カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

政治の春のために

2011-04-24 | 時事
若者、選挙に行かないと損する?

 現実を見ると既に損しているわけだが、そのことすら関係ないから(気づいてない)行かないということなんだろうと思う。政治の損が自分の行動で変えられるということが信じられれば行動も変わる可能性はあるが…。
 しかしながら、有権者もそうなのだが、政治家のほうも、世代間の対立構造であるという認識を持っているとはいい難いのだとも思う。社会保障や福祉の充実について反対をする人などほとんど無く、教育の重要性についても異議を唱える人などものすごく少数に過ぎない。そうではあっても、その保障や充実にどのような財源を当てるのかということについては、案外無頓着なのではなかろうか。というか、必要だという要望に必要な財源は誰かが負担しなければならず、天から降ってくるなどということは、当たり前だがありえない。そのありえないことにもかかわらず、負担財源の多くを安易に借金に頼ってしまっていることが、将来的な負担の先送りとなる事態を招いており、つまりそれは若者へのしわ寄せになっているということなのだ。国だけの問題だけでなく、地方の財源問題も良く似た構造になっており、都市部や大企業で働く人々の負担を当てにして、再分配されることで何とか成り立っている現状である。日本というのは基本的に自立できずに一部の努力に寄りかかって頼りきっている幼児性の強い構造になってしまっているのだ。それでも何とかなってしまう過去の成長や経済力が本当に日本を支えているわけであり、なぜかそれが永遠に続くものと期待しているのかもしれない。しかし期待が現実と齟齬をきたしてしまった後が現在なのに、そのことにすら気づいていないというのが何よりの問題なのだ。厳しい言い方をすると、日本は終わりの始まりを迎えており、民主主義はその流れを止めることができないでいるのだ。
 ただ僕らにできることは、それでも努力を続けていこうとするのか、今すぐ終わることを受け入れるかのどちらかだけである。今のところ終わりを受け入れる(現実がそうなるから受け入れざるを得ないという意味で)方向しかオプションが無いのであるからどうしようもないのだが、実際には自分のことはしっかりとがんばって持ち場を守っている人たちがほとんどなのではなかろうか。オプションさえ増えれば選択ができるのに、選択をする機会すら持たされていないのである。
 つまり現状を変えられないのは、若者が選挙に行かないためなのではなく、その選択となる構造を作ることすらできない政治や世論にある。もっと戻ると、原状を国民に提示できる仕組みがうまくできていないのである。専門家の言葉は理解されないし、単純化された解説は間違いだらけだ。その上にたとえ正しいと思われることが明るみに出ても、信用する根拠やリテラシーの無い国民世論が待っている(と思われている)。
 繰り返すが、このことを許しているのは、日本という国の底力がそれなりに強大だということが何よりの担保なのであり、その信用が崩れてしまえば終わるということだ。残された時間は残り少ないというのに議論の俎上にも上がらないままでは、若者までが関心を持てるような政治の季節など最初から訪れるわけなど無いのである。
コメント
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