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もともと記憶力に自信はないんだが、年とともに更に悪化している自分が怖いので、
BLOGに書いておけば少しは何か残るか、 と、気持ちを新たにしているつもりな。 |
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「写真の読みかた」って知ってる?
戦前に当時のグラフ雑誌として異常な完成度を誇った「FRONT」という雑誌がありました。
同時期に「NIPPON」という雑誌も出ていて、こちらもまた素晴らしいものなのですが、
(創刊号の表紙が同潤会江戸川アパートだったりするし)
「FRONT」が軍の参謀本部が絡んだ対外宣伝誌な割には
当の参謀本部側のセクションも冷や飯食いの対ロシア戦略重視派だったりして、
戦争中の「あの」時代からなんとなく妙にはみ出た(特高には目を付けられていたらしい)
東方社という会社の奇妙なあり方になんとなく惹かれたりもしてきた訳なのです。
(東方社があったのは土浦亀城の野々宮アパートだったというし!!)
一方の「NIPPON」なんですが、名取洋之助という「欧州帰りのフォトジャーナリスト」などという
イマイチ出所不明(しかも凄いお金持ち)に見えるヒトが仕切っていた為なのか、
血が騒いじゃう「FRONT」に比べちゃうと、正直萌え度はやや(あくまでやや)低かったのですけれども。
いや、決してミリタリーネタが主力だから「FRONT」に萌えている訳では・・・。
さて、先日岩波新書の「名著復刻」シリーズでその名取洋之助の「写真の見方」という本が復刻され、
たまたま書店で目立つところに置いてあったので購入してみたのですが、これが面白かった!
実はこの本、名取の死後に親交のあった木村伊兵衛などが編集委員となって纏めたもの。
戦前、戦後の早い時期に積極的に海外での活動を展開した名取はしかし、
51歳の若さで亡くなってしまった上、当人が文章を書く事が余り好きではなかった為もあってか、
早い時期から先見性を持った写真論を展開し、実践してきた割には著作を殆ど残さなかった。
そこで、名取の死に際して、それを惜しんだ木村らが、推敲中であった新書の為の原稿を中心に
雑誌などに発表された文章などと纏めて上梓したのが本書なのだそうです。
岩波新書から出たのも、名取が岩波と親交があり、また、
当時岩波から名取の監修による「岩波写真文庫」という写真シリーズがでていたのですが、
このシリーズ自体が彼の作品と言える程、心血を注いだものであったことからなのでしょう。
さて、第一章が名取が新書用に推敲していた「写真の読みかた」という本書の核になる文章です。
初心者入門のようなタイトルが付けられ、確かにとてもわかりやすい文章で書かれているので、
なるほどるほど、とスイスイ読み進められますが、しかしそこで展開される写真論は
(たぶん)メディア論や記号論的な視点を持った極めて先鋭的なもので、
1950年代にこの様な議論を展開していることに驚かされると同時に、
名取の立ち位置がわかりやすい「写真家」「ジャーナリスト」「批評家」といったものではなく、
読者に届くまでの全工程、メディアとしての写真に意識的な「フォト・ジャーナリスト」であったことが
その全体像を見えにくくしているだけだったのだ、という事に気づかされたのです。
(フォト・ジャーナリストとしての第一歩が、自分の撮った写真ではく、
奥さんが取った写真の売り込みに成功した事だとうのは面白いですね。
その後の名取の視点・立ち位置が本当にクッキリと出ているエピソードだと思いました。)
その他、個性的なギリシャ芸術の退廃の必然と個性的であることを求めなかったエジプト芸術の持続性、
そしてロマネスクへの共感といった芸術に対する洞察にも感じるところ大!で、
「今まで敬して遠ざけていて本当に私が馬鹿でした」
との反省しきりなプラナリアなのでした。
それにしてもなくなったのが早すぎます。もうすこし長く活躍されていれば・・・。
あ、そうそう「NIPPON」を出していた「日本工房」は
銀座にあった、同じく土浦亀城設計の徳田ビルに入っていたのだそう。
う~ん、デザインのモダニズムだ。
同時期に「NIPPON」という雑誌も出ていて、こちらもまた素晴らしいものなのですが、
(創刊号の表紙が同潤会江戸川アパートだったりするし)
「FRONT」が軍の参謀本部が絡んだ対外宣伝誌な割には
当の参謀本部側のセクションも冷や飯食いの対ロシア戦略重視派だったりして、
戦争中の「あの」時代からなんとなく妙にはみ出た(特高には目を付けられていたらしい)
東方社という会社の奇妙なあり方になんとなく惹かれたりもしてきた訳なのです。
(東方社があったのは土浦亀城の野々宮アパートだったというし!!)
一方の「NIPPON」なんですが、名取洋之助という「欧州帰りのフォトジャーナリスト」などという
イマイチ出所不明(しかも凄いお金持ち)に見えるヒトが仕切っていた為なのか、
血が騒いじゃう「FRONT」に比べちゃうと、正直萌え度はやや(あくまでやや)低かったのですけれども。
いや、決してミリタリーネタが主力だから「FRONT」に萌えている訳では・・・。
さて、先日岩波新書の「名著復刻」シリーズでその名取洋之助の「写真の見方」という本が復刻され、
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実はこの本、名取の死後に親交のあった木村伊兵衛などが編集委員となって纏めたもの。
戦前、戦後の早い時期に積極的に海外での活動を展開した名取はしかし、
51歳の若さで亡くなってしまった上、当人が文章を書く事が余り好きではなかった為もあってか、
早い時期から先見性を持った写真論を展開し、実践してきた割には著作を殆ど残さなかった。
そこで、名取の死に際して、それを惜しんだ木村らが、推敲中であった新書の為の原稿を中心に
雑誌などに発表された文章などと纏めて上梓したのが本書なのだそうです。
岩波新書から出たのも、名取が岩波と親交があり、また、
当時岩波から名取の監修による「岩波写真文庫」という写真シリーズがでていたのですが、
このシリーズ自体が彼の作品と言える程、心血を注いだものであったことからなのでしょう。
さて、第一章が名取が新書用に推敲していた「写真の読みかた」という本書の核になる文章です。
初心者入門のようなタイトルが付けられ、確かにとてもわかりやすい文章で書かれているので、
なるほどるほど、とスイスイ読み進められますが、しかしそこで展開される写真論は
(たぶん)メディア論や記号論的な視点を持った極めて先鋭的なもので、
1950年代にこの様な議論を展開していることに驚かされると同時に、
名取の立ち位置がわかりやすい「写真家」「ジャーナリスト」「批評家」といったものではなく、
読者に届くまでの全工程、メディアとしての写真に意識的な「フォト・ジャーナリスト」であったことが
その全体像を見えにくくしているだけだったのだ、という事に気づかされたのです。
(フォト・ジャーナリストとしての第一歩が、自分の撮った写真ではく、
奥さんが取った写真の売り込みに成功した事だとうのは面白いですね。
その後の名取の視点・立ち位置が本当にクッキリと出ているエピソードだと思いました。)
その他、個性的なギリシャ芸術の退廃の必然と個性的であることを求めなかったエジプト芸術の持続性、
そしてロマネスクへの共感といった芸術に対する洞察にも感じるところ大!で、
「今まで敬して遠ざけていて本当に私が馬鹿でした」
との反省しきりなプラナリアなのでした。
それにしてもなくなったのが早すぎます。もうすこし長く活躍されていれば・・・。
あ、そうそう「NIPPON」を出していた「日本工房」は
銀座にあった、同じく土浦亀城設計の徳田ビルに入っていたのだそう。
う~ん、デザインのモダニズムだ。
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