道標 善法律寺
向て 左 正法寺 八丁
向て 右 頼風寺 二丁
昭和二季 建立 京都三宅安兵衛依遺建立
奈良唐招提寺末で律宗に属す。鎌倉時代、正嘉年中(1257~59)石清水八幡宮社務善法寺宮清が奈良東大寺実相上人に帰依し、私宅を寺に改めたことに始まる。室町時代には、善法寺通清の息女紀良子が足利三代将軍義満を生んだことから将軍家との関係は深い。良子が紅葉の樹を寄進し、今も紅葉が美しいことから紅葉寺とも称される。
本堂は、内陣を高御座と呼ぶ神仏混淆の五間四方の堂で八幡宮の旧社殿を移築したとされ、建築年代は不詳であるが、桃山時代の特徴を示すといわれる。
本堂本尊は、もと石清水八幡宮にまつられていた僧形座像といわれ、明治の神仏分離の際に当寺に移された。像高92センチ、木造彫眼、平安時代末頃のものといわれる。両脇には、愛染明王・不動明王があり、寄木造り玉眼彩色の等身大で創建時の作である。
奥殿には宿院頓宮にあったという宝冠阿弥陀(南北朝時代)や善法寺祐清が造立した観音堂の本尊千手観音菩薩立像(鎌倉時代)など寺宝は多い。放生池畔には、もと大乗院にあったという五輪塔(鎌倉時代)もある。
また、境内には昭和9年の室戸台風で犠牲になった八幡尋常高等小学校の校長生徒等の慰霊碑がある。
1994年3月 八幡市教育委員会
室町幕府と善法律寺
1392年も義詮(よしあきら)を次いだ三代将軍足利義満によって、60年近く続いた南北朝の時代が終わりました。
朝廷は1つになったのです。
義満は、金閣寺を建てたり、中国と貿易をして莫大な富を築いたりしました。
また、石清水八幡宮には、20数回も参詣するほど、八幡とは深い関係の将軍でした。
義満の母が、石清水八幡宮の社務(長官)の1つである善法寺家の娘良子だったからです。
室町幕府は、その後も八幡宮を保護し、代々の将軍はたびたび石清水八幡宮に参詣しました。
善法律寺は、鎌倉時代に、八幡宮の社務である善法寺宮清が建てたお寺です。
義満を生んだ良子は、この寺に紅葉を寄進したといわれ、秋になれば境内は、みごとな紅葉につつまれます。
本堂は、八幡宮の社殿を移したと伝えられ、桃山時代の様式をあらわしているといわれます。
堂内には、平安時代から南北朝時代にかけて造られた仏像がたくさんあります。
なかでも八幡大菩薩像は、お地蔵さんのすがたをしていますが、神様なのです。
僧の姿の神像がこの善法律寺に移されたのは、明治になってからで、それまで、石清水八幡宮内にありました。
石清水八幡宮は、神様であり仏さまを祭る神社だったのです。
本尊 八幡大菩薩
慰霊塔 昭和9年の室戸台風の犠牲者・八幡尋常高等小学校
大東亜戦役戦没者 慰霊碑
御庭の水
善法律寺は、石清水八幡宮 祀官家の1つである善法寺家の邸宅に創建されたと伝えるが、善法寺家の庭園に創建されたとの別伝もある。
この井戸は「御庭の水」と呼ばれ、近代まで善法寺家(菊大路家)が所有し、昭和30年代頃までは、近隣に飲水として開放されていた。
かつて善法律寺の邸宅の南には、茶畑町があった。また、善法律家の荘園があった摂津国能勢木代庄の住人に依って、宮中や将軍家に能勢餅(亥の子餅)が毎年、献上されていた。茶道を庇護した将軍 足利義満とも姻戚であり、この井戸は、善法寺家の往時を偲ぶ数少ない遺跡である。老朽化が進み、飲用もされなくなっていたが、平成28年9月に井戸屋形を改修し、再興の端緒とした。
大西坊は、男山48坊の坊舎の1つである。覺運は『忠臣蔵』で高名な大石内蔵助良雄の叔父である小山良師の末子であるが、大石良雄の養子となった。覺運は、大石良雄の実弟である専貞の跡を継いで、大西坊の住職に就いた。江戸期の地誌『男山考古録』には、赤穂義士討ち入りに助力し、衰退していた大西坊の復興も行って、大西坊の中興の祖となったとある。運應と覚助は、覺運の弟子である。
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