寺院 前回の記事 ➔ 寺院長0171 乙訓寺 真言宗 最澄と空海が初めて出会った寺 ぼたん寺
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乙訓寺
表門
長岡京市指定文化財(建造物)
表門・昭和63年11月3日指定
元禄8年(1695)
沿革・大棟端の鬼瓦にも元禄8年の銘があり、様式上からも元禄の建立であることは確かである。仕様覚は惣門と記し、金30両ばかりと見積もっている。赤門とも称されている。
弘仁2年(811)には空海(弘法大師)が乙訓寺の別当に任ぜられた。翌年10月に最澄が立ち寄り、二人が初めて出会う。最澄46歳、空海36歳。このとき、仏教界の巨星二人がこの寺で仏法について語り明かしたといわれる。
乙訓寺
真言宗豊山派長谷寺の末寺。洛西観音霊場第6番札所。本尊。合体大師像。
寺伝によれば、推古天皇の勅願によって聖徳太子が開いたとされる。長岡に都があった延暦4年(785)に早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉された地として、また嵯峨天皇の弘仁2年(811)に空海(弘法大師)が別当となった寺院として、歴史の舞台にも登場し乙訓随一の大寺院として栄えていた。
江戸時代の元禄8年(1695)に護持院隆光が5代将軍綱吉の母桂昌院の援助により再興した。また、重要文化財の毘沙門天像や市指定文化財の11面観音像等がある。境内には、ぼたんが2千株余りあり「ぼたん寺」としても名高く、洛西屈指の古刹である。長岡京市観光協会
早良親王(750~785)
平城京から長岡京に遷都して間もない延暦4年(785)、造長岡宮使(造営の最高責任者)藤原種継が、当時の桓武天皇の留守中のに暗殺されてしまいます。事件に激怒した桓武天皇は、首謀者である大伴継人らをはじめ、関係者数十名を処刑しました。桓武天皇の実弟・早良親王も、事件への関与を疑われ、乙訓寺に幽閉されてしまいます。(※暗殺に早良親王が関与していたかどうかは不明)。親王は身の潔白を訴え、抗議のために断食しますが、淡路島へ流罪となり、途中、恨みを抱きながら絶命したといわれています。
早良親王の死後、桓武天皇の身の回りには不幸が相次ぎます(生母・高野新笠の病死や皇后・藤原乙牟漏の突然死、第1皇子・安殿親王(後の平城天皇)の原因不明の重病の発病など)。また、日照りによる飢饉・疫病の大流行、小畑川の氾濫による大規模な洪水被害など、天災にも苦しめられました。
延暦13年(794)、和気清麻呂の建議もあり、桓武天皇は平安京への遷都を決意します。「長岡京」が廃都になった理由は定かではありませんが、桓武天皇が早良親王の祟りを恐れていたとする説もあります。
延暦19年(800)、桓武天皇は早良親王に「崇道天皇」の諡号を贈り、淡路島から大和国に遺骸を移しました。ここ乙訓寺の境内にも、早良親王の供養塔があります。
早良親王塔
地蔵堂
モチノキ
乙訓寺のモチノキ
長岡京市指定文化財 有形文化財(天然記念物)
樹種/クロガネモチ(モチノキ) 形態/単木 幹周/2.93m
根元周囲/3.55m 樹高/9m 推定樹齢/400~500年
平成7年11月3日指定
クロガネモチは関東地方以西の本州、四国、九州、沖縄の常緑樹林内に生育する常緑高木ですが、庭木や街路樹としてもよく使用されます。樹皮は灰白色又は暗褐色でなめらか、葉は両端が尖った楕円形で長さ6~10㎝、葉柄は1~2㎝で紫色を帯びます。雌雄異体で6月頃に花弁の長さ約2ミリの白色又は白色又は淡紫色の花をつけます。果実は球形で直径約6ミリ、10月から11月に赤色に熟し、種子が1個入っています。
乙訓寺のモチノキは京都府内でも屈指の巨大さを有する名木です。古くから地域の人びとに親しまれ、寺のシンボル的な存在となっています。
昭和9年(1934)の室戸台風で幹が折れ、近年枯れ枝が目立ち、頭部から雨水が入り腐食と空洞化が進み、樹勢が衰退していました。元の姿に戻すために関係者の協力を得て蘇生、保全対策を講じたことにより再び以前の樹勢が戻りました。これからも緑のある憩いの場として安らぎと潤いを与えてくれるでしょう。平成15年3月
長岡京市教育委員会
裏門
裏門
長岡京市指定文化財(建造物)
昭和63年11月3日指定
概要・一間一戸 高麗門 切妻造 本瓦葺 両脇練塀付
元禄8年(1695)
沿革・棟札に裏高麗門と記し、間9尺とする。仕様党は裏門「黒門」作りとしている。長岡京市教育委員会
柑橘樹
弘法大師は弘仁3年恒例により境内で実ったみかんを摘み取り詩を添えて嵯峨天皇に献上された
献 柑子表 一首
沙門空海言。乙訓寺有数珠村橘樹。依例交摘取来。云々
性霊集
毘沙門堂
毘沙門天立像
眉をひそめた暗い表情
鐘楼
鐘楼
長岡京市指定文化財(建贓物)
昭和63年11月3日 指定
鐘楼
概要 方一間 入母屋造 本瓦葺 江戸中期
沿革 牧野成貞の寄進による建立と伝えるが
記録を欠き建立年代は不明である。鐘は戦時に供出され、昭和41年に鋳造された。前の鐘銘を再刻してして元禄9年(1696)10月に精海が三条釜座の信州大橡藤原国次に造らせたことが判る。
本堂
本堂 長岡京市指定文化財
沿革 元禄8年(1695)5、6月に竣工し、当初は大師堂と呼ばれていた。宮殿には本尊の合体大師像が安置されている。
乙訓寺
早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉されたことで知られる乙訓寺は、長岡京造営以前から、かなりの規模の寺院であったことが寺院北側一帯の発掘調査によって判明している。弘仁2年(811)唐から帰朝した空海(弘法大師)は、同年11月に乙訓寺別当に任じられ、その修理造営を命じられた。空海は、弘仁3年(812)10月、高雄寺に移ったが、ここに真言宗に由緒の寺としての歴史を印された。中世には足利義満がこの寺を南禅寺の白英徳俊(応永10年没)に与え、禅宗寺院として再出発した。法皇寺の寺号も称した。5代将軍綱吉およびその生母桂昌院の信任の篤かった護持院隆光は、真言寺院としての乙訓寺再興を計画した。当時、乙訓寺は南禅寺金地院の兼帯地であったので、東山豊国神社辺にあった文殊院屋敷を拝領し、金地院と交換して乙訓寺の地を入手した。工事は、元禄7年(1694)12月8日に起工、翌8年5月21日竣工し、6月15日に供養した。造営後は宝永2年(1705)8月まで隆光の直接支配下にあったが、この年に長谷寺の芳運坊元貞が入山して一世となり翌3年11月に護摩堂が建立された。近世中期の寺観は都名所図会により窺がうことができる。
平成2年2月 長岡京市教育委員会
鎮守八幡社 長岡京市指定文化財
沿革 享保8年(1723)の修理により桧皮葺から柿葺に替えている。その後、桟瓦葺きに替えたのは明治以降と考えられる。
平成元年に修理し、軒の一部を柿葺し、その上に銅板を葺いている。
平成元年3月 建立
関連 ➔ 洛西三十三所観音霊場
寺院 前回の記事 ➔ 寺院長0170 光明寺 西山浄土宗 法然上人 蓮生上人
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寺号標
昭和16年9月建立
光明寺 全景
光明寺
長岡京市指定文化財 有形文化財
・御影堂(本堂)附棟札3枚、渡廊下(本堂・阿弥陀堂間)
・阿弥陀堂・釈迦堂・勅使門・経蔵・観音堂・鐘楼・總門
・薬医門・御廟・御廟拝殿・勢至堂・納骨堂・大書院・講堂・食堂・衆寮門
当寺は西山浄土宗の本山で、寺伝によれば、建久9年(1198)に蓮生法師(熊谷次郎直実)により創立され、法然上人を開山第一世としています。境内は広く、洛西一の伽藍を誇り、主要な建物は山内に点在して廊でつながれています。応仁、元亀、天正の兵火にあい、江戸時代には享保19年(1734)の火災により焼失し、大半の建物はそれ以後の建立です。
總門をくぐり、美しい石畳の参道を登ると、正面に壮大な御影堂が、その右奥には阿弥陀堂があります。御影堂は宝暦3年(1753)の再建で、派手な装飾はないが全体的構成の精美性を意匠の主眼としたものです。阿弥陀堂は寛政11年(1799)の建立で、本堂より少し華やかな造りになっています。御影堂の後方にある御廟は明暦2年(1656)の再建で禅宗様を基調とした華麗な造りです。軒下回りの組物には多くの彫刻が施され、廟内の板壁は飛天や雲、蓮の花などが極彩色で描かれています。その前にある拝殿は山内では最も古い承応2年(1653)の建築です。御影堂の左下には、元文元年(1736)の釈迦堂、勅使門があり、庫裏、講堂へと続きます。天保4年(1833)に建立された講堂は食堂とともに浄土宗寺院でも壇林(仏教の学問所)に関する類例の少ない遺構群であります。平成5年2月 長岡京市教育委員会
西山浄土宗総本山。建久9年(1198)、法然上人の弟子蓮生法師(熊谷次郎直実)が、師のすすめによってこの地に草庵を開いたのが始まりです。
その後、法然上人の高弟である證空上人とその弟子達に受け継がれてきました。
光明寺の周辺、粟生広谷の地は、法然上人が初めて念仏の教えを説いたところです。総門の前に「浄土門根本地」の石碑が建てられているのは、正親町天皇より「法然上人ノ遺廟、光明寺ハ浄土門根本之地と謂イツベシ」という綸旨を賜ったことに由来しています。
総門をくぐり、ゆりやかな石段を上ると宝暦3年(1783)に建てられた御影堂が見えてきます。この御影堂には、建永の法難で四国へ流罪ときまった法然上人が、弟子の願いに応えて自らお作りになったといわれる「張り子の御影」が祀られています。また、その背後の丘の上には、法然上人の御遺骨を納めた御本廟(非公開)があります。
多くの寺宝には木像千手観音立像や絹本着色二河道図(鎌倉期:東京国立博物館勧告保存)などの国指定重要文化財も含まれています。
境内には樹齢150年を超える楓の木々がたくさんあり、西山の紅葉の名所として有名です。
蓮生法師(熊谷次郎直実)と法然上人
寿永3年(1184)、源平一の谷の合戦。関東一の剛の者と呼ばれた熊谷次郎直実は、源義経率いる奇襲部隊に所属し、戦に臨んでいました。
この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平敦盛(平清盛の甥・当時16歳)を呼び止め、その首を討ち取ります。しかし、自分の息子ほどの年齢の若武者を殺めたことで、直実は悔恨の念と世の無常を感じることになります。
建久4年(1193)、直実は犯した罪を償うために武士を捨て、東山吉水の法然上人を訪ねて仏門に入ります(法名・法力房蓮生)。建久9年(1198)修行を経た蓮生上人は、喧噪の吉水を離れ、静かに念仏を称えられる地を求めて、ここ粟生の地に寺を建立します。そして、法然上人を招いて落慶法要を行い、上人を開山第一世、自らを第二世とし、上人から「念仏三昧院」の寺号を頂きました。これが光明寺の発祥です。
法然上人は建暦2年(1212)に亡くなりました。晩年は、奈良や比叡山の古い教団から迫害を受けていたといいます。死後の嘉禄3年(1227)、比叡山の僧徒が、東山大谷の上人の墓を暴き、遺骸を鴨川に流そうと企てます。
この企てを知った弟子達は、秘かに遺骸を太秦の西光寺に移しました。
翌安貞2年(1228)、上人の石棺が光明を放ち、粟生の地を照らすという不思議な事が起こったため、遺骸をこの地に移し、火葬にして裏山に御廟を立てました。この時の奇瑞にちなみ、念仏三昧院は四条天皇より「光明寺」の寺額を賜り、以後、光明寺と呼ばれるようになりました。
高麗門
閻魔堂
鐘楼
御影堂
手水舎
皇太子殿下 御手植之松
大正7年4月6日 行啓
円光大師の棺
阿弥陀堂
庫裡
円光大師火葬跡
柏槙(びゃくしん) ヒノキ科の常緑針葉樹
柏槙は茨城県のイブキ山に多く自生してることから、イブキともいう。
材は緻密で堅く、よい匂いがする。
高さは15メートルで、目通りの幹周りが3.8メートル、根元の周囲が4.6メートルにも達する巨木で、樹齢4、5百年といわれ、京都府下においても学術的価値が高く、
昭和52年に本市の天然記念物に指定された。
勢至菩薩をまつる円光大師(法然上人)の火葬跡前のあるこの木は、享保19年(1734)年ごろに描かれた「光明寺焼失絵図」などから、
火葬跡前に献樹として植えられた一対のうちの向かって左側にあたるとみられる。
応仁の乱や山崎の合戦などで焼失を繰り返した光明寺の境内にあって、
青々と茂る葉を天に向け、大地に根をおろしたその姿は、
歴史の重みと計り知れない生命力を感じさせてくれる。
平成10年3月 長岡京市教育委員会
専門寮
庫裡
鎮守
薬医門
関連記事 太秦 西光寺 ➔ 寺院右0004 西光寺 (さいこうじ) 門が茅葺だ 浄土宗
寺院 前回の記事 ➔ 寺院西0169 是住院 浄土宗 富岡家墓所
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西瓜食ふて 暫く星の 話かな /月斗
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南方向を見ています
右側には竹林が広がる
まち歩き 前回の記事 ➔ まち歩き西0138 大原野灰方町 風景
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丹波路や 綿の花のみ けふも見つ /闌更
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京都市西京区大原野上里北ノ町1298-4
浄土宗
是住院
当院は安蓮社運譽文貞和尚を開山とする元竜池山大雲院の塔頭として洛中寺町四条に建立されたるも惜哉天明8年正月の大火に罹り烏有に帰す然れども第11世全海上人に依って再建せられ今日に及ぶ近年寺域周辺繁華雑踏を極めるに至りしため昭和59年洛西大原野に聖域を求めて当地に移転せり
16世 深譽現準 敬白
昭和59年7月 建立
富岡家墓所
富岡鉄斎の墓あり
富岡鉄斎
是住院は大原野上里に移転し、昭和59年7月に新しい本堂の落成式が行われた。それと共に富岡鉄斎の墓も境内墓地に移された。墓は1mほど、表面に「富岡鐵斎先生・夫人佐々木氏墓」と刻まれている。鉄斎は近代日本画の巨匠として、国内外はもとより、遠く海外にも高く評価されている京都の生んだ芸術家であるが、画はあくまで余技であって、本来は儒者である。天保7年(1836)中京区三条衣棚の法衣商十一屋の二男として生まれた。名ははじめは猷輔、のちに百錬・鉄斎と改めた。少年時代から学問に励み、長じて国学を学ぶかたわら、大角南耕という画家に絵の手ほどきを受けた。20歳の頃、当時女流歌人として知られる太田垣蓮月尼の北白川心性寺に仮寓し、尼が趣味の作陶の手助けなどをした。その間、蓮月の人格に薫陶され、大きな影響を受けた。鉄斎が晩年に至るまで、新聞紙上などで貧窮者を知ると、必ず義損金を送ったのは、すべて蓮月の感化によるものであるといわれている。その後、27歳の頃、聖護院の蓮月旧宅にて私塾を開いていたが、無名の学者のこととて弟子もなく、画をかいて生計の助けとした。
鉄斎は勤王の志厚く、多くの志士たちと交わったが、幼年の頃、病のため難聴となり、志士達の会合の席に参加できなかったことが幸いとなり、安政の大獄には追補を免れた。
明治維新後は神社復古の必要性を力説し、国民道徳の宣揚につとめた。これが縁となり明治9年(1876)大和の石上神宮の大宮司や和泉の官幣大社大鳥神社の大宮司に任用され、荒廃した神社の復興に尽力し、その費用捻出のため、画をかいて希望の信者に頒布した。在職5年、明治15年(1882)兄の死によって京都に帰り、上京区室町一条下ルに定住し、89歳で世を終わるまでの40余年間を在野の学者として送った。
鉄斎は山稜の探査に心がけ、また京都付近の名所旧跡を修復したり、
先哲や孝子節婦等の遺跡顕彰に力を尽くした例は、枚挙にいとまがない。
太秦の牛祭の復活もその1つである。
これは本来の考古趣味によるものだが、根本観念は陰徳を施すことにあったとみられる。無縁墓となった故人の墓を修復する程功徳になることはないと考えていたらしく、これというのも、心学を重んじた鉄斎の父祖伝来の家学の影響によるものといえる。大正13年(1924)12月31日、持病の胆石が悪化し、正月を目前にして亡くなった。
享年89歳。法号を無量寿院鉄斎居士という。
是住院本堂前には鉄斎の筆塚が建っている
正面に見えるのが筆塚
墓は1mほど、表面に「富岡鐵斎先生・夫人佐々木氏墓」と刻まれている。
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小川 千甕 京に生まれ、富岡鉄斎に憧れ、仏画を描き、浅井忠に洋画を学び、ルノワールに会い・・・
身内をすべて失った女性 太田垣蓮月 美人で陶器・「蓮月焼」が人気になった
神社右0012-2 車折神社 表参道 第3鳥居から 本殿まで
神社右0012-1 車折神社(くるまざき じんじゃ) 南参道入り口
寺院 前回の記事 ➔ 寺院西0168 隆恩寺 浄土真宗本願寺派
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漢字ばかりで 難しい 抜き書きすると
上羽先生 恩碑
文化4年
鴨川 長法寺
少年 前後 数千・・
明治24年1月9日 病没
大正6年3月21日
従五位勲五等森本和三郎撰・
平安 堀川 高城 美成
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水引を しごいて通る 野道かな /水竹居
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寺院 前回の記事 ➔ 寺院西0163 地蔵寺 西山浄土宗
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