北を見る
南を見る
南を見る 川中に鳥がいます
まち歩き 前回の記事 ➔ まち歩き左0787 京都一周トレイル 北山東部コース 25
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
徒然草の著者 吉田兼好(1283~1350年)をしのんで江戸時代ここ長泉寺に墓と歌碑が作られました
住んでいた庵は一の丘と二の丘のあいだの西よりともいわれています
長泉寺:浄土宗 元禄年間(1688~1704年)に創建された
また、征韓の秀吉軍に捕らえられて異境の土を踏むことになった高麗の一男子が、晩年に僧となって開いた寺
浄土宗に属し、元禄年間(1688~1704)の創建とつたわる。その後の(『都名所図会』によると「兼好法師の旧跡は二の岡の西の麓にありしを、近世岡の東、長泉寺に移すなり」と記されている。旧跡とは、現在境内墓地の一隅にある兼好の墓や本堂に安置する兼好像をいったものとみられる。墓石は兼好法師墓ときざんだ三角形の自然石で、その右に
契り置く花とならび岡の辺に哀れ幾代の春をすぐさむ
としるした歌碑は、明治26年(1893)の建立とつたわる。
吉田兼好は吉田神社の祠官卜部氏の出身で、吉田(左京区)に住んでいたので吉田兼好と称し号としたとつたわる。
はじめ洛北修学院に隠棲したが、のち木曽にあそび、帰洛後は双ヶ丘の麓、一ノ丘と二ノ丘とのあいだの西寄りに庵をむすんで、閑居するに至った。
また、「ならびの岡に無常所(墓)を設けて、傍に桜を植えさすとて」と記している。兼好と双ヶ丘の関係をしめすものである。
しかし、晩年伊賀国司橘成忠に招かれ、国見山の麓、田井の庄に転住し、貞和6年(1350)2月15日、かの地において没した。享年68歳。長泉寺の墓は供養塔として後につくられたものと思われる。寺では毎年4月第2日曜日に兼好忌が行われる。
「徒然草」が生まれた時代は、正中の変(1324年)、元弘の変(1331年)と立て続けに討幕計画を起こした後醍醐帝が、その失敗から隠岐に流された。流罪と同じ年(1332年)に楠正成が挙兵した。鎌倉幕府が崩壊し(1334)、代わって足利尊氏が開幕(1336年)して南北朝時代の始まりを告げるのである。法師の没後、墓は双ヶ丘に建てられた。さらに300年後、二の丘の東麓に長泉寺が開基され、同寺の墓地に移った。明治の初期に檀家が建てたという法師の歌碑があった。
ちぎりおく花とならびのおかのへに
あはれいくよの春をすぐさむ
「十万人の墓」と刻んだ瓜実型の石碑が建っている。これは、天明8年(1788)の大火であ敢え無く亡くなった町びとの菩提を弔ったものらしい。
関連記事 ➡ 人物020 吉田兼好 兼好法師
寺院前回記事 ➡ 桜上001 寺院上0026 妙覚寺の桜
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます