『日光東照宮』あまりにも有名ですから、説明不要ですねぇ~
修学旅行でも、相方とも来ましたが、えぇぇぇ~こんなになってたっけぇぇ~と
ほぼ記憶にないのは、なぜでしょうか
参道からして記憶にない、それに『世界遺産』になっていたのも、記憶にない
それにしても、建造物と杉林に歴史と重みと権力を感じます
神となった“家康”
こんなものがありました
東照宮の建物全体を守るように林立する杉の多さ、でかさ、高さには、年月を感じます
『五重塔』高さは約36メートル。
美しい~
若狭(福井県)小浜藩主、酒井忠勝の寄進で慶安3(1650)年によって建立されたとは
ただ、文化12(1815)年に焼失し、3年後の文政元(1818)年に忠勝の子孫、忠進に
よって再建される
家光が東照宮を建てた時に建てた物かと思っていたので、へぇぇぇ~って感じでした
時代小説を読んでいると、家光・家綱時代に、何かと出てくるお名前の方なんですね
家光とは家光の幼少のころからの小姓の一人となり、後に老中・大老となった人
私にとって小説の中の人だったのが、わずかに温度を感じた瞬間でした
『御柱』中は当然入れないし、撮影は禁止なので、ポスターを まぶしい
内部は吹き抜けになっていて、中心を貫く直径60センチの心柱が4層(4階)から鎖で
つり下げられ、その最下部は礎石の穴の中で10センチほど浮いている。
建物が揺れても重心は常に中心にあって倒壊を防ぐ耐震・耐風対策といわれる。
また、年を重ねると木材が縮んだり、建物自体の重みで屋根が沈み、建物に隙間が生じる。
そこで心柱を浮かせれば、屋根の下降とともに心柱も下がり、隙間が生じないというわけだ
と書かれていました
昔の人はすごいなぁ~
『三猿』がこんなところに彫刻されていたのも、記憶違いでびっくりした
神様に仕える神馬の神厩舎に彫刻されている
なぜ猿かと言うと「昔から猿は馬を病気から守るとされ、室町時代までは猿を馬屋で飼う習慣
があった」からだそうだ、知らなんだぁ~
神馬は雄の白馬が条件で、今も2頭が飼育されているらしい
神厩舎は東照宮で漆を塗っていない唯一の素木造りで8ページの彫刻絵本になっている。
『唐門』
修復中でした
東照宮で最も重要な本社の正門。
江戸時代には「御目見得」(将軍に拝謁できる身分)以上の幕臣や大名だけが使えた。
今でも唐門は、正月や大祭などの祭典のときと、国賓に相当する参拝者だけしか使えない。
全体が胡粉で白く塗られ、門柱に紫檀や黒檀などで寄せ木細工された昇竜・降竜がいる。
これも美しいです
ここだけに限らず、全てがとにかく彫刻や細工がされていないところがない建物ですね
この建造により、徳川の財政の破綻の始まりだったと何かで読んだような気がする
絶大な権力なくして、成しえないことはたしか
『家光廟大猷院』東照宮のそばにありました
『夜叉門』
家光廟の「廟」とは、祖先の霊をまつったお堂。そして、「大猷院」とは、徳川3代将軍家光公が
死後、後光明天皇からたまわった法号。つまり、ここは徳川家光公の墓所
家光公は、祖父である家康公を心から深く尊敬し、慶安4(1651)年4月20日、江戸城で
亡くなる間際、「死んだ後も東照大権現(家康公のこと)にお仕えする」という遺言を残した
その遺志を受けた4代将軍家綱公の命によって、家光公の死の翌年に起工
わずか1年2か月後の承応2(1652)年4月4日に家光廟大猷院が完成
大河ドラマでも、家光は父秀忠を軽んじて、祖父家康を尊敬し家康のようになりたいと願った
らしいし、干支も「寅年」で家康と同じだったらしい
ちなみに、小耳に挟んだが、東照宮に彫られている動物で一番多いのが「虎」 らしい
『夜叉門』には4体の「夜叉」が祭られている
夜叉4体の色は「東西南北」を表しているとの事、しかし、細工の美しさに目を見張ります
青夜叉の膝には「象」がついていて、お坊さんのお話では、ここから「膝こぞう」と言うように
なったとか・・・
それにしても、世界的に見て人間って、どうして墓にそれほどこだわるのか、死んでまで
権力を誇示したいものなのか、私にはよくわからないです
死=終が私の思いなので・・・
小学5年生の時の林間学校は日光
その後、勤め先の社内旅行で
結婚して、家族でも何度か行きました。
この東照宮の彫刻は本当に見事で
あらゆるところに色鮮やかな彫刻があり
見ごたえはありますね。
自分のホームページを作ってからまだ行ってないので、行かなくてはと思ってます(^_^)v
神社巡り、残すところあと10か所
有言実行 素晴らしいです\(~o~)/
いたので、いささか焦っています
デモ、私一人ではなかなか叶わないことなので
相方の尻を叩いています