右 宇治近道 奈良 濱 十五丁
佐山 廿五丁 宇治町 二里余
巡檢道 洞ケ峠圓福寺 廿丁
岡の稲荷社 十丁
京阪電車停車場 十丁
八幡宮志水坂登 六丁
昭和二年春 京都 三宅安兵衛依遺志建之
道標 前回の記事 ⇒ 道標八幡0215 厄除 谷不動尊 まで 三丁
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右 宇治近道 奈良 濱 十五丁
佐山 廿五丁 宇治町 二里余
巡檢道 洞ケ峠圓福寺 廿丁
岡の稲荷社 十丁
京阪電車停車場 十丁
八幡宮志水坂登 六丁
昭和二年春 京都 三宅安兵衛依遺志建之
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3 「梅津大神宮」
4 町内に 皇紀2602年石碑 大東亜建設記念 と書かれています
5 上御霊神社 献木
6 六請神社の社標
7 下御霊神社の献木
10 禁裏道場蹟
13 共同井戸 紀元2600年
14 天道神社
15 伏見稲荷
16 建勲神社の社号標
17 民家に石柱
18 警察消防招魂社
19 若宮神社 (紫野)
20 だるま寺の島津源蔵の文
21 光澤寺の石碑
23 大炊御門万里小路殿
24 蒲生君平 石碑
25 松尾大社の燈籠
26 龍田稲荷神社
27 名和長年
28 東本願寺・同朋会館門前 9月27日
29 香雪院 中興碑 10月10日
30 新日吉神宮 10月11日
31 苗塚 10月12日
32 山科三之宮
33 陽明文庫
34 御室八十八ケ所の道標
35 萩児童公園
36 八大神社
40 石碑山0069 供養塔・題目塔 周囲に車石が多数使われています
41 神社山0075 蝉丸神社
42 乃木神社 全国にあるのでしょうが ここは、明治天皇陵の近くです
47 紀元2600年上047 皇紀二千六百年記念 お地蔵さんの土台
49 神社府0130 離宮八幡宮 その3の2 境内にある
50 神社北0137 大田神社 境内の灯籠
52 寺院八幡0583 善法律寺 三宅石碑 慰霊碑 紀元2600年碑
53 神社八幡0176 狩尾神社 本殿・重要文化財 紀元2600年碑
55 まち歩き左1091 岩倉 石座神社 灯籠 皇紀2600年銘
57 石碑左0219 北白川 将軍地蔵をめざして 道路改修碑 祝紀元2600年
61
62
年が紀元2600年と一致
2 二条城の史蹟標
道標 善法律寺
向て 左 正法寺 八丁
向て 右 頼風寺 二丁
昭和二季 建立 京都三宅安兵衛依遺建立
奈良唐招提寺末で律宗に属す。鎌倉時代、正嘉年中(1257~59)石清水八幡宮社務善法寺宮清が奈良東大寺実相上人に帰依し、私宅を寺に改めたことに始まる。室町時代には、善法寺通清の息女紀良子が足利三代将軍義満を生んだことから将軍家との関係は深い。良子が紅葉の樹を寄進し、今も紅葉が美しいことから紅葉寺とも称される。
本堂は、内陣を高御座と呼ぶ神仏混淆の五間四方の堂で八幡宮の旧社殿を移築したとされ、建築年代は不詳であるが、桃山時代の特徴を示すといわれる。
本堂本尊は、もと石清水八幡宮にまつられていた僧形座像といわれ、明治の神仏分離の際に当寺に移された。像高92センチ、木造彫眼、平安時代末頃のものといわれる。両脇には、愛染明王・不動明王があり、寄木造り玉眼彩色の等身大で創建時の作である。
奥殿には宿院頓宮にあったという宝冠阿弥陀(南北朝時代)や善法寺祐清が造立した観音堂の本尊千手観音菩薩立像(鎌倉時代)など寺宝は多い。放生池畔には、もと大乗院にあったという五輪塔(鎌倉時代)もある。
また、境内には昭和9年の室戸台風で犠牲になった八幡尋常高等小学校の校長生徒等の慰霊碑がある。
1994年3月 八幡市教育委員会
室町幕府と善法律寺
1392年も義詮(よしあきら)を次いだ三代将軍足利義満によって、60年近く続いた南北朝の時代が終わりました。
朝廷は1つになったのです。
義満は、金閣寺を建てたり、中国と貿易をして莫大な富を築いたりしました。
また、石清水八幡宮には、20数回も参詣するほど、八幡とは深い関係の将軍でした。
義満の母が、石清水八幡宮の社務(長官)の1つである善法寺家の娘良子だったからです。
室町幕府は、その後も八幡宮を保護し、代々の将軍はたびたび石清水八幡宮に参詣しました。
善法律寺は、鎌倉時代に、八幡宮の社務である善法寺宮清が建てたお寺です。
義満を生んだ良子は、この寺に紅葉を寄進したといわれ、秋になれば境内は、みごとな紅葉につつまれます。
本堂は、八幡宮の社殿を移したと伝えられ、桃山時代の様式をあらわしているといわれます。
堂内には、平安時代から南北朝時代にかけて造られた仏像がたくさんあります。
なかでも八幡大菩薩像は、お地蔵さんのすがたをしていますが、神様なのです。
僧の姿の神像がこの善法律寺に移されたのは、明治になってからで、それまで、石清水八幡宮内にありました。
石清水八幡宮は、神様であり仏さまを祭る神社だったのです。
本尊 八幡大菩薩
慰霊塔 昭和9年の室戸台風の犠牲者・八幡尋常高等小学校
大東亜戦役戦没者 慰霊碑
御庭の水
善法律寺は、石清水八幡宮 祀官家の1つである善法寺家の邸宅に創建されたと伝えるが、善法寺家の庭園に創建されたとの別伝もある。
この井戸は「御庭の水」と呼ばれ、近代まで善法寺家(菊大路家)が所有し、昭和30年代頃までは、近隣に飲水として開放されていた。
かつて善法律寺の邸宅の南には、茶畑町があった。また、善法律家の荘園があった摂津国能勢木代庄の住人に依って、宮中や将軍家に能勢餅(亥の子餅)が毎年、献上されていた。茶道を庇護した将軍 足利義満とも姻戚であり、この井戸は、善法寺家の往時を偲ぶ数少ない遺跡である。老朽化が進み、飲用もされなくなっていたが、平成28年9月に井戸屋形を改修し、再興の端緒とした。
大西坊は、男山48坊の坊舎の1つである。覺運は『忠臣蔵』で高名な大石内蔵助良雄の叔父である小山良師の末子であるが、大石良雄の養子となった。覺運は、大石良雄の実弟である専貞の跡を継いで、大西坊の住職に就いた。江戸期の地誌『男山考古録』には、赤穂義士討ち入りに助力し、衰退していた大西坊の復興も行って、大西坊の中興の祖となったとある。運應と覚助は、覺運の弟子である。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院八幡0582 本妙寺 三宅石碑2本
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祠 前回の記事 ⇒ 祠久御山045 神牛石社 寺院久御山0570 大松禅院 三宅石碑 愛宕灯籠
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右側
日門上人墓所 本妙寺 右 念仏寺 二丁
左 園口 半丁
左側
正平役城之内古跡 左 山ノ井 一丁
右 本妙寺前
2本とも
昭和2年10月 京都 三宅安兵衛依遺建之
正徳4年 1714年
本妙寺
当山開基普伝院日門は、当初真言宗の僧として南光坊と称した。その学徳を慕って帰依し、竹内供 守経孝が願主となって一寺が造立された。永禄年間、法華宗総本山本隆寺第6世 院日雄、八 に於いて説法教化され、南光坊説法を聴聞し、解悟して法華宗に改宗し、名を日門と改め、寺号を本妙寺、山号を久遠山と定めた。してさらに、日門は日雄を久遠山本妙寺開山。第一世に推し、自分は第二世となった。時に永禄7年3月28日(1564)である。檀那竹内伊予守大いに喜び、寺観を拡張し、塔頭2ケ院(円珠坊、乗蓮坊)を設立し大いに繁栄した。・・・・・
京都・堺・安土に於いて大いに法鼓を鳴らし大法弘道に精進する。
天正7年(1579)5月27日、隆盛を極めてした法華宗を弾圧する意図をもって、織田信長によって仕組まれた安土問答の浄 院で行われた法華宗と浄土宗との間の論争において法華宗の敗北が制定され、法難に遭遇し斬首の刑を受け殉教死する。その後当山は慶応4年に山崩れによって・・・・大方の支持を得て繁栄を重ねてきた。平成8年11月22日不審火により本堂等が焼失したが、平成12年11月に落慶法要を終えた。
京都府指定文化財 雲版 永徳2年
八幡市指定文化財 本妙寺文書40通
天正7年5月27日 日門上人
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寺院 前回の記事 ⇒ 寺院八幡0581 泰勝寺 松花堂舊跡 三宅石碑
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石碑は 松花堂舊跡 右には 松花堂 泰勝寺 とある。
向て 右 神應寺 二丁
向て 左 頼風塚
昭和2年10月 京都 三宅安兵衛 依遺建之
塀の上に 鳩がいました 画像追加
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寺院 前回の記事 ⇒ 寺院八幡0580 不動尊
大正15年 建立
山ノ井戸
八幡泉坊跡 二丁
右松花堂墓所十間
昭和3年 京都 三宅安兵衛 遺志建立
井戸
明治25年7月
相槌神社の歴史は古く、創建は不詳ですが社伝によると『當社ヲ相槌神社ト称スルハ、伯耆国會見郡大原五郎太夫安綱鍛冶スル時ニ神来タリテ相槌ヲナス 依テ此処ニ神ヲ祭ル』とあります。当社は天下五剣と謳われ、現在国宝に指定されている童子切安綱を造りました伯耆安綱と、稲荷の神 倉稲魂様が、山ノ井の水を用い、名刀『髭切』『膝丸』をお造りになった場所なのです。刀の歴史から辿るのに、約千有余年、大神様は氏子崇敬者の人々のいとなみを守り続け、数多くの人々に信仰され、今日に至っております。
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神社 前回の記事 ⇒ 神社八幡0171 石清水八幡宮 高良社(こうらしゃ) タブの木
能蓮法師歌碑
石清水清き流れの絶えせねば
やどる月さえ隅なかりけり
この歌は、文治元年(1185)9月に催された石清水八幡宮の歌合せにおいて能蓮法師が詠んだもので、千載和歌集に収められている
能蓮法師は平安時代の歌僧で出家前は因幡守能盛(いなばのかみよしもり)と称し、鳥取の国守として山陰地方を治めていた人で、千載和歌集は藤原俊成が正暦年間(990~995年)から文治にいたる約200年間の歌から撰集し文治4年(1188)4月に世に出されたものである。
この歌碑は「八幡歌碑・・」の第4基目として1987年の中秋名月に除幕したものである。
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石碑 前回の記事 ⇒ 石碑久御山0195 ほ場整備 記念碑
令和1年12月19日 画像追加 (令和1年7月30日撮影)
以下 19年5月11日 の記事
源 頼朝 手植松 右 太子 二丁 ・・・
左 奈 三丁 ・・・
三宅安兵衛 の 石碑・道標 です
向こうに見える門は 頓宮の門
関連記事 ⇒ 関連0002 三宅安兵衛の道標
史跡 前回の記事 ⇒ 史跡伏043 鳥羽離宮南殿跡
高良社(こうらしゃ)
石清水八幡宮の摂社で高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)を祀る。
豊前国(大分県)宇佐八幡宮より八幡大神を勧請した行教和尚が、貞観2年(860)6月15日に社殿を建立したと伝えられ、吉田兼好の『徒然草』にもその名が見える。往時は頓宮・極楽寺と共に荘厳を極めていたが、慶応4年(1868)戊辰戦争の兵火に罹り焼失、現在の社殿は明治17年(1884)に再建されたもので、一間社入母屋造檜皮葺である。
また、高良社は八幡の産土神として崇敬も篤く、毎年7月17・18日の例祭日には「ヨッサーヨッサー」の勇壮な掛け声中、市内各区より太鼓神輿が担ぎ出されて賑わう。
京都自然200選 タブノキ
男山京都府歴史的自然環境保全地域の中にあり、高良神社の神木として生育しているタブノキは、樹齢約700年の大木です。根回り7.5メートル、樹高約24メートル、樹冠の周囲約30メートルで、全国的にもまれな巨樹です。男山の土壌は、地表部は多少浸食されているが土層は厚く、腐植質に富む適潤性褐色森林土で形成されています。
御神木 タブの木 樹齢 700年
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前回の神社 記事 ⇒ 神社八幡0170 石清水八幡宮
男山ケーブル山上駅 北総門(重文) 若宮殿社(重文) 若宮社(重文) 貴船社/龍田社 一童社
住吉社(重文) 廣田社/生田社/長田社 橘 国宝・・本殿・幣殿・舞殿・楼門・回廊を含む十峰
気比社 水若宮社(重文) 東総門(重文) 水分社 細橋 伊勢神宮遥拝所
石清水社 石清水井 放生池 筒井 頓宮殿 高良社 藤井 二の鳥居 頼朝公ゆかりの松
七曲り 大扉稲荷社 影清塚 松花堂跡 三の鳥居 御鳳賛舎 エジソン記念碑
御羽車舎 書院 供御井 三女神社 手水舎 神楽殿 信長塀 西総門(重文)
楠木正成公の楠 鬼門封じ 八都山流流祖顕彰碑
三宅安兵衛 の 名前がある
一の鳥居
筒井
頓宮殿へ
石清水祭や青山祭のおこなわれるところで、昔は四方に回廊があった。
明治元年(1867)の春に焼失した。大正4年(1915)、回廊は昭和44年(1969)の再建
二の鳥居
頓宮 南門
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石清水八幡宮五輪塔(航海記念塔)
高さ約6m、地輪(球形の石材の下の方形の部分)1辺2.4m、全国最大規模の鎌倉時代の五輪石塔で、国の重要文化財に指定されている。
石塔の各部分は、下から地・水・火・風・空の五大要素を表している。地輪は、数個の石を方形に組み、水輪は背が低く安定感のある球形をしており、火輪の笠石は軒が厚く、形のよい反りをしている。
摂津尼崎の商人が中国宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いるため建立されたと伝えられる。航海の安全を祈って参詣され、航海記念塔とも称されている。
この大石塔を築く際、石を引くのに火花が出て綱が焼き切れてしまったので、竹で作った綱で引いたという話もある。
また、忌明塔ともいわれ、亡き父母の忌明けの日に参り、喪の汚れを清めたという。そのほか、鎌倉時代の武士の霊を慰めるために建立された武者塚であるとか、石清水八幡宮を勧請した行教律師の墓であるなど、刻銘がなく、造立の起源が不明であるためか、この大石塔にまつわる伝説は様々である。
航海記念大石塔
昭和2年建立 三宅安兵衛遺志
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