カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

嫌と言っても反対の意味よ

2022-08-07 | 母と暮らせば

 わざと間違ったことをいう癖というのをご存じだろうか。まあ、普通では何のことを言っているのか分かりにくい話だとは思うのだが、答えや考えを知っているにもかかわらず、会話の手段として、そういうことを言う人がいるのである。間違っているのは、聞く方は分かっているので、訂正をすることになる。そうやって物事を確認するようにして話を進める。もしくは間違っていることをいう自分の可愛らしさに酔っている。にわかには信じがたい話かもしれないが、おそらくそういう心理状態なのだ。私って間違って覚えていて駄目なのよね……、というのが、かわいらし気な気がしている可能性が高いのである。そうであるから、そういう風に可愛らしく見せたい、というしたたかさというべきか。そういう価値観にはこちら側としては与しないことなのだが、それは彼女の信念めいたものがあって、そうしている。
 そういうことをするのは他でもなく、僕の母のことである。本当にめんどくさいことなのだが、いちいち最初から口にしていることのほとんどが嘘で、さらに本心ですらない。以前ならそういう嘘であっても、その場限りならば自分でも覚えていて、会話の流れでそれなりに使い分けてはいた。当時であってもあまりにもそういうことばかり続いていたので、どのみち嘘だとは気づいてはいたが、一応の会話は成立していた。ところがやはり齢90にもなると、最初に言っていた嘘が何であったかの記憶がすぐに無くなってしまう。そうすると、最初から本音の嘘を言うようになる。もともと人の悪口しか言わない人なので、そういう話題になると大変なことになる。本当のこともたまに混ざっていることも無いではないが、基本的に作り話の上に無いことをあげつらって悪口を言う。私は他人の悪口だけは言ったことが無い、という前置きをする後には、大変な罵詈雑言で人をけなしだす。あまりのすさまじさに耳を覆いたくなるのだが、しかしもう基本的にはあまり聞いていないので、ただうんざりして聞き流すほかない。滝のように悪口を言っているが、いつの間にか対象者が変わっていたりする。よくもまあ長年にわたる人の恨みがあるものだと感心するが、基本的には気に食わない人との付き合いが、母の記憶のほとんどなのだろう。人生というものの終わりがそういうものだということであれば、何か一抹の哀しさを禁じ得ない。
 また食べ物の文句も多い。母は歯が強くてかたいものでも食べられて、よく噛んで食べるという自慢がまずあるのだが、硬いものは実は好きではない。刺身や寿司が好きだけれど、歯ごたえのある刺身やちょっとでも骨の残っているものは気に食わない。妻は気を付けて切っているはずだが、刺身も同じものばかりではどうだろうということもあって、毎日魚は変えているようだが、時に少し硬いものがあるのかもしれない。そうすると、「ああ、硬くておいしい」とか「硬すぎるけど、おいしい」という。それは固い刺身を無理に食べているという抗議の声である。だから本当はサーモンのようなものが無難だが、繰り返しになるけど、何しろ毎日のことで、魚のバリエーションで硬く感じられるものは、文句を言いたいということかもしれない。しかしカツオのようなものは好きじゃなさそうだし、そのくせせんべいのようなものはバリバリ食べる。母の堅いもの基準というのはどうなっているのだろう。
 また、麺類に関しては執拗に柔らかさを求める。袋麺やカップ麺は30分ほど麺だけ茹でている。ほとんどドロドロに近い感じになって気持ちが悪いが、時には食べている途中で僕に勧めてくれたりする。とてもじゃないが直視できない。そういう柔らかいものであるのはいいが、茹でた後に食べ出すタイミングにおいて、まだ少し温度が高ければ、「熱いけどおいしい」という。熱くて食べられたものではない、という意味である。しかし「柔らかくておいしい」も言うが、これはその通りの意味のようだ。何故ならそのままずるずる食べ続けているから。実にまぎらわしい。そういう訳で麺類であっても、細目で柔らかいうどん、ソーメンなどというところまでになる。スパゲティはダメだろうし、蕎麦はもう食べさせていないようだ。もちろん僕らも麺類は食べるので、別に茹でて作られている。時間差の問題もあるが、我が家では麺類の調理時間は、異様に長くなっているのではあるまいか。
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