清少納言の名が出てくる 記事一覧
1 神社右0012-2 車折神社 表参道 第3鳥居から 本殿まで
4 寺院中0067 誓願寺 浄土宗西山深草派 H28.5.9画像追加
9 まち歩き滋賀0261 歌碑 逢坂の関、逢坂山を歌った 蝉丸・清少納言・三條右大臣
10 寺院左0472 九十九坂 清少納言も登った 鞍馬寺
平安時代中期の代表的女流文学者、随筆「枕草子」の作者として有名。
一生(数え年)
966年・1歳 このころ清原元輔の子として生まれる。清原家は学者の家系で、清少納言は父の指導により小さいころから学問にすぐれる。
980年・15歳 このころ、橘光則と結婚する
986年・21歳 仏教の話を聞く会で、才能を認められる。こののち、一条天皇の中宮藤原定子に仕える。
1000年・35歳 宮仕えをやめる。このころ、「枕草子」を完成する。
1025年・60歳 このころ、亡くなる。
父は歌人の清原元輔。文学的にめぐまれた家系に生まれ、詩歌や漢文との交わりは深かった。橘則光と結婚して則長という男の子を生んだが、家庭生活はうまくいかず、夫と別れた。一条天皇の中宮(いまの皇后)藤原定子に仕えたのはこのころである。そこで摂政(天皇がおさないとき、かわって政治をみた役職)藤原道隆、左大臣の藤原道長らの有力者に接し、藤原公任・藤原行成らの貴族とも親しく交わった。彼女が書いた「枕草子」には、それらの体験を通した当時の宮廷のありさまがえがかれている。
その中に、雪がたくさん降った朝、中宮から「香炉峰の雪はいかならん」と問われたのに対し、すぐさま「香炉峰の雪はすだれをかかげて看る」という白楽天(中国、唐の詩人白居易)の詩をひいて、すだれを高くあげて外が見えるようにした。というエピソードがある。清少納言は教養があって理知的で、またユーモラスな性格であったことがうかがえる。同時代に活躍した紫式部とは才女どうしのライバルであった。
1000年(長保2年)、中宮定子がなくなったあとは宮仕えをやめ、前摂津守・藤原棟世の妻となったが、晩年は寂しい日々を送ったようである。