2024 12月16日 (月曜日) ②
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新潟日報 新聞のコラム記事を2件載せる。
12月14日の日報抄
昔の社会鍋
キリスト教団体「救世軍」の社会鍋が、
今年も新潟市中央区の古町十字路で始まった。
百年以上の伝統を受け継ぎ、
街頭募金の先駆けともいわれる年の瀬の風物詩だ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼〈老いたるラツパ天対(む)き吹けり社会鍋〉山田みづえ。
社会鍋は冬の季語でもある。三脚につるされた鍋に、
買い物客がポケットから小銭をつまんで入れていく。
ただ、今年の古町での活動は少し様子が違った。
~~~~~~~~~~~~~~~
▼小さなラッパのコルネットが一つ、路面に置かれ、名物の軍帽がかぶせてあった。
なぜだろう。
牧師で元新潟小隊長の中川邦男さんが11月に急逝したのだという。
大阪や静岡で約30年、さらにこの30年は古町でラッパを吹いてきた
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼「今年も頑張ろうって言っていたばかりなのに」。
中川さんと同じ82歳の豊島正さんは、ずっと一緒に演奏し、善意を募ってきた。
奏でるメロディーは「きよしこの夜」。
少し音色がかすれ、さみしそうだった。
でも、そこにはまたベテランの趣があり、
新潟の寒風に絡んで優しく響いていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼能登の地震で始まった今年、世界では戦乱が続いた。
わが国は物価高騰で庶民の生活は一向に楽にならない。
昨年の生活保護申請件数は過去10年で最多だった。倒産も中小零細企業で急増している
▼「社会鍋は不景気な時ほどよく入る」。
中川さんはかつて本紙の取材にこう話していた。
雪国の人情は深く厚い。
その思いやりが若者に引き継がれていくか、気にかけていた。
古町では28日まで、元小隊長の遺志を継ぐメンバーらの賛美歌が続く。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
新潟日報 日報抄 コラム 記事
今年「生誕100年」とされる力道山が暴漢に刺された末に死去したのは
1963年12月15日だった。
戦後復興期に空手チョップで日本人に勇気を与えたプロレスラーだ。
亡くなる2年前の61年、極秘で新潟港を訪れ、
停泊中の船で北朝鮮で暮らす次兄らと再会したことがあったという
🔵未だ幼児だったころ熊谷駅前にあった街頭テレビを父親が肩車をして
プロレスを見に行った記憶がある。兎に角凄い人気の力道山・・・
あんな遠くから小さいTV 画面がよく見えたもんだった!
見えなくても雰囲気が見えさせたのかも!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼妻の田中敬子さんがかつて本紙に語った。
力道山は当時、大きな悩みを抱えていた。
今では朝鮮半島出身とよく知られているが、
当時は「日本のヒーロー」で出自の話はタブーだったからだ。
長らく「長崎出身」とされた
▼戦前に日本へ渡り、力士になった。
50年に廃業し、米国でのプロレス修行を経て、帰国後に成功を収めた。
保守政界との関係が深く、韓国側と結び付きが強かった
▼一方で北朝鮮側との交わりもあり、多大な支援をしていた。
新潟港での再会は特別な計らいだった。
面会を終えた次兄らは船で帰国したという。
それは、北朝鮮への帰還事業に使われた船だった
~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼帰還事業は59年12月に始まった。
84年までに在日朝鮮人や日本人妻ら約9万3千人が新潟港から北朝鮮に向かった。
当時は「地上の楽園」と呼ばれたが、
現地に渡った人々は日本以上に厳しい差別と貧困にさらされた。
収容所に送られた人もいる。
🔵ほぼ全員が再び日本の地を踏むことはなかった
▼16日まで北朝鮮人権侵害問題啓発週間である。
かの国との間には拉致問題の影も横たわる。
半島と日本のはざまで揺れ動いた力道山は、
あの世からどんな思いで眺めているだろう。
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新潟日報 新聞のコラム記事を2件載せる。
12月14日の日報抄
昔の社会鍋
キリスト教団体「救世軍」の社会鍋が、
今年も新潟市中央区の古町十字路で始まった。
百年以上の伝統を受け継ぎ、
街頭募金の先駆けともいわれる年の瀬の風物詩だ
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▼〈老いたるラツパ天対(む)き吹けり社会鍋〉山田みづえ。
社会鍋は冬の季語でもある。三脚につるされた鍋に、
買い物客がポケットから小銭をつまんで入れていく。
ただ、今年の古町での活動は少し様子が違った。
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▼小さなラッパのコルネットが一つ、路面に置かれ、名物の軍帽がかぶせてあった。
なぜだろう。
牧師で元新潟小隊長の中川邦男さんが11月に急逝したのだという。
大阪や静岡で約30年、さらにこの30年は古町でラッパを吹いてきた
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▼「今年も頑張ろうって言っていたばかりなのに」。
中川さんと同じ82歳の豊島正さんは、ずっと一緒に演奏し、善意を募ってきた。
奏でるメロディーは「きよしこの夜」。
少し音色がかすれ、さみしそうだった。
でも、そこにはまたベテランの趣があり、
新潟の寒風に絡んで優しく響いていた。
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▼能登の地震で始まった今年、世界では戦乱が続いた。
わが国は物価高騰で庶民の生活は一向に楽にならない。
昨年の生活保護申請件数は過去10年で最多だった。倒産も中小零細企業で急増している
▼「社会鍋は不景気な時ほどよく入る」。
中川さんはかつて本紙の取材にこう話していた。
雪国の人情は深く厚い。
その思いやりが若者に引き継がれていくか、気にかけていた。
古町では28日まで、元小隊長の遺志を継ぐメンバーらの賛美歌が続く。
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新潟日報 日報抄 コラム 記事
今年「生誕100年」とされる力道山が暴漢に刺された末に死去したのは
1963年12月15日だった。
戦後復興期に空手チョップで日本人に勇気を与えたプロレスラーだ。
亡くなる2年前の61年、極秘で新潟港を訪れ、
停泊中の船で北朝鮮で暮らす次兄らと再会したことがあったという
🔵未だ幼児だったころ熊谷駅前にあった街頭テレビを父親が肩車をして
プロレスを見に行った記憶がある。兎に角凄い人気の力道山・・・
あんな遠くから小さいTV 画面がよく見えたもんだった!
見えなくても雰囲気が見えさせたのかも!
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▼妻の田中敬子さんがかつて本紙に語った。
力道山は当時、大きな悩みを抱えていた。
今では朝鮮半島出身とよく知られているが、
当時は「日本のヒーロー」で出自の話はタブーだったからだ。
長らく「長崎出身」とされた
▼戦前に日本へ渡り、力士になった。
50年に廃業し、米国でのプロレス修行を経て、帰国後に成功を収めた。
保守政界との関係が深く、韓国側と結び付きが強かった
▼一方で北朝鮮側との交わりもあり、多大な支援をしていた。
新潟港での再会は特別な計らいだった。
面会を終えた次兄らは船で帰国したという。
それは、北朝鮮への帰還事業に使われた船だった
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▼帰還事業は59年12月に始まった。
84年までに在日朝鮮人や日本人妻ら約9万3千人が新潟港から北朝鮮に向かった。
当時は「地上の楽園」と呼ばれたが、
現地に渡った人々は日本以上に厳しい差別と貧困にさらされた。
収容所に送られた人もいる。
🔵ほぼ全員が再び日本の地を踏むことはなかった
▼16日まで北朝鮮人権侵害問題啓発週間である。
かの国との間には拉致問題の影も横たわる。
半島と日本のはざまで揺れ動いた力道山は、
あの世からどんな思いで眺めているだろう。
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