カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

マッチポイント

2008-07-24 | 映画
マッチポイント/ウッディ・アレン監督

 運とは何だろうと考えてしまう。まさに人生は運なのかもしれないけれど、運こそすべてというような意識で生活をしているわけではない。ある種の分かれ目となる起点は後で考えるとあったように思うが、今がその時であるという場面に運に左右されるということは、確かにありそうだ。
 主人公はテニス・プレイヤーということで、そういう勝負所を粘り強く辛抱しながらつかむ素質があったということは暗に示されている。上流社会への強いあこがれも感じられ、まさに順調に歩みを重ねていく。そういう中で、魅力的な愛欲をそそる女性と出会ってしまう。お互い惹かれあうものに意識として躊躇のあるものの、抗うことができない。これは愛情というより愛欲というものらしく、男女の出会いながら、運命というより非合理ながら当然の道理のように思えるから変なものである。運でいえば、この場合かえって不運なのかもしれない。そういう火種であることは重々承知しながら、むしろそれでもいいと一度は態度を決めながら、やはりどうにも自分の意志とは違うものへと変貌していく。
 さて、そこまで人間を狂わせるのは、やはり生活の中の豊かさというものだ。それも圧倒的な豊かさである。上流階級の生活がそれほど魅力的なものなのかというのは、正直に言って僕はそれほど理解できないのだが(蝋燭の明かりの食事や、オペラに通う毎日が楽しいとは思えない)、しかし豊かさの中にある保守的な居心地の良さと安定感は、簡単に崩してしまえるほど脆弱なものではないようだ。豊かさの中に個人がどっぷりとつかるようなことになると、その歯車の中にあって抜け出せない自分という存在に改めて気付かされることになってゆく。特にこの家庭は、母親は少しばかり偏見のありそうなところはあるにせよ、金持ちの傲慢さというものより、純粋な家族愛のようなつながりの強固な善意に満ちている。特に父親は深く娘を愛しており、さらにその娘が深く愛してやまないこの青年にも大きな期待を寄せ信頼している。そしてそのことを理解しながら要領よく期待にこたえる能力が自分にあることも、重々自分自身でわかっているのである。この家庭の中での自分の存在は、益々重要な歯車になっているのである。
 ここからはサスペンスになって、結構ドキドキしながら話を楽しむことができる。そして結末がどうなるかまで身を任せていればいいと思う。納得がいかない方が後を引いて楽しめると思うが、それは考え方次第だろう。
 ただしかし、人間のエゴとして、自分の都合を優先した理屈をこねる主人公の科白の一つ一つが、後で考えてみると、どのようにでも取れる将来のしあわせの影であることもわかる。そのために自分自身を失っていくのは、本当に自分の望んだことなのだろうか。運命はそういう個人を弄ぶようにころんでいく。すでに自分の望みが何であるのかさえも呑み込むように。ただ、時間は二度と元には戻らない。取り返しのつかないはかなさを思うと、人の一生などというものは、やはり他人のためにはないのではないかと、日本人の僕は思うのだった。
コメント
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