような道行きでしょうが、引き続きご精進ください。
また、コロナ下で、私たちがどこにも出かけられない状況で、楽しみを分けていただきありがとうございました。
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このブログ原稿は、令和2年6月に投稿しておりますが、このたび、その後の定点観測(?) とその後のてん末の検証、を行いたいと思います。文中、「 」でくくっているのが、当時の原稿であり、また、行替えの( )でくくっているのが、現在の私の見解です。

「わが郷里、下松市(「くだまつし」と読みます。)の公立図書館も、コロナ下のもとで永く閉館し、5月末から、ようやく開館しました。しかしながら、開館営業時間は縮減されたままであり、10時半から17時半までです(現在、検索してみると、現在(R2.6.23現在)は、正常どおり(18時半まで)、営業しているようです。)。
しかしながら、利用者に対し、マスクの着用は厳しく定められています」
(R3.3.22 現在まだ変わっていない。)。

「しかし、図書館併設の公民館は、今も、依然として「コロナ特殊営業」を続けており、なかなか、煩わしいことです。
せめて、顧客サービスが優良な民間企業のように、利用者に対してマスク着用を義務づけるより、個々人に任せ、飛沫感染の注意などにとどめるべきです。
山口県は久しく感染者が出ておらず、行政として、無意味で不合理な手順はやめましょうよ、という、当方の率直な感想であります」
(R3.3.22 現在、私、まったく同じ意見です。)。

「民間企業とすれば、風評被害が極めて怖いので、自社従業員に、毎朝の厳しい健康チェックと、勤務中・勤務外の自己管理を科していることであり、また、利用者、顧客にまで、マスクの着用、ソシアル・ディスタンシングの勧奨(強制)、マスク未着用者への冷たい視線(ここはジョーク)を、厳しく課していることはよく理解できます。
それが、従業員を守るはずの企業の破綻にまでつながりかねないわけですから、その当否は別として、当該企業の恐怖や判断の根拠は理解できます」
(しかし、現在、こらえかねた事業者たちが、政府、都、県に異議申し立てをするのは当然であると思うし、被害者である大多数国民大衆の一人として、強く同感します。)。

「先に、歯医者に行った際、(歯医者の)隣の美容院で、北九州小倉区から来た客から、美容師さんに感染があり、結果的に美容院全体が休業においこまれたといっていました。
当該歯科医院も、危機意識からなのか、客が手に取る、雑誌から全部処分して、開け放った待合室の椅子以外に何もない状況です。」
「懇意(?)にしている歯医者なので、「先生はジムにもいけないね」、というと、私の担当者(当該奥さん)にとっては、それは冗談にもならない様子です。」
「後日、機会を改め、私もコロナ渦でうんざりしていたので、どうも死亡者が1,000人(R3.3.23現在はNHK統計で9000人弱)にも満たないし、ほぼ老人の死者しかないのに、毎年のウイルス感染死亡者は、二万人弱に比べて少ない数であり、すぐにでも平常に戻した方がいいじゃないか、というと、うちの先生も同じことを言っています、との回答である。」
「しかし、彼女は、平常業務に戻すとは、決して言わない。言えない。」
「ついでに、私は、もし私がコロナになって死んでも、あるいはがんになって死んでも、私の天命と思って頓着しないといったが、スルーされた(そういうものかもしれない。)わけです。」
「私の通院履歴は、ほぼ一月につき一日であり、私がその間にどのような行動をとっているか、彼女は知らない、県内に一人も発症者がいない中で、私がジムに通おうと、プールに通おうと彼女は関知しないのである。」
「私も、私の一月間の行動を彼女に話さない。妻にさえ、そんなことは言わない(時にトラブルになるが)。」
「これが高じれば、心理ゲームになる。互いに疑心暗鬼になり、今まで培ってきた相互の信頼関係を破壊する。
これも、コロナ全体主義がもたらす重大な災禍なのだ。
かつて、彼女は、率直で、自分の専門以外のことでもいろいろ思うことを語ってくれるので、私にとって好ましい人であった。
彼女に対し、ひと月のうちに、私が何をしたか、何を感じたか、しゃべれないのは、私の狭い交友範囲のうちで、とても苦痛である。」
「相互に感情のやり取り、思いやり、共感を示せない会話とは、社会生活とは、かくもつまらないものなのか」
(ここまでは、現在も、全く同様であり、彼女も私もそして彼女の夫の病院長も、コロナが死病でなく、ほぼ一握りの病者しかその対象にならないことを認識している。しかし、彼は第一義に、職員の生活を守らなければならない、ということである。したがって、彼は、ジム通いもやめ、趣味もジム通いもやめ、釣り一本で済ませている、という。しかし、サービス業の友人たちの窮状を見るにつけ、バカ政府の対応に腹立たしい限りであり、まともな生活者として、お互いに飽いたということなのだ。私も、こらえかねて、普通の日常生活に戻った友人、知り合いを知っているが、彼らは自分の行動で生じた、自由とリスクに社会的な責任を負うと、言っておりそれが、まっとうな考え方なのだ。人には、一定の範囲で、自己選択の自由があるし、幸福追求を行う自由があるのだ(私たちは、米欧人・中共人のように自己利害の絶対追及までは望まない。)。また、コロナ以前にも、私たちは、私たちの行動の結果と責任を、個々の側面で果たし、負ってきたではないか。)。

「先に、友人の図書館員と話した際、彼女が、しばらく閉館となる、というので、じゃあ、閉架式で、貸付を始めたらどうなのか、と提案したら、そんなことは無理だとの回答である。
 まともな行政職なら、それくらいのことを検討すべきではないかと、私がいうと、怒られた。
 上述した、わが下松市では、コロナ災禍のもとでも、ネット予約と、当該図書の窓口引き渡しだけはしていた。足りないが、工夫した対応ではある」(私は今もそう評価している。)。
「閑話休題、友人の彼女はコロナを憎んでおり、彼女のコロナ過剰防衛に対する意図と気持ちは、どうも、彼女は、父母と同居しており、その体調と、り患の可能性をおもんばかっているように思えた。」
「十分に理解できることである。したがって、彼女の声も大きくなる」
(しかし、そのあと、それだけでないことが判明した。純粋に、彼女はコロナに、り患することが怖いのだ。そして、自分個人の安心・安全が疎外されることが。私は甘い男なので、仕事を遂行するうえで、コロナにり患しても仕方がない、と思っていた。しかし、このたび、世の中の人は、自分の安心安全が第一義の人が、数多く、いることがよく認識できた。事実は、そうなのだ。それを彼らは「適切な配慮」とでも、言うのだろう。愚直な私には理解できない。
 釈然としないので、その後、彼女とは、たもとを分かった。「視えない関係が見え始めたとき、彼らは深く決別している」、とでもいうべきか。   あいまいにしていた、決別の時間が近づいたのも、これも、コロナ災禍の一つである。)。

「しかし、個の問題と全体の問題をはき違えてはいけない。
日本社会の全体の問題として、現在のコロナ災禍が、政府の無策を助長する、一般大衆のそれこそ「弱者を思いやる」とか、「人に嫌われることはしない」などの、安い善意や無思慮な正義によってあと押しされ、それが、強力な同調圧力や、間接強制として、国家経済の正常復帰を妨げ、若者たちの雇用を追い詰めている窮状、公立教育・医療さえ妨げとている、この現実のもとで、何の意味があるのか。
また、当該現象を危機としてとらえず、本来採るべき適正な経済・財政政策に着手せず(まず最小限として消費税の停止・事業者の粗利補償)、コロナ騒ぎを停止しない中央政府に何の価値があるのか」
(この個所も変わっていない。)。

「笑い話ではない、このままいけば、この冬のインフルエンザウイルスまで、際限なくコロナ全体主義のもとで、戒厳令は続くであろう。
その中で、日本経済はとどめをさされ、なお一層、敵国中共に食い物にされる状況となり、日本国は、あのファシスト国家の属国(経済的に、パナソニックなどいつでも国民の知的財産を売り渡す準備をしているではないか。ファシスト国家に加担する売国行為である。創業者に恥ずかしくないのか。)となり、若者たちには、絶望と無気力がまん延するであろう。老人であっても、例外はない。
 それこそ、今後の社会に、無秩序と犯罪が頻発するようになるかもしれない。
 礼儀正しく、他者への思いやりと察しを大事にする、日本国の伝統も、文化も死に絶えるかもしれない。
 そんな、暗い救いのない未来を、私たち老人は望まない。
 再度申し上げる。
 若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか?」

「死ねと言っているわけではない。若さに執着しても、寿命に執着しても、あまり意味はない。私たちの多くはそのようにできている。
社会の中で普通に、できれば楽しく暮らし、運が悪ければ死んでいく。それだけのことである。
また、その方が、人性として「自然」である。
私たちは将来に希望を残して、幸福に死んでいきたい」
(ここらも全く変わっていない。)。

「うちのおば(現在82歳)に聞いてみると、彼女も在宅の一人暮らしであるが、何もかも制約されて、私もうんざりしたのは同様だが、もし、運悪く、り患したら私はいつ死んでもいいと思う、といっている(いざとなれば、お互いに多少あがくかもしれないが)。」
「それが、多くの、今世に、在宅で暮らす、老人たちのそれが平常時の良識(コモンセンス)であり、本音でありはしないか」
 (在宅で生きているおばは、毎日公民館活動やら、畑仕事で忙しい。私は、せめてもと思い、彼女を、温泉にでもと、連れていく。一人暮らしの、彼女こそ、自分の残年数を数えているに違いない。年をとり、家族とだんだんと疎遠になり、しゃばで生きていくのは大変だろう。しかし、なじんだ周囲との関係性の中で、心の満足はあるに違いない。BSで宣伝する、関節痛を和らげる「良心○○錠」を飲みながら、日々を過ごしている。しかし、とりたてて、持病もないので、前期高齢者の私も、遠慮なく彼女のところに行き来している。)。

「つくづく、私たちは、3.11東日本大震災の教訓を、早々と忘れていたのではないかと思われる。
 当時、り災、被災した人がまず必要であったのは、それぞれが、速やかに自立した日常生活に復帰することを望み、それを支援することが第一義 だった。
 しかし、中央政府による、その対応に、時間がかかればかかるほど、被災者は日々に生活に困窮し、苦しみ、復興と、被災者の速やかな社会復帰に大きな禍根を残した。
 なぜあの時に、組織的な早期支援ができなかったのか、というのは、政府・地方・市民たちの中の、それぞれの局面で、心ある関係者大衆の反省ではなかったかと思う(自然災害が、パヨクによって、反原発運動にすり替えられたのは、非常にくやしい思いがする。)。
 大規模な自然災害に対して、「がんばろう日本」だけでは済まなかったのである。
 あの時は、2万人弱の犠牲者を出したが、この度の犠牲者は、コロナが直接の引き金になったかわからないところで、まだ、1,000人(前述したように現在はNHK統計で9000人弱、この結果を私は怪しいものだと思っている。)に達していない。
 数の問題ではないというかもしれないが、社会全体に与える損害と、今後の私たちの孫子(まごこ)たちに与える影響は、この度のコロナ災禍の方がもっと大きく、国民に甚大な被害を与えるものかもしれない」
(ここらも全く変わっていない。)。

(昨年末から、私自身、体調を崩して、おとなしく過ごしていた。これも、コロナのせいだといいたい。旅行もせず、県外に出ることもなかった。
 そのうち、(生きていく)意欲がなえるので、現在は、時間があれば、おばと一緒に、県内の観光所や、いろいろな、景光明媚な個所を何度も歩く。
 私は、祖父母と長く過ごす時間が多かったので、末の娘の彼女を連れて歩けば、祖母を案内しているような気持になる。
 彼女が言うには、コロナによって、よりよき日本人の伝統がおわったと、思えるという。見ず知らずの人に対する、あるいは知り人に対する、皆の扱いが、また、自分自身の対応すら、極めて悪くなった、という。
 私の感覚も、同様であり、コロナ以後、私自身、他人に対して、粗略にふるまっているように思えてならない。
 思いやりと察しの文化は潰えてしまうのか。)

「わが市では、5月下旬にようやく学校が再開された。それぞれの学校で、学ぶ権利、教える権利を奪われた、日常生活を送る権利をうばわれた、生徒たちや、心ある教師たちの、苦衷と無念を私は思う。
 小学校の校庭のそばを、車で通るたび、楽しく遊んでいる生徒たちが、熱い中で、友達ともみ合いながら遊びつつ、マスクを強いられるのは、本当にかわいそうである。
 それを強制せざるを得ない、教職員たちもお気の毒なことである。」
「それこそ、私たちは、その社会生活を支障なく過ごせることをずっと、かれこれ半年間の間も、コロナファシズムによって阻害されてきた。
言ってしまえば、中央政府がバカでも、地方自治体までバカである必要はない。
 かつて、地方自治体の、能力ある指導者は、過日、国を承服させる「正しい」選択を行ったことも記憶にある。
 地方からでも、今すぐ、コロナ規制をやめましょうよ。
 やればできると思っています。」
(これは、まったくそのとおりである、と今も思う。)

(あれから、一年近く過ぎ去ったが、国内の状況はほとんど変わっていない、と思える。
 「誰が責任をとるのだ」という、安い責任追及と、日々いけにえを求める、恥知らずなパヨクマスコミに使そうされ、ほぼ、死病に至らない(パ ンデミックではない)コロナの現実がありながら、大多数国民は、つまらない政治、世論に惑い振り回され、混乱するばかりである。
 こうなれば、中共による、コロナ陰謀説(欧米人を駆除するためのウイルステロ)にも、根拠があるように思われてくる。中共の、世界規模の陰謀を見てみれば、信ぴょう性も増すというものだ。)

(私事ながら、私も、現在、節制をしながら、体調をととのえつつあり、残年数を数える立場ではあるが、正しい義のもとに、今後とも戦っていきたい。)

 長いこと、ブログ更新を怠ったことをお詫びします。

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