金剛律寺故趾 京都元標 四里三十二丁
昭和二年十月 京都 三宅安兵依遺建之
正平役園殿口古戦場
左 本妙寺半丁
右 法園寺二丁
昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺建之
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金剛律寺故趾 京都元標 四里三十二丁
昭和二年十月 京都 三宅安兵依遺建之
正平役園殿口古戦場
左 本妙寺半丁
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昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺建之
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『藻塩草(もじおぐさ)』によれば、平城天皇のとき小野頼風という人が男山に住み、京に女をもって深い契りをむすんでいたが、いつしか二人のあいだには秋風が立つにいたった。京の女は思いあまって八幡の里に男を訪ねてきたが、男には他に女を娶ってその方へ行っていることを知り、悲歎のあまり八幡の川のほとりに山吹がさねの衣をぬぎ捨て、投身して果てた。その衣は朽ちてそこから女郎花が生えた。これを知った頼風は花のもとに立ち寄ったところ、花に恨んだ風情があり、近寄ればなびきしりぞき、立ち退くともとの如くになるのを見て、自責の念にかられ、川に身を投げて死んだ。その川を涙川といい、放生川の上流にあたるという。世人はこれをあわれみ、女と同じところに彼の塚をきづいた。今の頼風塚がそれであり、女郎花塚というのが女の塚であると伝える。
この伝説は謡曲『女郎花』で有名になったが、史実によるものではないが、むかし京都・奈良間を往来する人の詩情をそそる物語として、今に伝えられている。
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小野頼風塚
向右 松花堂墓所
昭和2季建之 京都 三宅安兵衛依遺建之
小野頼風塚
向左 善法寺
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