「嫌煙権」という、言葉が一般的になったのは、いつごろからであろうかと思われます。
私は、学生時代、つまらない左翼体験でつまづき、以後は「自立」することとし、当時から、新しい用語(おおむねバカサヨク用語)は、厳しく自己検討していた、ので、初めて聞いたとき、これも「つまらないサヨク・反動用語」の出自ではないかと、疑わしく思っておりました。当時、アメリカでは、ラディカルな嫌煙権支持者が、喫煙中の喫煙者のタバコや、葉巻の火口を、はさみで切り取ってしまう、などという事件報道があり、さすがになんでもありのアメリカであり、なかなか興味深い話(いかにもアメリカ的な短絡的自己価値の強制押付け)ではありました。
喫煙といえば、私の「中二病時代」(私先日まで、はずかしながら「中二病」の意味をよく理解しておりませんでした。このたび、私の対面に座っている情報通のおばちゃんに教えてもらいました。)に、修学旅行先でキセルを買ってきて、わが祖父の前で、紙巻タバコをふかしていました。祖父は、一瞬むっとしたようでしたが、それ以上は何も言いませんでした。やはり、歳の功ですね。そのうち気管支まで煙を入れるのが怖くてやめてしまいました。
学生時代は省略し、私が就職した当時、大変女性が多い職場に配属されましたが、今思えば男どもは異様に威張っておりました。朝・昼と各自の湯飲みにお茶を出してもらい、喫煙者の灰皿も、当該お茶当番の女性が、洗い、拭き、各人の事務机に朝・昼に配っておりました。男と女の比率が違う職場では、当時少数の男どもは、多少瑕疵(?) (かし; きず・欠点)のある男でも、それなりに面倒がみてもらえる訳であります。若くいい男であれば何よりでしょうが、若い男であればそれだけで皆に優しくしていただけます、今思えば、それを素直に受け入れられれば幸せであったでしょう。昔、太宰治の青春小説を読んでいたとき(確か「パンドラの匣」だったと思う。)、主人公の少年が療養所で、年上の看護婦からなにげなく好意を示されたとき、「(江戸時代の商家では、)まかないの際に、下女は、お気に入りの丁稚の盛りきり飯に、多めに飯をよそおってやった」、そんな卑しい好意は嫌だ」、というのがあって、集団生活の中で、若者の潔癖さで考えれば、確かにそれは嫌なものでしょう。
しかし、私が就職した当時流行ったソルジェーニーチンの「収容所群島」の中でも、スターリン治世下のロシア・ラーゲリ(旧ソ連の強制収容所)(今では更に苛烈な北鮮の絶滅収容所があるかも知れない。)の中で、皆が飢えと寒さの極限状況で生き延びることだけを目指して理不尽な行為が横行する中で、夫でもない(性的な関係もない)男のためにシャツや下着の洗濯をしたくて、多大な犠牲を払う普通の母性豊かな女性の逸話があり、極限状況でも、「(男のために)洗濯してあげたい」とか「何か為になることをしてあげたい」という人間性に根ざした母性というか女性性というものは、尊い(極限状況でも女性性の良き部分を奪われないという意味ですばらしい)ものですね。言ってしまえば、それは、人類の遺伝子に組み込まれているとしか言いようがないところです。
今と比べて隔世の感ですが、若い女性職員は、お局(つぼね)さんの指導のもとに、掃除当番・お茶当番と大変に忙しかったそうです。新採の女性は、まず、どれが誰の湯飲みか覚えなくてはなりません。怖くて、反抗は出来なかったのですね。現在の社会通念(雰囲気)に照らせば、「何でそこまでしなくちゃいけないのよ」とかになってしまうところでしょう。時間の流れ、社会通念の変化というものは怖いものですね。「男女共同参画」の現在では、湯飲みは自己管理となり、掃除当番もきちんと決まっております。ただ、下手で手抜きな男どもに流しの掃除はさせられず、そこは女性で差し回しています。理性ある(現実的な)職場では、そういう形での健全な決着です。
当時喫煙しなかった男は、明らかに少数派であり、いつものとおり、私は少数派に属しており、当該サービスの恩恵は受けてはいません。
当時、フレッシュマンは大事にしていただき、殊に女性方からは殊に大事にしていただきました。バレンタインデーには、職場ではたくさんチョコレートをいただきました(当時新記録といわれました。)。今になれば、大多数の女性の中で、若いころの男のそういう構われかたはよく分かります。しかし、さることで、わが人気はあっという間に凋落し、世のはかなさと、人の心の移ろいやすさを味わうこととなりましたが、人性のいい教訓です。その際に、女性たちの、徒党性のすごさと、社会的集団内のその相互の闘いのすごさを知りましたが(私は、当時、その徒党性と相互友愛の形を、A群・B群・C群と名付けました。)、それはそれで興味深いところでした。
閑話休題、当時はまだ、それぞれの職場に余裕・余力があり、仕事についてさまざまなことを教えていただきました。今も、当時、席を並べた人にときに会えば、懐かしい思いがします。私は、その後、どんなに忙しい職場に居たとしても、職場の新人にはできる限り、自己研修の機会を与えることにしました。
本題に戻り、なぜあれほど、嫌煙権が問題となったかというと、間接喫煙・受動喫煙で、喫煙者のそばの人間の肺がんなどの発症がきわめて増加するという、当時の医療上の通念(?) が、盛んに喧伝されてからです。私は、本音では、「疑わしい」と思っていました。当時、職場でも、若い男が紫煙をくゆらすのが気に触ったのか、「あんたが吸ったら、私たちまで癌になるじゃないの」、などと責められていました。実際のところ、「へへへ」といなせばいいのですが、そこは、若く、青い、渋い、硬い、の私のことであり、「そんなことより、(窓からみえる)化学工場の、排煙のほうがずっと身体に悪いんじゃないですか」と、彼に成り代わり指摘すると、「あれはあれで、数多く従業員もいることだし・・・・」と歯切れの悪い回答です。「じゃ、言うなよ、ババア」というのが心の中のせりふです。
その後において、私の英会話教材で見てみると、アメリカの嫌煙権運動は、ドラッグ、マリファナなどを、あるいはアルコールまでを含めたドラッグ(麻薬及び依存物質)を追放とする社会的な運動である、と扱われており、なるほどと思いました。学校や職場から、蔓延している、ドラッグ、薬物依存症の追放、依存症の予備軍を作らせず、麻薬の売人などを駆逐する、という運動だったのですね。
しかしながら、喫煙者の立場に配慮するとしても、決して、他人の喫煙行為自体を、私が好きなわけではありません。
そばでそばで大量にタバコを吸われるとやはりにおいがこちらに移り、衣服に残るように思えるし、煙いのも確かです。しかし、この感覚は、拡大していけば、他人の体臭・口臭の問題や、最終的には「お前の顔が気に食わない」まで行きつきそうで、知性と教養のある人間としては、あるいは人間の懐の深さとして、あまりに浅薄な、即時的な対応は避けるべきと自問されます。あの同僚のおばさんも、安い正義に拠り、そこまで残酷な言説をするわけではないかも知れないが、「お前が嫌いだ」と思っているかも知れず、その本音はちょっと不気味で、気にかかるところではあります。
しかし、あるとき、あるまじめな(?) 女性が、「タバコを吸う時間に一件でも仕事が処理できるじゃない」とも言っており、「なるほど」と思い、その意味では、勤務時間中の喫煙は不公平なところです。当時は、無考えのおばさんには、「あんたが立ち話をしている時間の方がよっぽど損害を与えている」と裏で(怖いので心の中で)反論していましたが。そのうち、皆に立ち話をするだけの余裕もなくなり、今は、喫煙者の権利だけまだ保障されているのは不合理でありますが。しかし、現在の喫煙場所は、屋内では、トイレの裏とか、非常階段の踊り場とか、長期間滞在できないようになっております(ヤンキーのたまり場のようですね。)。とおりすがりに見ていると、それはさながら喫煙者サロンであり、「同病相哀れむ方々」のつかの間の愉楽の場となっています。それなりに、非喫煙者の冷たい眼にさらされる原因と理由はあるようです。
その後、私が人事評価をした際に、喫煙者はまず、マイナス点をつけました。「喫煙」が正式に職務免除になっていない以上、離席減点については当然のことです。その上で、喫煙後をして、気分を切り替え、優れた役立つ仕事をする場合は、加点評価になりますが。当該評価は、評価する立場からは、ある程度、好悪が入るのはそのようなものかもしれません。お互いに、人格者ばかりではないのです。うちの職場では、評価される側からの抗弁もできるようにはなっていましたが、お互いに「本気」になっても、それによる利害・不利益も特にないようで、その程度のものです。
アメリカ流で行けば、飲酒も確かに「ドラッグ」の一種であります。どうも、日本国では、少なからぬ人々が依存症ではあります。酒癖の悪いやつも確かに居ます。
そういえば、寒かろう、暑かろうと、櫓櫂の及ぶところあらゆる場所で、お構いなしに始まり、また終わりのない、おばちゃん、おねーさん、高校生と年齢、老若、美醜(?) を越えた、知り合い同士の彼らの立ち話も、私思うに、「ドラッグ」中毒の一種であろうかと思われます。あれも、場合によっては、とても不愉快です。
ということで、誰もが、一定の範囲で、その嗜好や気晴らしを個々に実践しており、例えば、小児性愛などという異常な、あるいは反社会的な犯罪行為を称揚するわけでなく、ことさらに、さる嗜好を取り上げ、根拠なしにそれを「社会の敵」呼ばわりするのは、不見識で、まるで、愚かな大衆のような行為である、ということでもあります。徒党を組んで、喫煙を攻撃するのは、安全で、あの「人権擁護運動」の建て前にも抵触することがない、巧妙なサンクション(社会的制裁)、したがって愉しい遊びです。いわゆる、仮想敵を作り上げ、攻撃する大衆の負性に媚びる不健康な遊びでしょう。
その意味で、あらゆる場所で、喫煙を禁じる現在の、すみわけが明確になり当面の迷惑行為が排除されたわけですが、間接喫煙の害悪の因果関係や、社会的に共通利害を阻害する根拠が明確にされずに、誰によってこのような運動が幅を利かすのかその所在の分からない強制と不合理は、「禁煙ファシズム」といっても間違いではないものと思われます。
さる機会に上京したとき、条例で禁煙禁止区域の指定した地区でしょうか、多くの人が、屋外の緑地そばの喫煙所でタバコを吸っていました。ビジネススーツを着たおねーさんがクールに吸っている光景もあります。そこはオフィス街であり、場合によっては禁煙の職場から、喫煙にやってくるのでしょう。おそらく、雨の日には、わざわざ、かさをさしてやってくるものと思われます。さすがに都会で、美観に留意した地区であり、義務設置によりうまく作られた喫煙所ですが、このうえ、彼らの居場所がなくなることについては、私は反対したい、と思います。
例のデブの問題(現代のあらゆる社会的側面で「デブ」は排除されるというテーゼ)と一緒で、「自己管理が出来ないものは、去れ」ということであるかも知れず、本当に、余計なお世話ですね。
そういえば、昔、「くわえタバコで死にたい」とかいった本もあったし、今ではうちひしがれた喫煙者も絵になる場合もあるかも知れない。
「デブ」といわれた場合の対応策ですが、「喜劇新思想体系」(山上たつひこ著)の逆向春助ではないですが、彼に習って、対、男に対しては、「俺の方がデブかもしれんが、お前の方がずっと不細工じゃ」と闘ってみてもいいかもしれません、意外に男には、身体・容貌の面罵が利くものです(笑い)。
対女性に対しては、いくら野人春助(全体女性の目が冷たいので)でも困難かも知れません。やはり、お互いの差異と背後に背負う膨大な歴史を尊重し、労わり合い、時に戦いましょう。
「男で、デブで、(ハゲで、ジジイで)、不細工で、アホで何のとりえのない極北のような存在はどうするのか」という場合には、復刻された「喜劇新思想体系」や、その後の更新版「湯の花親子」(同じく山上たつひこ著:逆向春助も中年こまわりくんのどちらも登場します。)を読みましょう。これらの漫画には、男一般に対する厳しい批評と揶揄、またユーモアと悲哀があり、たかが漫画でも、読めば、男同士の共同主観性を再度認識し、慰撫や慰めにはなるかも知れません。それはそれで、当該与件が一つでも外れていれば(主観的なものでそれは当てには出来ないが)、「俺は、まだ、ましや」と思えれば多少幸せです。
「名もなく、貧しく、美しくなく」、多くの人性は、そんなものかも知れません。
私は、学生時代、つまらない左翼体験でつまづき、以後は「自立」することとし、当時から、新しい用語(おおむねバカサヨク用語)は、厳しく自己検討していた、ので、初めて聞いたとき、これも「つまらないサヨク・反動用語」の出自ではないかと、疑わしく思っておりました。当時、アメリカでは、ラディカルな嫌煙権支持者が、喫煙中の喫煙者のタバコや、葉巻の火口を、はさみで切り取ってしまう、などという事件報道があり、さすがになんでもありのアメリカであり、なかなか興味深い話(いかにもアメリカ的な短絡的自己価値の強制押付け)ではありました。
喫煙といえば、私の「中二病時代」(私先日まで、はずかしながら「中二病」の意味をよく理解しておりませんでした。このたび、私の対面に座っている情報通のおばちゃんに教えてもらいました。)に、修学旅行先でキセルを買ってきて、わが祖父の前で、紙巻タバコをふかしていました。祖父は、一瞬むっとしたようでしたが、それ以上は何も言いませんでした。やはり、歳の功ですね。そのうち気管支まで煙を入れるのが怖くてやめてしまいました。
学生時代は省略し、私が就職した当時、大変女性が多い職場に配属されましたが、今思えば男どもは異様に威張っておりました。朝・昼と各自の湯飲みにお茶を出してもらい、喫煙者の灰皿も、当該お茶当番の女性が、洗い、拭き、各人の事務机に朝・昼に配っておりました。男と女の比率が違う職場では、当時少数の男どもは、多少瑕疵(?) (かし; きず・欠点)のある男でも、それなりに面倒がみてもらえる訳であります。若くいい男であれば何よりでしょうが、若い男であればそれだけで皆に優しくしていただけます、今思えば、それを素直に受け入れられれば幸せであったでしょう。昔、太宰治の青春小説を読んでいたとき(確か「パンドラの匣」だったと思う。)、主人公の少年が療養所で、年上の看護婦からなにげなく好意を示されたとき、「(江戸時代の商家では、)まかないの際に、下女は、お気に入りの丁稚の盛りきり飯に、多めに飯をよそおってやった」、そんな卑しい好意は嫌だ」、というのがあって、集団生活の中で、若者の潔癖さで考えれば、確かにそれは嫌なものでしょう。
しかし、私が就職した当時流行ったソルジェーニーチンの「収容所群島」の中でも、スターリン治世下のロシア・ラーゲリ(旧ソ連の強制収容所)(今では更に苛烈な北鮮の絶滅収容所があるかも知れない。)の中で、皆が飢えと寒さの極限状況で生き延びることだけを目指して理不尽な行為が横行する中で、夫でもない(性的な関係もない)男のためにシャツや下着の洗濯をしたくて、多大な犠牲を払う普通の母性豊かな女性の逸話があり、極限状況でも、「(男のために)洗濯してあげたい」とか「何か為になることをしてあげたい」という人間性に根ざした母性というか女性性というものは、尊い(極限状況でも女性性の良き部分を奪われないという意味ですばらしい)ものですね。言ってしまえば、それは、人類の遺伝子に組み込まれているとしか言いようがないところです。
今と比べて隔世の感ですが、若い女性職員は、お局(つぼね)さんの指導のもとに、掃除当番・お茶当番と大変に忙しかったそうです。新採の女性は、まず、どれが誰の湯飲みか覚えなくてはなりません。怖くて、反抗は出来なかったのですね。現在の社会通念(雰囲気)に照らせば、「何でそこまでしなくちゃいけないのよ」とかになってしまうところでしょう。時間の流れ、社会通念の変化というものは怖いものですね。「男女共同参画」の現在では、湯飲みは自己管理となり、掃除当番もきちんと決まっております。ただ、下手で手抜きな男どもに流しの掃除はさせられず、そこは女性で差し回しています。理性ある(現実的な)職場では、そういう形での健全な決着です。
当時喫煙しなかった男は、明らかに少数派であり、いつものとおり、私は少数派に属しており、当該サービスの恩恵は受けてはいません。
当時、フレッシュマンは大事にしていただき、殊に女性方からは殊に大事にしていただきました。バレンタインデーには、職場ではたくさんチョコレートをいただきました(当時新記録といわれました。)。今になれば、大多数の女性の中で、若いころの男のそういう構われかたはよく分かります。しかし、さることで、わが人気はあっという間に凋落し、世のはかなさと、人の心の移ろいやすさを味わうこととなりましたが、人性のいい教訓です。その際に、女性たちの、徒党性のすごさと、社会的集団内のその相互の闘いのすごさを知りましたが(私は、当時、その徒党性と相互友愛の形を、A群・B群・C群と名付けました。)、それはそれで興味深いところでした。
閑話休題、当時はまだ、それぞれの職場に余裕・余力があり、仕事についてさまざまなことを教えていただきました。今も、当時、席を並べた人にときに会えば、懐かしい思いがします。私は、その後、どんなに忙しい職場に居たとしても、職場の新人にはできる限り、自己研修の機会を与えることにしました。
本題に戻り、なぜあれほど、嫌煙権が問題となったかというと、間接喫煙・受動喫煙で、喫煙者のそばの人間の肺がんなどの発症がきわめて増加するという、当時の医療上の通念(?) が、盛んに喧伝されてからです。私は、本音では、「疑わしい」と思っていました。当時、職場でも、若い男が紫煙をくゆらすのが気に触ったのか、「あんたが吸ったら、私たちまで癌になるじゃないの」、などと責められていました。実際のところ、「へへへ」といなせばいいのですが、そこは、若く、青い、渋い、硬い、の私のことであり、「そんなことより、(窓からみえる)化学工場の、排煙のほうがずっと身体に悪いんじゃないですか」と、彼に成り代わり指摘すると、「あれはあれで、数多く従業員もいることだし・・・・」と歯切れの悪い回答です。「じゃ、言うなよ、ババア」というのが心の中のせりふです。
その後において、私の英会話教材で見てみると、アメリカの嫌煙権運動は、ドラッグ、マリファナなどを、あるいはアルコールまでを含めたドラッグ(麻薬及び依存物質)を追放とする社会的な運動である、と扱われており、なるほどと思いました。学校や職場から、蔓延している、ドラッグ、薬物依存症の追放、依存症の予備軍を作らせず、麻薬の売人などを駆逐する、という運動だったのですね。
しかしながら、喫煙者の立場に配慮するとしても、決して、他人の喫煙行為自体を、私が好きなわけではありません。
そばでそばで大量にタバコを吸われるとやはりにおいがこちらに移り、衣服に残るように思えるし、煙いのも確かです。しかし、この感覚は、拡大していけば、他人の体臭・口臭の問題や、最終的には「お前の顔が気に食わない」まで行きつきそうで、知性と教養のある人間としては、あるいは人間の懐の深さとして、あまりに浅薄な、即時的な対応は避けるべきと自問されます。あの同僚のおばさんも、安い正義に拠り、そこまで残酷な言説をするわけではないかも知れないが、「お前が嫌いだ」と思っているかも知れず、その本音はちょっと不気味で、気にかかるところではあります。
しかし、あるとき、あるまじめな(?) 女性が、「タバコを吸う時間に一件でも仕事が処理できるじゃない」とも言っており、「なるほど」と思い、その意味では、勤務時間中の喫煙は不公平なところです。当時は、無考えのおばさんには、「あんたが立ち話をしている時間の方がよっぽど損害を与えている」と裏で(怖いので心の中で)反論していましたが。そのうち、皆に立ち話をするだけの余裕もなくなり、今は、喫煙者の権利だけまだ保障されているのは不合理でありますが。しかし、現在の喫煙場所は、屋内では、トイレの裏とか、非常階段の踊り場とか、長期間滞在できないようになっております(ヤンキーのたまり場のようですね。)。とおりすがりに見ていると、それはさながら喫煙者サロンであり、「同病相哀れむ方々」のつかの間の愉楽の場となっています。それなりに、非喫煙者の冷たい眼にさらされる原因と理由はあるようです。
その後、私が人事評価をした際に、喫煙者はまず、マイナス点をつけました。「喫煙」が正式に職務免除になっていない以上、離席減点については当然のことです。その上で、喫煙後をして、気分を切り替え、優れた役立つ仕事をする場合は、加点評価になりますが。当該評価は、評価する立場からは、ある程度、好悪が入るのはそのようなものかもしれません。お互いに、人格者ばかりではないのです。うちの職場では、評価される側からの抗弁もできるようにはなっていましたが、お互いに「本気」になっても、それによる利害・不利益も特にないようで、その程度のものです。
アメリカ流で行けば、飲酒も確かに「ドラッグ」の一種であります。どうも、日本国では、少なからぬ人々が依存症ではあります。酒癖の悪いやつも確かに居ます。
そういえば、寒かろう、暑かろうと、櫓櫂の及ぶところあらゆる場所で、お構いなしに始まり、また終わりのない、おばちゃん、おねーさん、高校生と年齢、老若、美醜(?) を越えた、知り合い同士の彼らの立ち話も、私思うに、「ドラッグ」中毒の一種であろうかと思われます。あれも、場合によっては、とても不愉快です。
ということで、誰もが、一定の範囲で、その嗜好や気晴らしを個々に実践しており、例えば、小児性愛などという異常な、あるいは反社会的な犯罪行為を称揚するわけでなく、ことさらに、さる嗜好を取り上げ、根拠なしにそれを「社会の敵」呼ばわりするのは、不見識で、まるで、愚かな大衆のような行為である、ということでもあります。徒党を組んで、喫煙を攻撃するのは、安全で、あの「人権擁護運動」の建て前にも抵触することがない、巧妙なサンクション(社会的制裁)、したがって愉しい遊びです。いわゆる、仮想敵を作り上げ、攻撃する大衆の負性に媚びる不健康な遊びでしょう。
その意味で、あらゆる場所で、喫煙を禁じる現在の、すみわけが明確になり当面の迷惑行為が排除されたわけですが、間接喫煙の害悪の因果関係や、社会的に共通利害を阻害する根拠が明確にされずに、誰によってこのような運動が幅を利かすのかその所在の分からない強制と不合理は、「禁煙ファシズム」といっても間違いではないものと思われます。
さる機会に上京したとき、条例で禁煙禁止区域の指定した地区でしょうか、多くの人が、屋外の緑地そばの喫煙所でタバコを吸っていました。ビジネススーツを着たおねーさんがクールに吸っている光景もあります。そこはオフィス街であり、場合によっては禁煙の職場から、喫煙にやってくるのでしょう。おそらく、雨の日には、わざわざ、かさをさしてやってくるものと思われます。さすがに都会で、美観に留意した地区であり、義務設置によりうまく作られた喫煙所ですが、このうえ、彼らの居場所がなくなることについては、私は反対したい、と思います。
例のデブの問題(現代のあらゆる社会的側面で「デブ」は排除されるというテーゼ)と一緒で、「自己管理が出来ないものは、去れ」ということであるかも知れず、本当に、余計なお世話ですね。
そういえば、昔、「くわえタバコで死にたい」とかいった本もあったし、今ではうちひしがれた喫煙者も絵になる場合もあるかも知れない。
「デブ」といわれた場合の対応策ですが、「喜劇新思想体系」(山上たつひこ著)の逆向春助ではないですが、彼に習って、対、男に対しては、「俺の方がデブかもしれんが、お前の方がずっと不細工じゃ」と闘ってみてもいいかもしれません、意外に男には、身体・容貌の面罵が利くものです(笑い)。
対女性に対しては、いくら野人春助(全体女性の目が冷たいので)でも困難かも知れません。やはり、お互いの差異と背後に背負う膨大な歴史を尊重し、労わり合い、時に戦いましょう。
「男で、デブで、(ハゲで、ジジイで)、不細工で、アホで何のとりえのない極北のような存在はどうするのか」という場合には、復刻された「喜劇新思想体系」や、その後の更新版「湯の花親子」(同じく山上たつひこ著:逆向春助も中年こまわりくんのどちらも登場します。)を読みましょう。これらの漫画には、男一般に対する厳しい批評と揶揄、またユーモアと悲哀があり、たかが漫画でも、読めば、男同士の共同主観性を再度認識し、慰撫や慰めにはなるかも知れません。それはそれで、当該与件が一つでも外れていれば(主観的なものでそれは当てには出来ないが)、「俺は、まだ、ましや」と思えれば多少幸せです。
「名もなく、貧しく、美しくなく」、多くの人性は、そんなものかも知れません。
わが職場で、ついに施設内(屋内)喫煙が禁止されました(平成30年度末日を目途)。
本文のとおり、今までも、いくつかは、非常階段の踊り場とか、トイレの裏とかに喫煙場所は設定されていましたが、屋内の喫煙場所はあり、時に、人事課の職員すら、喫煙していました。
今後は、当該施設の駐車場の一部にでも、灰皿を置くのか、と思われるところです。しかし、当該撤去及び設置は、当該建物・通路から「おおむね10m」離しなさい、というガイドライン(山口県「受動喫煙に伴う、施設内喫煙場所の撤去」)があり、たぶん、片屋根の駐車場のようなものを作るのでしょう。話によれば、わが県の第二地銀S銀行では、「施設及び付帯する駐車場内」では、おしなべて禁煙となったということで、喫煙者は、縁接する、市道又は県道上で、タバコを吸うか、それが無理なら、社是として、「たばこは止めろ」ということなのでしょう。
ここまでくれば、わが市は、むしろ、千代田区のように「受動喫煙防止条例」を設置し、「分煙化」の推進により、応分の喫煙場所を設置するなど、喫煙者の人権をも守るべきだと私は思うのですが、どうでしょうか。
標記の写真は、ロシア時代の劇作家アントン・チェーホフの一人劇(「たばこの害について」)ですが、やはり19世紀のロシアでも、「たばこには害があり、当該行為は社会的損失である」という、(大衆向けの)ステレオタイプの認識だったのですね。しかし、何を隠そう、当該独白は、夫の副校長(?) からの、女学校の校長を務める妻からの自分に対する虐待歴の告発と、「あんな鬼婆になるなよ」、という女性徒に対するエール表明だったわけですが。この一人劇を、かつて、詩人の田村隆一が、人前で、演じたそうです。
ところで、「規則」というものは、あればあるほど厳しい対立を喚起するというところがあって、(瀬尾育生さんの、マンションのペット禁止内規が制定され明文化されたことより、以前よりずっと、住民間にいかに厳しい対立が生じたかという、優れた指摘(「吉本隆明の言葉と「望みなきとき」の私たち」、瀬尾育生著)があり)、この問題が、今後も、法令等で、厳しい規制をするたびに、対立をあおることを認識すべきだと思われます。当該「嗜好」が喚起する、大きな社会的害毒(路上・歩行喫煙等)を外せば、それ以外の厳しい規定は、必ず、人の数ほどある個々の「嗜好」を阻害・対立を招くし、時には、「思いやりと察し」の文化を持つ日本人として、「個々の嗜好」を許しあう気風が必要なんじゃないでしょうかね。
そして、もう一つ、申し上げたい。
本文で触れた、「湯の花親子」の中で、仲間うちの飲み会で、醜男(ぶおとこ)の何とか君が、コンビニで買い物するとき、コンビニのおねーさんは、(ぶ男に毛筋ほども触りたくないので、)いつもつり銭を放って返すという報告(ぐち)があります。そうなれば、極北のぶ男の何とか君がコンビニに行ったらどうなるかという思考実験が試されることとなり、その後でその男が報告するには、投げて返すどころか、つり銭も返さない、という(笑えない)笑い話があったわけです(男どもはなるほどと、納得します。)。
私、先日から、コンビニで、つり銭をもらう際に、常に、おねーさんが、こちらの手の下に、必ず手を添えます。これは、きっと、疎外されたぶ男どもが、自尊心に耐えかねて、「俺を無視するな」と、コンビニに苦情を言い、それがマニュアルに反映された結果に違いない、と私は思っています。
真偽は別にしても、ありそうな話だと思いませんか。