急行特急TH「改めまして、急行特急THです。今夜もやるんですか?ひとり猿芝居を?と言う話でございます。ええ、やるんでございますのよ、やるんでございますのよ、といつもの“Morning on”のノリですけど、話を書いて行く中でテンション上げてかないとならない訳でありまして、なかなか難しい所ですが、‘‘フリートーク,,という事で進行中、急行特急TH発日曜深夜夜話であります。改めて偽妄想番組化致しますと、何か語るのが緊張してしまいまして、硬直すると言いましょうか?うまく言えない所であります。えーっと何を話しますか?まぁ少し重たい話になりますが、今までの展開見る限り、日曜深夜夜話程、私の醜い心の深淵が見えない事はございませんので、そのやり方で参りますが、アレコレには到底及ばない事もありますが、色々と許されてこうしてやってこれている訳であります。それは、自分にしても相手にしてもそうなのですが、‘‘あいつはまぁこんなだし仕方ないか,,と笑って相手を許せているうちが華なんだな、と最近、考える様になりまし
た。これまで、人間関係で本当に自らの手で壊したり、誰かや何かの手によって壊されたりの人生ですが、昨年2009年と今年2010年もちょっとあったりしたんですが、人間関係の破綻が、時期を同じくするかの様にありましたけれど、一重に自分で起こした騒動であって、自分で自分の首締めた上に、他人にも迷惑をかける騒動に発展し今に至ります。これらの中に、やはりまぁ‘‘相手の嫌な部分を許せなくなった,,というのがありました。相手も色々と私の嫌な所を無理矢理許していた面は多々あったので、相殺という事にそれはなるんだろうと思います。しかしながら、‘‘自分の事を棚に上げて,,という言葉が先ず先行するので、大きくは出られずで、先行き見えなくなり、そうであれば、お互いがお互いに迷惑を被って、それを無理矢理に押し隠したとしても、水道の蛇口をひねって、水をコップに入れるのとそれは変わらず、いつかはそのコップの水は溢れ出して、受け入れられなくなってしまう、という事にそれはなると思います。幾ら釈明しても‘‘全てはお前の所為
だろう,,で、終わるというのが目に見えている上に、話しても理解されない、多分、世の中の常識的に私の論理というかスタンスや方針は理解されない事ですし、その事で喧嘩になってやいのやいのやって‘‘俺に謝れお前,,と一方的になるのもまた見えていて、お互いに嫌な想いをするのなら、いっそ全てを断ち切って音信を途絶するのが1番だろうという考えの基に、これまでいきなり音信途絶というのは何回もやって来ています。しかしそれをやっても相手はそこまで困るという事も無い様で困るのは他ならない私自身である、ということも解ってはいますが、何か完全には理解していない所もあって曖昧な感じになっています。しかし人間関係、簡単に言えば‘‘人と人との言葉と行動のやりとり,,は、‘‘双方の合意が続く限りにおいて有効,,であって、片方途切れれば、行く行くは自然に音信が途絶するのは言うまでもないですね。故に、相手にいつまで許されるのか、も不安ですし、私も相手をいつまで許せるか、という不安があります。人付き合いは見ていると、‘‘私は
あいつの事は嫌いだ。だがつきあっている,,というのが公私を問わずして続いている現実もあって、もの凄く怖い物があるなぁ、と気付いたというか気付かされたかつ解ったのは10代初期の頃。そして昨今ここ1~2年でもあって、人間不信になってしまう感じで実はありますけれど、本当に歳を経るにつれて人間関係って実はドロついたものなんだなと思うばかりです。なんでそんな環境にばかりあたるのか、己の運の無さもあるのかも知れませんが、どうなっているのこの世間は?と言う感じです。嫌いで付き合う人間関係なんて本来有り得ない物が成り立っているというのは有り難くある反面、爆弾抱えたようなもんでいつ何時相手からつきはなされるかも解らないという恐さがあります。人間関係って昔からこうなんでしょうか?」
た。これまで、人間関係で本当に自らの手で壊したり、誰かや何かの手によって壊されたりの人生ですが、昨年2009年と今年2010年もちょっとあったりしたんですが、人間関係の破綻が、時期を同じくするかの様にありましたけれど、一重に自分で起こした騒動であって、自分で自分の首締めた上に、他人にも迷惑をかける騒動に発展し今に至ります。これらの中に、やはりまぁ‘‘相手の嫌な部分を許せなくなった,,というのがありました。相手も色々と私の嫌な所を無理矢理許していた面は多々あったので、相殺という事にそれはなるんだろうと思います。しかしながら、‘‘自分の事を棚に上げて,,という言葉が先ず先行するので、大きくは出られずで、先行き見えなくなり、そうであれば、お互いがお互いに迷惑を被って、それを無理矢理に押し隠したとしても、水道の蛇口をひねって、水をコップに入れるのとそれは変わらず、いつかはそのコップの水は溢れ出して、受け入れられなくなってしまう、という事にそれはなると思います。幾ら釈明しても‘‘全てはお前の所為
だろう,,で、終わるというのが目に見えている上に、話しても理解されない、多分、世の中の常識的に私の論理というかスタンスや方針は理解されない事ですし、その事で喧嘩になってやいのやいのやって‘‘俺に謝れお前,,と一方的になるのもまた見えていて、お互いに嫌な想いをするのなら、いっそ全てを断ち切って音信を途絶するのが1番だろうという考えの基に、これまでいきなり音信途絶というのは何回もやって来ています。しかしそれをやっても相手はそこまで困るという事も無い様で困るのは他ならない私自身である、ということも解ってはいますが、何か完全には理解していない所もあって曖昧な感じになっています。しかし人間関係、簡単に言えば‘‘人と人との言葉と行動のやりとり,,は、‘‘双方の合意が続く限りにおいて有効,,であって、片方途切れれば、行く行くは自然に音信が途絶するのは言うまでもないですね。故に、相手にいつまで許されるのか、も不安ですし、私も相手をいつまで許せるか、という不安があります。人付き合いは見ていると、‘‘私は
あいつの事は嫌いだ。だがつきあっている,,というのが公私を問わずして続いている現実もあって、もの凄く怖い物があるなぁ、と気付いたというか気付かされたかつ解ったのは10代初期の頃。そして昨今ここ1~2年でもあって、人間不信になってしまう感じで実はありますけれど、本当に歳を経るにつれて人間関係って実はドロついたものなんだなと思うばかりです。なんでそんな環境にばかりあたるのか、己の運の無さもあるのかも知れませんが、どうなっているのこの世間は?と言う感じです。嫌いで付き合う人間関係なんて本来有り得ない物が成り立っているというのは有り難くある反面、爆弾抱えたようなもんでいつ何時相手からつきはなされるかも解らないという恐さがあります。人間関係って昔からこうなんでしょうか?」