カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

魚も浮気する証拠とは

2022-04-15 | Science & nature

 魚も鳥のつがいのようにカップルの関係の深いものがいる。オスがメスの気に入る巣を作り、誘い出して卵を産んでもらい、子育てするというのは結構ある話だ。そういうことをさして、ふつうは夫婦で子育て(多くの場合卵がかえるまでが目的だが。その後の子育てをするのもいないではない)するようなほほえましい行動のように紹介されることが多い。実際かいがいしく卵の世話をしたりする光景は、なんとなくユーモラスで温かいものを感じさせられるものである。
 ところでそのようにして、まずはメスの気を引こうとして、自分のエサなどをオスがメスに与えるというのはよくある。そのようにして気に入ってもらい、お互いの愛の巣を育みカップルが成立したとする。あるテレビで見た魚は(おそらく南米の魚だったと思う)そのようにしてカップルが成立した後に、メスの魚を別の水槽に移して隠してみた。その後に別のメスをその水槽に入れると、なんとオスは巣にそのメスを誘いエサを与えるという行動をとるようになるのだという。そうすると鳥のつがいとはまた、別なのか? という疑問がわくだろう。問題はそこからで、今度は別の水槽に移したメスを隣の水槽に並べて、行動が見えるようにする。そうするとオスはこれまでエサをやっていたメスに餌をやる行動をやめ、巣に入ることすらしなくなるのだという。見られていることが分かると、浮気をしなくなるのだ。
 非常に人間的な行動のようにも思われるが、ある意味きわめて合理的なようにも感じられる。ふつうは奥さんに怒られるから(多分怖いからというのはありそうではあるけど)浮気をやめているとも考えられるが、別の水槽から見られているだけで浮気をやめるわけである。何らかの理由で去ってしまったつがいのメスがいなくなったので、新しいメスに乗り換えようとした訳で、つがいのメスが隣の水槽にいることが分かったので、新しいメスから離れたとも考えられる。見られていると都合が悪いというのは人間の感情的なものとしては分かりやすいが、最初のつがいとの関係で一度スイッチのようなものが入るとその関係を優先し、それが無い状態だと次のパートナーへ切り替わるのではないかとも考えられる。前のパートナーをもとの水槽に戻すと激しく怒られるなどしたのならもっと面白そうだが、おそらくまたエサをやり巣に誘うのではなかろうか。
 もちろんこのことで、魚であっても関係性を大切にするという根拠にはなるとは考えられる。もともと築いた関係性を大切にして、いわゆるカップルや家族などを形成するようなことの起源があるのかもしれない。初めて会う個体や、なわばりなどがある外部の同類などとは違って、自分の領域で仲良くなる個体を優先して守るというような、本能と関係する感情が生まれていったのではなかろうか。これだけですべてを語ることはできないが、見られているだけで浮気をしないというオスの行動は、オスの狡さの証明とはまた別の問題なのではなかろうか。
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怪しい人しか出てこない   トランスポーター

2022-04-14 | 映画

トランスポーター/ルイ・レテリエ監督

 犯罪に絡む危険な物品を運ぶ仕事を請け負っている男がいる。非常に潔癖症というか、杓子定規な考え方をする人間のようで、融通が利かない。いちおう仕事はできるという設定のようだが、契約内容とちょっとでも違うと契約内容に合わせるように非常な行動をとる。まあ、自分勝手ということなのかもしれない。そうやって仕事をしていたが、ある日大きなバッグを運ぶように頼まれる。車がパンクしトランクを開けると、荷物が動いている。自ら課したルールを破って中身を見ると、東洋人の女が縛られてはいっていた。飲み物を飲ませトイレに行かせると、一時は逃げられ、しかし捕らえてバッグに詰め直し、依頼人にはちゃんと届けた。仕事を終えて帰る途中、飲み物を買おうと車を離れたところ、車は爆発してしまう。爆薬を仕掛けられ殺されるところだったのだ。怒って依頼人のところに戻ると、いろいろとドンパチが起こって、結局運んだ女とともに逃げ帰ることになる。そうして組織と対峙した戦いが始まったのだった……。
 荒唐無稽な話だけれど、とにかくアクション活劇が続いて、スリルの連続である。助けた女はいろいろと噓をついていて、あんまり信用できない人間なのだが、なんとなく愛し合うようになる。けれど、やっぱり嘘つきなので裏切られてもいる。そうしているうちに人身売買事件に首を突っ込んでいて、自らの正義感も芽生えて、戦い抜くことになる。ほとんど香港のカンフーアクションのような、アクロバティックな武闘が行われている。ちょっと笑ってしまうような、雑技団のような凄まじさがある。これはおそらく、それらのアクション映画のオマージュであるようだ。
 悪の組織と東洋の女と、そして警察も絡んで複雑な状況の中戦っているが、それらはリアリティのかけらもない。人もたくさん死んでいるようなのだが、そういうことへの感情も特にわかない。そういうことに頓着せず、凄いアクションだけをひたすら追い求めて作られた作品なんだろうと思う。そういう意味では屈託なく素直な性格の映画ともいえるのかもしれない。続編もあるようだし、ヒットしたのだろう。かなり怪しい人物がたくさん出てくるが、これも継承されていくのだろうか……。
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不登校の本当の原因は……

2022-04-13 | net & 社会

 小中学生で不登校、もしくは元不登校であった子供たちにインタビューしている番組を見た。そのドキュメンタリーを撮っている親の子供も不登校であるらしく、そのことでこの親である今作品のディレクターにとっても、非常に深刻な問題としてこれを捉え、自らもこの問題に向き合うために作られた作品かもしれない(NHKセルフドキュメンタリー:不登校がやってきた2聞きたい子供たちの声 ※いわゆる続編らしく2なのだが、僕が見たのはこの2のみ。最初は何と長女が不登校になったときものらしい。要するに、これは次男坊がまた不登校になってしまった後の話なのだ)。
 インタビューに出てくる子供たちの中には、いわゆるビデオカメラの前で自分の意見をちゃんと言えないような子もいないではないが、ほとんどの子供たちは、不登校である自分や周りの出来事などを、実に屈託なく語ってくれている。学校に行っていないという負い目のような葛藤はあるものの、昼夜逆転してゲームに高じていることや、勉強のことや将来の不安なども語っていた。もちろん、以前通っていた学校のことも話していて、多くの場合理解してくれない先生や、その取り巻きである学校の関係者のことなども語っている。本人の感じ方ということもあろうが、テレビとはいえ、かなり素直な語り口がうかがえるところである。
 実は教育委員会の調査によると、不登校の原因の7割は、本人の都合というか、資質のようなこととされている。学校になじめない原因は、本人が学力についていけなかったり、朝起きることができなかったり、学校というところになじめなかったりする、ということのようだ。
 ところが別の調査があって、実際に不登校に陥ってしまっている子供たちに直に聞いたところによると、学校に通わなくなった原因の3割は先生にあり、これが最大であった。次にいじめなどが続き、よく分からない、という項目など1割くらいの理由がいくつかあるという感じなのである。先生から(本人にとっては)不当に何か言われたり、何か納得のいかなかったことをされたり、抗議しても受け入れてもらえなかったりして、結果的には失望して、もう学校はいいや、ということで行かなくなっていく、ということが浮き彫りになっていく。
 それ自体よりも衝撃的なのは、子供たちはその実年齢よりもはるかに大人びて見えて、物事を論理的に説明していたことかもしれない。客観的に自分に起こっている物事を捉えて、そうして整然とその事を説明してくれるのである。彼らや彼女は苦しんでいるが、子供である今の時代を、自分自身でどうすることもできずに、不登校という選択をしたのである。
 もちろん今は不登校でない(学校に行けるようになった)子供も数人いた。印象に残ったのは、久しぶりに学校に行って、長い間不登校だったことは誰も知らない教室で、少し前の方に座っていた子に声を掛けてもらった、というエピソードだった。彼はそうしてもらえなかったら、また学校に行けなくなっただろうと言った。やっぱり友達って大切だよな、というようなことをポツリというのだった。
 学歴というのは、才能の無い人のための保険ともいわれている(もちろん、学歴のある人でも、才能のある人はいるが)。それはその通りだが、その通りだということを、この子たちが証明してくれるのではないか、と期待してしまう。もちろんこれからのことなんて何も分からないが、この困った状況が、逆に個人を育てていくこともあるのではないだろうか。それはちょっと悲しすぎる現実の結果ではあるけれど……。
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そもそも人間には、もっと深みがあるものだ   チャッピー

2022-04-12 | 映画

チャッピー/ニール・ブロムカンプ監督

 どうも近未来の話らしい。凶悪犯罪の多発するヨハネスブルグにおいては、警察は対抗処置として、大量の人型ロボットを導入するようになっている。チタン製のボディをもち、犯罪者の銃弾を受けても、安易に壊れない。その効果があり、それぞれの犯罪組織は弱体化しかけていた。そういう中、新しい人工知能ソフトを開発した会社の技能者が、故障したロボットにそのソフトを埋め込んで実験を始める。ところが強盗にあって誘拐され、ロボットも奪われる。誘拐したチンピラは、借金に追われ強盗を計画していた。AIソフトを導入したロボットは、まだ何も学習をしていない純粋無垢な赤ん坊のような存在であることから、自分らに都合よく犯罪を行えるように教育をほどこそうとするのだったが……。
 強靭なボディと能力を兼ね備えている戦闘型ロボットが、単にバカな子供になったらどうなるのか? ということなんだろうと思う。学習能力が優れているとはいえ、臆病で何もできない馬鹿という設定だが、本来は強いので何とかサバイバルして能力を伸ばして成長する物語である。
 脚本が悪いのか、非常にわざとらしくてシラケる。それにいくらAIだからと言って、最初から子供のような純粋さであるはずが無いではないか。それに子供の性質としては、好奇心に垣根が無いというのがあるのだが、このロボットは最初から臆病すぎて、自分からは何も学習しようとしない。そういう設定なんだろうけれど、かなり無理があると感じられる。かえって不自然なのである。それは最初から感情を持っているらしい、ということがあげられるわけで、そういうものが最初からあるのかどうか、ということの方がAIの難問なのである。なんだか何にもわかってないな、という感じかもしれない。
 ということで、人間の考えたあり得ない前提が提示されていて、非常に子供っぽい作品になってしまっている。いや、子供にも失礼かもしれないが、カマトト過ぎて残念なのかもしれない。もう少し引き締まった人間関係を、作品には反映させるべきであろう。
 後半になってやっと会社の内紛でロボットアクションが加速するが、この設定にもなんとなく人間関係の単純すぎる縮図があって、著名な役者の使われ方が、可愛そうにさえ感じられる。制作人はもう少し反省するように言ってやりたい気分だ。まあ、観てしまった自分の方が負けなのかもしれないのだが……。
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プーチンの行動は予想されていた?

2022-04-11 | HORROR

 2016年制作の、当時のプーチンとはどういう人物か、というのを追ったドキュメンタリーを見た。KGBの工作員出身で旧東ドイツにいた人間が、サンクトペテルブルグで政治家に転身し、当時大統領だったエリツィンに抜擢されて首相になり、チェチェンに関するテロとの戦いという名目で国民の人気を得て、着実に権力の座を固めていく。しかしながら実際にこのテロというのも出自が怪しい事件で、いまだに謎が多い。自国民が犠牲になったことで国民感情の高ぶりが増し、そのことと戦うプーチンという姿の演出に力を入れていたともされていて、策略として狡猾非道なプーチンという見方を歴史は示しているのである。
 また、エリツィン時代からのロシヤの伝統的な政治腐敗というのがあって、資源国であり軍事力の長けた旧連邦の首長国であるロシヤには、たくさんの関連財閥が後押しをしているのだった。そうした一部権力と新興の財閥をまとめ上げて、表面的には民主的な仮面をかぶりながら、実際には数々の犯罪行為でそれらの要人を脅し透かして資金を調達し、また彼らの権益も守り、権力を固めていくのだった。自分の意に沿わない人間は表舞台から抹殺し、そのために国外に逃れる財閥系の人間も数多い。そうした人間の証言を集めただけでも、まじめに国内で調査しさえすれば、犯罪者として断罪できるだけの証拠が揃っているとされている。また、その狡猾さと裏腹に非常に高いプライドを持っていて、そのドキュメンタリーでは、将来必ず西側に牙をむくことになると警告をしていた。まさにそれは現在的中したわけである。
 改めてこのドキュメンタリーで確認できることは、ロシヤというのはいまだに権力を握った人間の帝国だということだった。プーチンはエリツィンの後継者としてエリツィンの犯罪を永遠に抹消させ、それ以上の権力を掴み、自らは財閥の賄賂で私腹を肥やすために手段を択ばない人間だったのである。また新興財閥もそのような政治との癒着そのものが都合がいい訳であり、プーチンが権力を持っている限り、彼らはその地位を守ることができるのである。もちろんそのままの体制で居続けられる間においては。
 そういうことを考えると、今の西側の制裁は、それなりにプーチンを苦しめていることは間違いなさそうにも思われる。実際にプーチンは西側にも莫大な資産を持っているようで、事実上これは彼の今後の生涯では、本人に使われるとことは無くなっただろう。それでは今回のことでその痛みのために行動を改めるのかというと、たとえ失ったものは大きくとも、あきらめた瞬間に今持っている権力の座からは滑り落ちることは確実だろう。現在の一種の膠着したように見える状況は、それである程度は説明がつくかもしれない。
 ただし、これらの背景が多くの西側の識者がみているとされるプーチンの落としどころになるには、時間がかかりすぎる可能性もある。プーチンとしては自ら招いたこの状態から逃れられないとして、むしろ長期化させてウクライナもろとも疲弊させる考えを持っているかもしれない。すでに国際社会の支援なしに、ウクライナの国家自体も成り立たなくなりつつあるのではないか。仮に今すぐに和平が成立したとしても、自国復興の道は極めて険しい。ましてやさらに時間が経過すると、その時間の分だけ難しさの度合いが深まってしまうだろう。ロシヤ憎しであったとしても、核の脅威があり直接軍事介入の道は閉ざされているために、経済制裁を続けざるを得ない訳だが(それでいいと思うが)、その代償を支払い続ける道に迷い込んだのは、西側も同じことなのである。
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可愛いが、なんじゃこりゃ、という世界観   JUNK HEADジャンク・ヘッド

2022-04-10 | 映画

JUNK HEADジャンク・ヘッド/堀貴秀監督

 未来の地球では、人類は生殖能力を失い滅亡の危機に瀕している。地球の地下世界では、元は人類が作り出した人工の生命体が独自の進化を遂げ、そうして地下を支配している。バーチャルでダンス指導をしている男は、地下世界の興味から、地下世界を調査する募集があったのを機会に志願し、機械のボディをまとった姿で地下世界に潜り込もうとするが、すぐに撃退され,頭部のみになってしまう。それを拾われてマリガンと言われる生物から機械の体をもらうのだが、最初は記憶があいまいで失敗を犯し、またまた大破し、今度はロボットにされてしまうのだった。
 ストップモーション・アニメという形態で、ほとんど監督一人で、7年の歳月を費やして完成された作品らしい。そういう事前の認識があって作られていることを知らないと、なかなかそのもの凄さが実感できないかもしれない。世界観も設定も何もかも異色なのだが、一応不思議なディティールが描かれていることで、独自の笑いもあるし、緊張感の続くスリルもある。恋愛らしきものもあるし、友情物語や博愛主義もある。しかし、どうにも分からないものも混ざっていて、それがまた面白い。日本の映画のようだが、劇中使われている言語も謎である。生物の在り方も分からないし、皆が本当は何をやって生活しているのかさえ、全体像としてはやはり謎である。やっぱりこの世界観自体が面白い訳で、観進めながら、いちいち少しづつ驚いてしまう。観終わった後も、まったく変な映画を観てしまったものだ、という満足感を得られることだろう。なんだかよく分からないままのものはあるが、とにかく凄かったのかもしれない。
 後でネットで検索したところ、監督さんは大分の人で、内装業の傍ら映画製作をしているのだという。新海誠監督が、やはり一人でアニメ映画を作ったということから、自分もこのようなアニメを作ろうと考えたのだという。今は続編などの制作に取り掛かっているものとみられるが、この映画は数々の賞を受賞して大ヒットして、すでにハリウッドからのオファーもかかっている人なのだそうだ。スゴイですね。
 かなり気持ち悪い映像もふんだんだけれど、なんだかわからないままになんとなくスカッとさせられる気分にもなる。いわゆる明るい映画ではないのだが、その暗さも含めて、それなりに前向きになれるものがある。裏に隠れている膨大な苦労と、そうして出来上がった可愛くも変な世界観に、観る人も虜にされてしまうのである。また何年待つのか分からないが、今後も期待大である。
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山菜を持ち帰るべきか

2022-04-09 | 散歩

 散歩していて山菜などに目が留まると、レジ袋のようなものを持ってきていれば良かったな、と思う。畔や水路脇、斜面などに蕗や蕨・野蒜などが目に入る。ちょっと開けた場所なんかには、伸びた枝にタラの芽が出ていたりする。こういうのは車から降りて取っていく人も結構いるので、早い者勝ちの争奪戦めいている。僕はあくまで歩く範囲での戦場だけど、そういう意味では細かく見ていく戦略を取るよりない。しかしながら取ったものを手に持っていくというのが、何となくはばかられる思いがする。そうしてレジ袋なんかがあればよかったのにな、と思うわけだ。
 そういうことだから、実際問題としては山菜をとる習慣がない。今取っても仕方ないな、と毎回思うだけである。以前は水路をさらう作業などにも出ていたが、今は担当の人が行く場合と、欠席で出払いで済ませてしまっている。そういう時には周りも山菜取りをしながら作業をすることが多かったので、一緒になって取っていた。一人で散歩しているときは、そういう感じにはなかなかならないものである。その上に散歩だから道のそばに限定されているし、そういうところは誰かのお宅の土地であろう。今は山中の道はあまり散歩コースにはなっておらず、どこか遠くから眺めている人がいないとも限らない(田舎ってそういうところです)。ちょっとした泥棒には違いなく、やはり躊躇してしまうのだろう。
 しかしまあそうであっても、ときどき道行く近所の人に、あいさつがてら山菜を分けてもらうことがある。出勤してくる職員が、取ってきたからと分けてくれることがある。こういうありがたいことが田舎ではよくあることなので、あえて自分で取らなくても、春の山菜にはありつけることになっている。
 こういうものは持ちつもたれつなんだが、やはりもらうばかりでは心苦しい。お返しのためにも、見つけた山菜は持って帰ってわけるべきなのではないかとも考える。頂いたものと似たようなものを返すということを考えると、何か別のものを買って返すという行為が、ちょっと相手に重たいものを感じさせないではない。田舎暮らしで一番つらいのは、そのような非対称性の豊かさのようなものかもしれない。土地が無いからと思っても土地はいくらでも貸してくれるわけで、そういうやり取りのためだけにも、やっぱり何か作るべきなのかな、と考えてしまうのであった。
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たぶんこれは少女たちの理想の恋愛   ライアー×ライアー

2022-04-08 | 映画

ライアー×ライアー/耶雲哉治監督

 これも原作少女漫画があるようだ。親が再婚しての連れ子同士のきょうだいだが、小さいころはともかく、年頃になりなんとなく険悪になっている。特に弟は女にもてすぎる美男子で、しかし女癖は悪い。そのために姉はさまざまな女子たちから非難され攻撃され、ひたすら謝罪の毎日を送る学園生活だった。やっと大学だかそういうところに行くようになり、一定の距離を置けるようになっているが、友人のコスプレ撮影に手伝ったギャルの格好をして渋谷にいるときに弟にぶつかって出会ってしまい、自分であることを隠してそのまま弟と付き合うことになってしまうのだった。
 まあ、漫画なら何とかなるかもしれない設定だと断っておくが、しかしこれは人間の演じている物語であるドラマである。いくらなんでもそれは無いでしょう! という前提を受け入れないことには話は進まない訳で、脳内で一所懸命修正を重ねて物語についていくよりない。しかしこれは少女漫画的にはおいしい題材で、歴史的にこれまで何回となく作られてきたストーリーである。ほとんど恋愛ポルノと言ってよく、しかしいったん受け入れてしまうと、面白いのである。やっぱりそうなるよなあ、ということと、それでもそう来るのか! という怒涛のせめぎあいが続いて、周りの人間も呆れてさじを投げてしまう(それも面白い)。要するにモテすぎている自分、という少女漫画の王道主人公がいるのだ。これほどの恵まれた愛が他にあろうか? いや、無いのだ。それは自分でありもするが、偽りの他人でもある。本当の自分に振り向いてもらうには、ではどうすればいいのか? 
 という訳で、貞操の危機も無いではないが、ともかく自分の性的な魅力はさておき、女としての魅力と狡猾さで相手を支配下においてしまうのはさすがである。恋のもつれもあって、別の男の人生も狂わせてしまう。これほどのことが無い限り、本当の愛は成就しないのである。
 いわゆるこれは大人の愛ではないし、情愛というものとはかけ離れたものがある。しかし、憧れの愛の形なのである。そういうことを考えると、つくづく男というのは厄介な生き物なのね、ということにもなります。フムフム、そうなのかもしれないね、僕以外の男は、と考えておこう。
 それでも僕はこういうのを小学生くらいからずっと読んでいるわけで(なぜかずっと少女漫画ファンなのです)、なじみがありすぎて嫌になりますが、楽しめました。
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小屋を見せてもらう

2022-04-07 | 散歩

 散歩してたら、この地区のおじさん(とはいえおそらく七十代のお爺さん)が交差する道を歩てきたので、挨拶を交わす。最近畔をコンクリートで固める作業を進めていた。一段落されている様子だったので「きれいに仕上がったですね」とお声がけをした。
 それでこの地区の主に田植えの苦労話を一通り聞かされて、そういえば、というような顔をして、ついて来いというような手招きをしながら元来た道を戻っていく。行きがかり上付いていくしかあるまい。おじさんは手にワンカートンの煙草を掴んでいて、それを新しくできた白いコンクリートの畔の上において、そばにある小屋まで僕を連れていくのだった。線路わきにあるその小屋は、主道路を十時に横切る一番端の突き当りにあって、僕の散歩道からは見えはするものの、どん詰まりというのは容易に見て取れることと、こういう小屋に近づいていって、泥棒と間違われてもつまらないので、あえて近距離に寄るのを避けていたかもしれない。
 間近に見るとこの小屋は、鉄筋で組まれた立派なもので、コンクリートを敷き詰めた土地に直に鉄骨を埋め込んで柱にして、新建材などを壁にしてちょっとした要塞めいた形をしていた。重たい鉄のレールの扉をゴリゴリ押して開いてみると、中にはトラクターやコンバインなどの乗用農業機械が三台ばかり並べられていて、その脇にもアタッチメントでトラクターに接続されるさまざまな農機具が備えられていた。壁側に肥料が高く積まれストックされている。別部屋に仕切られた空間には、プラスチックの大きな水桶が三つばかり並んでいて、水路からの水が自然に蓄えられる仕掛けになっていた。これは消毒液などを中和するのにつかわれるのだろう。また、扉の手前にもう一つ別の空間があって、そこにコンクリートの枠板などの建築資材が詰め込まれていた。真ん中が空いているが、それは小型のパワーショベルがふだんは入っているもので、今は修理に出していて留守にしているのだという。この小屋は、すべておじさんが一人で手作りした代物で、自分が死んでも、誰かが引き継いで使うだろう、と言っていた。場所的に線路わきで一段低いところになっていて、水路から水があふれてこないように、これもコンクリートの擁壁が組まれている。もちろんこれもおじさんの手作りなのだった。小屋には三つばかりサッシの窓が付いていて、おじさんは実は建設業の折に、その窓枠のようなものを作るのを特に得意としていた職人だったのだという。隣町の今もある建設会社の名前を出して、そこに勤めていたということらしい。
 まあ、良いものを見せてもらったとはいえるが、実はすでにお昼休みは過ぎてしまっていた。急いで戻るべきだったかもしれないし、そもそも時間的には見せてもらうのを固辞すべきだったのかもしれないが、それは人間づきあいとして非礼でもあろうかとは思われる。何よりおじさんは、自慢話には違いないが、素人の僕に、実に熱心に建物の建造工程を含め詳しく紹介してくれたのだった。
 またガラガラと重たそうな扉を引き、閉めた後に畔に戻ってワンカートンの煙草を手に取り、僕と一緒に十字路の道まで戻っていった。そうして僕は左に折れて事業所方面へ、おじさんはまっすぐに十字路を登って行って別れた。これからは、こんにちは、の挨拶だけでは済まない関係になったかもしれないな、と帰りながら考えてしまった。
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映画の枠を超えて、大傑作   アメリカン・ユートピア

2022-04-06 | 映画

アメリカン・ユートピア/スパイク・リー監督

 ブロードウェイのショーの映画化なのだが、実際には映画の枠には収まらないし、そうしてショーとしても型破りかもしれない。元トーキングヘッズのデビット・バーンを中心とするバンドというか、パフォーマーのステージ・ショーには間違いないのだが、そうとばかりも言い切れないのである。確かに歌を歌い演奏をしているだけといえばそうなのだが、しつこい様だがそれだけだと思ったら大間違いである。
 まあ正直に言うと、観始めた最初の数分は、何だ、元トーキングヘッズのライブじゃないか、と思った。デビット・バーンの姿は初めて見たが(というか覚えてないと思っていたが、昔の写真をググってみると、昔の写真の姿は覚えていた。ほんとに変わり果てている)、改めておじさんというか、ほとんど老人になっている(69歳ということだ)。しかしながらもともと歌が上手いという感じの人でもなかったし、ロックバンドとしてはインテリすぎるというか、ちょっと鼻にかかっている感じで、ロックオタクに好かれるタイプのポピュラーな存在では無かった。でも、僕の高校生くらいの時は何故か売れていて、僕もCDは持っている(探せないが、大人になってから再度思い出して二枚もっているはずだ)。一応教養のためにかっこつけて聞いていただけのことで、好きなバンドだったわけでもない。数年前にラジオでデビット・バーンの新譜を聞いて、まだ頑張ってるんだな、と思った記憶があるが、たぶんこの映画とも関係があるのかもしれない。
 あえてこのライブを映画というとすれば、このような新たな可能性を持ち、非常にクリアな主張を観る者に投げかけているメッセージ性の高さにある。それは今風に言うと多様性の重要さであり、自由を担保するために、自らも意識的であるべきだ、ということだ。自由は降ってわいてくるものではないし、常にある意味では戦い抜いて勝ち取らなければならない。そしてそれは、何よりも高い価値で尊いものなのだ。
 そういうものを、単に言論でもって主張すると、何か一種の気負いというものがどうしても表に出てしまうし、戦いという好戦的な態度が前面に出てしまうと、対立項とぶつかり合ったり、かえって我慢を強いられる立場の人たちを作り出してしまったりするものである。ところがこのステージをみていると、パフォーマンスの素晴らしさに、いつの間にか身をゆだねて、そうしてまさにそのユートピアの形が、目の前に現れるような気持ちにさせられるのである。黒人でなくても、他の大陸の人間でも、ましてや白人であっても、非常に深い理解とともに、この価値観を共有できるのではないだろうか。素晴らしいのである。
 映画の枠ではないが、映画として高い評価が得られ続けているのは、それはやはり凄い映画だからだ。こういうことが起こるから、食わず嫌いはよさねばならない。
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名前を書かなくてはならない

2022-04-05 | culture

 (主に小学)新一年生って準備が大変だ、ってのをテレビでやってた。いろんなものを買い揃えなければならないのはもちろん、その持ち物によっては手作りしたり、いちいち名前を書いたり刺繡付しなければならなかったりする。日本のお母さんって大変だ、ということかもしれない。
 子供が喜ぶというのもあると思うが、お母さんが一緒になって新一年生になっていくものなのだ、という視点もあった。準備段階で徐々に気持ちが新一年生としての心構えまで整えていくような心情があるのだろう。
 そういうものは否定しないが、やっぱりそういうのを見ると、そうじゃない人はどうなんだろうな、とも思うところだ。それだけ手をかけられるところと、そうでないこども環境があるだろう。比較的に日本というのは平均的な恵まれ度というのがありそうだから、比較最小限というのを狙いながら、その中でちょっとだけ自己主張というのを狙ったママさんというのがいそうである(そこが一番賢いところというか)。そんなの関係ねえゼ、っていうのは、つまるところ少数派だろうし、そんなの絶対できない、って人も、きっと誰かに頼んでいるような気もする。さらにそれすらできないのなら、不登校だっていいじゃないか、というグレ加減に陥ってしまうのではないか。入学前にも人間の選別は行われているのかもしれない。
 そういうのも気にはなったが、だからと言って最初からどう救済するかなんて方法は思い浮かばないので(そもそもなんでお母さんだけ? ってのが現代にはある)、結果論で問題しないことには仕方がない。ただまあ、あんまり頑張る人がいるのを共感(もしくは仕方なく)でもって支えない方がいいとは思う。大変だけど適当にどうぞって国になると、もっとみんなハッピーだけど、そんなの時間がかからないとそうならない。僕らの歩んできた道には死屍累々と死体の山が連なってきたものなのである。
 でもまあ思い出すのは、いろんなものに名前を書かなくてはならないということで、さまざまな大きさのマーカーが当時は家の中にあったな、ということだ。いったいあれはどこに行ったのだろう。自分のものに名前を書くのなんて当たり前のように思う人もいるかもしれないが、当然ながら大人になるとそんなことはほとんどしない。子供より長生きしている分、子供よりたくさんの持ち物があるはずだが、特に名前を書かなくても不自由はしてないはずだ。ということは、小さい子供の場合名前を書かなくては不都合が起こるということかもしれない。そうしてその不都合を防ぐなどのために、名前を書くということに注力している可能性が高い。それはひょっとすると本人のためなのかもしれないという予想は無いではないが、しかしそれは本当に本人のためなのだろうか。親は子供を自分の私物だと考えている可能性があるし、先生は面倒が困るのかもしれない。それぞれの持ち物には、自然と差のようなものがあるかもしれないし、逆に似たり寄ったりで区別がつきにくいのかもしれない。名前が書かれていても、そういう問題は消えるわけではない。しかし名前でもって一定の客観性や後の対応を図ることができるのだろうか。名前を書かせるというのは、もっと前に考えるべきことがたくさんありそうにも思える。でも結局そういうのが一番面倒だから、つまるところ名前を書くことに落ち着いているのではなかろうか。一人くらい書かなかったら、かえって持ち物が特定できていいかもしれないけれど……。
 でもまあ学校のことなんてもう考えたくないな。子供が大人になって寂しい面もあるけど、もう子供には戻って欲しくない。ましてや学校に行かせるのなんて、僕らの体力が持ちそうにありません。あれは曲がりなりにも若い人の仕事なんだろう。
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大切なことはぶつかり合ってでも確かめるべきだ   ピース・オブ・ケイク

2022-04-04 | 映画

ピース・オブ・ケイク/田口トモロヲ監督

 原作漫画がある。そちらは未読だが、どこまで再現された話なのだろうか。
 相手から言い寄られるとすぐにその気になって付き合い、セックスを重ねる恋愛を繰り返してきた志乃だったが、いい加減そういう恋愛に疲れたというか、暴力もふるわれるようになるし、受け身すぎる自分に嫌気がさして逃げてきた。
 ところが越してきた先のお隣にいい感じの笑顔の髭の男がいて、これが今度バイトしようとして行ってみたレンタルビデオ店の店長だった。あとでわかるが店長は同棲している女性がいて、この女が庭で家庭菜園をやっていて、トマトなどを分けてもらうけれど性格は悪そうに感じられる。ともかく何か陰のあるような女であるが、それをわかりながら店長への思いは募らせていく。そうして飲み会で送ってもらったり、遅出で一緒に帰ったりなどプラトニックな思いを経験を重ね、告白にまで至るが撃沈。失意に沈んでいると、結局店長の同棲相手の謎の女は、失踪してしまうのだった。そういう店長の心の傷を埋める関係でもいい、という思いもあって付き合いだすと、もう恋愛史上最高のしあわせが訪れるのだったが……。
 会話の声と心の声が同時に聞こえる、いわゆる漫画形式の心模様が観るものに分かるようになっている。心の声が突っ込みを入れることで、一人漫才のギャグになっている。いわゆる女心として発している言葉とは裏腹に、心の中では逆の疑いなどの心理が働いていることが、正直に見える。ほとんどギャグなので効果的だけれど、まあ、映画的には反則技かもしれない。そうではあるのだが、やはりこの物語には効果的で、おそらく多くの男はセックス目的に寄って来るのだが、それに合わせていれば、一応気持ちがいいし男との付き合いを埋めることができる。それだから流されてきた自分がいるというのは重々わかっているし、でもそのことを繰り返しすぎていた自分がいて、いざ本気の恋愛にのめり込んでつらくなってしまうと、またそうなってしまうような自分も怖いのである。
 こんな女の人がいるのかどうかまではよく分からないのだが、そういう人がいてもおかしくはない、という感じはある。何しろ可愛いしすぐに気を許すので、男の方もすぐにその気になってしまうのだろう。これで体まで許さなければ八方美人の嫌な奴かもしれないが、セックスもするので、男たちとしたら、女神みたいな人かもしれない。でもまあ、この男たちの中には独占欲の強いのもいて厄介だけど。
 さてしかし、そういう中にあって必死にもがいて純愛を勝ち取れるのか、という話でもあって、ちょっとおかしいけれど感動もできる。本当に素晴らしいです。僕はこんなにいい話だとは思ってなくて観ていたので、ずっこけるほど感動いたしました。
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空白を埋められるのは何か   空白

2022-04-03 | 映画

空白/吉田惠輔監督

 女子中学生がスーパーでの万引きが見つかり、事務所に引っ張られる。その後逃げ出し店長から追いかけられるのだが、急に道に飛び出し自動車にはねられ大型ダンプに敷かれて死んでしまう。漁師の父親は激しい怒りにかられ、スーパーの店長に向け怒鳴り散らし、執拗に嫌がらせをする。ワイドショーも面白がって店長の表現の一部を編集して使い、この騒動をあおりまくる。父親は学校でも娘がいじめられていたのではないかとし、先生を困らせたりする。完全に過剰なクレーマーと化して、多くの人々を追い詰めていくのだったが……。
 (※以下、ネタバレがありますので、未見の方は読まないように)
 かなり評判の良い作品で気になっていたが、人間関係で感じ悪い演出もあるらしいとは予見されていて(しかし、それがこの監督作の良さでもある)、ちょっと敬遠して観ていなかった。家族で観る可能性があるので(実際毎回そうだが)、あんまり不愉快になられても問題がある。でもまあ、相変わらず評価が高いようなので、一応、ということで確認したわけである。しかし、結論を先に言っておくと、あんまりいい出来栄えの映画では無かった。
 確かに万引きで命まで失うので、そこまでは気の毒すぎるとは思う。演出的にも、万引きにもかかわらずこれほど激しく逃げ出すということの、何か理由がありそうにも見える(それは最後まで分からないのだが、おそらくは何の理解もない父親のせいであることは間違いなかろう)。しかし万引きをとがめる店長に、実際には何の落ち度もない。客商売として体面上謝っているに過ぎない。この店長は親が死に仕方なく継いだような若い人間で、実は責任感もそれほどなく、かといって不条理には苦しんでいる。味方をしてくれるある従業員の、善意や好意にも煩わしさを感じている。そうして外圧と暴力に耐えかね、追い詰められて精神的に行き詰っていく。最終的にはおそらく暴力父とマスコミによる外圧により客足は激減し、店は経営に行き詰まり閉じざるを得なくなる。従業員も行き場を失い重大な被害の連鎖が起こっているようである。最初にはねた車の女性は、謝罪も受け入れられず、自責の念に堪えかね、自殺してしまう。
 離婚した母親は、実は単に暴れん坊の元夫が碌に娘のことも知らずに、そのことの後悔も含め周りに当たり散らしていることも分かっている。父は意固地になりすぎていて、娘の死とちゃんと向きえず、もちろんその悲しみも含めてモンスターになり、人々に圧力をかけて破壊しつくしたのである。しかし最終的には、破壊した人間を含め、自分の落ち度に気づき、再生を果たそうとする。一度は離れた船の従業員も、なぜか優しく戻ってきて、多くの人は自分を責めることなく、最後まで気遣ってくれる。
 要するにこんな話で、本当にいいのだろうか。
 不条理な話に納得がいかないから映画がダメだということだけではない。そういうことに希望を見出して、本当にいいのか。ということもある。店をつぶした店長にも、ちょっとしたエピソードでほんの少しくらいは心が救われるようなことは起こるが、それでこれだけの被害の救済が済む問題ではない。自殺した人間は心が弱かったから仕方なかったのでもない(そういう意味だけではないが)。一方で、決定的に万引き娘の命のとどめを刺したダンプカーの運転手は、なんの良心の呵責さえありはしない。また、特にこの父親において、それでいいというのなら、プーチンがウクライナ侵攻をやめたら、いい人だと許すようなものと同じことである。
 もちろんこれは、不条理で嫌な気分にさせて、そのような諸問題を考えさせる映画ではある。そういう意味では、成功はしているのかもしれない。しかしながら、それで評価が高いのであれば、もう少し踏み込んで内容を考えるべきではないのか。横柄な人間が得をするような内容に、冗談ならともかく、僕には残念に思えて仕方が無かった。
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これぞ過激過剰な娯楽の王道   哀しき獣

2022-04-02 | 映画

哀しき獣/ナ・ホンジン監督

 中国の朝鮮族の住むあるまちで、ギャンブル好きのタクシー運転手の男は借金を抱え、その借金返済のために、また大きな賭けをして負けてしまう。小金ができても、すぐに賭けてすってしまう。そうして積み上がった大量の借金で、どうにもならなくなってしまう。そこでやくざの大将のような男から、韓国にいるある男を殺して親指を切り取って持ってきたら、借金を返しても余るような大金をやる、と言われる。そういう訳で漁船で密入国して、なんとか目的の男は探り出すことができた。同時に別れて逃げた妻が韓国にわたっているらしいということも知っていたので、気になって探しにいく。しかし、妻は何者かに殴られ、そのまま連れ去られた様子で部屋には居なかった。探そうにもどこに行ったか分かりようがない。帰りの船の予定もあり、殺すべき男のところで張り込んでいると……。
 状況がヤバすぎて、命がいくつあっても足りないような緊張感の連続のアクション劇である。とにかく男は逃走するしかないが、最初は警察に追われ、この殺しに絡んだヤクザにも追われる。さらに物語は複雑に絡んで、殺しを依頼した地元ヤクザにも追われていく。まるでターミネーターに追われているような感じなのだが、逃げながらも戦い怪我を負う。そういうところはランボーみたいな感じでもある。しかしながらこれは韓国映画である。暴力は過激で、たくさんの血が流れ、残忍で無茶苦茶である。人間の憎悪と数奇な運命の混ざったドロドロの世界で、しかし肝心なところはいい加減な人がいて、どんどん誤った方向だけが示されていく。そうしてそれぞれに行き場のないサバイバル・レースに突入していくのである。
 面白いと言えばそうなのだが、ひどく殴ったり嬲ったり刺したりなど激しい暴力が連鎖するので、いささか疲れる。主人公の男はすぐれた身体能力の持ち主であるのと同時に、決してあきらめずに逃げ回る。そんなに頭は良くないのだが、ちょっとしたきっかけで、その隙間を生き延びていく。さらにほかのキャラもたっていて、特に地元ヤクザの男が、後半の主人公に変貌するような活躍をする。いったいこの話はどうなってんだ、という感じである。最後には皮肉な謎解きも暗示されていて、まったく切ない。こうなれば明るい未来はあり得ないというのは分かるのだけれど、さらに追い打ちをかけるような仕打ちである。容赦のかけらもないのである。
 実際にはちょっと考えられないくらいあり得ない展開だけど、仕掛けは実に巧みに上手い。こういう娯楽作というのは、本当に韓国映画は優れている。まあ、観る人は選ぶのだろうけれど……。
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ジュースを分け合って飲めるか?

2022-04-01 | 境界線

 暑くなってマラソンシーズンは終わってしまった。大きなレースは行われないにせよ、選手たちは夏に走らないわけではない。長めのトラック競技はあるだろうし、クロスカントリーのような大会もあるかもしれない。しかしまあ、夏にフルマラソンなんてことは、オリンピックならともかく、そんなにあるわけではない。無いわけではないが、一応のシーズン終了である。
 マラソンでは、途中給水がある。どうしてものどが渇いて仕方ない、というより、補給することにより、体力や、その他の機能にも影響のあることなのかもしれない。走りながら取るのでなかなかに難しそうで、必ずと言っていいほど、失敗するランナーがいる。その後何度か別の水やスポンジなども取る機会があるのだが、なんだかそれすら諦めているような人もいる。そういうのは精神的に何かダメージがあるんじゃないかと心配になってしまう。
 最近の国際競技では増えているように感じるが、給水を失敗した選手に、自分が飲んだ後のドリンクを手渡しているランナーを見かけるようになった。そうして複数の人間で回し飲みしたりする場合もある。競っているとはいえ、こういうのはお互い様じゃないか。ということか。以前は同じチームだとか、いわゆる仲間限定だったかもしれないが、今では日本人と招待選手が混ざって給水のやり取りをしていることもあるようだ。マラソンランナーは、そんなにごくごくやっているわけでなく、ちらっと飲んでるな、という程度のようだけど、きっと力の湧くものなのであろう。
 ところでこの水のようなものの回し飲みなのだが、ときどき廻って来る時がある。もうやらなくなってしまったが、遊びでサッカーやってた時とか、登山なんかでもあるかもしれない。おい、っという感じでペットボトルが回って来る。そういう時は、ほとんど何も考えずごくごくやって、次に回す。いらん、というのもいるが、それも気にしない。
 じゃあこれを、ストローで飲んでいるジュースなどならどうだろうか? 比較的付き合いの浅いカップルなら、喜んで同じストローでしそうだが、どうだろう。そういうことを調べた実験というのがあるらしく、きょうだいどうしなら抵抗が少なく、友達ならぐっとこれをやれる人が減るのだそうだ。ではソフトクリームならどうだろうか? 直に舐めるものなら、家族以外は無理そうな感じもするが、いける人はどういう人だろう。でもなんだかもう考えたくなくなってしまった。
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