カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

革命的であることを明確に説明した名著

2009-07-16 | 読書
言語の脳科学/酒井邦由嘉著(中公新書)

 一般的認識がどうなのかはよく分からないのだけれど、僕たちが言葉をしゃべることができたのは、多くの場合母親などから言葉を教わったためではないかと思う。それはそれで間違いではないのだけれど、どういうわけか苦労して言葉を覚えたという記憶は少ない。子供の時分のことだから忘れているだけで、実は相当に苦労したはずだと考える人もいるかもしれないが、確かに長い時間かかって覚えたには違いないにしろ、やはり苦労したという感覚は少ないのではないか。むしろ学校に行き出して先生などとの上下関係においての敬語の使い方などにはそれなりに気を使って覚えたようではあっても、その基礎となる言葉については、教科書で習わなくても文法的な誤りなども含めて自然と分かっていたのではないか。アグネス・チャンは大変に日本語に堪能であるけれど、やはりどこか日本語におかしなところがある(現在のことではない)というのは、子供の頃から理解できていた。
 チンパンジーなどの猿と人間の場合、遺伝子レベルでいうと1%程度しか違いがないといわれる。しかしながら我々人間側の勝手な印象としては、姿形だけでなくずいぶんと違うように思えてそれなりに不思議にすら感じる。いや、チンパンジーの側から言っても、おそらく彼らは僕らを同じ仲間だとは思ってもいまい。
 それでもさまざまな実験によって、チンパンジーが計算をするらしいとか、言葉を理解するらしいとかいうようなニュースがときどき流れる。人気のあるテレビの動物番組でも、ずいぶん賢いチンパンジーが活躍するのを目にしたりする。愛嬌があって楽しいということもあるが、しかしそれでもチンパンジーレベルで相当凄いという理解であって、はたして1%というその違いの程度がこのような行動で証明されているとは普通は考えていないのではないか。
 いや、チンパンジーの知性をさげずんでいるわけでもないし、偏見と誤解をもって人間が偉いのだといいたいわけでは決してないのだが、単に人間の種として近い仲間であっても、やはりずいぶんと人間とは違うらしいということを感じるのである。
 確かにこちらが言っている言葉の意味を少しばかりは理解しているという状況は考えられないではないが、むしろこちらの考え方をおもんばかって表現する能力があるということなのかもしれない。それは日頃一緒に暮らしている我が家の愛犬でも同じであって、たとえば「ご飯」という単語に反応して興奮したとしても、見ず知らずの人が「ご飯」といった場合にでもその単語を聴きとって反応するようなことは考えにくく、やはり厳密に言葉を理解しているということではないのかもしれない。
 チョムスキーのことは以前から名前だけは知っていたし、言語学の革命的な発見をしたらしいが、ずいぶんと政治的発言の激しい人という認識ではあった。まあ、しかしよく知らなかった。何かコンピュータ関係にも功績があるのかもという気はしたが、難しそうで敬遠していたのかもしれない。しかしこの本を読んで、改めて面白い人だと認識しなおした。結構凄いですよ、チョムスキー。単純に破壊力があって尚よろしい。
 チョムスキーが言っているのは、人間の脳には最初から言語を使うという能力があるということであるらしい。言語というものを使うのが人間の特徴のようなのだ。そして、言葉の文法というようなものが最初から脳の中にあるらしいということも言っており、もちろん学習して獲得しているようにも見えるが、自然と言葉を習得する性質が人間に備わった能力であるということを言っているようなのである。
 それなら日本語と英語のように違う文法の言葉があるのは何故だとか、いろいろ考えてしまうので批判も多いようなのだが、しかしそのような違いはあっても、言葉を使う上で基礎的なことはすでに脳の仕組みとして備わっていることに違いはないということらしい。何故ならやはり子供は誰であっても、自然に言葉を使えるようになるのであるから(だからバイリンガルやトリリンガルが実際にいるわけだ)。説明が長くなるのでぜひそのあたりは自分で読んでみてほしいのだが、将来的に脳のことが解明されていくにつれ、チョムスキーの宿題はおのずと解明されていくのかもしれない。
 言語学というのは、日本においては自然に文系の人が極めていく学問であるとされているようだ。しかしチョムスキーの登場によって、その基本的な垣根はかなり疑問になってきている。学問の世界ではないが、一般の人には外国語が得意な人に「語学が出来る」などということは普通に言われる。しかしよく考えてみると、言葉が話せること自体は、語学とは何の関係もないことであるにもかかわらずである。しかし脳の機能として言語がどのように発生しているのかというものは、確かに言語学の基礎的なものであるのは間違いがない。言語学は極めて理科的な学問であるということになる。言語学は心理学の一分野だともいわれているらしく、今までの言語学がいつの間にか一新されているらしいことがよく分かった。数学や物理のできない人が、言語学を扱うのは非常に奇矯なことになっていくのかもしれない。
 帯の推薦文でも書いてあることだが、言語が何であるのかということを考えるときに、この本を読んでいるかいないかということは極めて大きな違いがあるようにも思われる。今までチンパンジーと人間と、などとやっていた研究というのは、実に明快になんかの勘違いのようにも思える。知識というのは武器だなあと、改めて考えさせられた名著ではないだろうか。
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皆既日食を見に行きたい

2009-07-16 | 時事
 皆既日食を見に行きたいものだなあ、とは思っていたけど、この騒ぎでいろんな事情のある人が出てくるのですね。
勝ったら島に帰れない
 まずこういう島の高校でも強いというのが凄いと思う。鹿児島のレベルが低いわけでもないのにね。
 困ったことだけど勝って欲しいです。


追記:
 結局負けて杞憂に終わったそうです。困らなくなったわけだが、残念でしたね。

 皆既日食のほうは、今回を逃すと2035年まで待たなくてはならないそうです。しかし所用ができてしまって、今回ゆっくり体験することはできないようで、まったく悔しいような、さびしいような…。
コメント (2)
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夏のスーツと原理主義

2009-07-16 | culture
 時々営業の人が濃紺のスーツで仕事場にやってくるが、まったくお気の毒になる。中には脱いでもいいと勧めても頑なに断って汗だくのままの人なんかも居る。ポリシーというか頑固というか。会社の方針でそういう勧めには断るように言われているんだろうか。僕なんかは仕事場ではTシャツだったりするので、そういう人と一緒にいるだけで居心地が悪い。
 もちろん、僕だってよそ様のところへお伺いするときとか、会議の時はスーツを着ていく。単なる迎合主義のなせる技で、自由人を気取りたくないということもある。こんなことで不毛な議論なんかしたくないだけである。天皇制なんてどうでもいいけど、君が代は立って歌う。それだけのことだ。
 まあしかし、日本の夏にスーツというのは、誰が考えても不都合である。それでもこれが変えられないというのが、やはり現代の原理主義社会なんだろうとは思う。暑いからクーラーで冷やすという合理性(強引性?)と、ビジネスはスーツだというのは同じ思想の匂いがする。女性の事務員さんなんか夏に膝掛けして仕事していたりする。男スーツ社会に合わせて仕事すると、冷房温度が低くなってしまうのだろう。
 確かに仕事においては、比較的ちゃんとした服という必要性があるのだろう。服というのはユニフォームなので、野球するのにバスケットのランニングでは格好がつかないということだろう(それにしても野球のユニフォームはスポーツにしては機動性がないデザインである。ああいう型が自由にならないというのは、面白い現象だとは思う)。だから営業なのにTシャツで来られても違和感があるのかもしれない。まあ、考えてみると僕はそれでもかまわないけど。むしろスーツの人より信用するだろう。
 一時期新興のIT関連企業の服装のラフさが話題になったりしたことがあるが、あれも外に出る必要があんまり無いということもあったのかもしれない。それに経営者自体が若くてそういうことに無頓着であるとか、逆にそういう自由さを売りにして社員を集めているということもありそうだ。
 また、定年の人なんかも比較的かしこまった場でも結構ラフな格好でお見えになったりする。つまり、やかましくいう人がいなくなると、個人の裁量で服装は自由になるのではないか。組織というものが個人を縛るので、その結果やはりスーツになってしまうのではないか。暑くてもスーツでなければならないという方針の会社は、やっぱり信用できない会社ということなんだろうと思う。思うけど、他人を騙すときは、やはりあの恰好でないと落ち着かないのでしょうね。
 馬鹿げているけど、しばらくの辛抱である。

付録:夏でも涼しいスーツが欲しい。
 しかし、服を切るのも抵抗があるなあ。
コメント (2)
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