泊りがけの通院から帰ってくると、テーブルの上に、ぱっとしない色の折鶴が、二つおいてある。
どうしたんだと、妻に尋ねたら、うちの孫(6歳)が、「じじのために」、どうも、じじの病気の、快癒のため、保育園で、先生に教わり、教わり、とうとう、折り上げたそうだ。
私は、生来の不器用で、幼稚園の工作にも、なかなか、ついていけなかった。
やっこさんは折れたが、鶴はとうとう、最後まで折れなかった。
皆に侮られただろうし、できの良いこどもとして、先生にかわいがられたこともない。
ましては、他人のために、鶴を折るなど、生まれてから、したこともない。
このたび、孫が、折ってくれた、鶴を見て、こどもを持って本当に良かった、と、心から思った。
うちのうえの孫は、結構むつかしい男である。
ジジイによく似ている。自分の気の向かないことは、決してやらない。
それは、保育園の先生に、使そうされたことなのかもしれない。男児にとって、好きな先生は、やっぱり、特別であるから。
しかし、じじが、一度も、実行できなかったことを、彼は、やすやすと、飛び越えた。
また、他者に無償の施しができた、私から見れば、それは、偉大な達成である(じじバカと思う人は笑って欲しい。)。
私には、彼に、施す、金も財産も、手間をかける残年数もあまりない。
今後も、彼らは、易々と、私のできなかったことを、乗り越えていくかも知れない。
私は偏屈かつ貧困なので、彼らに、大きなギフトはできなかった。
しかし、後は、私の余生を使って、彼らが、悩まずにすむよう、日本国の環境整備に、努力しようと思う。
バカじゃないの、と、うちの妻はいう。
しかし、迂遠なところから、他者のために、私たちの社会のために闘うことを、私は心がけている。
利口なやつは笑えばいい、しかし、それが、義を通す、偏屈ジジの生き方なのだ、というしかない。
*************************************
病気の病状は生きているというのは、事実である。
こちとらも生きているからである。
生きているからには、不快も、あれば、小幸福もある。
健康というのも、そもそも、小幸福なのか、大幸福なのか、人によって、位置づけが違うかもしれない。
しかし、それが、ありがたいことであることは、小だろうと大だろうと、当人にとって、それは確かである。
昨年の、9月から、検査入院を経て、10月から通勤治療を受け、ほぼ、半年、経過した。
私の病気の特性により、私は、定期的(隔週二週)で、化学療法を受け続けていた。
もともと、頑健だったのか(?)、治療の副作用(副反応ではない。)には耐えられている。
それは、自分で、この程度の副作用など、皆が耐えている程度に比べれば何ほどなのか、考えたからだ。
ひと月半にわたった、検査入院の際に、いろいろな患者さんの実態を観たからだ。
重度の患者さんも、数多く見た。当初、皆、放射線治療かと思ったが、ほとんどが、化学療法の患者さんだった。
皆、厳しい、つらい、闘病人性だった。
こんなことを、本来、縁なきものが、恣意的に、他人に、強いるものではない。
ましては、一般論を、人に、押し付けるものでもない。
個人的な事情を言えば、当初から、化学療法を通算10回くらい続けていた。
その重みを、実感したのは、化学療法の反動と負担が、だんだん、私にとって、大きいものとなってきたからだ。
私の病状は、今後、動脈、リンパ腺からの転移は、少ないだろうと言われていた。
したがって、私の化学療法とは、化学療法が使える患部の進行の阻止と、縮小した患部を、関連部分臓器などと一緒に、摘出することを、第一義としている。
しかし、患者さんとすれば、化学療法による、副作用には、習熟したが、決して愉快なものではない、このたびの、ように、急に、発熱すれば、やはり、困る。
しかし、二週間に一回のペースの治療だが、それを外せば、ほぼ、発症前の生活の質を保てている。
患者さんは保守的なものである。
現状維持を好み、別の、療法の良さをすぐには理解できない。
唯一、患者さんと治療者の両者で、治療法が合致する大きな理由といえば、生存残年数の問題になるだろう。
ただし、術後の生存年数は、無手術と、手術後と、それほど差がない、ということだった(私の調べた範囲である。)。
そうなれば、患者さんとすれば、逡巡するのである。
私は、先の発症のときから、自分で自分の未来をいろいろシミュレートしてみた。
所詮、それは、シミュレートでしかないが、考えるだけは考えた。
今の私にとっては、残年数自体よりは、残年数の生活の質(いわゆるQOL)しか、関心を惹かれない。
初回入院のとき、いろいろ考え、ひとまず、私の死後の世話はつけたので、実のところ、後は、お他人様のこと、と思っている。
前に書いたように、私に先立って、うちの妻も大けがをした。
その後、後遺症が残らず、私たちは安堵した。
しかし、私たちが思うよりは、ひどいけがだったらしく、寒い時は、ことさら、調子が悪いらしく、予想できない、症状が出て来る。お気の毒なことである。
そうなれば、自分がかわいい。
まずは、自分が健康でなければ、どうしようもない、と思うのだ。
なかなか、亭主の介護など、望めない。
私の場合はちょっと違う。
化学療法を外せば、ほぼ、私は、常人のように動ける。
そうなれば、私が動くしかない。
そのような経緯で、お互いの意見の決定的な亀裂は、お互いに避けたのだが、それ病棟の待合室で、夫婦のやり取りを聞いていると、患者さんの妻の言い分に、さすがにこっちが切れそうになる。
きれいな夫婦愛など、みじんもない。妻は、露骨に、自己利害と自己都合を全面的に押し出す。
今の段階で、争うのは嫌だろうから(立場の強弱は明らかなので)、そのうち、人目を愧じ、男は黙る。
女は、ひいたら負けの個所では、人前だろうと何だろうと、決してひかない。
結論として、看護師が、「あなたのためを思ってもことだから」、なだめるが、「しようがないわね、しっかりしなさいよ」と言外で語っているのは、ありありである。
ということで、患者さんにも、経済的にも、親族的にも、また、病魔とも闘う、解決すべき事はいろいろあるのだ。
激烈な、間断のない痛みというのは、判断というか、選択の余地を狭めるというのは確かかも知れない。
その境遇でないことを幸せに思う。
しかし、ひとたび、現在のそれなりに耐えきれる状態と、架空の救いのないような状態を、比較して考えたら、耐えきれる状況を選ぶのが、患者さんの本音だと思う。
私は、日本人なので、勇気ある生存というようなものを信じない。
「辛抱、我慢」という発想も、寄り添い難い。
今さら、「苦痛は証だ」、という境遇に行きたくない。
日々、体験し、思考することは、尊いけれども、それがいつまでも続くとも、思えない。
それならばと、退嬰的な考えに、人として、行きそうである。
それこそ、現状肯定と、大きな変更を好まない。
意識的な、選択を回避しようとする。
いくらもあることである。
私はなすべきことはした、ような気がする。
後は、世間がいう遺徳のようなもので、余裕があれば、正義の側に組する、仕事をしたいと思う。
閑話休題、私が、バタバタしているうちに、ロシアと、ウクライナの戦争が開始し、炎上した。
どうも、釈然としない。
各々において、義も、利害も、思惑も在るだろう。
しかし、忘れてはならない。
シモーヌ・ヴェイユが、戦争について、「戦争の遂行者(指導者)は、まず、老人、こども、婦人などの社会的弱者を、敵の前に差し出す」、と言あげたことである。この言葉は、吉本隆明に教わった。
彼女は、彼女の思想的態度として、いつでも、紛争のただなかに、自分の身体と、思想をおく、用意はあっただろう。
しかし、残ったのは、この、卓越した、認識と言葉である。
自国での内戦は、決して行ってはならない、行われるように立ち回ってもならない。
まさに、自国民を、戦争の道具にしてはならない。
それは、政治家として恥知らずな所業である。
今のところ、私たちに、視えて来るのはそれだけである。
紛争が不可避である以上、抑止力としての、核武装、抑止力としての、自前の国土防衛軍を持つこと、国民国家としての日本国の富国強兵を図り、他国の紛争に安易に巻き込まれないこと、問題はそれに尽きている。
うちの、孫たちの未来を守るために、まずそれを、実現しよう。
大事な孫どもの、世代を、どうにかしてあげたい、それは、ジジイの切なる願いである。
いつもながら、とんでもない結論だが。
どうしたんだと、妻に尋ねたら、うちの孫(6歳)が、「じじのために」、どうも、じじの病気の、快癒のため、保育園で、先生に教わり、教わり、とうとう、折り上げたそうだ。
私は、生来の不器用で、幼稚園の工作にも、なかなか、ついていけなかった。
やっこさんは折れたが、鶴はとうとう、最後まで折れなかった。
皆に侮られただろうし、できの良いこどもとして、先生にかわいがられたこともない。
ましては、他人のために、鶴を折るなど、生まれてから、したこともない。
このたび、孫が、折ってくれた、鶴を見て、こどもを持って本当に良かった、と、心から思った。
うちのうえの孫は、結構むつかしい男である。
ジジイによく似ている。自分の気の向かないことは、決してやらない。
それは、保育園の先生に、使そうされたことなのかもしれない。男児にとって、好きな先生は、やっぱり、特別であるから。
しかし、じじが、一度も、実行できなかったことを、彼は、やすやすと、飛び越えた。
また、他者に無償の施しができた、私から見れば、それは、偉大な達成である(じじバカと思う人は笑って欲しい。)。
私には、彼に、施す、金も財産も、手間をかける残年数もあまりない。
今後も、彼らは、易々と、私のできなかったことを、乗り越えていくかも知れない。
私は偏屈かつ貧困なので、彼らに、大きなギフトはできなかった。
しかし、後は、私の余生を使って、彼らが、悩まずにすむよう、日本国の環境整備に、努力しようと思う。
バカじゃないの、と、うちの妻はいう。
しかし、迂遠なところから、他者のために、私たちの社会のために闘うことを、私は心がけている。
利口なやつは笑えばいい、しかし、それが、義を通す、偏屈ジジの生き方なのだ、というしかない。
*************************************
病気の病状は生きているというのは、事実である。
こちとらも生きているからである。
生きているからには、不快も、あれば、小幸福もある。
健康というのも、そもそも、小幸福なのか、大幸福なのか、人によって、位置づけが違うかもしれない。
しかし、それが、ありがたいことであることは、小だろうと大だろうと、当人にとって、それは確かである。
昨年の、9月から、検査入院を経て、10月から通勤治療を受け、ほぼ、半年、経過した。
私の病気の特性により、私は、定期的(隔週二週)で、化学療法を受け続けていた。
もともと、頑健だったのか(?)、治療の副作用(副反応ではない。)には耐えられている。
それは、自分で、この程度の副作用など、皆が耐えている程度に比べれば何ほどなのか、考えたからだ。
ひと月半にわたった、検査入院の際に、いろいろな患者さんの実態を観たからだ。
重度の患者さんも、数多く見た。当初、皆、放射線治療かと思ったが、ほとんどが、化学療法の患者さんだった。
皆、厳しい、つらい、闘病人性だった。
こんなことを、本来、縁なきものが、恣意的に、他人に、強いるものではない。
ましては、一般論を、人に、押し付けるものでもない。
個人的な事情を言えば、当初から、化学療法を通算10回くらい続けていた。
その重みを、実感したのは、化学療法の反動と負担が、だんだん、私にとって、大きいものとなってきたからだ。
私の病状は、今後、動脈、リンパ腺からの転移は、少ないだろうと言われていた。
したがって、私の化学療法とは、化学療法が使える患部の進行の阻止と、縮小した患部を、関連部分臓器などと一緒に、摘出することを、第一義としている。
しかし、患者さんとすれば、化学療法による、副作用には、習熟したが、決して愉快なものではない、このたびの、ように、急に、発熱すれば、やはり、困る。
しかし、二週間に一回のペースの治療だが、それを外せば、ほぼ、発症前の生活の質を保てている。
患者さんは保守的なものである。
現状維持を好み、別の、療法の良さをすぐには理解できない。
唯一、患者さんと治療者の両者で、治療法が合致する大きな理由といえば、生存残年数の問題になるだろう。
ただし、術後の生存年数は、無手術と、手術後と、それほど差がない、ということだった(私の調べた範囲である。)。
そうなれば、患者さんとすれば、逡巡するのである。
私は、先の発症のときから、自分で自分の未来をいろいろシミュレートしてみた。
所詮、それは、シミュレートでしかないが、考えるだけは考えた。
今の私にとっては、残年数自体よりは、残年数の生活の質(いわゆるQOL)しか、関心を惹かれない。
初回入院のとき、いろいろ考え、ひとまず、私の死後の世話はつけたので、実のところ、後は、お他人様のこと、と思っている。
前に書いたように、私に先立って、うちの妻も大けがをした。
その後、後遺症が残らず、私たちは安堵した。
しかし、私たちが思うよりは、ひどいけがだったらしく、寒い時は、ことさら、調子が悪いらしく、予想できない、症状が出て来る。お気の毒なことである。
そうなれば、自分がかわいい。
まずは、自分が健康でなければ、どうしようもない、と思うのだ。
なかなか、亭主の介護など、望めない。
私の場合はちょっと違う。
化学療法を外せば、ほぼ、私は、常人のように動ける。
そうなれば、私が動くしかない。
そのような経緯で、お互いの意見の決定的な亀裂は、お互いに避けたのだが、それ病棟の待合室で、夫婦のやり取りを聞いていると、患者さんの妻の言い分に、さすがにこっちが切れそうになる。
きれいな夫婦愛など、みじんもない。妻は、露骨に、自己利害と自己都合を全面的に押し出す。
今の段階で、争うのは嫌だろうから(立場の強弱は明らかなので)、そのうち、人目を愧じ、男は黙る。
女は、ひいたら負けの個所では、人前だろうと何だろうと、決してひかない。
結論として、看護師が、「あなたのためを思ってもことだから」、なだめるが、「しようがないわね、しっかりしなさいよ」と言外で語っているのは、ありありである。
ということで、患者さんにも、経済的にも、親族的にも、また、病魔とも闘う、解決すべき事はいろいろあるのだ。
激烈な、間断のない痛みというのは、判断というか、選択の余地を狭めるというのは確かかも知れない。
その境遇でないことを幸せに思う。
しかし、ひとたび、現在のそれなりに耐えきれる状態と、架空の救いのないような状態を、比較して考えたら、耐えきれる状況を選ぶのが、患者さんの本音だと思う。
私は、日本人なので、勇気ある生存というようなものを信じない。
「辛抱、我慢」という発想も、寄り添い難い。
今さら、「苦痛は証だ」、という境遇に行きたくない。
日々、体験し、思考することは、尊いけれども、それがいつまでも続くとも、思えない。
それならばと、退嬰的な考えに、人として、行きそうである。
それこそ、現状肯定と、大きな変更を好まない。
意識的な、選択を回避しようとする。
いくらもあることである。
私はなすべきことはした、ような気がする。
後は、世間がいう遺徳のようなもので、余裕があれば、正義の側に組する、仕事をしたいと思う。
閑話休題、私が、バタバタしているうちに、ロシアと、ウクライナの戦争が開始し、炎上した。
どうも、釈然としない。
各々において、義も、利害も、思惑も在るだろう。
しかし、忘れてはならない。
シモーヌ・ヴェイユが、戦争について、「戦争の遂行者(指導者)は、まず、老人、こども、婦人などの社会的弱者を、敵の前に差し出す」、と言あげたことである。この言葉は、吉本隆明に教わった。
彼女は、彼女の思想的態度として、いつでも、紛争のただなかに、自分の身体と、思想をおく、用意はあっただろう。
しかし、残ったのは、この、卓越した、認識と言葉である。
自国での内戦は、決して行ってはならない、行われるように立ち回ってもならない。
まさに、自国民を、戦争の道具にしてはならない。
それは、政治家として恥知らずな所業である。
今のところ、私たちに、視えて来るのはそれだけである。
紛争が不可避である以上、抑止力としての、核武装、抑止力としての、自前の国土防衛軍を持つこと、国民国家としての日本国の富国強兵を図り、他国の紛争に安易に巻き込まれないこと、問題はそれに尽きている。
うちの、孫たちの未来を守るために、まずそれを、実現しよう。
大事な孫どもの、世代を、どうにかしてあげたい、それは、ジジイの切なる願いである。
いつもながら、とんでもない結論だが。
とても難しい病気で、合併症と副作用に悩まされながら懸命に治療されていたのを伺っていましたので、心配していました。治療の甲斐なく志半ばでのこの結果は、きっと納得のいかないものだったのではないかと推測します。
時に熱弁を奮って国の未来を憂えるときには、周りの空気も読まずに正論を述べられていたのが、さっきのように思い出されます。身延からの帰りの新幹線の中での熱い会話は忘れることのできない思い出になりました。
通夜、本葬に伺うことができませんで、すみません。ここでお別れの挨拶をさせて下さい。これまで大変お世話になりました。あなたの志い受け継げるよう精進します。