中さん

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日記(12・29)

2024-12-29 18:44:36 | 日常
2024   12月29日   (日曜日)   晴    ②

午前中にお蕎麦を打ち始めた。

一回目を打ったところで、少々腰に疲れが出てきたので
今日はこれで終わる。明日からまた打とう。
風は冷たい日。
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毎日新聞の 余録には

日本の学校給食は…

◉学校給食発祥の地は山形県鶴岡市。
 日本の学校給食は、山形県鶴岡市が発祥の地とされる。
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◉1889(明治22)年、寺に作られた小学校に
 弁当を持参できない貧しい家庭の子どもたちのため、
 住職が寄付を募り食事を提供した。
 僧侶たちが托鉢(たくはつ)で資金集めに協力したこともあったという
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▲発足時から「無償」と深い関係があった学校給食を巡る動きだ。
 立憲民主党など野党3党は全国の公立小中学校の給食を
 来春から国費負担で無償化する法案を国会に提出した。
 実現には5000億円近い財源が必要とみられている。
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▲子育て支援の拡充や子どもの貧困対策が課題となる中、
 給食無償化は自治体が主導して広がってきた。
 国によると、
 昨年9月時点で全体の約3割にあたる547自治体がすでに小中校で完全無償化を実施している。
 子どもの多い世帯を対象にするなど条件つきの実施を含めれば、さらに増える

▲政府も是非を検討しているが、アレルギーなどで給食を利用できない子どもとの不公平や、
 費用を抑えようと質が低下することを懸念する見方もある。
 少数与党政権に野党はさまざまな施策を要求しているだけに、優先順位が問われよう
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▲学校給食を巡っては戦後の食糧難時代、
 日本を支援する国際NGOからの「ララ物資」が再開を後押ししたといういきさつがある。
◉海外に移住した日系人らが支援の中心だった。
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「ララ物資」メモ
ララ物資の内容は何ですか?
積荷の内容はミルク、米の粉、バター、ジャム、缶詰、などの食料や衣類だった
(食料7割、衣類2割、他医薬品等の割合である)。 これによって戦後の学校給食が開始されたのである。 この莫大なる援助の陰には一人の在米日本人が大きく関わっている。


★第 2 次世界大戦後、戦災国である日本に
 アメリ カの民間団体 Licensed Agencies for Relief in Asia(通称 LARA、以下「LARA」という。) が 1946 年 11 月から 1952 年 6 月まで送った救援物資のことである。
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共助に支えられた経験も持つ給食への公助をどう考えるか。
  憲法は「義務教育は、これを無償とする」と定めている。
 その意味を改めて考える時であろう。
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日記(12.29)

2024-12-29 09:56:57 | 日常
2024  12月29日  (日曜日)  晴

昨日のラグビーの余韻が残った。ワイルドナイツは2連勝
厳しい戦いが、続くと思っていたが勝ち進んでいる。東芝戦が楽しみだ!
●他の試合もショートで見ている
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◉サントリーとトヨタが破れたのにはびっくりだ。
 両チームとも2連敗となった。
 今年のリーグワンは勢力図に変化がありそうだ。
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群馬 上毛新聞のコラムに
利根川を挟んであきらかに群馬側にある地に埼玉の部分がある。

 ▼今から70年前の冬、合併の在り方を巡って小さな村が揺れた住民投票があった。村全体で群馬県に残るか、分割して一部は埼玉県に入るか。村を二分した議論は紛糾し、苦心の末に実施した投票の行方が注目された

 ▼小さな村とは利根川を挟んで南北に分かれる佐波郡島村である。
  投票の結果、当時の境町に合併することが決まった。
  村全体では6割超が群馬県への残留を望んだが、
  埼玉県側の南部地区に限れば421票対353票で、わずか68票差という結果だった


 ▼群馬側のこちらに残ったとはいえ
  「坂東一の川」で分断された南部の立地は明らかに埼玉県である。

 蚕種業で財をなし、豊かな文化を誇った島村のその後の歩みは、
  地理的な不自由さもあって必ずしも平たんではなかった。

 ▼しかし住民投票から60年後、にわかに脚光を浴びることになる。
  「田島弥平旧宅」が世界文化遺産となったためだ。
  決定の報を受け、地元では祝賀セレモニーが開かれ、住民ら300人が万歳三唱した

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 ▼あの熱狂からさらに10年がたった。
  一躍「養蚕の聖地」と称賛された島村も、
  来訪者の減少にあらがえずにいる。
  高齢化が進む中、弥平旧宅に引けを取らない
  養蚕農家群をいかに後世に伝えていくかも重い課題だ


 ▼島村の土手から望む赤城山は、
  本県側と変わらぬ姿でそこにある。眼前に横たわる利根の流れを眺めながら、
  この地に生きる群馬県民の70年を思った。
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★高校時代にはこの地区の浅瀬での魚釣りに出かけたが
 向こう側に埼玉県部分があって、選挙でそのままになったとか聞いていた。
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