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まとめ006 紀元2600年石碑・献木・奉納額  

2019年05月18日 16時58分58秒 | テーマ数々

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1 紀元2600年石碑  大酒神社

2 上御霊神社の絵馬堂の奉納絵

3 「梅津大神宮」

4 町内に 皇紀2602年石碑   大東亜建設記念 と書かれています

5 上御霊神社 献木

6 六請神社の社標

7 下御霊神社の献木

8 小松原公園のラジオ塔

9 今宮神社(右京区)の献木

10 禁裏道場蹟

11 町内の国旗掲揚に使った石柱

12 皇紀2600年奉祝記念と書かれています

13  共同井戸 紀元2600年

14 天道神社

15 伏見稲荷  

16 建勲神社の社号標

17 民家に石柱

18 警察消防招魂社   

19 若宮神社 (紫野)  

20 だるま寺の島津源蔵の文  

21 光澤寺の石碑             

22 嵯峨釈迦堂の愛宕権現社 灯籠    

23 大炊御門万里小路殿    

24 蒲生君平 石碑    

25 松尾大社の燈籠    

26 龍田稲荷神社  

27 名和長年 

28 東本願寺・同朋会館門前  9月27日

29  香雪院 中興碑  10月10日

30 新日吉神宮  10月11日

31 苗塚  10月12日

32 山科三之宮  

33 陽明文庫  

34 御室八十八ケ所の道標  

35 萩児童公園

36 八大神社

37 紀元037  紀元2600年 上御霊神社  献木 

38 紀元038 国旗掲揚に使った 紀元2601年石柱

39 地蔵尊伏022  墨染地蔵尊   紀元2600年の石柱

40 石碑山0069  供養塔・題目塔 周囲に車石が多数使われています

41 神社山0075  蝉丸神社

42 乃木神社 全国にあるのでしょうが ここは、明治天皇陵の近くです

43 まち歩き北0302  紀元2600年 共同井戸 って何

44 紀元043  源空寺  2600年記念

45  紀元044  伏見区 深草 石柱 紀元2600年

46  神社下0112 蛭子神社 皇紀2600年の標柱

47 紀元2600年上047  皇紀二千六百年記念 お地蔵さんの土台

48 紀元048  皇紀2600年  島原・東藥園町

49 神社府0130 離宮八幡宮  その3の2 境内にある

50 神社北0137  大田神社 境内の灯籠

51 神社西0153 首塚大明神

52 寺院八幡0583 善法律寺 三宅石碑 慰霊碑 紀元2600年碑

53   神社八幡0176 狩尾神社  本殿・重要文化財  紀元2600年碑

54 寺院八幡0645 善照寺  真宗本願寺派

55   まち歩き左1091 岩倉 石座神社 灯籠 皇紀2600年銘

56 神社城陽0208 旦椋神社(あさくら) 以仁王の冑

57    石碑左0219 北白川 将軍地蔵をめざして 道路改修碑 祝紀元2600年

58   神社左0228 北白川天神宮 石碑・紀元2600年

59 神社左0234   大豊神社  (前)

60 神社左0235   大豊神社  (後)

61

62

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 年が紀元2600年と一致

1  建勲神社 北の社号標

2  二条城の史蹟標  

3  石鳥居・市五郎大明神  98基・99基  

4   神社伏0076-1   御香宮神社1


寺院八幡0583 善法律寺 三宅石碑 慰霊碑 紀元2600年碑

2019年05月18日 16時52分47秒 | 寺院

 

 

道標 善法律寺

   向て 左 正法寺 八丁

   向て 右 頼風寺 二丁

昭和二季 建立 京都三宅安兵衛依遺建立

 

 

 

奈良唐招提寺末で律宗に属す。鎌倉時代、正嘉年中(125759)石清水八幡宮社務善法寺宮清が奈良東大寺実相上人に帰依し、私宅を寺に改めたことに始まる。室町時代には、善法寺通清の息女紀良子が足利三代将軍義満を生んだことから将軍家との関係は深い。良子が紅葉の樹を寄進し、今も紅葉が美しいことから紅葉寺とも称される。

本堂は、内陣を高御座と呼ぶ神仏混淆の五間四方の堂で八幡宮の旧社殿を移築したとされ、建築年代は不詳であるが、桃山時代の特徴を示すといわれる。

本堂本尊は、もと石清水八幡宮にまつられていた僧形座像といわれ、明治の神仏分離の際に当寺に移された。像高92センチ、木造彫眼、平安時代末頃のものといわれる。両脇には、愛染明王・不動明王があり、寄木造り玉眼彩色の等身大で創建時の作である。

奥殿には宿院頓宮にあったという宝冠阿弥陀(南北朝時代)や善法寺祐清が造立した観音堂の本尊千手観音菩薩立像(鎌倉時代)など寺宝は多い。放生池畔には、もと大乗院にあったという五輪塔(鎌倉時代)もある。

また、境内には昭和9年の室戸台風で犠牲になった八幡尋常高等小学校の校長生徒等の慰霊碑がある。

1994年3月 八幡市教育委員会

 

室町幕府と善法律寺

1392年も義詮(よしあきら)を次いだ三代将軍足利義満によって、60年近く続いた南北朝の時代が終わりました。

朝廷は1つになったのです。

義満は、金閣寺を建てたり、中国と貿易をして莫大な富を築いたりしました。

また、石清水八幡宮には、20数回も参詣するほど、八幡とは深い関係の将軍でした。

義満の母が、石清水八幡宮の社務(長官)1つである善法寺家の娘良子だったからです。

室町幕府は、その後も八幡宮を保護し、代々の将軍はたびたび石清水八幡宮に参詣しました。

善法律寺は、鎌倉時代に、八幡宮の社務である善法寺宮清が建てたお寺です。

義満を生んだ良子は、この寺に紅葉を寄進したといわれ、秋になれば境内は、みごとな紅葉につつまれます。

本堂は、八幡宮の社殿を移したと伝えられ、桃山時代の様式をあらわしているといわれます。

堂内には、平安時代から南北朝時代にかけて造られた仏像がたくさんあります。

なかでも八幡大菩薩像は、お地蔵さんのすがたをしていますが、神様なのです。

僧の姿の神像がこの善法律寺に移されたのは、明治になってからで、それまで、石清水八幡宮内にありました。

石清水八幡宮は、神様であり仏さまを祭る神社だったのです。

 

 

 

 

 

 

 本尊 八幡大菩薩

 

 

慰霊塔  昭和9年の室戸台風の犠牲者・八幡尋常高等小学校

 

 

大東亜戦役戦没者 慰霊碑 

 

 

御庭の水

善法律寺は、石清水八幡宮 祀官家の1つである善法寺家の邸宅に創建されたと伝えるが、善法寺家の庭園に創建されたとの別伝もある。

この井戸は「御庭の水」と呼ばれ、近代まで善法寺家(菊大路家)が所有し、昭和30年代頃までは、近隣に飲水として開放されていた。

かつて善法律寺の邸宅の南には、茶畑町があった。また、善法律家の荘園があった摂津国能勢木代庄の住人に依って、宮中や将軍家に能勢餅(亥の子餅)が毎年、献上されていた。茶道を庇護した将軍 足利義満とも姻戚であり、この井戸は、善法寺家の往時を偲ぶ数少ない遺跡である。老朽化が進み、飲用もされなくなっていたが、平成28年9月に井戸屋形を改修し、再興の端緒とした。

 

 

 

 

 

大西坊は、男山48坊の坊舎の1つである。覺運は『忠臣蔵』で高名な大石内蔵助良雄の叔父である小山良師の末子であるが、大石良雄の養子となった。覺運は、大石良雄の実弟である専貞の跡を継いで、大西坊の住職に就いた。江戸期の地誌『男山考古録』には、赤穂義士討ち入りに助力し、衰退していた大西坊の復興も行って、大西坊の中興の祖となったとある。運應と覚助は、覺運の弟子である。

 

 

 

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祠八幡046 大正12年に新調されている 祠

2019年05月18日 05時53分27秒 | 町内の小さな祠

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