舞蛙堂本舗リターンズ!~スタジオMダンスアカデミーblog

ダンス(フラ・ベリーダンス他)と読書と旅行とカエル三昧の日々を綴る徒然日記。

『ハリー・ポッターと死の秘宝』

2008-07-25 04:07:43 | ぼくはこんな本を読んできた
昨日の下野新聞アスポの記事とか今日行ったライブのこととかブログに書きたいことが溜まる一方なのに、それらをほっぽり出して読書にうつつを抜かしておりました。申し訳ないッ!!

そうなんです、ハリーポッター最終巻を早々にゲットし、自由時間を繰り合わせてひねり出した時間で読み倒したのです。
どのくらい早々にゲットしたって、もちろん発売日当日です。
それも開店一番乗りで。

いえ、早朝から並んで一番乗りを獲得したわけではありません。
午前のレッスン前に通りかかるツタヤに開店5分前に行ってみたら先客はなんと誰もおらず、図らずも一番乗りになってしまったのです。

ちなみに開店前から待っていた人は何人かいましたが、ハリポタに走ったのは私を含め二人だけでした。
うわ、大丈夫なのかハリーポッター。まあ決して人気が落ちたんじゃなく、「並ばなくても買えるじゃん」てことに気づいた人たちがかなり多く、一刻も早く読みたい熱心なファンの方以外は並ばなくなったというのが真相らしいです。
今回は全国的にそういう傾向だったそうな。

ともかく無事入手し、忘却の彼方の英語原文をうすぼんやりと思い出しながら読みすすめ、つい今し方ようやく読了しました。


読み終わった感想は只これのみに尽きます。
嗚呼、三十三章!!!
嗚呼、スネイプ様!!!!!


むう、けっきょく一昨日書いたこととおんなじだ(笑)。
しかし母語で浸りきって読んだ結果、より一層スネイプ様への思慕を募らせることとなりました。
衝撃の真実や驚愕の展開は多々あったにもかかわらず、私の感想の9割を占めるのはスネイプ様のことばかりなり。

私は決意しました。
私が"Someday My Prince Will Come"と歌うとすればそれは唯一人このプリンスの為であると。
いえ、ヒールの高い靴を履いた紫のプリンスのことも好きですが、彼(と言っていいものか)の場合は自分が歌うより本人の歌を聴いた方がいいでしょう。って壮絶に無関係なプリンスの件はおいといて。

嗚呼プリンス、もといスネイプ様、貴方はかくも高潔な御仁であり給ひしか(一人称が「我輩」な彼に倣ってムダに古語。にしてもヴォルデモートの一人称の「俺様」ってどうよ)。
思えば私は第一巻から彼を憎めなかった。それはこないだ第6巻の感想で書いたとおりです。
しかしまさかここまで私好みの、鋼鉄の意志でもって己が信念を貫く人であったとは...ッ!!!!!

その意志の固さに、ダンブルドアもいたく心を打たれていました。
「...(前略)、スネイプに向き直ったダンブルドアの目に、涙が溢れていた。
『これほどの年月が、経ってもか?』
『永遠に』スネイプが言った。」
(下巻・452ページ)

これぞ最終巻、いえ「ハリー・ポッター」全編を通して私が一番好きなシーンです。
「永遠に」!!!
私は軽はずみに「永遠」とか言う男は信用ならんと思っていますが(笑)、スネイプ様ならばもちろん十分に言う資格があります。

そしてスネイプ様の素晴らしいところは、この「信念を貫く」行為に何の見返りも求めていなかったことです。
彼の行いに賞賛を送る者は誰もおらず、それどころかダンブルドア以外のすべての人間に疑われ、憎まれてもなお信念を曲げることをしませんでした。
そんなスネイプ様だったが故にダンブルドアは彼にたいへん酷なことを要請しましたが、それよりもっと酷だったのは、ダンブルドアも認めているように遥か昔の組分け帽子の判断だったのでありましょう。
あのときにスネイプ様の運命はこのように決定づけられてしまったのかもしれません。

でもさあ、なんでスリザリンはこんなにもほかの派閥と敵対する方向に行っちゃったのかねえ(そもそも創始者が悪いんですが)。
緑と銀のシンボルカラーに蛇の紋章が好みという超個人的意見を差し置いても、私はそれが残念でなりません。

「孤立」と「敵対」は違います。私は「孤立」は愛するけれど、「敵対」は当然歓迎しかねます。
他人と(創始者サラザール・スリザリンの場合はほかの3人の創始者と)相容れない立場となったなら、独立独歩の道を選べばよいのです。
同じ道を志す人なら一緒に来てくれるでしょうし、そうでない人を無理に従わせるのは賢明とはいえません。
創始者がそういう性格なら、この寮はほかの寮と敵対などせずたんに孤立した寮になったでしょうし、スネイプ様と彼の愛した人物のあいだにおきた悲劇もおきずにすんだはずです。ついでにいえば私が魔女ならたぶんその寮になった(笑)。
まあホグワーツ自体、寮同士をあえて競わせて切磋琢磨させようとする校風があるから、なかなか独立独歩の方向には行かないだろうな。

そういう意味ではラストの全員集合シーンは私の理想に近いといわざるを得ません。「一致団結」と「独立独歩」はかなり違う気がするけど、ムダな敵対がなくなるだけでもありがたいと思わなくちゃね。
このあと人々の意識が変わって、「共通の敵」がいなくなってお互いの違いや欠点が見えてきたとしてもおおらかに尊重できるようになると、私の理想に近づきますね。
でもライバル視が再び敵対に変わってっちゃうのかなあ、やっぱり。19年後の様子を見ると、その可能性の方が高そうですね。


あ、スネイプ様ネタに終始していて、肝心なことを言うのを忘れていました。
ダンブルドアはゲイです。
ローリングさんご本人がおっしゃってました。これを聞いたファンが一瞬の沈黙の後喝采を送ったというのだから、皆さん私同様「それを聞いて腑に落ちたことが少なからずあった」んだろうなあ。
この点を踏まえながら読むと、第7巻にはさらなる考察の余地が出てきます。そして私はダンブルドアのことがより好きになりました。

ちなみに彼の恋した魔法使いの名はグリンデルバルドといいます。

ハリー・ポッターまもなく発売

2008-07-23 02:52:42 | ぼくはこんな本を読んできた
暦かわって本日ついにハリー・ポッター最終章『死の秘宝』が発売されます。
もちろん私も早速買いにいきますよ~

って、去年の英語版発売日に買ったんですけどね。
いかんせん英語であの長大な作品はきつく、なんとか飛ばし読みした次第。
だからものすごく乱暴なあらすじとか最後のオチとかは知ってるんですが、「すべての謎が最終巻で明かされる」といわれているところをみると、明らかに膨大な読み落としがありそうです(笑)。

激しく読み落とした人間が言うのもなんですが、ネタバレにならない程度にひっそり記すこの最終巻の個人的ポイントは:
スネイプ様にマジ萌え。
はい、以前から「スネイプをどうしても憎めない」と申していた私は、最終的に7巻で完全なるスネイプ様信奉者になりました(笑)。もう「様」とか付けてるもんね。

「過去の話を聞く限り、スネイプとジェームズ・ポッター(ハリーの父)じゃ、どう考えたってスネイプに肩入れするだろう」と考える人は少なくないと思います。
だってジェームズ以下「忍びの地図」とかいうアイテムを作った連中は、よってたかってスネイプ少年をいじめていたんですよ。

リリー(ハリーの母)も、連中のイジメ行為に嫌悪感を覚えていながらジェームズなぞと結婚すな...って、そしたらハリーが生まれなくなるからまずいな(笑)。
ここはひとつ、ジェームズが改心したのでリリーが心を許したとか、リリーのおかげでジェームズが態度を改めたというのであってほしいものです。

シリウスだけは個人的にタイプなので許すが(オイ)、あとのジェームズ一派はどうもね。いくら主人公側についてる人たち(そりゃそうだハリーの父だもの)だって、徒党を組んで一人の人間をいじめるのはいただけないよ。私ゃそういうの許せないんです。
もしスネイプ側にいじめられる要因があったとしても、そしてその結果スネイプがハリーをねちねちいたぶる悪徳教師になったのであっても、「複数対一人」の構図では100%いじめる側が悪いのですぞ。

しかしさんざん多勢に無勢でいじめられ、いい加減ひねくれたスネイプ少年ですが、彼がしてきた行いは立派でした。
立派ってもちろん敵の息子にねちねち復讐した件じゃないよ(笑)。どんな内容かは最終巻に載ってます。
スネイプは孤立無援で、敵からも味方からも疑われながら、それでもたった一人で自分の信念を貫く行いをしていたのです。
私はスネイプ様のように自分独りになっても歩むべき道を見失わないで闘える人を尊敬します。そのへんにダンブルドア校長も全幅の信頼を置いていたんだねえ。

そしてもうひとつ、結末はあんがい面白くないです(笑)。
これだけ世界全体を巻き込んだ壮絶な戦いを繰り広げといて最後はそれかよおと私あたりは脱力しました。公開中の『インディ・ジョーンズ』最後のオチ(SFネタのさらに後)に脱力した私と近い感性をお持ちの方なら、おそらくハリポタでも同様の虚脱感を味わうことでしょう。
まあ、言い換えれば結末は決して最悪のそれではないということですので、安心して読めますね。ローリングさんとしては、愛着ある登場人物たちに安寧を与えてあげたかったのでしょう。

ただしメインキャラの全員が無事で済むわけではありません
私としてもたいへん好きだったキャラなので、これは悲しかったです。
最終巻では個人的に別れが辛かったキャラクターが2人いました(※帰らぬ人となったのが2人だけだという意味ではありません)。

ひとまず今回をもって完結ということになりましょうが、ローリングさんが世界に数冊だけの外伝とかを作ったところをみても、今後続編なり外伝なりが出る可能性も期待できます。
できればそういうものも発表していただきたいですね。そしてどうかマイホームパパ以外の(笑)大人になったハリーの姿を見たいものです。

魔法塾、はじめました!

2008-06-06 01:53:26 | ぼくはこんな本を読んできた
本題に入る前に姉さん、事件です(古)。
iPhoneが今年中にソフトバンクから発売されることになりました。

あらまああ、どうしましょう。私はドコモユーザーですのに...などと悩んだのはほんの一秒足らずでした。
今ここに宣言いたします。iPhone発売前にドコモからブラックベリーが出ることにならない限り、私はソフトバンクに宗旨替えします。

尤もドコモも決してiPhoneを諦めたわけではないらしく、場合によっては二社からiPhoneが発売される可能性もなきにしもあらずだそうで。ま、そうなればわざわざ宗旨替えする必要もありませんね(私はそもそも宗旨替えが好きではないんです)。
そういう林檎党員は私一人ではないはずなのでドコモさん、ここはひとつユーザーの流出を避けるためにiPhoneの発売を深刻にお考えください。

私は初代パソコンから林檎党...もといマックユーザーを貫いています。
そしたらうちの大学も情報処理室のコンピューターがすべて林檎マークで興奮しました。やるな東京女子大。全国の林檎党員の女性はぜひとも東京女子大へどうぞ。

くわえて私は先日ハワイのアップルストアに立ち寄り、ついにiPhoneと初めての接触を試みた結果、やはりiPhoneは私の運命の相手という確信を得ました。
機械に異常な愛情を抱く私にとって、コンピュータも携帯端末も相性がすべてです。そこへもってきてこのiPhoneときたらまるで自分の身体の一部になったかのような高いシンクロ率を見せてくれました。
こうなったら私が愛を捧げる相手はiPhoneしかあり得ません。一部筋で「あの形状は電話機としてどうよ」との意見も耳にしましたが、そもそも私の携帯電話はほとんど電話目的で使ってませんので無問題。どんとこいiPhone。


おおっと、今日は十分に興奮する本題だのに、うっかり前置きでも興奮してしまいました。
それじゃ本題いきますね。

<マジカルランド>シリーズ16
『魔法塾、はじめました!』
ロバート・アスプリン&ジョディ・リン・ナイ 著
矢口悟 訳
ハヤカワ文庫FT


はい、私の大大大好きなユーモア・ファンタジー小説のお話です。
以前に「『ライラの冒険』シリーズに次いで2番目に好きなファンタジー」と紹介したことがありましたね。その後も誰一人分からないであろうこのマニアックなタイトルをついついチラホラさせておりました。

「マジカルランド」シリーズは本国アメリカでは"MYTH"あるいは"Skeeve & Aahz Series"と呼ばれ、長年にわたって人気を博しているファンタジー・シリーズです。
日本では「マジカルランド」の名でカウボーイビバップとだいたい同じ頃(つまり私が中学2年生の頃)から刊行が始まり、このたびついにめでたく最新第16巻が発売されました。

この物語では魔術師の少年・スキーヴがさまざまな冒険(というより騒動)を通じて、しがない見習いから宮廷付魔術師になり、会社を興せば大成功し、「偉大なるスキーヴ」として名声をわがものにしてゆきます。

しかしスキーヴの立身出世には大勢の仲間たちの存在が必要不可欠です。
口八丁手八丁の得意な相棒のオゥズ(「偉大なるスキーヴ」を吹聴して回ったのも実はこの人)、お色気たっぷりの殺し屋タンダ、彼女の兄で実は頭脳明晰なトロルのチャムリィ、妙齢の美女ながら会計方面に稀有の才能を発揮するバニー、スキーヴになつく幼いドラゴンのギャオンなど、個性的で魅力あふれるキャラクターたちを挙げればきりがなく、しかも誰も彼もスキーヴを慕って助力を惜しみません。
まあ、そんな彼らがかえって騒動をややこしくすることも少なくはないのですが...!?

最新刊の今回、スキーヴは(おもにオゥズのムチャクチャな交渉とバニーの優秀な財務管理能力によって)巨万の富を築いた魔術師稼業から退き、生まれ故郷で魔術の研究にいそしんでいます。
「偉大なるスキーヴ」が今さら修業?といぶかしんではなりません。なにしろ彼の名声の幾分かははったりでしたし、あとの実力で成し遂げた分も、それは彼自身のリーダーシップや仲間と力を合わせて得た成果がほとんどなのです。
じつをいえばスキーヴの魔術の能力それ自体はおよそ「偉大」とはいえない代物なんですね(笑)。

そんなスキーヴだというのに、なんと魔術師としての名声を聞きつけて(うち数名はオゥズからガッポリむしられた上で)弟子入り志願の人々が現れました。それもいっきに6人!!!
この物語のことですから、一筋縄ではいかない人々ばかりです(笑)。
しかしもともと人の好いスキーヴのこと、悩みながらも彼らを受け入れ、試行錯誤の講義が始まったのでした...。

結論から申せば今回の話、「マジカルランド」久々のヒット作です。
私はこのシリーズの白眉は最初の4巻だと思っています。続刊は長期化したシリーズのご他聞に漏れず、いまいち初期の作品に並ぶ傑作とはなり得なかった。
特にここ最近出たものはどうもスッキリしないきらいがありました。

しかし今回の『魔法塾』はひさかたぶりにこのシリーズの痛快さを味わえる傑作です!!
進行のテンポがよく、読者を飽きさせない予想外の展開が続き、ラストはちょっと予定調和だけどそれが逆に心地よい大団円。
考えさせられたり心あたたまるシーンも多く、「マジカルランド」シリーズやお馴染みの登場人物たちの持ち味が十分に活かされていました。

そして相変わらず素晴らしい、矢口悟先生の訳!!
この作品はおそろしく和訳が難しい代物だと、原作を読んだ私は思います。とにかく「わかる人にしかわからないネタ」が多すぎる(笑)。言葉遊びというかダジャレも「あなたはルイス・キャロルか」と突っ込みたくなるほど多い。
なのに矢口先生はファンタジーやSF作品への深い造詣を駆使しつつ、日本語でも見事にダジャレています。原文と照らし合わせながら読むと「ほっほぉ~、そこでそうくるか!!」とさらに感銘を受けます。

矢口先生の翻訳に惚れ込んだ私は、主要キャラクターに当てるアニメ声優を妄想して書き連ねたファンレターを送りました。
とんでもないものを送りつけたにもかかわらず、先生はご丁寧にもファンレターへのお返事としては破格に長いお手紙をくださり、そこには私よかよっぽどマニアックな人選の声優妄想リストが書かれておりました。
その一件で私が先生への尊敬の念を新たにしたことはいうまでもありません。
なかでもスキーヴ役は佐々木望さんがいいという点において先生のご賛同を得られたことは大いなる光栄でした。

この表紙のイラストこそ件の主人公・スキーヴです。
作品のイラストを手掛けるのはこれまた大好きな水玉螢之丞画伯です。
「ヲタクの女王」と一部筋で崇められている方だけあり、画伯の描くスキーヴはいつもツボをつきまくる萌えイラストばかりです。

特に今回のは何ですか。
よりによってメガネですか。
まったくこれでは萌えすぎて息も絶え絶えです。普段の奥様お姉様のハートを萌えさせて止まない佐々木望さん的な美少年ぶりですでに煩悩の虜だっていうのに、この上メガネってあなた。
しかも好みが細かくてアレなんですが私、このピンクのシャツの襟にボタンとかやられると、もう萌え尽きそうです。そうとう危険な領域です(何がだ)。

おかげで物語の続きを早く読みたいのに、しばしば中断して表紙にウットリ見とれてしまいました。
まったくもうスキーヴったらますます可愛くなって。おかげでこの私も「マジカルランド」を読む時ばかりは年上好きの信念から宗旨替えしなきゃならないじゃないの。
って私、思いのほか宗旨替えしやすいタチなのか...。

西の善き魔女

2008-05-28 23:39:07 | ぼくはこんな本を読んできた
...といってもオズの魔法使いとは何の関係もありません(って、この断りが通じるあなたは既にかなり同好の士ですね)。

昨日辺りから荻原規子さんの『西の善き魔女』シリーズを片端から手に取っています。
イベントが終わって少し時間に余裕ができると、活字中毒が頭をもたげるのですね。

異世界を舞台にした作品を得意とする荻原さんの中でも、このシリーズは特に異色です。
これ、世にも珍しい王道ファンタジーの皮を被ったSFなのです。

十五になったヒロインが生まれて初めてお城の舞踏会に出かける幕開けは眩しいくらいベタなファンタジーです。
そして物語のかなり前半で明かされる、じつはヒロインが王女の娘であり女王継承権を持ちうるという衝撃の展開も、いってみればそうとうベタ。
これが物語終盤でいきなりこてこてのSFに変身するのですから、ある意味アガサ・クリスティの『ステロイド殺し』より凄まじいどんでん返しです。

ちなみに冒頭のシーンを指して「女の子なら誰でもドキドキするような」と書いてあったけど、そりゃあ女の子の買いかぶり過ぎってもんです。
少なくとも私ゃ、こういうお伽噺が大好きな幼児だったくせに舞踏会に出かけることにもお姫さまにも憧れはなかったぞ(笑)。

まあ私の変態的嗜好はさておいて、実はお姫さまであったところのヒロイン・フィリエル(おお、名前もベタ!!)はたいへん意志が強く行動的な少女です。
私は行動力のある女の子が大好き(いやもちろん女の人でも男の子でもいいんだが)。しかし、フィリエルにはひとつとても困ったことがあります。
それは行動力の動機が筒井筒の少年てことです(笑)。

フィリエルときたらせっかく強い意志と行動力を持ち合わせているのに、それが発揮されるのは常に恋愛方面、つまりその筒井筒の少年をひたすら追いかけて一緒にいるためなのです。
あああ、いかん。お姉さんはそれでは共感できないのだよ。

その点フィリエルの政敵のレアンドラ・チェバイアット様は、ただ純粋に女王の座を手に入れるために合法・非合法の別なく策を弄するところ、非常に私好みです。
動機としてたいへん正しい。まあ、動機っつーのはあくまでも主観のものだから正誤はないんだけど、私は断然こちらに共感します。

だから『西の善き魔女』を読んでいると、私はどうしても敵役のレアンドラ様の方にうっとりしながら読んでしまい、ヒロインの活躍を素直に喜べないことさえあります。
『王家の紋章』の真の主人公キャロルよりアイシス様に憧れてしまうのと同じ現象ですな。

レアンドラ様もアイシス様もヒロインに殺意すら抱いているありさまなので、あまり彼女たちが思いどおりになってしまうと物語の展開上まずいのですが、物語に支障がない程度に活躍してほしいなあと複雑な心境で読んでいるのです。

そもそも彼女たちは「様」づけでヒロインは呼び捨てって時点でなあ(笑)。

樹上のゆりかご

2008-03-27 02:52:54 | ぼくはこんな本を読んできた
うう...せっかくいただいたパーティーの写真データCDが、忙しすぎてまだ現像できない....

本当は今日映画を観にいこうと思ってたのに、けっきょくそれもままならず。明日午前からレッスンがある身で、終了時刻11時の最終上映は観られません。

パーティー終わったら必ず観るぞと息巻いていた『ライラの冒険』と『魔法にかけられて』のどちらも未だに観られていないという、ちょっと信じがたい状況です。
特に『ライラ』は映画化が決まったそのときから公開初日、いえ先行上映日に観に行くぞと決心していたので、切なくてなりません。

ま、ライラが見られずにいるのは「字幕版じゃなきゃ観ないッ!!」と固く決意しているせいもあるのですが。
最近日本語版しか上映しない作品が多すぎて、字幕版をやってもシネコン内の小さなシアターでオシルシ程度に流すのみということが多く、本命作品は字幕で見たい私としてははなはだ遺憾です。


そんなフラストレーションを補うべく...ってわけじゃないですが、荻原規子さんの『樹上のゆりかご』を読みました。

荻原さんは私の好きな日本人作家の一人です。
とりわけ好きなのが画像左の『これは王国のかぎ』。普通の中学生の女の子がアラビアンナイトのような世界に迷い込み、冒険を繰り広げるお話です。
『樹上』は『王国のかぎ』のヒロインが高校生になった姿を描いていながら、舞台はまったく普通の高校です。ただちょっとミステリアスな事件がいろいろ起きますが。

荻原さんの作品は、私から見ると眩しいくらい若い(実年齢ではなく人間のありようの問題である)女の子がヒロインの、たいへん少女小説らしくさわやかな雰囲気...でありながら、どこか官能的な側面をもつものばかりです。
その官能の匂いが非常に魅力的でやみつきになってしまい、気付けば愛読しております。

今述べたように、ヒロインはとっても若々しくて色っぽさのかけらもありません(少なくとも私は色気を感じない)。
しかし、映画のエンドロールならキャストの一番最後に名前が出てくるような役回りの女性キャラクターがみな、おそろしく官能的で魅力的なのです。

「女性」といっても、彼女たちはヒロインとほとんど年齢がかわらないことがしばしば(だから若さとは実年齢ではなく「ありよう」なんです)。

にもかかわらず心に人知れぬ闇を秘めていたり、自分の野望を達成するためなら手段を選ばない激しい気性の持ち主であったりと、眩しいほどまっすぐなヒロインとは決定的に異なる屈折を抱えています。
だから、どんなに美しくても(どの人も並外れて眉目秀麗、それも大人びた美しさの持ち主であることが繰り返し語られています)彼女たちにはなにかしら影があり、それゆえにヒロインにはない官能的な魅力を醸し出してるんですね~。

ご存じの方のために例示するならば、今日読んだ『樹上』においては近衛有理であり、『王国のかぎ』におけるミリアム、『空色勾玉』なら照日王、そして『西の良き魔女』におけるレアンドラ・チェバイアットが、私を魅了してやまない妖しくも美しい女性キャラクターなのです。

もちろん私がとりわけ敬愛するのはレアンドラ様です。
彼女はこの作品のヒロイン(やっぱり眩しいほど純粋無垢で、好きな少年のためならどこまでもついていくまっすぐ少女)に敵対する人物であり、美貌と知略と武勲と水面下の駆け引きによって己の野望を成就せんとする最高に物騒なお姉様です。

何が物騒って、高貴の姫君と生まれながら、目的のためなら人を何人殺めようが構わないと思っているフシがありますからね(実際そうしています。そのための毒針も常備しています。ますます素敵です)。
荻原さんの描く魅力的な女性たちの中でも、レアンドラや照日王は特に過激で残酷ですが、それすらも彼女たちの魅力に思えてしまいます。

今日読んだ『樹上』に出てくる近衛有理さんもなかなか過激な人で、ワイルドの『サロメ』になぞらえながら彼女の美しい狂気が描かれます。
物語のクライマックス、高校の演劇でサロメに扮した有理は、ある男性への激しい恋慕をサロメの「七つのヴェールの踊り」に託して踊り、幕切れと同時に毒を飲んで倒れます。

おもわず私も「七つのヴェールの踊り」を創案したくなるほど好きなシーンではありましたが、いかんせん前述のレアンドラや照日王に比べると動機が男ってのがちょっと弱い(笑)。それが私としてはいまいちでした。
なんたってレアンドラは王国の女王の地位を得るため、照日王にいたっては古代日本の荒ぶる神々を封じ尽くして輝の大御神による治世を実現するという目的を持っていたわけですから、そりゃまあスケールが違いますわな。

どうも私は、舞台が学校とかテーマが若者の色恋とか卑近な話になると、それがどんなにエキセントリックなストーリーであっても感情移入できないようです。
そもそも荻原さんは日常から著しく離れた世界のファンタジーを得意とする方ですし。

中学高校の話は自分が現実世界で散々やったからもうお腹いっぱいなんで要りません、という心境なんでしょうな。これがもっと自分の青春時代に愛着のある方なら、だいぶ違ってくるのでしょうけど。

学校よりもアラビアンナイトの世界に親しみを覚え、恋に我を失う高校生よりも女王になるためなら殺人も辞さないお姫さまの方に気持が寄り添ってしまうのは、やはり私が変態だからなんでしょうか。

丕緒の鳥 十二国記

2008-03-07 03:04:24 | ぼくはこんな本を読んできた
ついに、ついに、ついに、小野不由美さんの「十二国記」最新作が出版されました。

「十二国記」...それは、私が「ライラの冒険」に並ぶ不世出の傑作と思っているシリーズものです。
「yom yom」という文芸誌の一編として載ったサイドストーリー的な短編ですが、それでもよいのです。十二国記の世界を存分に堪能することができ、私は今最高に満足だーーー!!!

しかしこれだけ時間がないと言ってるのにどうやって読む暇があったのか。
いいえ、もちろん暇などありませんでした
でも仕事以外の時間を全て読書に振り向ければ、短編の一つくらい読めるものです。
それでも、中断の連続でえらく時間がかかりましたけどね。

サイドストーリーといっても、そもそもこの作品は何が本筋と呼べるのか分からないところがあります。
同じ場所を舞台とし、共通の人物が登場してはいても、時代設定も主人公も作品ごとに違いますから。

しかし私にとって心配なのは、「十二国記」は舞台設定がわりかし複雑なので、この文芸誌でいきなりこの作品を読んだ人はまったく訳がわからないんじゃないかってことです。

たとえば記念すべき第一作『月の影 影の海』から読んでいれば、現代日本から突然この異世界に連れてこられた主人公・陽子の視点をとおして我々読者も未知の世界を徐々に知ってゆくことができるのですが、この作品では何の前触れもなく主人公は百数十年同じ職に就いているとかとんでもないことが語られて、何も知らない人はぶっ飛ぶんじゃないでしょうか。


えー、じゃ、例によって私メがお節介な解説をひとくさり。
でも多分ホワイトハートの既刊を読んだ方が役に立つ気がしますが(笑)。

まず主人公が百数十年生きているという件、これはべつにこの世界の人がおそろしく長命なわけではなく、一種の国家公務員になると原則、不老不死になるのです。

この世界で一定以上の地位の役人になることは、仙籍に入ることを意味します。つまり仙人になっちゃうのですね。
仙籍に入った途端、年をとらなくなり、外見はそのときのまま止まります。ついでに、よほどのことがない限り死にません。普通の武器じゃ倒せません。
罷免されたり自ら籍を返上したりしなければ、永遠に生きることも可能なのです。
今回の主人公・丕緒(ひしょ)氏も、その能力を認められて百数十年の永きにわたって同じ職に就いているようです。

役人が不老不死になるのは、王様も不老不死だからですね。
王になるともはや神です。なんかエジプトのアメン=ラー信仰みたいな話だな。
しかしこの世界では別に王様は信仰のよりどころではなく、本当に「一度人間として死に、神として生まれ変わる」ことで王になるのだとか。

不死の王様が暴君だったら、とんでもないことになってしまいます。
そこで、王が万一道を踏み誤った場合のみ、王は病んで退位...つまり死んでしまいます。
失敗したら死んじゃうんだよ。おそろしい世界だねえ。そこまでして王になりたくないよね。
しかし王に課せられた責とは本来それほどまでに重いもの。判断一つで、幾千万の民の生死が決まってしまうのですから。

この作品では、王たる責任の重さが繰り返し語られ、それを軽んじた王がたどる凄惨な末路が容赦なく示されます。
しかしその一方で、賢政をしいて数百年にわたって国を平和に導いている王も登場します。
名君さえ得られれば、その治世が数十年数百年と続いた方が同じ方針で国を治めてゆくことができるというわけです。
そういう優れた王様たちは誰もみな人間として魅力的です。それぞれが自分の個性にあった方法で統治しているのがよく分かります。

今回の短編の舞台である慶国は、もう長いことそういう名君に恵まれていません。
すると歴代の王は皆短命で、そのせいで国は荒れ放題です。
主人公・丕緒も百年以上におよぶ職務の中で、歴代の王の悪政によって仲間を奪われ、王に対して、国に対して絶望と猜疑を抱き、いまや自分の仕事への情熱もすっかり失っていました。

そんなおり、慶に新しい王が誕生します。
丕緒の仕事は祭事に使う品を誂えること。一種の職人です。
しかし、もはや王のために作る品など何一つ思い浮かばず、とめどなく過去を追憶しているうちに、彼の考えはある結論に達します。

丕緒はいったい何を思い、どんなものを作り上げたのか。
そして、それを目にした新王の思いがけない反応と、丕緒自身の心境の変化とは...!?!?

...とまあ、物語の詳細は文芸誌「yom yom」をご覧くださいまし♪
とはいえこの雑誌、あまりの小野不由美人気ゆえ売り切れ店続出なのだそうです!!!

書店で手に入らない場合は、ぜひ増刷を待つ間に第一作『月の影 影の海』をお読みになっておくことをおすすめします。
のちに『丕緒の鳥』を読んだ際、ラストで短いながら印象深い言葉を残す「新王」にニヤリとすることうけあいです。

旅するヒンディー語

2008-01-29 02:29:09 | ぼくはこんな本を読んできた
実を申せば私は重度の言語フェチです。

言語フェチ...それは未知の言語に触れ、初めて出会う言葉の旋律や装飾のような文字を見て血圧が上がり脈拍が上昇し鼻息が荒くなる人種をさします。
ってこの種のフェチはまだ自分しか見た事ないですが(笑)。
なおかつ私の場合、その言語の成立の歴史とか話者人口などを聞いてもコーフンが襲いますので、そうとう重度の変態レベルといえましょう。

あきらかにかなり幼少の頃から私は言葉と名のつくものがみな好きで、あまり子供の教育に熱心でない家庭だったので、祖母から習った「あいうえお」の5つのひらがな以外の殆どの文字を本から覚えました。学校で習うのが待ちきれなかったのです。

ほぼすべての漢字を学校で習う前に本で覚えていたのですが、なにぶん独学なので書き順が出鱈目なうえ、送り仮名を勘違いしたまま覚えているものもけっこうありまして、書き順は未だに直りません。
あと読んだ本の影響で「支度」を「仕度」と書いたり「逐一」を「ちくいつ」と読んだりする弊害もあります。これらは辞書で調べれば旧式として載ってるけど、今漢字テストで書くとバツにされてしまうんですね。

あるていど大きくなってからは外国語にも興味が広がりました。
小さい頃から外国語の曲は耳慣れているし、そのせいかどうか知りませんが私は言語を全体的なリズムで捉え、「その言語らしさ」をつかむのが得意なのです。
だから大学でスペイン語を勉強したのは楽しくて仕方ありませんでした。膨大な量の予習に何時間かかったってへっちゃらでしたね。

ところでフェチ者の言語蒐集は切手集めと似ていて、切手コレクターが集めた切手を使う気がないのと同じように、その言語が実用に則しているか否かにはいっさい頓着しません。
ちなみに一番極端な例はエルフ語でした。
つまり私にとってハワイ語はすごく幸運な例外なのです。

そしてまた最近フェチの血が騒ぎ始め、未知の言語との出会いを渇望するようになって参りました。
というわけで手を出すことにしたのがヒンディー語です。

フラを踊っている時、私はほぼ完全に歌っていることがわかるので(これは「意味を暗記している」のとは同じようでいてまったく違う)、語りかける要領で踊っています。
それと同じようにボリウッドを踊っている時もたしょうは歌の内容が断片的に聞き取れるようになりたいと思っていたのです。

インド古典舞踊はフラと同じく意味を動きで表す踊りです。ボリウッドは(振付師や曲の内容にもよるようですが)そこまで忠実じゃないけれど、歌の中に突然意味の分かる言葉が入っているとゾクゾクする(←このへんがフェチ)ので、そのコーフンをぜひともボリウッドでも味わいたいわけですよ。

尤もインドにはヒンディー語以外にもタミル語だのマラヤーラム語だのパンジャービー語だのおそろしい数の言語および文字がありますので、すべてのインド映画の言語に手をつけるのは到底無理でしょうけどね。
そういうときは「千里の道も一歩から」という大好きな言葉を思い出して頑張ります。

...とか殊勝なことをいいつつも、できたらサンスクリット語も覚えたいとか尽きせぬ妄想を繰り広げてるから、あまりに膨大な理想を前に頓挫するんだよな。

ちなみに私はこないだ地元のお坊さんに梵字について欲望の赴くままに訊きまくり、さんざん困らせてしまいました。
迷惑な奴だなあ。フェチもほどほどに。

十二国記語録

2007-12-19 23:16:32 | ぼくはこんな本を読んできた
久々に十二国記シリーズ第一作『月の影 影の海』を読んでます。
もう繰り返し繰り返し読んでますが、何度読んでもある箇所では涙が溢れ、ある箇所では快哉を叫び、またある箇所では癒しと安らぎを与えられます。

もっともこの第一作は癒しとか安らぎとかいう言葉とはかけ離れて血腥いですが(笑)。
でも私はこの巻がとても好きです。主人公の陽子の腕っぷしがそらもう強く、次々襲いかかる敵を見事な剣さばきでなぎ倒してゆくのを見るのも痛快ですが、それだけでなく、ところどころに散見する含蓄に富んだ言葉にも奥行きがあり、この作品がただの娯楽小説にはとどまらないことがわかります。


この作品のヒロイン・陽子は、わけも分からぬままいきなり現代日本から得体の知れない異世界に連れてこられ、幾度も命の危険や人の裏切りに遭いながらも、やがて本当の自分を見つけてゆきます。
これはその悟った時の陽子の心象描写の一つ:

陽子は故国で人の顔色を窺って生きていた。誰からもきらわれずにすむよう、誰にも気に入られるよう。人と対立することが怖かった。叱られることが恐ろしかった。今から思えば、なにをそんなに怯えていたのだろうと、そう思う。
ひょっとしたら臆病だったのではなく、たんに怠惰だったのかもしれない。陽子にとっては、自分の意見を考えるより他人の言うままになっているほうが楽だった。他と対立してまでなにかを守るより、とりあえず周囲に合わせて波風を立てないほうが楽だった。他人の都合にうまく合わせて「いい子」を演じているほうが、自己を探して他としのぎを削りながら生きていくよりも楽だったのだ。
卑怯で怠惰な生き方をした。だからもう一度帰れればいいと思う。帰ったら、陽子はもっとちがった生き方ができる。努力するチャンスを与えられたい。



この時点では元いた世界に戻りたいと願っていた陽子でしたが、やがてなんと彼女はこの世界の王であったことが発覚(未読の方には話がぶっ飛んでてすいません)!!
この世界で王とは天命により選ばれるもの。つまり、地位や血統などはまったく関係なしに、真にその資質を備えたものしか選ばれることはないのです。

それでも本当に自分に王たる器があるのかと逡巡する陽子に、現役の他国の王(って私がこの作品で一番好きなキャラクターです)が諭します。

「おまえはまさしく王気を備えていると思う...おまえはおまえ自身の王であり、己自身であることの責任を知っている。それがわからぬ者に王者の責任を説いたところで虚しいだけだし、自らを統治できない者に国土を統治できようはずもない」


つまり、ここで語られている理想の人間像が、まさしく私の理想と合致しているんですな。
自分より強い者にに媚びることでかりそめの安住を得ることを厭い、人を裏切って卑怯者になることよりは裏切られることを選び(そう、陽子は「裏切られてもいいんだ。裏切った相手が卑怯になるだけで、わたしのなにが傷つくわけでもない。裏切って卑怯者になるよりずっといい」とも言ってます)、自分で自分を治める能力を持ち、それゆえ他者に優しくなれる人間。それこそ、本当の意味で矜持が高いということなのだと思います。

私はこういう生き方をしたい。
現実世界で貫くには、おそらくこれはたんにカッコイイだけの生き方ではないでしょう。むしろ不器用で世渡りの下手な生き方かもしれません。ここは天命の存在する小説の世界ではなく、世知辛い憂き世だからね。

それでもやはり、私は決して自分の矜持を捨てない人間になりたいと思います。
今はまだとてもそんな器じゃないけれど。いつか、自分自身が強いから他者に対して心を広くもてる、そういう境地に達するのが私の目標であります。

『ライラの冒険』映画化!!

2007-11-26 23:25:36 | ぼくはこんな本を読んできた
書店に行ったら、私の最愛の作品であるフィリップ・プルマン『ライラの冒険』第一作の映画ビジュアルブックが発売されてました!!

『ライラ』のことは以前に書いたとおり、この作品こそ『ハリー・ポッター』も『指輪物語』も『ナルニア国ものがたり』も超える世界最高のファンタジーだと、私は思います。
って、超個人的な好みですけどね。

ライラの魅力は奥深すぎてとても一言では書ききれません。
ですから、映画化はとてもうれしい反面、あの壮大な世界観を本当に短い映画一本に縮めることができるのかという不安もあります。
しかしこの本に載せられた写真や資料を見る限り、ビジュアル面ではかなり満点に近いですね!!!

まず最も重要なキャスティングです。
英国で上演された舞台版では、主人公のライラを大人の女性が演じてそうとう違和感があったとか。
そりゃそうです。「ライラが子供から大人に成長する過程」こそこの物語の重要な核の一つなのですから。
今回栄えあるライラ役に抜擢されたのは、12歳の新人の女の子、ダコタちゃんだそうです(同名のベテラン子役女優がいますが、あの子ではないです)。
写真で見る限り、可愛らしいながら意志の強そうな顔立ちで、けっこうイメージと近いんじゃないかしらと思いました。個人的にはもっと野性的なイメージだったけど、設定上お嬢様ルックもサマにならなきゃいけないんで、このくらい整ったビジュアルで良かったのでしょう。お転婆なとこは演技力で出してもらうとして。

ライラはけっこう難しい役どころです。
天性の嘘つきで、呼吸するようにすらすら嘘をつくし、ガキ大将で向こう見ずな遊び(戦争ごっこなど)が好きだし、大人の言いつけに聞く耳を持たないじゃじゃ馬ではありますが、心根は素直で、一度決めたことは梃子でも曲げない女の子なのです。
だからどんな口八丁で人を騙していても、ライラはあくまで魅力的じゃなきゃいけないんですね。
まあ、そうとう大規模なオーディションで選んだそうですから、そのへんは期待できるでしょう!

演技力の点で全幅の信用がおけるのは、なんといってもライラに次ぐ重要キャラクター・アスリエル卿とミセス・コールターを演じる、ダニエル・クレイグとニコール・キッドマンです!!!

いやあ、二人とも完璧、イメージどおりですわ。
ニコール・キッドマンの目の覚めるような美貌は数年前『ムーラン・ルージュ』で確認済みです。
コールターはこの上なくゴージャスで美しくなければ務まらない役です。
原作では黒髪の持ち主ですが、コールターの美貌が冷たいほど人間離れしたイメージなので、読みながら私個人的になんとなく薄い色のブロンドを想像していたら、配役した人にも同じ印象があったようです。
すばらしく邪悪なのに魅惑的という、これまた難しい役ですが、この方なら無問題でしょう。

そしてダニエル・クレイグ!!ジェームズ・ボンド!!!つーかボンドよりこちらの方が似合ってます(笑)。
アスリエル卿は高貴の身分でありながらものすごく野心が強く、ワイルドでセクシーです。つまり体育会系の体型で、なおかつフォーマルな装いになればエレガントに見えなければなりません。
だからモムチャン(ってなぜここで韓国語)なダニエルさんはボンド役を見たかぎりアスリエル卿にぴったりなのです。
ちなみに彼のダイモン(その人間の本質を象徴する、動物の姿をした終生の相棒)は美しい雪豹のステルマリアです。ワイルドなのにエレガントってところ、まざしくアスリエル卿ですね。

表紙を飾っている人たちはほかに役名で「ジプシャンの親玉ジョン・ファー」「テキサスの気球乗りリー・スコーズビー」「美貌の魔女セラフィナ・ペカーラ」です。
いやもう、どのキャラクターも魅力的すぎて、ここでは解説しきれません。ぜひとも劇場で確かめていただきたい。
一言ずつ解説を付け加えるなら、「ジプシャン」は定住せず船で生活する人々のこと(ジプシーにかなり近い、でも服装はもうちょっと北国向き)です。
リーさんの乗っている「気球」は我々の世界のそれより飛行機に近く、機動性が高い乗り物です。あと、このパラレルワールドにおいてアメリカという国はなく、テキサスは州名ではなく国名です、たぶん。
そしてこの世界には魔女がいます。クラウドパインの枝でできた弓を持ち、空も飛べます。ただし、使う魔法はさほど派手ではなく、空中飛行以外の魔法は薬師や催眠術師に近い感じです。とても寿命が長く、いつまでも美しく、恋をすれば情熱的ですが、恋よりは自分の矜持を選ぶような、素敵な女たちです。

そして中央にいるのがライラの盟友、シロクマの王です。このキャラクターがまたかっこいいんだな。優れた職人であり、戦士であり、勇敢で獰猛です。

映画の公開は来年春。今から楽しみでなりません。試写会応募しようかな。

明石

2007-11-24 23:33:11 | ぼくはこんな本を読んできた
瀬戸内先輩の『源氏物語』、ようやく巻三・四をゲットすることができまして、現在のところ「明石」の途中まで読み進めました。
さすがにけっこう時間がかかりますね。ほかの本の倍はかかっていると思います。

それにしても源氏は相変わらず外道です。
「明石」の途中というだけで、いったいなにが書かれている辺りかお分かりの方もいらっしゃることでしょう。
そうです。源氏の君が政敵に睨まれ、紫の上以下多数の恋人たちを残し、都から逃げるようにして海辺の田舎町に下ったところです。

え?源氏がかわいそう??いえいえ、とんでもないです。
本人は盛んに「無実の罪だ」と嘆いてるけど、そもそもの失脚の原因は帝の恋人の一人との密会がバレたことなんですぞ。
しかも、その女性は政敵一家の娘です。そこを忍んでって現場を押さえられたんですね。いや、いくら何でもそりゃマズイよ、源氏さん。

今までも似たような傍若無人なお振る舞いはさんざんなさってきた源氏ですが、父帝の後ろ盾なんかもあって無事に済んできたのです(つーか、父帝の前ではネコ被ってた気配が濃厚です。まあそうでしょうね、お父さんの後妻とも大変なことになりましたしね)。
しかし今や御代がかわり、頼みの父帝は崩御なさるわ、初恋の相手(この方がお父さんの後妻です、プラトニックな片思いにしとけばよかったのにねえ)には突然出家されるわで、すっかり心細い立場におかれてしまいました。
そこへもってきての不倫発覚ですから、しょうじきいって自業自得という感じがしないでもありません。

しかし源氏はこれを無実の罪と嘆き悲しみ、紫の上との別れも惜しみ、暇乞いを名目に女性のもとへお泊まりし(←どこまで懲りないんだこの人は)、ようやく須磨へ下ったのでした。

ここで終わらないのが源氏です。
源氏は須磨の住まいを田舎風の洒落たつくりに改装し、「田舎風料理」「田舎風コスプレ」(あくまで「風」ってのがポイント)に徹し、なりきりを結構楽しんでいらっしゃるご様子。
それで我が身の不遇を嘆かれてもねえ(苦笑)。

そのうえ、ついにというかやっぱりというか、ここでも新しい女性に手を出しました
現地女性でなく、あくまでやんごとなき生まれの姫君っていうのがさすが源氏ですね。
それを臆面もなく独り都で待っている紫の上に手紙で報告するあたり、ここまでくると呆れるのを通り越してほとんど感心してしまいます。

またまた「ああせめて紫の上が谷崎潤一郎のナオミだったなら」とよからぬ黒い妄想が渦巻きますが、そんなことよりも、私のかような源氏解説を聞かされ続けている母マミちゃんの脳裏では今、かなり歪んだ源氏像ができあがりつつあるようです.....。

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