電影フリークス ~映画のブログ~

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獅子と呼ばれた女・宋慶齢

2011-06-30 00:00:00 | ドキュメンタリー

先日放送された、近代の中国の女性に関するドキュメンタリー番組「獅子と呼ばれた女・宋慶齢」を見ました。 慶齢は一時、来日もしていたとのことだったが日本にだって当然ながら関連があるでしょう。日本人の私はこの番組をどう受け取るべきか。

東京・日比谷には今でも慶齢の弾いたピアノが保管されているという。ピアノだって弾けた彼女は挫折した自分(私)からすればそんな才能も羨ましいけど、ピアノが残されているという事実は音楽家でもないのにどういうことなのだろう?(これはあとできっとわかる…)。

当時、アメリカの大学に留学していた慶齢はこの留学によって本格的に英語をマスターし、1912年に大学を出て帰国途中日本へ寄り、孫文の英文秘書となった。そして結婚する時には日本人・梅屋トクが孫文と慶齢の間を取り持ち、結婚したのだという。トクのひ孫の女性の方がインタビューを受けていました。そんな人までいるんですね。

慶齢の父をはじめ皆が結婚に猛反対したのは「宋家の三姉妹」でも描かれていた通りだった。唯一、結婚を認めてくれた妹・美齢が結婚した時の写真を見ると、映画では姉・靄齢を演じたミシェール・ヨーみたいな顔に見えてしまう。孫文は慶齢のために彼女の英名ロザムンドに肖り中国初の飛行機に”ロザムンド”号という名を付けたそうだ。年の離れた孫文は誰も真似の出来ないそんなプレゼントを彼女に贈った。
しかし、孫文は肝臓がんで1925年に亡くなってしまう。孫文の死後、慶齢は上海の家に引きこもったとか。

しかし、目が覚めたように政治活動を開始。やがて蒋介石と対立するようになった慶齢は声明文を次々に発表する。ひたすらタイプライターを打ちこの時の執念のように政治活動に打ち込む姿などからいつしか獅子の女と呼ばれるようになったという。(目の覚めた獅子は強いのだ。)獅子の女なんてそう易々とは呼ばれる訳はない。ピアノが弾けるひとりの女性なのだから。
そして、1927年にはモスクワへ行く慶齢。これは逃げたのではなく世界に革命は終わっていないと宣言するためだったと言います。新しいタイプの政治家だったと研究者は語っていたが必要とあらば自ら外国にも出向くのである。

姉妹の性格については、妹・美齢は表面は慎ましやかだが物欲があって野心的であり、姉・靄齢は富に執着する率直な性格だった。そんな姉の方を好ましく思っていたという慶齢。しかし、その想いとは裏腹に慶齢は美齢の結婚にあまりにも大きなショックを受け病に伏したそうです。
中国では慶齢の人気が高いそうですが、番組で中国人ジャーナリストが語っていた話で印象的だったのは中国の若い人の意見で女性の生き方としては美齢の方が良かったという意見があるんだそうです。(つまり慶齢ほど苦難を背負わなかったという見方から。)どこの地域か不明だったがそんな意見もありました。

また、専門家が慶齢の精神分析するという違った面からも中国の一人の女性を見つめる番組はつづく。彼女は革命だけではなく普通に福祉や教育もテーマだったというのも政治家の性質を持っていますよね。そして番組は慶齢についてもっと深く入り込みます。周囲の誰かに人柄について聞くと、心の内を話さない人だったそうです。(本当は誰かに話したいのに・・。)そして遠く離れてしまった妹・美齢にもう一度だけ会いたかったと言うのです。しかし、それはどんなに望もうともついに実現することはありませんでした。

生涯かかった数々の運動。孫文先生の夢。晩年、死を予感した慶齢は南京にある孫文の墓には入らないと言い残す。これはまだ活動をしていたときの事、極々僅かな身近な人間には本音をもらしていた。もう引退したいと。あれだけ中国の理想に燃えていた彼女も終盤には変貌してゆくのです。何か大きな使命を果たし終えたのでしょうか。番組はそんな人間らしい彼女の様子を映し出していました。

まずは存在を知って、彼女がどんな人物だったのかを知ることでその国や人々の動き・考えまでも分かる。それだけ大きな存在だった彼女は獅子と呼ばれるまでになった。映画だけではなかなか分からない慶齢の真の姿を反映したこの教養番組を通じ孫文の妻・慶齢の事が少しは理解が出来たのかも知れない。終

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