右 寂光院道
明治四十二年十月 奥田久兵衛
左 くらまみち
右 しやこゐん道
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1283年 1歳 このころ山城国に生まれる
1324年・42歳 後宇多上皇がなくなり、北面の武士をやめて僧となる。東国や木曽路・伊勢なと゜に旅行をしたのち、京都の双ヶ岡に住みつく。
1330年・148歳 このころ『徒然草』を書く。
1336年・54歳 二条為世に和歌を習う。やがて頓阿・浄弁・慶運とともに<和歌四天王>の一人として重んじられる
1352年・70歳 このころ亡くなる
1283?~1352? 鎌倉時代末期の歌人・僧。
五條天神社 牛若丸・弁慶の出会いの場所が近所・・・「義経記」
千本釈迦堂・大報恩寺 800年前の建物・おかめ像・徒然草にも登場
『徒然草』を書き、中世を代表する名文家。
山城の国に生まれた。本姓は占部、俗名は兼好。神主の家の生れ、北面の武士(上皇の御所を守る武士)として、後宇多上皇に仕えていたが、正中元年(1324)に上皇がなくなると、延暦寺で髪をおろして僧となり、東国や木曽路・伊勢などに旅行をし、やがて京都の双ヶ岡に、粗末な家を建てて住み着いた。かれは和歌を二条為世に学び、すぐれた歌人として知られ、頓阿・浄弁・慶運とともに和歌四天王といわれた。かれの和歌は『続千載和歌集』以下のの勅撰集(天皇の命を受けてつくられた歌集)に16首がおさめられており、家集(個人の歌集)に『兼好法師集』がある。かれはまた、有職故実家(朝廷・武家での古来の役職・装束・儀式などを研究する人)・古典研究家としても知られていた。
しかし、兼好の名をとくに有名にしたのは、随筆『徒然草』である。これは、清少納言の『枕草子』や鴨長明の『方丈記』とならんで、わが国の随筆文学の最高のものといわれる。
徒然草 鎌倉時代の歌人・吉田兼好の随筆。上下2巻、244段からなり、元弘元年(1331)までに成立。日常生活のなかでの見聞や感想を、ありのまま書きつづったもので、作者のゆたかな教養と人間味あふれているが、19段「をりふし移り変わるこそ」の文章によれば、『源氏物語』や『枕草子』という古典の上に立って書いていたことがうかがえる。このように平安時代への強いあこがれが見られると同時に、前の時代の文学には見られない現実的なところもある。
序段の「つれづれまるままに、日ぐらし硯にむかひて心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」はとくに有名で、書名になっている。