(主に小学)新一年生って準備が大変だ、ってのをテレビでやってた。いろんなものを買い揃えなければならないのはもちろん、その持ち物によっては手作りしたり、いちいち名前を書いたり刺繡付しなければならなかったりする。日本のお母さんって大変だ、ということかもしれない。
子供が喜ぶというのもあると思うが、お母さんが一緒になって新一年生になっていくものなのだ、という視点もあった。準備段階で徐々に気持ちが新一年生としての心構えまで整えていくような心情があるのだろう。
そういうものは否定しないが、やっぱりそういうのを見ると、そうじゃない人はどうなんだろうな、とも思うところだ。それだけ手をかけられるところと、そうでないこども環境があるだろう。比較的に日本というのは平均的な恵まれ度というのがありそうだから、比較最小限というのを狙いながら、その中でちょっとだけ自己主張というのを狙ったママさんというのがいそうである(そこが一番賢いところというか)。そんなの関係ねえゼ、っていうのは、つまるところ少数派だろうし、そんなの絶対できない、って人も、きっと誰かに頼んでいるような気もする。さらにそれすらできないのなら、不登校だっていいじゃないか、というグレ加減に陥ってしまうのではないか。入学前にも人間の選別は行われているのかもしれない。
そういうのも気にはなったが、だからと言って最初からどう救済するかなんて方法は思い浮かばないので(そもそもなんでお母さんだけ? ってのが現代にはある)、結果論で問題しないことには仕方がない。ただまあ、あんまり頑張る人がいるのを共感(もしくは仕方なく)でもって支えない方がいいとは思う。大変だけど適当にどうぞって国になると、もっとみんなハッピーだけど、そんなの時間がかからないとそうならない。僕らの歩んできた道には死屍累々と死体の山が連なってきたものなのである。
でもまあ思い出すのは、いろんなものに名前を書かなくてはならないということで、さまざまな大きさのマーカーが当時は家の中にあったな、ということだ。いったいあれはどこに行ったのだろう。自分のものに名前を書くのなんて当たり前のように思う人もいるかもしれないが、当然ながら大人になるとそんなことはほとんどしない。子供より長生きしている分、子供よりたくさんの持ち物があるはずだが、特に名前を書かなくても不自由はしてないはずだ。ということは、小さい子供の場合名前を書かなくては不都合が起こるということかもしれない。そうしてその不都合を防ぐなどのために、名前を書くということに注力している可能性が高い。それはひょっとすると本人のためなのかもしれないという予想は無いではないが、しかしそれは本当に本人のためなのだろうか。親は子供を自分の私物だと考えている可能性があるし、先生は面倒が困るのかもしれない。それぞれの持ち物には、自然と差のようなものがあるかもしれないし、逆に似たり寄ったりで区別がつきにくいのかもしれない。名前が書かれていても、そういう問題は消えるわけではない。しかし名前でもって一定の客観性や後の対応を図ることができるのだろうか。名前を書かせるというのは、もっと前に考えるべきことがたくさんありそうにも思える。でも結局そういうのが一番面倒だから、つまるところ名前を書くことに落ち着いているのではなかろうか。一人くらい書かなかったら、かえって持ち物が特定できていいかもしれないけれど……。
でもまあ学校のことなんてもう考えたくないな。子供が大人になって寂しい面もあるけど、もう子供には戻って欲しくない。ましてや学校に行かせるのなんて、僕らの体力が持ちそうにありません。あれは曲がりなりにも若い人の仕事なんだろう。