努力論/斎藤兆史著(中公文庫)
なんかほんとにこの書名の通りの本。著者は英語の先生で、英語の達人の本なんかで著名。ラジオで一度お声をお聞きしたことがあるけど、やっぱり英語の先生なんで素晴らしい英語の発音もしておられたと記憶してます。話し方はこの本の文体よりだいぶ柔らかかった印象があって、あとがきにもあるが、それだけこの本に対する思い入れのような、勢いのような、気合のような気持ちが出ているのかもしれない。
人は志を立てて何かをしようと思うことが、一度ならずあるものではないかと思う。実際僕はそういうことは割に頻繁にある。多くの場合挫折するが、必ずしも挫折ばかりだったわけではない。成功談もあるし、もちろん失敗も多い。しかしながら振り返ってみると、確かにこの志を立てる、ということが、それなりに重要であることが分かる。最初が肝心というか、やはりその思いを強くする何かを自ら持てるかどうか、というのは、非常に大きい。挫折の経験などした人間が、再度思い立つなどの方が、より良かったりすることもあるだろう。そういう思いを強くするような志を立てることが、その後の努力のありようにも、ずっとかかわっていくことになるのではなかろうか。
そうして最初に入門としてやっていく時期が、これがまた楽しいというのもいい感じではないか。たいていのことは、興味をもって、知識や技能が深まったり広がっていく最初の時には、楽しいという感覚があるものであろう。凄い先生や先輩に感心したりもするだろう。憧れや目標が、たとえそれが遠くにあろうとも、何かワクワクするようなファイトがわくものである。
しかしそうやって面白くやっている時間というのは、あんがいと短い。道が長ければ長いほど、その道の途中は険しいものである。楽しいと感じていたそのものでさえ、何か退屈に思えたり、妙に難しすぎて歯が立たなかったり、または、その教えそのものを疑ってみたりもするのではないか。ここで、志の最初の気持ちに、再度戻れるかどうかで、挫折を味わうことになるのではなかろうか。他にも楽しそうなことは山ほどあるわけだし、このことを自分がやらずとも、実は誰かほかに適任の人もあろう。
もちろんここを乗り切って先に行けたとしても、何度も何度も、このような山というか険しさというか、つまらなさというか、そういうものはいつでも襲ってくる。もともと何かをやるということは、そういうものなのかもしれない。
この本には、たくさんの努力の手本たる恐るべき偉人たちが出てくる。ホンマかいな、と呆れてしまうくらい凄い。これが人間のなしうるところなのかさえ疑わしい、漫画的ですらある人々である。しかしそうであるからこそ偉人なので、凄すぎるのは当然である。しかしそれらの偉人たちは、例外なく努力の人であることだ。それを知って励みになるか、諦めるかは自由である。あきらめるのも、あるいはその人の道でもあろう。そのために役立つということが書いてあるわけではないのだけれど、とことん苦難の道を、そして型のようなものを、繰り返し繰り返し真似るような困難をあえて奨励しているこの本は、安易なハウツー本とは、はるかにかけ離れた存在である。だから素晴らしいわけだが、ついていけない人も多いのではなかろうか。それはそれで楽しい想像だが…。
それにしても、やはり日本人にとって英語学習とは、ほとほと難しい分野なのだろうな、とため息が漏れてしまうのも確かだ。だからできない言い訳にしかならないのかもしれないが、せめて英語以外の道を歩む手助けにしたらいいのではないだろうか。