言語の脳科学/酒井邦由嘉著(中公新書)
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一般的認識がどうなのかはよく分からないのだけれど、僕たちが言葉をしゃべることができたのは、多くの場合母親などから言葉を教わったためではないかと思う。それはそれで間違いではないのだけれど、どういうわけか苦労して言葉を覚えたという記憶は少ない。子供の時分のことだから忘れているだけで、実は相当に苦労したはずだと考える人もいるかもしれないが、確かに長い時間かかって覚えたには違いないにしろ、やはり苦労したという感覚は少ないのではないか。むしろ学校に行き出して先生などとの上下関係においての敬語の使い方などにはそれなりに気を使って覚えたようではあっても、その基礎となる言葉については、教科書で習わなくても文法的な誤りなども含めて自然と分かっていたのではないか。アグネス・チャンは大変に日本語に堪能であるけれど、やはりどこか日本語におかしなところがある(現在のことではない)というのは、子供の頃から理解できていた。
チンパンジーなどの猿と人間の場合、遺伝子レベルでいうと1%程度しか違いがないといわれる。しかしながら我々人間側の勝手な印象としては、姿形だけでなくずいぶんと違うように思えてそれなりに不思議にすら感じる。いや、チンパンジーの側から言っても、おそらく彼らは僕らを同じ仲間だとは思ってもいまい。
それでもさまざまな実験によって、チンパンジーが計算をするらしいとか、言葉を理解するらしいとかいうようなニュースがときどき流れる。人気のあるテレビの動物番組でも、ずいぶん賢いチンパンジーが活躍するのを目にしたりする。愛嬌があって楽しいということもあるが、しかしそれでもチンパンジーレベルで相当凄いという理解であって、はたして1%というその違いの程度がこのような行動で証明されているとは普通は考えていないのではないか。
いや、チンパンジーの知性をさげずんでいるわけでもないし、偏見と誤解をもって人間が偉いのだといいたいわけでは決してないのだが、単に人間の種として近い仲間であっても、やはりずいぶんと人間とは違うらしいということを感じるのである。
確かにこちらが言っている言葉の意味を少しばかりは理解しているという状況は考えられないではないが、むしろこちらの考え方をおもんばかって表現する能力があるということなのかもしれない。それは日頃一緒に暮らしている我が家の愛犬でも同じであって、たとえば「ご飯」という単語に反応して興奮したとしても、見ず知らずの人が「ご飯」といった場合にでもその単語を聴きとって反応するようなことは考えにくく、やはり厳密に言葉を理解しているということではないのかもしれない。
チョムスキーのことは以前から名前だけは知っていたし、言語学の革命的な発見をしたらしいが、ずいぶんと政治的発言の激しい人という認識ではあった。まあ、しかしよく知らなかった。何かコンピュータ関係にも功績があるのかもという気はしたが、難しそうで敬遠していたのかもしれない。しかしこの本を読んで、改めて面白い人だと認識しなおした。結構凄いですよ、チョムスキー。単純に破壊力があって尚よろしい。
チョムスキーが言っているのは、人間の脳には最初から言語を使うという能力があるということであるらしい。言語というものを使うのが人間の特徴のようなのだ。そして、言葉の文法というようなものが最初から脳の中にあるらしいということも言っており、もちろん学習して獲得しているようにも見えるが、自然と言葉を習得する性質が人間に備わった能力であるということを言っているようなのである。
それなら日本語と英語のように違う文法の言葉があるのは何故だとか、いろいろ考えてしまうので批判も多いようなのだが、しかしそのような違いはあっても、言葉を使う上で基礎的なことはすでに脳の仕組みとして備わっていることに違いはないということらしい。何故ならやはり子供は誰であっても、自然に言葉を使えるようになるのであるから(だからバイリンガルやトリリンガルが実際にいるわけだ)。説明が長くなるのでぜひそのあたりは自分で読んでみてほしいのだが、将来的に脳のことが解明されていくにつれ、チョムスキーの宿題はおのずと解明されていくのかもしれない。
言語学というのは、日本においては自然に文系の人が極めていく学問であるとされているようだ。しかしチョムスキーの登場によって、その基本的な垣根はかなり疑問になってきている。学問の世界ではないが、一般の人には外国語が得意な人に「語学が出来る」などということは普通に言われる。しかしよく考えてみると、言葉が話せること自体は、語学とは何の関係もないことであるにもかかわらずである。しかし脳の機能として言語がどのように発生しているのかというものは、確かに言語学の基礎的なものであるのは間違いがない。言語学は極めて理科的な学問であるということになる。言語学は心理学の一分野だともいわれているらしく、今までの言語学がいつの間にか一新されているらしいことがよく分かった。数学や物理のできない人が、言語学を扱うのは非常に奇矯なことになっていくのかもしれない。
帯の推薦文でも書いてあることだが、言語が何であるのかということを考えるときに、この本を読んでいるかいないかということは極めて大きな違いがあるようにも思われる。今までチンパンジーと人間と、などとやっていた研究というのは、実に明快になんかの勘違いのようにも思える。知識というのは武器だなあと、改めて考えさせられた名著ではないだろうか。
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一般的認識がどうなのかはよく分からないのだけれど、僕たちが言葉をしゃべることができたのは、多くの場合母親などから言葉を教わったためではないかと思う。それはそれで間違いではないのだけれど、どういうわけか苦労して言葉を覚えたという記憶は少ない。子供の時分のことだから忘れているだけで、実は相当に苦労したはずだと考える人もいるかもしれないが、確かに長い時間かかって覚えたには違いないにしろ、やはり苦労したという感覚は少ないのではないか。むしろ学校に行き出して先生などとの上下関係においての敬語の使い方などにはそれなりに気を使って覚えたようではあっても、その基礎となる言葉については、教科書で習わなくても文法的な誤りなども含めて自然と分かっていたのではないか。アグネス・チャンは大変に日本語に堪能であるけれど、やはりどこか日本語におかしなところがある(現在のことではない)というのは、子供の頃から理解できていた。
チンパンジーなどの猿と人間の場合、遺伝子レベルでいうと1%程度しか違いがないといわれる。しかしながら我々人間側の勝手な印象としては、姿形だけでなくずいぶんと違うように思えてそれなりに不思議にすら感じる。いや、チンパンジーの側から言っても、おそらく彼らは僕らを同じ仲間だとは思ってもいまい。
それでもさまざまな実験によって、チンパンジーが計算をするらしいとか、言葉を理解するらしいとかいうようなニュースがときどき流れる。人気のあるテレビの動物番組でも、ずいぶん賢いチンパンジーが活躍するのを目にしたりする。愛嬌があって楽しいということもあるが、しかしそれでもチンパンジーレベルで相当凄いという理解であって、はたして1%というその違いの程度がこのような行動で証明されているとは普通は考えていないのではないか。
いや、チンパンジーの知性をさげずんでいるわけでもないし、偏見と誤解をもって人間が偉いのだといいたいわけでは決してないのだが、単に人間の種として近い仲間であっても、やはりずいぶんと人間とは違うらしいということを感じるのである。
確かにこちらが言っている言葉の意味を少しばかりは理解しているという状況は考えられないではないが、むしろこちらの考え方をおもんばかって表現する能力があるということなのかもしれない。それは日頃一緒に暮らしている我が家の愛犬でも同じであって、たとえば「ご飯」という単語に反応して興奮したとしても、見ず知らずの人が「ご飯」といった場合にでもその単語を聴きとって反応するようなことは考えにくく、やはり厳密に言葉を理解しているということではないのかもしれない。
チョムスキーのことは以前から名前だけは知っていたし、言語学の革命的な発見をしたらしいが、ずいぶんと政治的発言の激しい人という認識ではあった。まあ、しかしよく知らなかった。何かコンピュータ関係にも功績があるのかもという気はしたが、難しそうで敬遠していたのかもしれない。しかしこの本を読んで、改めて面白い人だと認識しなおした。結構凄いですよ、チョムスキー。単純に破壊力があって尚よろしい。
チョムスキーが言っているのは、人間の脳には最初から言語を使うという能力があるということであるらしい。言語というものを使うのが人間の特徴のようなのだ。そして、言葉の文法というようなものが最初から脳の中にあるらしいということも言っており、もちろん学習して獲得しているようにも見えるが、自然と言葉を習得する性質が人間に備わった能力であるということを言っているようなのである。
それなら日本語と英語のように違う文法の言葉があるのは何故だとか、いろいろ考えてしまうので批判も多いようなのだが、しかしそのような違いはあっても、言葉を使う上で基礎的なことはすでに脳の仕組みとして備わっていることに違いはないということらしい。何故ならやはり子供は誰であっても、自然に言葉を使えるようになるのであるから(だからバイリンガルやトリリンガルが実際にいるわけだ)。説明が長くなるのでぜひそのあたりは自分で読んでみてほしいのだが、将来的に脳のことが解明されていくにつれ、チョムスキーの宿題はおのずと解明されていくのかもしれない。
言語学というのは、日本においては自然に文系の人が極めていく学問であるとされているようだ。しかしチョムスキーの登場によって、その基本的な垣根はかなり疑問になってきている。学問の世界ではないが、一般の人には外国語が得意な人に「語学が出来る」などということは普通に言われる。しかしよく考えてみると、言葉が話せること自体は、語学とは何の関係もないことであるにもかかわらずである。しかし脳の機能として言語がどのように発生しているのかというものは、確かに言語学の基礎的なものであるのは間違いがない。言語学は極めて理科的な学問であるということになる。言語学は心理学の一分野だともいわれているらしく、今までの言語学がいつの間にか一新されているらしいことがよく分かった。数学や物理のできない人が、言語学を扱うのは非常に奇矯なことになっていくのかもしれない。
帯の推薦文でも書いてあることだが、言語が何であるのかということを考えるときに、この本を読んでいるかいないかということは極めて大きな違いがあるようにも思われる。今までチンパンジーと人間と、などとやっていた研究というのは、実に明快になんかの勘違いのようにも思える。知識というのは武器だなあと、改めて考えさせられた名著ではないだろうか。