真宗仏光寺派の大本山で、渋谷山と号します
あるとき盗賊が寺内に乱入し、本尊阿弥陀像をうばって逃げようとしたが、重さと良心の呵責に耐えかねて二条河原に捨てて逃げた。その夜、後醍醐天皇の部屋に一筋の光が差し込むので光の行方を求め、本尊を得られたという。これに、ちなんで仏光寺というようになりました
天明の大火(1788年)、元治の兵火(1864年)で罹災した
市中にあっても静かです
大師堂門です
平成28年4月26日 追加
大師堂です
阿弥陀堂
本山佛光寺
佛光寺は、越後流罪に遭われた親鸞聖人が赦免された翌年建暦2年(1212)に京都に帰られ、山科の地に草庵を結ばれたことを起源としている。親鸞聖人在世当時、真宗の教えは関東を中心に広がりを見せていたが、親鸞聖人がお亡くなりになり、南北朝時代に第7世了源上人が、教化活動の拠点を京都に置き、西日本一帯の布教活動に力を入れた。元応2年(1320)には、寺基を山科から今比叡汁谷(現・京都国立博物館辺り)に移し、天正14年(1586)には豊臣秀吉の懇請により、寺基を五条坊門(現在地)に移した。京都の中心部に移転して400年余り、その間にも苦難に見舞われたが、門末の念仏相続の御懇念によって佛光寺の法灯は守り継がれてきた。京都市
豊臣秀吉は京都国立博物館あたりに大仏殿(奈良の大仏より大きかった)を造りました
阿弥陀堂です
阿弥陀堂 と 大師堂 です
この画像 平成28年4月25日 追加
廊下の埋め木 ひょうたん
埋め木 ハート形
ここまで 画像追加
鐘楼 です
阿弥陀堂門 平成28年4月26日 追加
阿弥陀堂門 境内から見た
阿弥陀堂門の彫刻です
大師堂門
玄関門
桜の画像は 平成28年3月26日 撮影
銀杏の画像追加 平成29年6月10日 (平成28年11月26日 撮影)
近辺地域寺社記事 ➡ 下京 東・東本願寺
前回寺院記事 ➡ 寺院西0023 観世寺 西山浄土宗
北吉野山と号する真言宗智山派の寺で、金剛蔵院という。
推古天皇4年(596)聖徳太子の創建と伝わる。また天武天皇4年(676)役小角が来山して修行中、童子と化した子守・勝手・金精の三神とともに一体の蔵王権現の像をつくり、本尊として安置したのが当寺の起こりと伝わり、寺号も神童寺と名付けたという。また、むかし吉野の大峯に毒蛇が多く、山伏修験者の入山ができなかったことから大峯に准じ、この地を吉野に擬して開創したしたとも伝わる、創建年ははっきりしないが、平安初期に興福寺の僧願安によって再興され、法相・真言宗の道場となった。
中世にはしばしば兵火に罹災し、
現在の本堂は応永13年(1406)興福寺の官務懐乗によって再建されたと伝わる。
門前 入口にある 石柱 何と書かれているのか 判読できず
門入口の 小さい蔵
本堂
本堂・重要文化財
蔵王権現像を本尊としているので、蔵王堂ともいう。
本堂 横にある 十三重石塔 鎌倉時代
井戸
石仏
中には 小さな 昔からありそうなものも
梵鐘
本堂と 眺望
鐘楼
当寺の梵鐘は寛政4年(1792)に作られ第2次世界大戦の折に金属回収令により昭和17年10月に供出し今回諸壇越の貴捨により梵鐘を再興するものである。願わくは仏日遥かに照らして結縁の諸壇越を哀悠擁護し賜わん事を
と書かれています
萩が咲いていました 平成29年6月19日 撮影
神童寺 へ行く途中にある 石柱 何が書かれているのか読み取れず不明
何か文字らしいものが書かれているらしいのですが
関連記事 梵鐘の供出 ➡ 西園寺 48願所 地蔵尊 第20番
寺院 前回の記事 ➡ 寺院下0376 東本願寺
関連記事 ⇒ まとめ045 京都府の重要文化財・国宝 建物
五七五
街出れば 5歳ぐらいは 若返る /福井
ことわざ
住めば都
権現寺 清光山と号する浄土宗の寺で、愛宕権現の本地仏勝軍地蔵を祀るので「朱雀権現堂」「朱雀の地蔵堂」ともいわれ、その名は古く「太平記」にも出てくる。
この地蔵尊はもと大和国(奈良県)元興寺にあったが、天安2年(858)付近の七条朱雀の歓喜寺に移し、同寺荒廃後も権現堂のみが残った。その後、明治45年(1912)国鉄山陰線の敷設によって、現在の地に移った。
本堂には本尊阿弥陀如来像を安置し、地蔵堂には勝軍地蔵と厨子王丸の身代わりとなり、その危難を救ったとつたわる身代わり地蔵尊を安置する。また寺宝に厨子王丸をかくまったという葛籠の断片がある。この伝説は、森鴎外の『山椒大夫』にもなった。毎年8月20日頃権現堂が開扉される。
地蔵堂の横に石造観音・地蔵坐像があり、旧歓喜寺の遺仏といわれている。
参道に 源為義の墓がある ➡ 墓下005 源為義 源頼朝の祖父
寺院 前回の記事 ➡ 寺院右0374 平安寺 日蓮正宗
五七五
物忘れ すごく進んで 老いを知る /吉田
ことわざ
物は言いよう
源為義の墓
為義は世に六条判官とよばれ、源氏の棟梁であったが、保元の乱に敗れ、朱雀野において処刑された。この墓は権現寺の北にあったが、明治45年(1912)国鉄山陰線の敷設によって移された。
源為義の後裔と称する人が、貞享年間(1684~88)頃に建立した。保元の乱には崇徳上皇に加担し、後白河天皇の軍と戦って敗れた。乱後、捕えられ、息子の義朝の助命嘆願にかかわらず、処刑されたという悲劇的な人物であったので、後の世の同情を得るに至った。為義の塚が現在の中央卸売市場の地に当たることが、当時の絵に残されている。
本当の墓は円覚寺といわれている。現在の岡崎公園北部の地にあったといわれている。室町時代の頃には愛宕山の西麓の水尾に移された。水尾の円覚寺にある貞純親王塔の傍らには、源氏一族の供養塔といわれる石塔数基がある。いずれも岡崎の円覚寺から移したという伝承かある。
建立年 1912年
建立者 京都府
源為義(1096~1156)は平安時代の武将。保元の乱で崇徳上皇方に味方したが敗れ,長男義朝のもとへ降伏し『保元物語』によれば「七条朱雀」で斬首された。
「七条朱雀」すなわち千本七条附近(山城国葛野郡朱雀村)にあった塚と塔が為義の墓所であるという伝承を生み,江戸時代の地誌に記されることが多い。「源為義塔 按保元物語,源為義入道義法,於七条朱雀被斬首,則納円覚寺云々,今朱雀権現堂前竹林,塔之所存則古円覚寺之跡乎」(『雍州府志』巻十),「源為義の塚は権現堂の前[朱雀の六軒町といふ]民家の間にあり」(『都名所図会』巻四)などの記事がある。また『都名所図会』には18世紀中ごろの為義塚周辺を描いたさし絵を載せる。
しかし明治末からの梅小路貨物ヤード整備にともない,権現寺とともに現在地に移転を余儀なくされた。旧地は現山陰線軌道敷内,七条通より少し北の地点であろう。移建の経緯を記したのがこの碑である。現在は塔(五輪塔)および江戸時代初期に建立されたとみられる碑,本碑,および石標六条判官源為義公塚が権現寺門前の一区画に集められている。
源為義旧址在葛野郡大内村大字朱雀
小字堂口二十二番地石塔在焉明治壬
子官有京都停車場擴張之事其塔入域
内因移此地以保存焉旧址在東偏八十
壱度三十四分相距実百三十八間六分
因建石以表之
明治四十五年三月 京都府
建立年 1910年
建立者 高沢虎之助
六条判官源為義公塚
明治四十三年九月建之
広島県高田郡生桑村住人
高澤虎之助建之
平家物語 ➡ 義経・弁慶 伝説 源平物語
墓所 前回の記事 ➡ 墓伏004 元政上人御廟
五七五
ふるさとを 守ってくれる みかんの木 /坂根
ことわざ
鯖を読む
四条烏丸 付近 東を見る
京都駅構内
山陰線 七条通踏切・昭和45年6月撮影 山陰線の高架化以前、七条通では線路をアンダーロスしていた市電と異なり、路面の道路部には踏切があった
東山線(叡電前) 昭和53年9月撮影 通称「叡電交差」の東南角には戦後の一時期、市電の乗り入れ用の渡り線があった。なお叡電の駅名は「元田中」
今出川線(加茂大橋~河原町今出川) 昭和45年1月撮影 雪化粧の大文字山を背に加茂大橋を渡る電車。朝ラッシュ時とあって、赤く書かれた「急行」の円板をつけている。
トロリーバス(四条大宮)昭和44年9月撮影 四条大宮~松尾橋間のトロリーバスも昭和44年9月末限りで廃止された。写真は四条大宮での方向転換風景。
四条線(四条京阪前) 昭和46年9月撮影 四条大橋東詰めで平面交差する京阪の通過を待つ市電。「ガタガタッ、ガタガタッ」の独特のレール音がしていた。
白川線(ストライキ中の錦林車庫)昭和50年11月撮影。 ストライキ中で車両が一杯の錦林車庫。
九条線(東福寺) 昭和53年9月撮影 市電全廃直前の撮影で、車両にはお別れの飾り付けが施されている。電停の後ろに見えるのは第一日赤病院。
千本・大宮線(七条大宮~東寺前) 昭和46年9月撮影 東寺に向かって大宮通りを南行する⑦号系統。東海道線を跨ぐ大宮跨線橋には今も当時の架線柱が残っている。
西大路線・九条線 (西大路九条) 昭和52年12月撮影 京都市の外周を囲む市電路線の西南角の急カーブを持電車は九条通から西大路通りに向きを変えて北行する。
烏丸車庫前(市電全廃の日) 昭和53年9月30日撮影 この日を限りとして京都市電は83年余に亘る歴史に終止符を打ち、車庫前では終日多くの市民が名残を惜しんだ。
花電車(北大路線・北大路堀川付近)昭和33年10月撮影 京都市自治60周年を記念して運転された「花電車」小型4輪単車の外部に装飾を施している。
烏丸線(烏丸今出川~烏丸中立売) 昭和49年3月撮影 御所の内から西側の中立売御門を望む。烏丸線の市電が無くなったいまも、その落ち着いた風情は変わらない。
烏丸線・北大路線 (烏丸車庫前) 昭和44年3月撮影 北大路線から烏丸線へ交差点を右折する21号系統。後方の烏丸車庫事務所の半円形の窓口が見える。
市電のあるところ ➡ まち歩き伏0365 小学校 校庭に市電がありました
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き上0498 古風な2階建ての家 屋根が大きい
五七五
バス来る方みんなで見てる停留所 /長尾
ことわざ
任重くして道遠し
京都の西郊を流れる御室川の治水工事を,流域の葛野郡梅津・西院・京極・吉祥院の4か村が協力して行い,その竣工を記念した碑。首唱した京極村の中心部である山陰街道沿いの現在地に建てられた。
1906年建立
葛野郡梅津村・西院村・京極村・吉祥院村
治水碑【篆額】
貴族院議員正三位勲二等男爵 北垣国道 篆額 山田得多書
平安城西双岡以南田野平曠村落相望御室川貫其間南流入桂川平時水涸無涓」
滴暴雨則濁流奔溢毀*没田其害甚大脩治之費役作之労村民常患之京極村長」
湯川半左衛門等相議大改脩之梅津西院吉祥院三村咸賛之遂請官得允明治三」
十三年十一月剏工三十八年一月告竣改流域減長十二間餘而加広二間廃沿川」
地五千八百九十歩脩両*長各千六百八十間餘高一間六分厚三間而其上殺三」
分之二費金弐万九百八拾円其六出於官其四係村民之出於是村民始免積年之患 【「係」字行間後補】」
矣乃相喜曰嗚呼是挙也能除難除之害以永福利宜建碑不朽其功遂来索予文予」
以郡宰親董是役当事吏胥皆能竭力規画以致是喜而村民之喜乃予喜也因不辞」
而係以銘曰
不溢不壊 偉哉治水 一片貞# 紀功志喜
明治三十八年六月 京都府葛野郡長従六位勲六等 有吉三七
[北西]
組合管理者
葛野郡長 有吉三七
関係村長
梅津村長 小山弥三郎
西院村長 西村 太郎
元西院村長 太田時治郎
京極村長 湯川半左衛門
吉祥院村長 石原菊太郎
元吉祥院村長 小原伝之丞
同 岡崎清右衛門
[北東]
油小路魚棚北 石巳
御室川治水碑 碑文の大意
京都の西郊では,双丘(ならびがおか)より南は田野が広がり,その中に村々が点在していた。御室川はその田野の中を流れ桂川に合流する川である。ふだんは水が少ないのだが,大雨になると濁流があふれ耕地をひたし,その損害は大きなものがあり,川普請の経費や労力は流域村民の悩みのたねだった。そこで京極村村長湯川半左衛門らは大規模な治水工事を企画し,流域の梅津・西院・吉祥院の三村もこれに賛同した。
計画の認可を受け,明治33年11月に起工し,同38年1月に竣工した。この工事で川の流れは12間あまり短くなり,川幅は2間拡張した。川沿いの土地5890歩を供して堤防を作り,その延長は両岸おのおの1680間余で高さが1間6分,下部で厚さ3間,上部で2間にも及んだ。総工費は20,980円で,6割が京都府から支出され,4割が地元負担であった。
治水工事の完成で永年の悩みが解決され,村民はこの業績を顕彰するために石碑を建てることを計画し,わたし(葛野郡長有吉三七)に碑文を依頼した。わたしは郡長としてこの工事に関係し,配下の者もよく力をつくして完成に至ったのである。すなわち村民の喜びはわたしの喜びでもある。このためあえて文を作った次第である。
関連記事 ➡ 人物008 北垣国道
石碑 前回の記事 ➡ 石碑上0118 初代上京区役所跡
五七五
雨天決行 体内時計 熱くして /長島
ことわざ
思い立ったが吉日