ワース 命の値段/サラ・コランジェロ監督
911テロ事件の被害者とその家族に対して、米国政府は基金を設立して救済のための保障費を捻出することにした。ところがその分配に当たっては、なかなかに難しい命の値段の計算という問題が持ち上がる。悲しみに暮れる家族にとって、そうしてお金に関する交渉を極端に嫌がる人たちもいる。中には事実上の同性婚の問題があったり、被害者の人間関係において、一つだけの残された家族でないケースなど、なかなかに複雑だ。多民族国家だし、移民問題もあるし、外国人もいる。分配ができるだけ公平になるように配慮がされているとは考えられているとはいえ、それを納得して受け入れられるには、人間感情というのはなかなか複雑なところがあるのである。
担当の弁護士は、そのような保障に対するプロであって、ある程度このような交渉には自信を持っていた。ところが交渉は難航続きで、説明すらまともに聞いてくれない人々と対峙する毎日を送ることになる。保証するにも期限が設けられていて、タイムリミットは刻々と近づいていくのだったが……。
テロで亡くなった人々の家族にとっては、その補償金を手にすることは、本来はありがたいことに違いない。しかしながらその前に、死に至った悲しみや不条理に対する怒りが先行している。そういう強い意見がある中で、実際には保証金に対する話に耳を傾けてもいい人たちはいるのである。そういう空気感に抗えなくて、話し合いの場に立てない人もいる可能性が高い。だからふつうに外国人などは、保証に対して何の支障もなく、早々に交渉に応じてくれる。もっともそれはアメリカ人よりも所得が低く、思ったよりも保証額が高いということが示唆されている訳だが……。しかし、値段を交渉で釣りあげたいだけでゴネているようには思われたくない。この辺りが、本音と建前が違う外国人らしい反応という気もする。日本だとこの辺りは、相手に悟られることを嫌うというよりは、相手が譲歩しあうところがあるのだが、彼らは建前が先行する(見た目の正当さというか)ので、どうしても本音の部分でどうしたいというのを悟られたくないのである。そうすると、相手を攻撃して罵倒したり、極端に拒絶したりする。いつまでもそうしている訳には、いかない問題なのであるのだけれど……。
しかしその気持ちは、もちろんわかる。人間の悲しみや怒りは、時にぶつけ場所が無ければ迷走する。悪いのはテロリストで、補償金を支払おうとしている弁護士ではない。しかしながら目の前に現れたのは、弁護士の方だけなのだ。
その悲しみを共有しながらも、しかし公平さを担保しながら、時には納得のいかない人を前にしながら、坦々と仕事をしなければならない。こういう立場は、出来れば他の人にやって欲しいものである。しかし主人公は、プロとしての矜持もある。逃げることもできないのである。仕事をやるということの本当のつらさは、そういう事なのかもしれない。