映画『時をかける少女』予告編
時をかける少女/谷口正晃監督
単に出身地が近いというだけの親近感は持っているものの、実物を見たことはない。高校野球の地元高校を応援するような感覚に近いのかもしれない。里帰りくらいはされるのかもしれないけど、見たという人を知っている(聞いたことがある)だけで、やはり遭遇はかなわないようだ。それに僕の散歩コースと本人の自宅の場所とは微妙に違うわけで。それなりにテレビに出ているようだから僕でさえ顔は知っていたけど、実物の演じるドラマを長尺で観たのは初めてである(いや、アニメは観たんだけど、あれは声だし)。
というわけだけど、そういうことで多少の贔屓目があるのだろうと思うのだが、ほとんど仲里依紗につきるというような映画だった。現代風の子供らしいあどけなさの残る少女が70年代に迷い込んだら、ほとんどこうなるより無い、というような信憑性が感じられる。おとぎ話なのに、そういうリアリティがしっかりしていて、ものすごく切なくなってしまったのだ。映画としてもそのあたりの感じは納得の上でアイドル映画に徹しているという感じ。しかし、彼女はやっぱり女優なのであって、二度とない短い青春を見事に駆け巡ってしまったようだ。
僕より10位上の年代の男の70年代の過ごし方や考え方は、正直言って本当にはよく分からないのだけれど、バンカラでシャイだというのは、おおむねそうなのかもしれない。ちょっとまどろっこしい感じもするが、まあ、あの年頃の男は横着なところがあるくせにまどろっこしいものだから、変わらないといえば変わらないわけだが。しかしそういう一昔前の男を前にして観察している未来の、年下でありながら少し大人の感じというのがまた良くて、いつの間にか恋に落ちているらしいというあたりが、やはりこの物語の一番大きなところであろう。
リメイクというよりは、まったく新しい話なのだが(アニメだってぜんぜん違う話だったし)、原作らしい一番の設定は、無くしてしまった記憶の切なさである。これは母とも共有しているわけで、一人の女が、おそらく浮気心無しで、心の底から同時に二人の男を愛してしまうことになることを暗示している。
でも待てよ、これは筒井康隆が女というものをそのように捉えて描いた世界観が共感を呼んだということで、やはりそのようなことに多くの人が共感を抱く様な事実があるためではなかろうか。女の人は実際にタイムスリップなどしなくても、心の奥に真実の愛がちゃんと存在しているというような…。
というわけで、例え複数の男の一人であったとしても、いま目の前の女は真実の愛を自分に投げかけてくれるのだということを信じることに致しましょう。妙な独占欲をふるわなければ、それでいいとも言えないだろうか。
この映画でそのような教訓を得る男は実際に少ないだろうが(自意識が邪魔するだろうし)、しかし多くの女性は、その通りだと納得を深めていることだろう。だから記憶がないはずなのに涙があふれることに、何の疑問も感じないのである。
僕は悲劇の恋には切実に憧れたりはしない性格なのだが、このようなものを抱えながら生きていく人間的な深みのようなものには、なんとなく納得がいったわけだ。というか、この年になってみて、過去から続いている「時をかける少女」の意味が、やっと分かった次第である(遅)。
時をかける少女/谷口正晃監督
単に出身地が近いというだけの親近感は持っているものの、実物を見たことはない。高校野球の地元高校を応援するような感覚に近いのかもしれない。里帰りくらいはされるのかもしれないけど、見たという人を知っている(聞いたことがある)だけで、やはり遭遇はかなわないようだ。それに僕の散歩コースと本人の自宅の場所とは微妙に違うわけで。それなりにテレビに出ているようだから僕でさえ顔は知っていたけど、実物の演じるドラマを長尺で観たのは初めてである(いや、アニメは観たんだけど、あれは声だし)。
というわけだけど、そういうことで多少の贔屓目があるのだろうと思うのだが、ほとんど仲里依紗につきるというような映画だった。現代風の子供らしいあどけなさの残る少女が70年代に迷い込んだら、ほとんどこうなるより無い、というような信憑性が感じられる。おとぎ話なのに、そういうリアリティがしっかりしていて、ものすごく切なくなってしまったのだ。映画としてもそのあたりの感じは納得の上でアイドル映画に徹しているという感じ。しかし、彼女はやっぱり女優なのであって、二度とない短い青春を見事に駆け巡ってしまったようだ。
僕より10位上の年代の男の70年代の過ごし方や考え方は、正直言って本当にはよく分からないのだけれど、バンカラでシャイだというのは、おおむねそうなのかもしれない。ちょっとまどろっこしい感じもするが、まあ、あの年頃の男は横着なところがあるくせにまどろっこしいものだから、変わらないといえば変わらないわけだが。しかしそういう一昔前の男を前にして観察している未来の、年下でありながら少し大人の感じというのがまた良くて、いつの間にか恋に落ちているらしいというあたりが、やはりこの物語の一番大きなところであろう。
リメイクというよりは、まったく新しい話なのだが(アニメだってぜんぜん違う話だったし)、原作らしい一番の設定は、無くしてしまった記憶の切なさである。これは母とも共有しているわけで、一人の女が、おそらく浮気心無しで、心の底から同時に二人の男を愛してしまうことになることを暗示している。
でも待てよ、これは筒井康隆が女というものをそのように捉えて描いた世界観が共感を呼んだということで、やはりそのようなことに多くの人が共感を抱く様な事実があるためではなかろうか。女の人は実際にタイムスリップなどしなくても、心の奥に真実の愛がちゃんと存在しているというような…。
というわけで、例え複数の男の一人であったとしても、いま目の前の女は真実の愛を自分に投げかけてくれるのだということを信じることに致しましょう。妙な独占欲をふるわなければ、それでいいとも言えないだろうか。
この映画でそのような教訓を得る男は実際に少ないだろうが(自意識が邪魔するだろうし)、しかし多くの女性は、その通りだと納得を深めていることだろう。だから記憶がないはずなのに涙があふれることに、何の疑問も感じないのである。
僕は悲劇の恋には切実に憧れたりはしない性格なのだが、このようなものを抱えながら生きていく人間的な深みのようなものには、なんとなく納得がいったわけだ。というか、この年になってみて、過去から続いている「時をかける少女」の意味が、やっと分かった次第である(遅)。